第138号  皇紀二千六百六十五年(平成17年) 水無月(六月)


              恐  懼

 天皇・皇后 両陛下
    サイパン・南洋群島 御巡幸


 
英霊、戦没臣民への御親拝、深謝、ことばも無し


         
恐懼(きょうく)に堪えない=恐縮すぎて頭が上がらないみたいな意味



         
『國史』 『世界史』 『人類史』

                                              中 山 嶺 雄

(歴史は人間の本質を語る)

本平成十七年は、『日露戦役』戦勝百周年、『大東亜戦争』『終戦』六十周年の記念すべき年である。
通常、人々は毎日の日常生活に追われて、過去の『歴史』を振返る精神的余裕が少ない。
其の意味に於て「中共」「韓国」が対日反日宣伝で常に強要する「歴史を鑑として云々」は、全面的に正しい。無論、其の主張は、ウソで固めた両国の反日「歴史」に其の侭お返しする文言ではあるが。
吾々は、常に『正史』を認識しつつ、過去の叡知から現在の社会に於る諸矛盾を判断し、未来の的確な予測を事前に把握、予断して、将来発生可能な事態に対応、適応せねばならない。歴史は人類の『経験史』であり、『歴史は繰返す』とは、蓋し名言である。
五千年前に「アル・アハラム(ピラミッド)」を造ったエジプトの民も、今ではシャトル・アラブ川に一本化したチグリスとユーフラテスの両河が別々の大河であった事実を目前にしていたイラクの民も、殷商の宮殿で「酒池肉林」の宴に酔痴れた若者達も、現代の吾人等と同様に、日々の生活の中で、当時の衣食住の習慣に生き、恋愛、家族生活等の趣味や精神を楽しみ、農工商の生業に明け暮れしていた「普通の人々」であった。
数千年の時間空間を超えても人間の本質に然程の変化が有る訳では無い。予測困難な未来よりも、確実に存在した過去の歴史から学ぶものは多い。

(『國史』、有機的生命体としての民族史)                 

「歴史」と言っても、全世界に二百近い諸国、数千の民族の実在を考慮すれば、各々の「歴史」は、時間空間的、地理空間的に独自の歴史性を有している。
異国、異地域の歴史処か、現状さえ知らぬ無国籍的大衆社会に於て、先ず認識、確認すべきは、自国、自民族の過去であり、『単一民族国家』たる『日本』等では、『國史』の学習無しには民族的紐帯は有り得ない。  非欧米各国、各地域が急激に植民地化された幕末、明治期に、独り我『日本』のみが独立を維持し得た原因の一つは、奈良時代以来の『國史』の共有で有り、江戸時代『國学』の発展、昂揚であった。共通の歴史や文化、道統を保有していたが故に、我国は、外夷の侵略に対して毅然、決然たる態度を採る事が可能であったのである。
人間個人に生命がある様に、現状では人間社会最大の有機体である『民族』にも当然独自の生命がある。「国家」「自治体」等の無機質的「組織」「枠組」「構造体」とは異なり、有機的生命体たる『民族』には、其の『民族』を『民族』たらしめる『民族的生命』が存在し、其の『民族的生命』の時間空間的共通体験が『民族史』である。此の『民族史』が極自然に日常生活の中で教育、伝承されるのが「普通」の『独立国家』であり、其れが否定、制限されるのが、「精神文化的植民地」「精神文化的隷属国家」である。
現下似非「日本」は、正に自国、自文化を否定、抹殺、圧殺する「GHQ反日体制」の下で、国際常識的には有り得ない異常心理状態に置かれ、六十年を経過している。   此処十数年、「普通の国」を目指す覚醒活動が活発化してはいるが、其処には「欧米的独立国家」を目標、理想にしている「非日」「脱日」「民族不在」的発想が色濃く発現されている。吾人等の目指す『皇國再興』『國史復活』『民族独立』と謂ふ『民族の大義』覚醒への道程は、今猶遠い。だが、歴史的必然性は、確実に民族的自立、独立に向けて進行している。此の『有機的生命体』としての『民族史』、我国の場合『國史』の復活、再生は、民族独立の必要十分条件である。

(『世界史』理解に必要な歴史観)

現下、似非「日本」社会では、「GHQ」等に因る「売国、自虐」の異常大衆洗脳工作成功の結果、「中・韓・米」等反日勢力、諸国の内政干渉を受けて、「歴史の共同研究」ーウソで固めた反日歴史観の対日強要ーなる愚行が進展しつつある。斯る低級愚劣、暗愚拙劣な政治謀略工作が、学問、研究の名に於て堂々と実演される茶番劇的似非「日本」社会の知的不毛、知性の貧困に対しては、冷笑、嘲笑するだけでは済まされない危険性を直感せざるを得ない。
モンゴルの英雄「チンギス・ハン」や仏国の英雄「ナポレオン」は、近隣諸国から観れば、残虐な侵略者であり、米国の「ワシントン」も、英国から視れば反乱軍の頭目、主魁に過ぎない。各々の『民族史』『国民史』の視点から観れば、同一事件、人物であっても価値判断が相違するのは当然であって、其れを一致させる等という発想そのものが、他国への政治的文化的内政干渉以外のなにものでも無い。従って、『世界史』を『民族史』の総体と観るならば、特定の「民族史観」「国民史観」で判断する事は出来ない。「歴史観」とは、「歴史」や「社会」への価値観であって、視点、視座が異なれば、其の結論が異なるのは当然である。
其れ故に、『世界史』を論じるには、特定の「国家」「民族」「宗教」等を超越した観点から論ずるべきである。

(自然科学としての『人類史』)

有機的生命体たる『民族』に『民族史』が存る様に、総ての民族を抱摂した『人類』にも『人類史』が在るはずであって、通常其の中の狭い民族史の集合を『世界史』と呼んでいる。
だが、曾て、一世を風靡した「クリスト教史観」、そして其の鬼っ子として発生した「唯物史観」等の様に、全人類に適用するのが無理である事が証明されている歴史観は、『人類史』的普遍性を持ち得ない。一定の価値観、観点から演繹した歴史観には、其れなりの価値は有るものの、全人類的共通性を持ち得ない。ならば、自然科学の手法を歴史に反映させ、より広範な人類を抱摂する歴史観を確立する必要があるのではないか。
愚生は四十年来、次の様な『世界史観』『人類史観』を考案、主張して来た。
数学的に把握すれば、吾人が知覚する目前の形態は「三次元」の世界である。直線が一次
元で、平面が二次元、然し現実の世界では、一・二次元は実在せず、概念だけの所産であって、実在するものは三次元の物質、即ち「立体」である。だが、其の「立体」も生物たる人間社会の認識下に於ては、常に『時間空間』の中で浮遊している。即ち、三次元空間に時間空間を組合わせた『四次元空間』こそ、人類の『歴史』に他ならない。
だが、古代シュメールの神官と殷の卜筮を執行う占師に何の接点も無かった。
英国の歴史家『アーノルド・トインビー』は、名著「歴史の研究」で、世界の歴史を三十近い「文明圏」に分類、配列して『人類史』を博物学的に体系付けた。此れは偉大な業績であったが、確か四十年程以前に『トインビー博士』が来日した際、「朝日新聞」記者の質問「文明と文化とどう違うか」に対して、同博士は「同じだ」と答えた。此の応答に同氏の限界が感じられた。
『精神文化』と「物質文明」を同一視する思想には、欧米的、自然科学的発想が色濃く認められた。確かに『文化』と「文明」を混同、混在する人士は多い。然し、真っ白なシリア砂漠に現存するパルミラ遺跡、緑濃い密林に聳立するアンコール・ワット遺跡等の「物質文明」遺産の前に立っても、物理的に視えるものは、石造神殿のみであり、往時の精神文化的社会状況は見られない。人類の「物質文明」が『精神文化』を齎せたのではなく、『精神文化』が「物質文明」を創り、遺したのである。其れ故に、価値ある実体は人間精神であり『文化』であって、物質や「文明」は其の付随品に過ぎない。吾人は、此の『精神文化』を基盤にした『文化圏』を『人類史』の基盤とし、前述の「四次元空間」に此の『文化圏』と謂う空間を交錯させ、『五次元空間』としての『人類史』を歴史科学的に主張して来た。其の『五次元空間』的人類史の本質は、人間のそれと同一である。

(人類の危機を我『國史』が救う)

前述の『五次元空間』的人類史の基盤を為す『文化圏』は、人間個人と同様に、出生し、成長して、生命の営みを謳歌し、やがて最盛期を過ぎて老化の一途を辿り、衰亡、死滅して行く。平家物語の語る『盛者必衰の理』とは、正に其の本質を物語って余りある。
だが、総ての生命ー人類も含めてーに限界があるとは雖も、其の生命を出来得る限り存続、延長させる事は十分に可能である。
特に、全世界に自然の異常現象が拡散、蔓延し、所謂「地球温暖化」等の問題が多発している現在、人類に執っての歴史観、人類としての価値観を正しく確立し、全世界に啓蒙、啓発する事が緊急の課題である。
『人類法』に基づく『人類生存権』と謂う概念の広報、宣伝の必要性が痛感される。
「自然破壊」に因って人類が滅亡に瀕している時、『自然保護』『自然再生』『自然共生』、即ち『皇道宣布』は、緊喫の必要欠くべからざる人類生存、存続条件と成っている。世界で最も豊饒の我国の自然と、其処から育まれた我国伝統精神文化は、トインビーが世界の「文明圏」の一つに比定した様に独自の人類と自然の叡知が結晶したものであって、現下の世界を滅亡から救済する論理や思考、生活観を有している。
『江戸時代へ帰れ』を目標に、先ず欧米化したエセ「日本」を本来の『日本』に還る様に日夜一層の努力を続けようではないか。