第121号  皇紀二千六百六十四年(平成16年)  弥生(三月) TOPへ戻る

平成十六年民族的展望


ー『民族生存権』の自覚と確立をー

(『民族的生命』こそ真の永続的生命なり)
ー日本民族ある限り日本人に「死」は無しー

皇紀二千六百六十四年、『大東亜戦争』の煥発から始まった皇紀二十七世紀は、残す処三十六年、現在『一日会』に出入りしている同憂、同志の半数以上の方々が、世紀末には其の肉体を世上から亡失して居られる事であろう。「生ある者は必ず死す」とは世俗的仏教解釈であって、仏教は輪廻転生を教義とするが故に肉体の入滅を「死」とは見做さない。入滅は来世の始まりである。つまり、「霊魂」こそ生物の実体で有り、肉体は霊魂の拠り所
に過ぎない。だが、此の死生観には根本的な誤りがある。憑代(よりしろ)が何でも良いのならば来世で獣や昆虫に生まれ変わる事も有得る事に為る。則ち霊魂を「個」の視点から看れば、個々の霊魂が何に宿っても良い事に為るのである。其の意味で仏教は個人主義的宗教である。
然し、個人は「人間社会」から生まれるが故に、人間を離れた個人は有得ず、来世が有るにしても、其処での生まれ変わりは人間としてでなければならない。生物学的「遺伝子」の肉体的継承だけでなく、霊的、精神的伝承が当然有って然るべきである。より具象的に述べるならば、物心両面での遺伝子を通じて、子孫ー個人を超克した民族全体としてーに精神的のみならず肉体的にも生命が伝承されているのである。其れ故に、霊魂、精神の伝承には生命共同体としての民族精神の裏付けが必要である。民族を区分する最大の要素は、言語と宗教であるが、遺伝子を通じた肉体的生命の継承と共に、文化的、精神的継続なくして民族の存続は有り得ない。


(民族こそ生命の実体)
ー国籍、帰属不明の「地球人」は宇宙人ー

世界の人類は、必ず何らかの母国語を有して居る。言語が民族の基本である以上、生物学的人類は、地球語と言う共通語が無い限り、「日放協・教育TV」等が垂流す「地球人」では有り得ない。必ず何処かの『民族』に帰属しているのである。即ち、漢語を記す「支那民族」、ロスケ語を話す「ロスケ民族」、フランス語を語る「フランス民族」、英語を呟く「英国民族」等は居ても、「地球語」を使う「地球人」等、全く存在せず、其は、「GHQ反日体制」のエセ「日本」で『日本民族』を否定滅亡させる為に、敢えて「宇宙人」の様に捏造された虚構の幻像、「反日神話」の所産でしか無い。
 『民族』とは、基本的には居住する地域の自然風土から、独自の衣食住に亙る生活様式と生活感覚を共有し、其処から共通の言語、宗教、習慣、風俗、歴史、文化、伝統等の人間的要素を育み、共有して来た人間集団である。即ち、『民族』とは、『生活共同体』『生命共同体』としての有機的紐帯で結合した不離不可分の集合体であって、人間個人の選択の領域を超えた、或る意味に於て必然的に圍集した人間集団である。何人も出生する民族を選択出来ず、一旦出生すれば、特例を除いて其処から離脱する事は出来ない。又、する必要もなく、原則として離脱の自由は無い。何故ならば、所属する個人の認識、思考、感受の総てが其の人物の生得した言語ー民族ーに基づいているからである。
則ち、或る人物の総体が、出生した『民族』そのものの分身であるからである。換言すれば、人間個人は、人間集団と無縁に単独で生存しているのではなく、常に所属している民族の一員として生活しているのである。   「国家」とは、無機質的な組織であり、人間が生命や安全を確保する為に構築した機構に過ぎず、多民族が構成する事が多く、時には少数民族弾圧の手段となる場合が多いが、『民族』とは、其れ自体が自己目的的な人間的生命の実体、即ち、人間社会最大の生命体なのである。


(『民族生存権』の確立を)
ー生命体としての民族は、生存の権利と自己保存に向けてのの使命、義務を持つー

人間個人が、生存と其の延長線上の願望として種族保存の欲求、即ち性欲を併せ持つ様に、『生命体』としての『民族』も又、『民族生存』『民族保存』の民族的欲求を必然的に内包している。
『民族』とは、現存する人間集団のみならず、過去、未来に迄、敷衍して、同一の精神的文化を共有し、共通の心情で連帯する総ての同胞を包含する概念である。則ち、『日本民族』の場合、過去に於て此の『皇土』に実在していたであろう十億を越える人々が、総て含まれているのである。そして、其等の人々は、今日猶、現存する吾等の肉体と精神に生き続けている。此の生命体としての民族は、此迄当然生存を続けてきた様に、此からも生き続ける権利を有して居る。と同時に、現存する吾等『日本民族』、取分け、『民族』の価値を知悉している『真正日本人』に執っては、従来同様で在った様に、我民族を心身共に生存、保存、継承して行く使命を与えられて居るのである。
 世界総ての民族に共通する『民族の大義』は、所属する人間に執って唯一絶対の価値を有する、つまり、自己の生命と生存の源泉である『民族』と言う有機的社会集団の現存と存続に有るのである。
此を『民族生存権』と概念づけよう。此の、民族が生得的に保有する基本的権利は、無論、個人の私利私欲や歴史的に一過性の存在でしか無い「国家」の国益よりも遥に優越する人類共通の時間空間を超えた原理であって、現行「国際法」を凌駕する『人類法』と呼称すべき最高位の人類共通原理ー『人類原理主義』と表現しても良いーである。
『人類法』は『民族生存権』を保障し、『民族』は、歴史的に一過性の現行法規から超越した不文法たる『民族法』ー我国では『國體法』でもあるーに依って護持される。


(『民族』存続の為の絶えざる闘争)
ー吾等『民族の尖衛』に民族大衆は続くー

全世界には五千もの言語があったとも言われて居る。つまり、其の数だけ『民族』ー部族を含むーがあった訳であるが、現在急速に其の数を減少させていると言う。即ち、多くの民族が「絶滅」させられているのである。
其の主たる原因は、此処五百年に渡って世界史上で展開された欧米列強に因る各種「侵略主義」、「植民地主義」であり、近年では、所謂「グローバリズム」である。
所謂「グローバライゼーション(世界基準化)」の文言は、「地球人」の意味する虚妄の概念同様に、其の実体を糊塗する「幻想」「幻像」に過ぎない。実体はあくまでも「米国基準」の全世界への強要、即ち「ワスピズム」ー米国至上主義ーに依る全世界への侵略支配である。米国の侵略を正当化する所謂「グローバリズム」に反対する動向が欧米と
イスラム圏を中心に集中し、直接的ではないものの、ロスケと中共も牽制を行って居る。
此処で規定した『人類法』に依れば、総ての民族が生存と存続の権利を有する筈であるが、「米国的価値観」を全世界に強要する米国は、自国の低劣醜悪な価値観で世界支配を意図している。米国的価値観で世界を統一する事は、即ち数千の民族を精神文化的に滅亡させる事に直結する。あの麻薬と犯罪が横行し、家族が崩壊して社会的人間が個人に分断された米国の歪な社会と価値観が、全人類を汚染するのである。全世界、全人類から『反米』の闘争が沸き起こるのは、当然である。
にも拘わらず、エセ「日本」政府、社会の現実は、光輝ある『日本』を否定し、ひたすら「米国化」の愚を追って居るかに見える。だが、『神州』は『不滅』である。『日本民族』は、決して滅亡しては居ない。何よりも、吾等『真正日本人』が現存しているではないか。そして、エセ「日本」社会は、「反日隷属隷従」の異常国家から、確実に「ふつうの国」に変化しつつある。日本人の深層に脈打つ清澄な民族精神が再興しつつあるのみである。
後は、吾等が国民大衆を教導するのみである。
追記


(敗残兵「自衛隊」は往く)
ー亡国「日本」を象徴するイラク問題ー

航空自衛隊の先遣隊に続いて、陸上自衛隊の先遣隊が、イラクのサマワに到着した。
「日本」を「私服」で出発した両者の共通項は「敗残兵」の情けない姿であった。往く前から敗残の醜態を晒す「自衛隊」の国際感覚と自負心の欠如は、隊員個人に内包しているであろう民族の誇りや人間性を全面的に圧殺し、視るに耐えない壮行ならぬ「醜行」となった。
「セルフ・ディフェンス・フォースィズ」等と言う「日本」の、然も「防衛庁」と「害務省」の中だけでしか通用しない呼称の「自衛隊」は、外国から看れば「日本軍」である。仮に軍人が外国で捕らえられた時に、ジュネーヴ条約に基づいて「捕虜」としての保護を受ける為には、「制服」の着用が義務付けられている。私服であれば正規兵と見做されず敗残兵と見做されて「掃討」の対象になる。即ち、不穏分子として処刑されても文句が言えないのである。昭和十二年、南京で私服に着替えて便衣兵となり敗残、抵抗した一部の支那兵を我軍が処刑ー断じて所謂「虐殺」ではないーしたのも国際法上合法な当然の処断であった。
今回「私服」で出発した自衛隊の姿は、南京で民間人の服を奪い逃亡した支那兵よりも更に醜悪で情けなかった。
支那兵は、一応は戦って敗北してから私服に更衣したのだ。「日本自衛隊」は、戦う前から「制服」を放棄、つまり「軍隊」としての誇りと国際常識、法規を逸脱して、然も何ら恥じる事無く、朗らかに出発した。『恥』を知らない程、恥ずかしい事は無い。
無論、これは自衛官個人の資質の問題では無い。「日本政府」と「自衛隊」幹部に共通する「亡国の論理」が見せた醜状である。「ブッシュ・チルドレン」と揶揄される「コイズミ」が、「米国」の為に、「米国」に創られた自衛隊を、「米国」に破壊されたイラク復興に派遣すると言う構図には、何処にも『日本』が無いのである。「米国準州・日本」が、連邦政府の要求の侭に私服で「州軍」を送り出した。理由は「制服ではテロに遭う恐れがある」程度のものであったろう。
此の女々しい怯懦、臆病、卑怯者の論理と感覚が「GHQ反日体制」下のエセ「日本」
の支配層とメディアを呪縛しているのだ。
其の「怯懦の論理」を極限に迄追求した言辞が、コイズミと自衛隊幹部の口から出たと言う次なる文言であった。
メディアからの「敵に襲われたらどうするのか」との追求に対して、「逃げる」「逃げるしか無い」であった。一体、軍司令官、まして三軍の最高責任者で戦闘の為に存在する武装組織が戦いもせずに逃亡すべきだ等と発言した例があるであろうか。愚生は寡聞にして世界史に其の前例を見ない。此迄、世界有数の軍事費をつぎ込んで維持、養成して来た「自衛隊」とは、「逃げる」為に存在して来たのか。呆れてものが言えない。
此の異常性は、陸上自衛隊先遣隊がサマワに到着以後も続いた。現地の部族責任者達は、何回も「自衛隊を守る」と発言し、「日本政府」や「自衛隊」「日本メディア」は、其れを喜び、好意的に報道している。愚劣も此処迄来ればマンガである。凡そ軍隊とは民間人を守る為に存在するものだ。逆に「民間人に守られる軍隊」等、此迄、聞いた事も無い。
民間人に「守ってやる」と言われたならば、通常の軍隊ならば、「バカにするな」と席を蹴って退場するのが当然である。処が其の侮辱に感謝する愚劣さ、『名誉』を知らず、『建軍の本義』無き「米国の傭兵」たる「自衛隊」の現実を余す処無く晒して居る。
自衛隊の持つ武器は一体何の為に保有しているのか。使わない、使えないならば、初めから所持しない方が安上がりではないか。
オランダ等の外国軍や現地民間人に守ってもらわなければ、「復興」活動さえ出来ない程ひ弱な武装組織「自衛隊」の矛盾点、問題点が露出しているにも拘わらず、其れを矛盾、問題と指摘しないエセ「日本」社会の異常さ、倒錯性、「自衛」さえ出来ない「自衛隊」の中途半端な土木建設能力よりも、同じ守ってもらうならば、大手土建屋を送った方がより建設的である。土建屋以下の「自衛隊」、民間人に守ってもらう「自衛隊」、戦わずに逃亡する「自衛隊」、出発前から敗残兵の「自衛隊」、其の異常性を認識、理解出来ないエセ「日本」社会。
此の最低、最悪、低級、愚劣、暗愚、醜悪、無知、無能、無責任、無気力、劣悪、混迷、混濁した「反日隷従非独立衆愚社会・日本」に於て、其の事実、現実を直視し得る能力を保持しているのは、吾等『真正日本人』のみである。
本『皇紀二千六百六十四年』も、『皇國再興』『皇軍再建』に向けて、『突敢精神』で邁進せん。


『台湾國』

國号使用普及運動

定着促進実践活動

反日中共撲滅断行