第134号  皇紀二千六百六十五年(平成17年) 如月(二月)  TOPへ戻る

『民族的美意識』の再確認を
                     


中山 嶺雄

(「戦争を美化」なる反日宣伝の斜陽化)

前号で紹介した「日本放送協会」と自称「九条の会」との「反日価値観」を共有する者同士の無節操且つ醜悪な癒着構造は、更にマンガ的展開を見せ、「社会民主党会館」で「全教ー共産党直営教職員組合ー大会」が開催される迄に至った。旧「社会党」が国会議席の三分の一を握り、一応は第二党の地位を獲得していた頃、同党は東京の一等地に本部を所有していた。だが、「社会民主党」なる泡沫政党と弱体化した現在、実態に即しないハコ物の本部が退潮著しい「日本共産党教団」の「地上げ」「乗っ取り」攻勢を受けて、会場使用に迄至ったのである。相互に対立し合っていた両党が、「反日」を共通の理念として連携せざるを得ない迄に盲目的盲信的「反日派」の勢力は低下したのだ。各種の所謂「世論調査」結果を看ても、反日両党の支持率は併せて五分止まり、残りの九割五分の国民に愛想を尽かれた「社民党」「共産党」共通の最後の砦は「九条を守れ」「教え子を再び戦争に送るな」の非独立反日スローガンの力無い合唱に過ぎず、平成十年に北鮮弾道弾が我国の東北地方を飛び越えた直後、「非武装中立」出身の社民党「管某」が「偵察(軍事)衛星を打ち上げろ」と取り乱して息巻いた様に、一発の弾道弾着弾で吹っ飛ぶ手合いの運動、主張、論理に過ぎない。
北鮮当局が、数年前から「東京を火の海にしてやる」と喚き続け、現実に着弾可能の弾道弾を開発、配置、実験を済ませ、二月十日には「核兵器保有宣言」迄ブチ上げて、「反日・朝日新聞」にさえ説教される今や、「民主・平和・人権・こどもたちのために・女性の自立」等を口実に「戦争反対・軍国主義反対・差別反対」等と謂う建前の下に反日・自虐・売国・逆差別を盲信し、「反日」洗脳を教義とした各種「反日信仰教団」が次の憑所とする情緒的ー大衆は情緒に流されるーな反日論拠は、「戦争を美化するな」の合唱となろう。自分達の醜悪な反日売国の洗脳宣伝を、恰も恐ろしい戦争願望の悪魔達が潰しにかかっているといった被害者・ヒロイン意識丸だしで大衆の感情に訴え、従来の「オオカミ少年」手法で国民大衆を、否、自分自身をも自己催眠に掛けようとしている。         所謂「戦後六十年」、「OOしたら戦争になる」と戦争への恐怖感を誇張して国民の正常な判断能力を奪い、国民を思考停止の心理状態に置いた上で、一定の非論理的感情論で国民を洗脳していた手法は、確実に過去の物になりつつあるが、猶、メディア、教育、法曹等の分野では、一定の勢力、効力を残存させている。現に、今回発表の「自民党」に拠る「改憲案」は正に反日派に迎合した現行「占領基本法」追認の反日改憲ー憲法改悪ー素案である。
 『日露戦役』勝利百周年の本年、所謂「保守派」ー遺憾ながら親米が多数を占めるーの陣営では、同戦役の歴史的意義再確認の動向が強まっている。此れは単に歴史的事件への懐古、回顧の情念に止まらず、『歴史観』『価値観』『民族帰属意識』の再認識に繋がる。即ち、「反日派」が六十年間に亙って営々として構築して来た「反日・自虐・売国体制」の崩壊を意味する。従って、売国奴陣営も死にものぶるいで反攻して来るであろうし、其れに対抗する「戦争美化論」に対する理論武装が必要であろうと考えられる。

(戦争の「現象」と『本質』)

「戦争とは何か」との命題は、長らく、所謂「インテリゲンチャ」の不毛な時間潰しの議論の対象とされて来た。多くの場合、古代支那の「孫子」やプロイセンの「クラウゼヴィッツ」の戦争論等を引用しつつ、政治的対立の解決手段の一つの選択としての意味付けを行い、それ自体は当然の論理ではあったが、
より本質的な戦争の動機づけは欠如していた。確かに、戦争は其れ自体が目的ではなく、政治的対立の結果として発生するものであり、国益の対立の結果である。
だが、国際社会の背景に存在する各国独自の特性、更には人類の生得的体質、本能への認識を無視しては、戦争も虐殺も語る資格が無い。
 愚生は高校生の時に、国語の教師に職員室に呼出された事がある。愚生の書いた作文を手にした其の教師は、「君、此れは不道徳だよ」と当惑気に言った。愚生はニヤニヤと笑い乍ら、敢て反論する事も無く「そうですね」と応じ、件の教師も其れ以上追求する事は無かった。其の教師には、議論しても勝つ自信が無かったのかも知れない。
 論題は「計画戦争論」。論旨は次の様なものであった。
『戦争とは破壊や殺戮を齎す不毛にして非人道的な野蛮な行為である。而るに人類の歴史を紐解く時、人類の歴史は戦争の連続とさえ言い得る程に戦争が多発している。其の原因は何か。其れは、国家間の対立以前に、人間誰しもが保有している「闘争本能」に由来している。国家と言う生物は存在せず、国家は人間が動かすものである以上、人間から闘争本能が消えない限り、人間が構成する国家間の戦争は必然的に発生せざるを得ない。ならば、人間から闘争本能を消去すべきか。其れは不可能である。生物として遺伝子に組込まれたものを排除するのは自然の摂理に違背する上、或る意味では他者との闘争に打ち勝って来た結果、現在の人類が存在するのである。ならば無原則に戦争を放任しても良いのか。確かに、過去に於いて、槍や弓矢、刀等で戦っていた時代は、戦争が人類を滅ぼす可能性は無かった。だが、今や、米蘇両国は併せて数万発の核兵器を保有し、第三次世界大戦が勃発すれば、確実に人類は放射能汚染等で滅亡する。其の第三次世界大戦を防止するには、絶えず戦争の惨禍、悲惨さを全世界の人々に現実のものとして周知徹底し、世界大戦の発生を抑止しなければならない。其の為には、一定の規則、法則を確立して国際機関ー例えば所謂「国連」等ーの管理の下で、定期的に、例えば一年毎に、或はオリンピックの様に四年毎に、特定の国家間で戦争を行わせ、抑えられた闘争本能を発散させると同時に、近代戦争の非人間性を再認識させて世界大戦の再発を防止する意識を涵養すべきではないか。現在存在する百数十ケ国ー当時ーを組合わせれば、毎年実行するとしても、一ケ国は五 六十年に一度「悲惨な戦争」をすれば、人類の滅亡が防止できるのだ。』
細かい文言を正確には記憶してはいないが、概ね、此の様な論旨に対して、初老の国語科教師から「不道徳」の注意を受けたのであった。無論、本気で議論する気等無く、単に何の具体的な方策も無いエセ「平和主義」への嘲笑の拙文であった。然し、此処で指摘した「戦争の本質」は間違ってはいまい。人間の闘争本能が、戦争の原因なのであり、其れは否定、抹消不可能な人間精神、心理の構成要素である。
 戦争は其の政治的側面と戦闘的現象の両面から描かれる場合が多い。特に、大衆受けする報道や教育では、表面的事象、即ち、死と破壊、血生臭い修羅場、戦場写真、フィルム等が持て囃される。特に「反戦」等と嘯くエセ「人権派・人道派」に其の「怖いもの見たさ」の傾向が強い。朝日新聞の「本多某」等は、其れまでは事実上存在しなかった「南京大虐殺」なる文言を事件共々捏造し、「ポルポト三百万人虐殺」報道を強調する等、血生臭い死骸に群がるハゲタカの様な悪趣味ー飽くまでも自分は安全圏に置いてーを正義漢ぶって吹聴した。「日教組・全教」の反日教員の多くも又、同様の無知蒙昧さに起因する感情的寝言を青少年に一方的に擦り込み洗脳するだけである。
だが、現象の背後、内面に「戦争」「闘争」の本質と原因を論理的に追求、解決する事が必要である。

(『大東亜戦争』で示された                 我日本民族の美意識)

「戦争」とは、政治の極端な緊張状態の一形態とも解釈出来、其の場合、通例では発生しない異常な国家意識、民族精神の昂揚が看られる。即ち、国家、民族等への帰属意識や連帯感の昂揚であって、酸嚊を極める戦場の殺戮と破壊ー取分け「近現代戦争」に於てはーに反比例して、精神文化的高まりが顕著となる。反日勢力は、此の民族的熱情を「戦争の美化」等と言って、国家、民族否定の感情的論拠とする。だが、其処で称賛されているのは、「戦争」そのものではなく、戦場で或は銃後で示される『自己犠牲』の『精神』である。世界中如何なる国家、民族でもー此のいかがわしいGHQ反日体制下の「日本」を除いてー『自己犠牲』は最大の美徳とされる。 特に四季折々の自然に恵まれた我国では、同一の地点が少なくとも四種の情景に看取される豊饒な環境の中で、豊かな精神文化が育成、涵養され、素晴らしい國史が成立した。然も、有難い事には、『万世一系』の『皇統』を戴き『天皇即ち日本』ー三島由紀夫烈士の言ーの『國體』が護持されて来た。此の『國體の護持』こそ、『民族生命体』たる『日本民族』にとって必要十分条件であり、其の為に自然発生的に出現したものが各種の『特別攻撃隊』であった。全人類が共通して最高の価値とする『自己犠牲』の根本にある人間精神は『誠意』である。然も、「王朝交替」が一般的である諸外国とは異なり、我国では、『無私』の祭主であらせられる『天皇』への『赤誠』を示す事こそ、同時に全国民、全国土、全民族への最高の誠意である。     所謂「戦後日本社会」では、此の基本原則、認識が紅毛毛唐の反日洗脳で表面的に抹消されたかに看える。だが、『日本民族は健在』である。現に吾等が実在し、社会全体も「反日」から「ふつうの国」に移行し始めている。其の次の段階が『皇國』ー表面的形態を変えて実在はしているーの再興である。    『特攻精神』の美意識を再確認して、躍動する『民族共同体』復活に向け、更に前進、能動しようではないか。