第131号  皇紀二千六百六十四年(平成16年) 霜月( 十一月)  TOPへ戻る

『北方領土』を奪還せよ
                       


中山 嶺雄

(北方領土の意義)

一、領土問題(不完全独立国家)

 前号記載『南方領土』でも指摘したが、凡そ国家が存在し得る三要件は「主権」「領土」「国民」であり、その一つでも欠ければ、完全な独立主権国家とは認められない。
現下我国に在っては、六十年に亙る「GHQ傀儡エセ日本政府」の下で、多くの領土が国際法上不法且つ不当に強奪占拠され、民族の尊厳と国家、国民の利益、即ち『国益』を損なって来た。敵性外国に領土の一部分を占拠、占領されていると謂う事実は、「日本」なる国家が独立国家としての必要最低条件を充たしていない事を実証している。多くの領土問題が存在する中で、其の最大面積を占めるのが『北方領土』であり、其の完全奪還無くしては『皇国』の再興処か、「普通の国」にさえ成り得ない。

二、主権問題(神聖な固有の領土が侵害されている)
『北方領土』問題は、とかく島民の帰島問題に関心が集中しがちであるが、神聖な『固有』ー一度も合法的に他国領土に成った事が無いーの領土が不法占領されていると謂う現実は、国家の主権が侵害されているのであり、総ての国民一人々々が権利を侵害され、財産を奪われている事を意味する。つまり、「日蘇中立条約」を侵犯して蘇連邦が起こした国際法上違法の「侵略戦争」が、領土占領と謂う形態で現在猶継続しているのである。この「主権侵害」を許している「日本国」は、決して『独立主権国家』とは言えない。つまり、『主権』の一部を喪失している事で、独立国の要件を欠如しているのである。
現今の国内外に山積する諸問題の根本にある諸悪の元凶は、GHQ占領以来の「独立、主権意識の喪失」である。此の『北方領土』問題が『主権』意識と『民族精神』の回復に寄与する様に、啓蒙啓発を実践しなければならない。

 三、人道問題(帰島出来ない島民同胞)
昭和十五 六年の頃、北方四島だけで、約一万七千人の同胞が定住していた。無論、中部、北部千島列島にも多数の日本人同胞が居住し、樺太に至っては数十万人もの日本人が生活していた。だが、『北方領土』を占領したロスケは、昭和二十一年、同地を一方的に蘇連に併呑する幹部会命令を出し、現地日本人に対して、蘇連国籍を取得して現地に残留するか、日本国籍を固守するかを迫った。無論、純朴な同胞は誰一人ロスケに与する事なく、蘇連国籍取得を拒絶した。すると、蘇連当局は、数時間後に全財産を持って集合する様に命じ、我同胞は背中に乳幼児を背負い、両手に持てる限りの荷物を持ち、故郷から追い出されたのである。北海道に至る迄に多くの老若男女が病苦と飢えで亡くなり、追放前に単独漁船で脱出を計ってロスケに殺害され、或は遭難された方々も多い。
 北海道到着後も、殊に北方四島の居住民は居住歴が長く、同地を故郷として生活していただけに、望郷の念が強く、故郷に近い土地として根室市近辺に居を構え、帰郷を待ち望んでいた。残して来た家屋敷は勿論、故郷の豊饒の海に帰りたいとの想念は断ち難く、一縷の望みに期待して一族の墓地がある島々での永眠を望んでいたが、其れを果たせずに此の六十年間に亡くなった人々の多くは、根室半島北側に点在する墓地に葬られている。半島南部の観光道路から隔絶した北岸の道路沿線からは、晴れた日には『国後島』の爺々岳ー千島列島最高峰の複式活火山ーが遠望される。やがて故郷が還って来た時に本格的に埋葬される迄の仮の安眠場所として『北方領土』が見える土地への埋葬を島民は切望しているのである。

四、漁業問題(拿捕、危険操業、密漁密輸等)
最近は、少なくなったが、十年程前迄は、根室、釧路、網走等の漁港を抱える都市の飲み屋に入ると臨席の漁民と「拿捕」に関して会話する機会が多かった。少ない者は一回、多い者は五 六回、蘇連に依る拿捕経験を持って居た。其の際に領土問題等を持ち出すと、途端に相手は構える。当方を蘇連のスパイではないかと疑うからである。北方海域では拿捕経験が無い漁師を探す事が困難な程に拿捕は日常茶飯事であった。此れまで此の海域だけで拿捕、抑留された漁民は一万名を超える。 拿捕されると色丹島の穴間湾に連行され、一般漁民は二 三ケ月間、湾奥西南の丘上にある収容所に拘束されやがて釈放される。特に拷問される訳では無いが、運動不足と食事が事実上の拷問である。来る日も来る日も毎食「黒パン」と「ニシンの酢漬け」だけで、帰国した当初はニシンを見ただけで嫌悪感を覚えると謂う。だが、三役、即ち「船長」「機関長」「漁撈長」はシベリアのハバロフスクへ送られて裁判に架けられる。穴間の一般船員も同様であるが、「裁判」の際に船長等の親族に『北方領土』返還要求運動の関係者が居れば、強制収容所送り三年が五年に過重される。其れだけに本来ならば最も領土返還運動に熱心になるはずの漁民が、同運動に一切参加しないのである。其の具体的な情報は、所謂「レポ船」ー日本人同胞を裏切る日本人スパイの持船、蘇連支配海域での操業を黙認されて通常の数倍の水揚げを得るーが齎す。其故に漁民の運動参加は極めて少なく、例えば一万数千人の人口を要する港町「羅臼」で昭和五十年代中頃に同運動に挺身していた町民は村田町長以下たったの三名に過ぎなかった。其の中の一人の漁民が当時最新鋭のFRP(強化プラスティック)漁船で出漁した初日、同氏は所謂「中間線」付近で拿捕され船体を没収されてしまった。日本人スパイが出漁時期まで蘇連に通報して居たのである。蘇連支配水域での安全な漁撈を保障された奴等は、時に、自動車や宴会用の日本人女性をも送り届けていたと言う。         
 我国の生存に必要な魚介類を平和的に生産する水産業者、関係者が「銃撃」「拿捕」「抑留」等々の不安に脅えて正常な日常生活を営めない現実、即ち「国家」が「国民」を保護し得ない現状は、此の「日本」と謂う国家が独立国家としての必要最低条件を満たしていない事実を物語っている。追い詰められた漁民は、其れなりの対策と復讐を考案する。北方海域に出漁する彼等は、蘇連警備隊への買収物品としてウィスキー「サントリー・レッド」を持参していた。消費物資の不足していた蘇連では、日本のウィスキーは貴重品であり、たった一本で違法操業容疑が無罪放免、釈放ー政治的に拿捕が決定されている場合は無効だがーされるのである。だが、漁民達も素直に与える訳では無い。サントリー発売の中で、最も安価な「レッド」を与えて買収する事で、「ウィスキーの味の分からぬロスケ共」と溜飲を下げていたのである。

五、資源問題(豊富な水産、鉱産、林産資源)
我国は、「経済大国」「資源小国」であり、大半の必要資源を輸入に頼っている。だが、決して資源が無い訳では無い。
現在、石油に次いで我国輸入金額の二位を占めている魚介類は、本来海洋国家である我国では十全自給可能な物品である。特に三陸沖と並んで好漁場の北方領土海域では、所謂「戦前」には無尽蔵に近い漁獲量が記録されている。
前述村田元羅臼町長ー所謂「戦前」国後島で小学校の校長を勤められていたーが、昭和五十年代に漁業関係者に試算させた処、所謂「戦前」の漁獲量に当時の漁業単価を掛け合わせると、何と三兆円にも上ったと謂う。当初眉にツバをして聴いていた筆者ではあったが、具体的に計算すると確かに其の程度の金額が計上される。「資源小国」の我国に在って、北方海域の無尽蔵の水産資源ー鮭、鱒、鰊・鱈・オヒョウ(大鮃)・蟹・昆布・雲丹等々ーは、我国の食料資源として必要欠く可からざるものである。
水産資源以外にも、金、硫黄等の地下資源、国後島ー大阪府の約八割の面積ーを中心にした林産資源、沿海大陸棚に眠る石油、天然瓦斯、更には、温泉、火山、絶壁、お花畑、潮干狩り等々の観光資源等々。「資源小国」の我国に執って正に『宝の島』なのである。
『北方領土』奪還に因る良い意味での経済効果は厖大なものがある。無論欧米資本主義的「開発」の毒牙には警戒、排除せねばならないが、全域を『国立公園』に指定する事で所謂「乱開発」は抑制出来る。吾等は『父祖の拓いた』北方領土を奪還するだけではなく、其れを守護しなければならない。何よりも欧米物質文明の破壊から護らねばならないのだ。

六、軍事問題(ロスケ軍基地、対潜水艦作戦要衝)
ロスケに執って千島列島は軍事的価値が最優先される。其れ故に、エセ「日本」政府は、当初から返還要求を南千島四島に限定したのである。カムチャツカ半島東南部のペトロパブロフスクには、米国太平洋艦隊及び米国本土への核攻撃中枢として、蘇連最大の原子力潜水艦基地があった。だが、後背地や有効な交通手段を持たない同地は、沿海州の軍港ウラディ・ヴォストークとの連携無しには単独での作戦遂行能力に欠如していた。其れ故に、日本海、間宮海峡、オホーツク海、千島列島を経由した補給路が必要不可欠であって、其の生命線は絶対に米国及び其の同盟国ー情けない乍らエセ「日本」ーには渡せない軍事的必要性があった。
然し、逆に考察すれば、我方にとっては千島列島を抑える事が、蘇連・ロスケの我国への軍事的圧力を低減する最良の効果を齎すのである。併せて、後述するシベリア、アラスカへの我国の権利要求への地政学的、軍事的効果を保障する効果を生む事と成る。
「GHQ反日支配体制」の下で、国防、軍事、外交と謂う独立国家としての必要最低限度の常識を喪失したエセ「日本」の安全保障の要は『沖縄』であり、資源確保の要は『千島列島』である。外交の最も重要な要素は軍事であって、現下世界最大の軍事力を保有する米国が全世界でのさばっているのも、事実上の米国に拠る核兵器独占の結果である。軍事力無くして国際的発言権は有り得ない。
「日本」が独自の軍事力を保有する時、千島列島北端『占守島』から西南諸島西端『与那国島』に至る四千キロメートルに及ぶ東亜を覆う弧状の領域は、米国、ロスケ、支那、半島、台湾、東南亜細亜への多大な軍事的重要性を持つ。例えば、中共から看れば、今回の中共潜水艦日本領海侵犯事件でも解る様に、中・北支からの太平洋への出口ー交通通商路ーが完全に我国に制御される事を意味するのである。

(北方領土問題解決の必要性)
領土保全は独立国家としての最低限度の必要条件であり、領土、領域が国際法上、不法且つ不当に侵犯、占領されている現状は、異常事態である。当然、十億『日本民族』に対して、失地回復、失地奪還すべき義務が、現下の国民及び国家に付与される。
領土問題の正当な解決は、国際法上の権利主張に留まらず、資源争奪を巡る「世界戦国時代」に在って、極めて国家、民族生存に必要な資源確保と謂う側面を持つ。則ち、『北方領土』を含む領土、領域の確保は、全世界的に資源の枯渇化が必然と予想される今後の世界に在って、国民の生存に必要不可欠の要素なのである。
更には、付随して、帰島すべき島民同胞への連帯意識が、「GHQ反日体制」の下で「個人」に分断され無機質化された空虚で不毛なエセ「日本」社会に、人間的な暖かい同胞心理を復活再生させ、潤いと思いやりに溢れた『良き日本』の再興を齎すであろう。
そして、此等、領土問題の啓蒙、啓発運動を通じて、此処六十年間似非「日本」で喪失させられた民族独立意識を確立すべきである。
『独立日本』は、当然ながら正当な『北方領土』を確保する事で、国際社会に於て地政学
的重要な地位を獲得する。米国の政治的影響力と其の背景に在る軍事力が同国の国際的立場を確固不動のものにしている事実からも、国際政治には軍事力が不可欠なのは論を俟たない。『北方領土』奪回で軍事的地歩を確保して、初めて、我国は、『皇道宣布』ー日本民族独立、全世界人類救済ーの軍事的橋頭堡をも確保可能になるのである。

(北方領土の範囲)
此の低級愚劣極まりない「GHQ反日体制」の下で、「日本」国民は共通の言語さえ喪失したかにも見える。「北方領土」とは、如何なる地域を示す政治用語なのか。其の範囲自体が、政治的立場に拠って異なる。
抑、ロスケに執っては、此の地域は「南方領土」なのであるから、「北方領土」は語彙そのものが存在しない。
此処で「日本」側の領土範囲の主張を分類しておこう。
一、所謂「二島返還論」
昭和三十一年の「日蘇共同宣言」第九項で
「日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に」「歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する」とされた条文に基づいて、折りに触れて蘇連邦、ロスケが日本揺さぶり外交に悪用する条文である。
この反日的条文を調印した「日本」国側の中心人物は、所謂「国連」加盟を目前に功を焦った「鳩山一郎」「河野一郎」両名であったが、三名の全権中、外務省ー当時は国益を理解、主張する官僚が実在していたー出身の『松本俊一』氏は、死に至る迄、『北方領土』ーとは言っても北方四島に過ぎなかったがーの返還要求を主張し続け、筆者も老体に鞭打ち杖をつきながら返還要求運動に参加する同氏に接している。
この肯定的とも言える「二島返還論」に対して、例えば日本放送協会解説員平沢某ー蘇連で女性問題を悪用されて二島返還を強要されたと言われているーが昭和五十年代に「日放協」の夜間解説番組で「二島返還」を主張する等、蘇連邦、ロスケに悪用される「二島返還論」は、後を断たない。特に悪質なのは、衆議院議員「鈴木宗男」の其れであった。所謂「金に汚い」奴は、他人が疎いアフリカ援助(所謂ODA)で利権の味を占め、出身地元の「北方領土」問題でも利権を追求した。
筆者が所謂「ヴィザ無し渡航」で平成九年に北方四島を視察した時に、意外で立腹したのは、平成七年十月、色丹島に診療所が「日本政府」の援助で建築されていた事実であった。従来、ロスケが居座る事を助ける「箱物」援助はしない原則が、平成六年の「北海道東部地震」の復興援助の名目の下に崩され、診療所建設となったのである。この裏には、平成七年八月「衆議院戦後五十年問題国会決議(北方領土)事情調査議員団」の訪露があった。団長は利権の臭いを嗅ぎ付けた「鈴木某」であった。奴は翌年、色丹島にプレハブ教室を建て、国後島にはレントゲン室を建築し、後の「ムネオ・ハウス」に繋がる利権構造を確立して行くのである。         失脚前に、奴の関連会社は歯舞諸島で土地を買いまくっていた。ロスケに占領され、返還の見込みのない土地でも、一応島民に所有権があり、根室の登記簿には其れが記載されている。ただ同然の同地を登記簿上買い取って、外務省に圧力を掛け、「二島返還」の後、所謂「リゾート開発」を行い、巨額の利益を手中に収めるハラだったのである。私利私欲の為に国益、領土を売る正に「売国奴」が鈴木某であった。
最近、ロスケの(ラス)プーチンが「二島返還」をチラつかせているが、此の売国薬に飛びつくアホバカの類がエセ「日本」に存在する限り、此の種の攻勢は今後共常に繰返されるであろう。

一、所謂「北方四島」 (「日本政府」が主張)
我国固有の領土要求を実質的に否定する反日「日本放送協会」は既に『北方領土』の文言そのものを抹殺し、「北方四島」と呼称しているが、エセ「日本政府」は当初から、『北方領土』を『国後・択捉・歯舞・色丹』四島に限定していた。
蘇連の軍事的欲求から千島列島全域奪還が不可能との予測から「せめて南千島だけでも」とのバカ正直な思いが掛け値なしの「北方四島」要求になったのである。国際的な外交を知らない「害務省」の反日「害交」が、当然回復可能な領土の復活を阻害して来た。
凡そ「北方四島」を奪還するならば『全千島返還』を要求するのが当然の外交交渉であり、『全千島』を要求するならば『南樺太』迄要求するのが、外交の常識である。過分に要求し譲歩するのが国際社会の常識なのに、「日本害務省」は、当初から譲歩して過小が要求に終始している。此れで領土問題が解決される筈が無い。

二、「中部・北部千島」迄(社会・共産党が主張)
斯る「自眠党」の「国際音痴」外交に対して、売国政党たる「日本社会党」「日本共産党」は「日本」を着けただけに、若干まともな正論を吐いた。無論「自眠党」への嫌がらせの言い掛かりとしてでは有ったが、少なくとも「自眠党」売国政府よりもまともな権利、権益主張であった。
其の論拠は「カイロ宣言」「ポツダム宣言」に有る。ポツダム宣言はカイロ宣言を踏襲し、カイロ宣言は大正三年以後に我国が武力で獲得した領土の放棄を要求している。だが、明治八年に「樺太・千島交換条約」で平和的に我国領土となった中・北部千島は、当然「放棄」の対象外であり、桑港講和条約で外国軍の被占領下に放棄を強要されたとは雖も如何なる国家の主権行使をも認めていないのであるから、国際法違反の蘇連邦占領は即刻解除、撤収し、我国に返還すべきなのである。
「自眠党」政府が敢えて「桑港条約で放棄したクリル諸島と固有の領土である北方領土は別物」等とごまかしの方便を主張する必要は無い。全千島列島が本来江戸時代初期、松前藩領有以来我国の神聖な領土である。

三、「南樺太」(桑港条約で放棄だが帰属未定)
明治三十八年『日露戦争』で我国が奪還した『南樺太』は、明治八年の『樺太・千島交換条約』で一時ロスケの領土となったが、此れは幕末・維新期に樺太在我国漁村に対するロスケに因る無数の襲撃、略奪が日露開戦ー事実上ロスケの侵略ーに繋がる事を恐れた明治政府究極の選択であって、樺太への我国の領有権に正当性が無かったからでは無い。
『南樺太』も大正三年より以前から我国の領有に属し、「カイロ宣言」に拠れば我国が放棄する必要の無い領土である。
一応「桑港条約」で放棄したが、如何なる国家の領有権をも承認して居ず、国際法上「帰属未定」の土地になる。蘇連邦・ロスケは、米蘇両国首脳に依る「ヤルタ密約」を持出して、千島列島、樺太の領有権を主張するが、同密約は、米蘇両国首脳の個人的約束であって、国家間の公式な取決めで無い事は、米国も認めて居る。即ち「北海道上空における米機撃墜事件」ー昭和二十九年発生ーでの米国政府書簡ー昭和三十二年ーで「日本に関するヤルタ協定はいかなる日本領土における法的権原をもソ連邦に移譲する効力を持つ様には意図されたものではなかったし、又そうした効力をもってもいなかった」と指摘している。 にも拘わらず、エセ「日本」政府の売国無能外交官僚共は神聖な我国正当の領土たる『樺太』をロスケ語の「サハリン」等と呼称し、勝手に領有権を放棄してしまっている。吾等が「政府」国民を啓蒙啓発せねばならない。

四、『北樺太』(『一日会』が主張)  
 『間宮林蔵』の名前が「歴史」から消されつつある。中共や韓国からは何かにつけて「歴史を鑑に」等と「反日歴史認識」を強要されている似非「日本」社会で、歴史教育から記憶すべき人物名が消され、取るに足りない反日人物ー「与謝野晶子」の様に反日ではないのに反日の英雄に捏造されている場合もあるーが持て囃されている。
此の様な世相だからこそ、吾等は『国史』を大切に護持しなければならない。
特に江戸時代後期に『樺太』を『発見』した『間宮林蔵』は、我国の領域を大陸に迄、拡張した功労者である。彼は蝦夷地からアイヌの小船で宗谷海峡を樺太に渡り、北上して樺太が大陸と離れた島である事を発見し、更に黒竜江を遡上して清国官憲と会見した。此の前人未踏の業績は、長崎から帰欧したドイツ人医師シーボルトに依って欧州に紹介され、樺太が島である事と大陸、樺太間の海峡に『間宮海峡』の名称が国際的に記載されたのである。尤も、現在ロスケは、『樺太』が正当な日本領土である事を隠蔽する為に、敢えて同海峡を「タタール海峡」等と俗称してはいるが、歴史的に正当な呼称は飽迄も『間宮海峡』である。
『樺太』を発見した者が『間宮林蔵』と言う日本人ー取分け幕府の役人(官吏)ーであった以上、オーストラリアー日本の十七倍の面積を占めるーが其れをを発見したクック艦長の国籍たる英国の植民地に帰属した様に、『樺太』全域が当然、我国の領域に帰属するのである。処が、欧米帝国主義全盛の時代に在って、幕末・維新の動乱に弱体化した我国幕府は、安政七年の「日露通好条約」でロスケの圧力に屈して、ウルップ島以北の千島列島を奪われ、正当な領域である『樺太』を「界を分たす是迄仕来の通たるへし」とロスケの居住権を認めさせられたのであった。
だが、所謂「ロシア革命」でボルシェヴィキ政権を樹立したレーニンが其の著「帝国主義論」記載、欧米・日本の植民地表で明記している様に、ウラル山脈以東のシベリアは、ロスケの植民地であって、蘇連邦外相カラハンの宣言が額面通りならば、大正年間に解放されていなければならなかった。当然『樺太』全土が我国に帰属すべきであったのである。
当時の『大日本帝国』政府は、此の当然なすべき民族の大義遂行を闡明せず、欧米勢力のロスケ内戦干渉戦争の尻馬に乗るが如き中途半端な愚行を犯したが故に、欧米から足を引っ張られて「シベリア出兵」の失策を生起したのであった。
当時、民族当然の大義を自覚し、当然の領域を主張していれば、『全樺太』が失地回復され、併せてロスケの侵略地たる東シベリアのバイカル湖、レナ川以東の諸民族をロスケ、蘇連の暴政、支配から解放していたであろう。過去、現在に亙って、所謂「日本外交」に欠落しているものは、『国際的認識・発想』と『国益・民族の尊厳』に基づく『民族的自己主張』である。

五、『東部・シベリア』(所謂シベリア抑留等の対価)
前述の如く、ウラル山脈以東のシベリアにロスケ領有の正当性が無い事は明らかであるが、吾等『日本民族』に執って絶対に忘却してはならない「シベリア大虐殺」がある。所謂「戦後」社会で反日メディアと反日狂育に抹殺された我国同胞の耐え難い苦悩と屈辱の歴史的大事件であるが、極寒の地での十万名を超える甚大な大犠牲の割に、報復や謝罪、補償を求める意見、行動は少ない。民族正当の要求が「GHQ反日体制」の下で圧殺され、『声なき声』が現実に社会の表層に出現しなかったのであった。
だが、此の民族の悲劇を看過する事は、絶対に許されない。我国は断固としてロスケに対し謝罪と補償を要求すべきであるが、その謝罪は、平成の御代に入り援助欲しさに来日したロスケ酔っ払い大統領エリツィンが口先だけで心にも無く口にした謝罪等、勿論「謝罪」にならない。ロスケ等欧米ー共匪支那も同様だがーでは、「謝罪」は同時に金銭的「賠償」に繋がるのだ。お人よし日本民族の民族性を見抜いたロスケ外交は、例によって狡猾に口先だけの「謝罪」で総てを解決したつもりになり、事実売国奴の巣窟たる「日本政府害務省」は決着したつもりでいる。
だが、吾等は、極寒の強制労働等で大虐殺された同胞への熱き共感と憤懣の激情を抱きつつ、冷徹な計算と要求をロスケに叩きつけねばならない。
「民法」では、違法行為による被害に対する損害賠償の要求と「逸失利益」に関する請求権が認められている。シベリアの強制収容所で苛酷な奴隷労働の末に虐殺された同胞一人に付き、敢てー被虐殺英霊の皆様、お許し下さいー現下「日本」の尺度で算定するならば、少なくとも一億円は下らない。十万名を乗ずれば、十兆円である。其れに、例えば北方海域での水揚高、年間三兆円の六十年分、百八十兆円の「逸失利益」を加算すれば、百九十兆円、更に所謂「戦後」満州からシベリア等へ強奪した工場設備等の金額を昭和四十年代の中共では、当時六千億円と言っていた。北鮮興南大工業地帯等からの膨大な強奪分は其の中に含まれてはいない。無論、千島、樺太を国際法に違反して強奪された「逸失利益」は更に多大である。斯て、数百兆円もの国家的、民族的債権を我国はロスケに対して保有しているのである。
ならば、此の債権を如何にして回収するか。此処数年石油価格の上昇で破産の危機からは遠のいたとは雖も、万年経済危機のロスケには、数百兆円処か数兆円の支払い能力さえ無い。ならば「物納」しか無いでは無いか。
無論、モスクワやサンクトペテルブルグの市民の財産を没収するのであれば、実行不可能であるが、元来ロスケの所有、領有に正当性の無いシベリアの資源、或は土地であれば、元値はタダなのである。我国の正当な要求に応じて領土の割譲は有って然るべきである。
此処に隠れたる『北方領土』が実在しているのである。

 六、『アラスカ・石油利権』(大東亜戦争被害の対価)

前項同様に、前の大戦で我国は国際法上、許すべからざる不当、不法の被害を被った。加害者に損害を要求する民族的権利を保有している。昭和二十年三月十日の「東京大虐殺」同八月六日の「広島大虐殺」、九日の「長崎大虐殺」、その他無数の米軍、米国に依る計画的、組織的、非人道的大虐殺は、人類史上最悪の犯罪行為である。
所謂「戦後反日神話」の一つに「ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺」なるものがある。反論、反証を禁圧、圧殺された「ナチス・ドイツ」が本当に「ユダヤ人虐殺」なる行為を実行したか、現在の処、未定である。全く有りもしなかった所謂「南京大虐殺」なるものが内外の反日派に依る政治的圧力で日本の教科書にまで「歴史的事実」として載せられている事を見ると、「アウシュヴィッツの虐殺」なるものにも当然の疑念が生じる。現に、同様な疑問を抱いた文芸春秋社発行の「マルコ・ポーロ」と言う雑誌は廃刊に追込まれた。
だが、此処で百歩譲って「ユダヤ人虐殺」が有ったとしよう。有ったとすれば、其れは人類の人道、倫理に違背する残虐行為である。然し、其の許されざる行為も、米国に依ってかなり洗浄される。則ち、米国・連合国側の発表に依れば、「ナチス・ドイツ」は数カ所の収容所で毎日数千人を毒ガスで殺害し、焼却炉で焼却処分にしたと言う。其れが事実とすれば、人道上許されない悪行である。だが、それでも米国よりは人道的である。「ナチス・ドイツ」は、一旦殺害して焼却した。然し、米国は、『東京』『広島』『長崎』『大阪』等々で、大部分が子供、婦人、お年寄りの我国同胞を非人道的に襲い、地獄の業火から必死に逃げ惑う無辜の同胞を計画的に生きながら焼き殺したのである。米国から大虐殺された同胞が、如何に苦しかったか、如何に熱かったか、如何に泣き叫んだか、想像するだに胸を掻き毟られる想いである。
当時に於ても、現在でも明らかに「国際法違反」の此の米国に依る反人類的蛮行に対して、我国、我民族は、金額に換え難い賠償請求権を保有している。但し、現実の国際社会は、金銭、権利、領土等の物質的、形而下的要素で表現される。
我国は、ロスケに対するシベリアの利権、領土と同様に、米国への謝罪、賠償要求を声高に叫ばねばならない。その際に、資源を巡る「世界戦国時代」の今日、米国が放棄可能な利権、領土は、百数十年前に七百六十万ドルで米国がロスケから購入したアラスカである。アラスカ北部には米国が活用出来ない所謂「サンド・オイル」が手付かずで眠っている。ベーリング海の水産資源と共に、我国が賠償として要求すべき資源である。
遠からず、米国連邦は曾ての蘇連邦と同様に解体に向かう。其の際、カリフォルニアの様に、単独で独立国家を維持可能の「ステート」とそうでない「ステート」に分断、併合の動向が出て来る。当面第二次大戦の後始末的傾向が調整的に出て来るであろうが、我国は逆に「普通の国」に近づいている。物質的には計測不可能な程の莫大な被害を我国に及ぼした米国を膺懲し、喪失した財貨を、資源や領土として回復する良い機会である。

(北方領土の歴史)
 一、「アイヌ民族」以前
逆差別の所謂「戦後日本社会」では、逆差別勢力に依る「言葉狩り」が横行し、「原住民」は「先住民」に換えられ、元来北海道や北方領土に移住して来た「アイヌ民族」が、「先住民」として『日本』否定の道具とされている。だが、アイヌよりも前に文字通りの「先住民」が存在したのは、各地の遺跡やコロボックル伝説等から明白であって、北方領土に居住していた其等少数民族ーアイヌも含むーが滅亡乃至は日本民族に同化した現在、此の地域の正当な後継者は『日本』以外に考えられない。
奈良時代の通貨「和同開珎」が北海道各地の遺跡から出土している事実は、北方地域がかなり以前から中央と交易していたことを物語っている。

二、「戦国時代」
此の時代に道南函館等に「武田氏」等の戦国大名が実在していた。確か昭和五十年代にトラック一 二杯分の同時代の銅銭が出土した事がある。此の時代には、アイヌとの交易や漁労に基づく、同胞の生活が蝦夷地で展開されていたのは間違いない。

三、「江戸時代」(松前藩の支配)
戦国時代以来の邦人の生活は、江戸時代に入り、「松前藩」の支配下に、完全に「幕藩体制」の一部分を構成するに至った。一万石
と言う大名として最下位の知行であり乍ら、実質的には十万石の収入が有ったと言われる
「松前藩」が江戸時代初期に作成した地図には占守島迄の千島列島が克明に記載されている。支那歴代の「版図」なる観念から考察するならば、地図即ち「図」(と)に載せると謂う行為は、其の土地を自藩領と確認、主張していたのであって、既に江戸初期にロスケ呼称「カムチャツカ半島」対岸占守島迄、我国の領土であった事を証明している。

四、所謂「北方探検」の時期
とは雖も、苛酷な自然条件の北部千島に迄、邦人が到達、調査した形跡は現在の処、不明である。だが、具体的な地名が列挙されている以上、当時我国国民の一部を構成していたアイヌ民族が往来していたのは間違い無い。 江戸期も寛政の頃に至り、北部太平洋を南下、狼藉を働くロスケ船の妄動繁くして、幕府は林子平等を弾圧しつつも、北方の脅威に対して最上徳内を派遣して択捉島を調査、探検させ、更には、近藤重蔵の探検にも同行させて記念すべき『大日本択捉府』の標柱ー昭和二十年蘇連軍に占領される迄は存在していたーを建設させたのである。
『樺太』方面には、『間宮林蔵』を派遣し、前述の偉業を達成させた。その他、国後、択捉に漁場を開拓した高田屋嘉兵衛、少し時代を下るが、『北海道』の地名を考案した松浦武四郎等々、多くの先人が我国固有の領土を探検、開発、活用した。

五、幕末期
先人の個別的な活躍も欧米帝国主義吹き荒れる幕末に在っては政治的力学に押され、内外で弱体化した幕府は、安政七年「日露通好条約」で、千島方面ではウルップ以北のロスケ領有を認め、我国正当の領土である樺太の日露両国国民の混住ーつまりロスケの侵入居住ーを受容せざるを得なかった。
此れは当時の巨大帝国ロスケの所謂「南下政策」に対応する為の一時的不名誉な政治的妥協に過ぎず、我国の北方領土に関する正当な民族的領有権を否定するものではない。

六、明治維新
『王政復古の大号令』以後、「明治戌辰の役」が続き、内戦中の我国北辺では、ロスケの樺太襲来が続いていた。函館の旧幕府軍が降伏した明治二年、「北海道開拓使」が設置され、北海道の開発、開拓、警備が始まったが、国民皆兵が実施された明治七年、「佐賀の乱」で不平士族に攻められた農民出身徴兵兵士は、「武士が攻めて来る」と聞いただけで逃走したと言われ、軍事的国力は極めて弱体であった。弱肉強食の国際社会で大国たるロスケとの衝突を避ける為に外務卿榎本武揚は、明治八年「樺太・千島交換条約」を締結し、心ならずも広大な樺太をロスケに奪われたのである。

七、日露戦役
然し、貪欲なロスケは、彼等が言う所謂「極東」での露骨な「南下政策」を続け、 「北清事変」に乗じて満州を占領、強奪し、剰え『日清戦役』で清国からの独立を保証された「大韓帝国」への毒牙を逞しくした。朝鮮半島の安否は、我国の安全保障に決定的な影響を及ぼす。我国は、敢て、英国、米国、フランス、ドイツ等の「防波堤」として、又、自衛の為に、十万名もの犠牲を払い、ロスケの南下を阻止したのである。斯て、領土問題だけを見るならば、南樺太を奪還した。(日露講和《ポーツマス》条約)で獲得した領土は、『間宮林蔵』が確保した『樺太』の南半分を奪還したに過ぎなかったが、同戦争の勝利に依って、国際社会での我国の地位向上と権利回復に多大な寄与を与えた。

八、シベリア出兵(シベリア解放、失地回復、領有失敗)
大正三年からの「欧州大戦」中、ロスケで所謂「社会・共産主義」革命が勃発し、社会・共産主義勢力の「革命輸出」を恐れる欧米列強は、ドイツ降伏後、北・西・南から、各地の反革命勢力を支援する形で、相互の連絡無しに、ロスケ領内に攻め込んだ。此れが却って農村のロスケ国民感情を刺激して愛国主義を高まらせ、ロスケ国内での「赤軍」の「白軍」への勝利を齎し、諸外国の干渉を失敗に終わらせたのであった。
我国は、欧米と協力してバイカル湖畔イルクーツクに抑留されていた数万のチェコ兵ードイツの支配を嫌い、敢てロスケの捕虜になっていたー救出の為に出兵した。此の際に、最も多大な貢献を為した我国は、全樺太を奪還して、幕末以来の北方を巡る懸案を一挙に解決すべきであった。だが、植民地争奪の「欧州大戦」直後の世界では、滅亡したドイツ、オーストリア、ロスケ三大帝国の財産分割と新なる支配体制ー所謂「ヴェルサイユ体制」ーの確立、つまり英、仏、米中心の国際秩序の確定が戦勝国主流派の喫緊の課題であった。其処で最も危険視されたのは、我『日本』であった。戦勝国非主流派ー亜細亜唯一最高の独立性と国力、そして非欧米的価値観を保有ーとして、『人種平等案』を主張し、欧米列強から植民地支配の危機と警戒され他。既に『日露戦役』後、満州侵出を狙って居た米国でも「排日移民法」等の反日感情が高まり、「日米若し戦わば」的出版が相次いでいた。
此の様な国際環境下で、欧米側の目標はロスケ赤軍政府の打倒と『日本』の国力増大阻止にあった故に、シベリアで日露両国が戦闘を交えるのは推進させたが、其れに因って我国が国力を強化させる事は、絶対に認め無かった。「尼港事件」で大量虐殺の被害に逢い、膨大な政府予算を投入したにも拘わらず、チェコ兵救出と謂う建前だけを果たして、実質的な権利、領土を得る処無く、撤退せざるを得なかった。ロスケ赤軍に敗れたのではない。一見味方を装った米国と欧州列強に背後から足を掬われて転倒し、入院を余儀なくされたのである。

九、張鼓峰事件、ノモンハン事件
昭和十三年、日蘇国境たる北鮮の張鼓峰で、翌年には満州、外蒙国境のノモンハンで、対独戦を視野に入れた蘇連邦軍が我皇軍に対して「威力偵察」を試て来た。当時の欧州はナチスの勢力が急激に膨張して、国際政治が激動し、何が起こっても不思議ではない状況に在ったが、昭和十四年、ドイツのポーランド浸攻を前にして同国分割を前提にした「独蘇不可侵条約」締結で平沼内閣が「欧州情勢は複雑怪奇」との迷文句を残して桂冠した前後、日独からの挟撃を恐れた蘇連邦が、まずより弱いと判断された我国への武力挑発を行って来たのであった。
此処での徹底的な対蘇膺懲作戦が断行されていれば、後の蘇連に依る「日蘇不可侵条約」侵犯も無かったかも知れないが、未だ「北進論」「南進論」の論議さえ出て居なかった当時に於て、支那事変解決の目処がつかない中で、対蘇全面戦争ー第二次日露戦役ーを選択する発想は、日本政府内で皆無に近いものであったと思われる。我国が支那に拘わる以上に蘇連は、ドイツ、ポーランド等の動向を注視していたのであり、日蘇が可成大規模の軍事衝突を起しても、ドイツの仲介で、日蘇間の全面戦争は回避され、局地戦に限定されていたであろう。

十、第二次世界大戦
ノモンハンで中途半端な停戦が合意された直後、ドイツ、蘇連邦両国はポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発した。更に昭和十六年に至って、我国は蘇連と「日蘇中立条約」を締結し、相互不可侵を定め、其の結果として領土問題の民族的解決が、遠のいた。同盟国ドイツへの配慮としての所謂「関特演」も実施されたが、ゾルゲ、朝日、反日・売国集団による我国「北進論」放棄、「南進論」推進の政府決定は、逐一蘇連に打電、報告され、蘇連に依るドイツ敗北、崩壊の結果を齎せたのである。
斯て、昭和二十年に至り、蘇連邦の「日蘇中立条約」侵犯で『北方領土』問題は、解決処か、より解決困難な事態に落込んで行った。結局は、対米戦争以前に「対蘇戦争」を決意、決断する国際関係や歴史認識を知悉した政治哲学を保有する政治家の枯渇していた事実が、我国の歴史を困難な方向へ展開させた。  『大東亜解放』の為の対米英『大東亜聖戦』は、世界史上必要且つ必然ではあったが、其の前に「虐げられた貧しい人民の為に」等と謂う偽善と欺瞞に充ちた反人間的な「ボルシェヴィズム」ー軍事的暴力に依る伝統破壊、虐殺と圧政的人民支配ーを世界から駆逐しなければならなかった。即ち昭和十四年「ノモンハン事件」段階で満蘇国境を越えてシベリア鉄道沿線の占拠、ドイツの仲介で一時停戦、ドイツの対蘇攻撃で東西から蘇連邦を挟撃して「共産主義革命思想」ー此処百五十年間に少なくとも数千万人もの人々を死に追いやったーの反人類的病根を地上から撲滅する事が可能であったのである。対米英「南進論」を否定するのではない。其の前に対蘇「北進論」が人類道義的にも必要であった。

十一、所謂「シベリア抑留」 正確には「シベリア大虐殺」

 ロスケ愛国者たるソルジェニーツィンの「収容所群島」を読めば、マルクス的共産主義原理とレーニン的社会主義手法、スターリン的愛国感情の混交した「ボルシェヴィキ・蘇連」の異常さが、良く了解される。第二次大戦後、我国官民七十万人以上ー満州人、北鮮人、蒙古人、支那人をも含むーを国際法に違反して拉致誘拐、強制労働ー奴隷労働よりも苛酷、奴隷は買収の対価を支払うが、日本人官民被害者はタダーさせて、最低十万人以上を直接、間接的に虐殺した。平和時に於る斯る類稀な「大虐殺」に対しては、今後、同様に拉致、誘拐、奴隷労働を強いられて虐殺された、ドイツ、イタリア、オーストリア、フィンランド、ポーランド、チェコ、ハンガリー、クロアチア、ウクライナ、等々の国家、人民と共同して、実態、被害の究明と、賠償要求を突き付けて行かねばならない。

十二、樺太、千島日本人同胞虐殺、追放 
 北海道宗谷岬には、『終戦』時、最後まで職場を護り、暴戻ロスケに汚される事を拒絶して殉国純粋の自決を遂げた電信女子英霊を顕彰した『氷雪の門』ー映画化されたが蘇連の暴圧、内政干渉で上映出来なかったーの慰霊碑が建立されている。
其れ以外にも多くの死亡、虐殺事件があった。「北方四島」に限っても、北海道への脱出途中で事故死した方々、ロスケに射殺された方々が存在する。だが、北方四島海域でのロスケの態度は、満州、北鮮、樺太等での其れよりは、幾分なりとも宥和的であった。其の原因は『終戦』直後の昭和二十年八月十八日に、いきなり千島列島北端の『占守島』に攻めて来た蘇連軍を迎え撃った我皇軍の精強さにあった。即ち、空海よりの砲爆撃に続いて上陸侵攻した蘇連軍を我皇軍は撃滅粉砕して、海に追い落としたのである。「強い国には弱く、弱い国には強い」社会・共産主義国家の常ー国際社会と言っても良いーとして、我国の平和的武装解除で『北方領土』を不法占拠した在千島列島蘇連軍は、『強い日本軍』に尻尾を巻いて、現地日本人にも宥和的に接したのであった。だが、昭和二十一年、蘇連邦最高幹部会令ーつまり国内法ーで一方的に我国の『北方領土』を蘇連邦領土に編入ー明白な国際法違反ーした時に、現地在住日本人全員が集合させられ、蘇連邦国籍を取得して現住地に残留するか、其れとも『日本国籍』を護るか、選択を迫られた。当時現地の『ニッポンジン』は「GHQ反日体制」の下で大和魂を喪失したエセ「ニホンジン」では無い。誰一人蘇連国籍を希望する者等居なかった。
すると、ロスケの軍人は、邦人に対して直ちに退去する様に要求し、数時間後の再集結を命じた。誇り高き我真正『日本人』は、背中に我子を背負い、両手に持てる限りの財産、食料を下げて、集結地に集合した。我同胞は、環境劣悪な貨物船に牛馬以下の貨物として鮨詰めの状態で乗せられ、樺太に連行された。乗船途中、船内、下船時に多数の人々が、事故や心労、病気で亡くなった。樺太の中継収容所でも、十分な食料、住居、燃料、医療が無く、帰国を前に多くの犠牲者を出した。

十三、スターリンの北海道占領要求。
マッカーサーに感謝する必要無し。
GHQの「日本」占領後、蘇連邦独裁者たるスターリンは、米国に対して『北海道』北部の領有を要求した。米国国内の一部には対蘇宥和派の声も在った様であったが、GHQ最高司令官マッカーサーは、スターリンの要求を蹴った。此の決断で北海道の一部が蘇連領土に成らずに済んで、マッカーサーに感謝している善良な日本人も多い。
だが、マッカーサーが蘇連要求を拒否したのは、「米本国」の国益の為であって、『日本』の為では無い。米国やマッカーサーに感謝する必要等全く無いのである。

(北方領土問題の現状)
 通常の独立国家ならば、当然領土問題は政府、政権の最重要課題となり、時には戦争の原因になる要素であるが、独立意識の枯渇した「GHQ体制」下のエセ「日本」では、国民的関心が低く、「日本政府」も本気で自己主張する事無く、蘇連、ロスケに押されっぱなし、振り回されっぱなしである。
元より、非独立、隷属国家の常として、外交無き「害交」で、本来ならば『国家』『国民』『国益』を守るべき「外務省」が、敵国の利益を主張して代弁する「害務省」に変質し、国民の安全と利益を裏切り続けている。 其の最も典型的な愚劣且つ売国的な政策の一つが、『北方領土』問題での「ヴィザ無し渡航」政策の愚である。此迄、「友好」や「隷従」で『領土』が還っては来た例はない。最大限度の自己主張を投げ掛け合って、其処から一定の譲歩を相互主義の原則に基づき行うのであるが、定見なき「日本害交」では、敵に乗ぜられ、逆に悪用されてしまう。  現に、筆者が「ヴィザ無し渡航」で択捉島を離れる時、観た光景は感動的なものであった。即ち、陸地から本船に渡る艀の上で、港に見送りに来た「ヴィザ無し渡航受入れブローカー」達へ、本気で「ナターシャー!」等と大声で別れを惜しみ叫んでいるのは、我善良な日本男児の面々であり、ロスケはお義理で手を振るだけであった。日本人の中には、眼に涙を浮かべている者さえいた。『北方領土返還要求運動』に長年挺身し、「蘇連・ロスケ大嫌い」だった闘士達が、たった一回の「ヴィザ無し交流」で「ロシア大好き人間」に変身して帰って来るのであるから、「日露交流で北方領土在住ロシア人の対日感情を友好的に誘導して領土返還に資する」と言う「交流」目的からは完全に逆効果の結果を出している。 「交流」すればする程、『返還要求運動』は衰退するのである。然も、敵のロスケは狡猾且つ厚顔であって、利用出来るものは何処までも追求する。例えば、ロスケから日本側への「ヴィザ無し渡航」は原則としてロスケの負担となっているが、現実には日本側の受入れ機関たる政府特殊法人「北方領土問題対策協会」ー外務省、農水省、総務庁からの税金で活動ーが全額提供しているのである。然も、「対中ODA」と同様に参加ロスケには一切其の事実が伝えられず、多い者では五 六回も来日している連中は感謝もしない。其れ処が、観光地を訪れて停車する度に、彼等は、ロスケには殆ど無いアイスクリームやコーラを購入してバスに戻って飲食する。案内の日本人バス・ガイドが呆れて述懐する。「ロシアの人達の胃袋、どうなってんだかネェー」。正に、「害務省の領土問題への対応はどうなってんだかネェー」と言いたい。定見無き、と謂うよりも、明らかに国益に反する誤った領土交渉姿勢、就中、「ヴィザ無し渡航」は即刻中止すべきである。
平成九年、色丹島、択捉島を訪れた時、現地は経済的過渡期にあった。四十五名の訪問団が土産を購入すると島の物資が無くなるとの理由で、現地通貨とは日本円千円しか交換を許されず、物不足、物価高騰ー食パン二斤程度が五千ルーブルもしていたー、通貨下落が深刻であり、家庭訪問先では「二年間賃金をもらっていない」等との発言さえあった。だが、先方への土産は高価な物は避ける様に事前指導があり、安価な文房具等を贈っても連中は余り感謝しない様に成っていた。翌平成十年、同十一年頃から、根室、釧路、網走辺りの商店でロスケ語表記の看板が急増し、ポケットに二十万、三十万の札束を入れたロスケが電化製品や中古車を買いあさる姿が目立つ様になった。北方四島に居住するロスケの家庭には、今や、電波受像機、音響機器、電子計算機等家庭電化製品が完備し、物質的に富裕な生活を楽しんでいる。此の原資は「カニ」である。北方領土周辺で合法、非合法を問わず強奪したカニを我国に持込み巨額の収入を収奪しているのである。大阪府の一・五倍も有る択捉島の人口は約一万名に過ぎず、この島に年間千億円以上ものカニ輸出売上が転げ込むのであるから笑いが止まらない。然も現在一台百万円もの関税で抑制されては居るものの、以前は帰途、中古車を運送すれば、それだけで莫大な利益を上げていたのである。前年、カニ資源保護の意味もあって密輸カニの排除が始まり、一定の抑制機能も働き始めたが、ロスケ側は輸出先を韓国に変更して相変わらず密漁を続けて居る。本来我国の資源である北方海域の水産資源を守る為に、ロスケの「カニ長者」を撲滅せねばならない。当然、ロスケからの総ての水産物輸入を停止して、我国の外貨流出を防ぎ、北方領土占拠のロスケを経済的に締上げねばならない。「兵糧攻」ー経済制裁ーこそ、現状で最も効果ある外交圧力である。
ロスケは利用出来るものは、何でも悪用する。在日ロスケ大使館、総領事館の外交官全員が日本語に堪能で日本人の心情を把握している。其れだけに、日本人の同情を買う作戦として、「北方四島で生まれたロシア人にとって、同地は『生まれ故郷』なのだから追い出さないで欲しい」等と訴え、エセ「日本政府」も其れを支持して、「領土が返還されてもロシア人は残留して生活を保証される」等と明言して居る。だが、奴等は、本当に現地を故郷としているのであろうか。所謂「阪神・淡路大震災」の後、神戸市の人口は殆ど減少してはいない。処が、平成六年の「北海道東部沖地震」で大被害を受けた色丹島では、人口が三分の一に減少し、住民の多くは樺太や沿海州に移動した。北方領土を故郷視していない証拠である。

(今後の動向)  
前回の『南方領土』でも力説した様に、現下の世界は資源獲得を巡って激動している。
即ち「世界戦国時代」が展開している。エセ国家である所謂「戦後日本」でも、否応無しに国防問題を考えねばならない時期に来ている。
斯る現状の中で、ロスケは、米国共々、退潮傾向にある。昭和五十四年の「アフガニスタン侵攻」直前を最盛期として、その後十年間の「アフガン紛争」介入の結果、蘇連邦は崩壊し、ロスケは領土を五百万平方キロメートルも減少させた。アフガンとの戦いは同時に「イスラム教」との争闘ー反蘇ムジャヒィディンの中にオサマ・ビン・ラーディンも居たーであった。此のアフガンでの教訓を活かせずに、ロスケは再び、チェチェンー同国は人口百万人足らずの小国ーで全世界のムスリムと果てしなき遊撃戦の泥沼に陥っている。
 今回、ウクライナー第二次大戦では多くのウクライナ人が枢軸側に就いてロスケと戦ったーでは、西北部と東南部に分裂する可能性が近い。此等、無数の矛盾を抱えた国力不相応のロスケは、民族紛争、宗教対立、地域格差、資本主義と官僚主義の対立等で、遠からず「ロスケ連邦」の解体に至るであろう。
と成れば、所謂「極東」ロスケ人は孤立し、独自の国家形成を余儀なくされよう。特にカザフ、ウィグル、モンゴル民族等の統合への動きが発生し、ロスケの東西分裂は避けがたいものとなるであろう。
「極東ロスケ共和国」は、衰退するロスケ民族と拡張する朝鮮、漢民族等が混在する多民族国家と成り、沿海州への北鮮からの朝鮮人浸出は続き、支那人も満露国境全域から多数浸出するであろう。其の結果、「極東」「シベリア」に於るロスケ人の人口比率は減少し、歴史的近未来の予測として、多くのロスケが欧州に帰還し、「極東ロスケ共和国」は、支那、朝鮮、モンゴル等の人口圧力に消滅する事になる。
此の近未来的予測は、資源の争奪をめぐる「世界戦国時代」に在って、全世界的な問題となる。西シベリアの大量の石油資源、世界最大の天然ガス田、東シベリアの鉱産、林産資源を 誰が、何処の国が支配するかは、国際的な争点と成る。其の様な緊迫した国際情勢の下で、「資源小国」の「日本」はなにを奪還するか。獲得するのか。
何の国家目標、国家計画も持たない似非「日本政府」には、激動する世界情勢に対応する事は、不可能かも知れない。だが、シベリアの資源を巡る国際的な混乱の中でこそ、『北方領土』問題は根本的解決を見るのである。無論、シベリアの人類に残された最後の埋蔵、未発見資源は重要であるが、最終的には『江戸時代に帰る』、つまり大地自然との共存共生の人間社会復活と、人類の永存が最終目標でなければならない。