第140号  皇紀二千六百六十五年(平成17年) 葉月(9月)

         やむにやまれぬやまとだましひ

                                                 中 山 嶺 雄


(『皇国日本』を全面的に肯定せよ)

平成十七年葉月六日午前四時頃「朝まで生テレビ」なる番組の最終場面を偶然視聴した。途中の遣取りは全く不明であるが、「帝国軍人」が主題であったので、愛国派『大日本帝国』軍人と「売国奴」エセ軍人を登場させ、両論併記させて論争させる番組意図は即座に理解出来た。当然ながら、愛国派が優勢ー吾等は事実を事実として語れば良いのであるからーと推測されたが、最終場面で若いバカ女が愛国派に質問をした。「若し日本が勝っていたら、今よりいい世の中になっていたと思いますか」と。予想外の質問に一瞬沈黙が走り、誰も何も言えずに、一部の人が余り意味の伴わぬ言い訳めいた発言をしたのみだった。すかさず司会の田原某が反日的決めつけで事実上論議を打ち切り、愛国派帝国軍人でさえ、戦前的日本社会よりも所謂「戦後」社会の方が良いと思っているとの印象を視聴者に与えた。
 筆者ならば即座に『当然、今よりも百倍、否、万倍も素晴らしい世の中になっていた筈だ』と即答していたであろう。八十歳を過ぎた高齢の帝国軍人の方々に、予想外の、然も仮定に過ぎない質問への即答を求める事自体が、敵側の巧妙なワナである。この種の討論番組は、視聴者への心象を如何に巧みに植え付けるかが勝敗の帰趨に繋がる。六十年経っても祖国『日本』を限りなく愛し、「GHQ反日体制」の下で『日本』の自己主張、民族的正義を語り続ける帝国軍人の方々には感謝と敬意、共感の想いを全面的に呈上するものであるが、『日本の勝利』を即座に全面的肯定できなかった、「敗戦」「被占領」意識に些かでも拘泥、拘束、呪縛された登場者諸兄には、若干の物足りなさを抱かずにはいられなかった。
当、『一日会』の信条は『大東亜戦争未だ敗れず』である。所謂「戦後」社会に於て、「GHQ反日体制」の下で、「反日政治」「反日メディア」「反日教育」等々で、「物心両面」の「敗戦」を意識した、又、させられた単純、素朴、且つ素直な「日本人」大衆の多くは、其れに対する反感、反発、復讐心をたぎらせるよりも、自虐、自責、反省、責任転嫁、忘却、といった方法、方向で自己の精神的合理化、安定化を図り、其の結果として「反日意識改造」が徹底強要されてしまった。其の六十年に亙る「反日意識強要」「反日洗脳」は、二十年から三十年程度の愛国教育を受けた『帝国軍人』さえからも、所謂『戦前』ー『日本』が独立国であった時ーを即座に全面的に確信を以て肯定する意識を奪って居たのである。其の原因は「敗戦意識」にある。だからこそ、『一日会』の心情は『大東亜戦争未だ敗れず』なのである。敗北すれば戦争は継続出来ない。逆に考察するならば、戦い続けている限りは、「敗北」即ち低劣な欧米物質文明への屈服、受容、許容は有り得ず、『自存自衛』『大東亜解放』『人類救済』を三つの柱にした『大東亜戦争』の世界史的目的を完遂出来るのである。
より卑近に考えても、現下エセ「日本」が、真正『日本』であった時、即ち所謂「戦前」の社会と「戦後」の現状を比較すれば其の優劣は明白ではないか。此処数カ月のエセ「日本」社会の状況を振返って視よ。近畿地方等での低次元の事件を見ても、GHQとM・L主義等の反日勢力が拡散させた、民族性や人間性を破壊する事案が連日の様に頻発している。
大阪府の或る男は、自殺志願者を計画的に呼び出して三人を殺害。其の殺害の様子を写真に写し、音声を録音して性的な興奮を感じて居た。逮捕されなければ累犯が続いて居たであろう。兵庫県の或る男は、金儲けや結婚の詐欺話で若い女性と同棲し、其の友人の女性も呼出して両名を殺害、死体をバラバラに切断して海に投棄した。その他、両親殺し、教師殺し、わが子殺し、一家皆殺し等々、加害者のみならず被害者にも問題の有るこの種の事案が四六時中多発している。此の米国化した「戦後日本社会」を冷静且つ客観的に俯瞰すれば、誰しも現状を「戦前よりも良い社会」等と言えない筈である。目前の事実から帰納的に現状の価値判断を行えば、現在の「日本」は、夷狄蛮戎に依る軍事占領と反日洗脳を奴隷の如く受容した恥知らずの怯懦にして無知、無能、無気力、反独立、精神文化的植民地根性に堕落した国史上最悪の社会と断定して良い。
其のアホ・バカ愚劣社会での象徴的権力者の一人が、売国奴コイズミである。

(売国奴「コイズミ」の靖国神社冒涜を絶対に許すな)

就任当初より、我皇国『日本』の本質的敵性国家たる米国に尻尾を振って売国奴振りを露呈させていたコイズミは、北鮮への日帰り訪問で「平壌宣言」なる売国文書に調印し、韓国、中共へは謝罪目的のみの土下座害交訪問を繰返し、八月十五日靖国神社参拝は反日諸国の圧力に屈して十三日に前倒し、『独立・自尊』の精神欠如を全世界に晒していた。 
逆に、日本の首相であれば当然行うべき『領土回復要求』活動、発言は全く行って居ない。せめて、「謝罪」「言い訳」への努力の一割程度でも良いから『主権、領土、国益』の自己主張を行うべきだが、自称「首相」としての義務、職責を全く果たして居ない。
処が、愛国、自尊勢力の中にも「今までは行かなかったのだからコイズミの方がマシではないか」との無思慮な声が聞こえる。
だが、其の意見、感覚は、余りにも非論理的且つ無節操な発想に基づいている。従来から繰返されているコイズミの売国的言動、発言を真剣且つ率直に受け留めれば、コイズミの『靖国神社』立入りは絶対に認められない。
売国奴コイズミは、靖国神社参拝の言い訳を内外の反日勢力に言う。「心ならずも犠牲になった方々の霊に云々」等々、と。    靖国神社に鎮座まします英霊諸柱は、「心ならずも」祖国、皇国『日本』に殉じられたのか。英霊諸柱は、決して「心ならずも」戦地に赴いたのではなく、『心から』『喜んで』『自ら進んで』『国家・国民』『家族・一族』『恋人・友人』そして、『日本』の総体を抽象化、象徴化させられる処の『天皇陛下』の御為に、祖国自衛と大東亜の解放、更には人類を滅亡に至らしめる「欧米物質文明」打倒の為に、愛する家族、友人、郷里を離れて、苛烈な戦地に勇躍出征され、転戦、敢闘されて、祖国『日本』に殉じられたのである。で有るからこそ、日本民族は英霊に対して感謝の誠を捧げ、御霊を靖国の御社に顕彰し、お祭り申し上げるのである。此の忠勇愛国愛民の英霊諸柱に対し奉り、「心ならずも」等と反日的解釈、反日的歴史認識を一方的に押し付け、御霊の神聖性を冒涜する売国奴コイズミには、靖国神社を参拝する資格がない。『愛国・自尊』の何たるかを知らず、内外の反日勢力に言い訳し、媚びを売り、民族の尊厳を汚し、国民を欺瞞し続ける低能売国奴コイズミを、権力の座から追放せよ。     現に八月十五日、売国奴コイズミは反日諸国、諸勢力の言うままに、「終戦六十年談話」なるものを発表し、韓国への「植民地支配」と中共を含むアジア諸国への「侵略」なる文言を敢て使用した上に謝罪を重ね、『終戦』の御詔勅の精神に違背し、真の歴史的事実と日本民族の栄光を否定し、たった一つしか無い歴史的事実を歪曲、捏造して、中共、韓国製の偽造史を受容してしまった。十年前の「村山談話」と同様に、否、此の十年間の『愛国・自尊』『歴史見直し』の正義、当然の歴史的潮流を考慮すれば、「村山」以上に悪質極まりない反日「歴史認識」、反日暴言、反日妄言を繰返す国賊の主魁コイズミに断固天誅を加えよ。
去る七月末、愚生はインドネシアのジャワ島へ飛んだ。世界遺産に登録されているボロブドゥール仏教遺跡にて『ジャワ派遣軍』等の勇士、同胞、大東亜戦争遂行協力諸国民の御霊を鎮め、感謝と敬意の誠を捧げる為であった。
十層もある壮大な同遺跡に黎明、暗闇の中を最上階まで昇り、東方に聳える標高三千米のムラピ山に上がる旭日を拝んだ後、第七層西北隅にて祖国日本の方角に国旗『日の丸』を掲げ、靖国神社と石清水八幡宮の御札を立て、御神酒『さくら鑑』及び粗末乍ら神饌を供え、独りでささやかな慰霊祭を斎行した。
北方、皇居並びに武蔵野の御陵に対し奉り最敬礼。国歌『君が代』及び『海ゆかば』独唱。聖壽の弥栄を三唱して我流ではあったが、御霊をお慰め申上げた。国立の公園であって外国の国旗を勝手に掲げれば問題になる場合もあるが、旭日を観る特別の団体(三十名程)に紛れ込んで参加したので監視員も居らず、心おきなく慰霊祭を行えた。
遺跡から遺跡敷地内に在る唯一の旅館「マノハラ・ホテル」に戻り、食堂で朝食を摂っていると、いきなり長身の白人が傍らに立って自己紹介を始めた。「私は、オーストラリアから来たOOOO・OOOOOです。お食事中、済みませんが、先程の儀式は、何のためにやっていたのですか」と、流暢な日本語で質問して来た。夫人らしき女性と同席していた四十歳前後の其の男性は、どうやら愚生の慰霊祭を視ていたらしい。ボロブドゥール遺跡の最上層三階は、夫れ夫れ大小の仏塔が並ぶ円形の基壇で、すぐ下に七層が見えるのだ。其のオーストラリア人の語学力を考慮しながら、『第二次世界大戦などで亡くなられた、日本の軍人の方々などの心をお慰めしていたのです』等、ゆっくりと相手に理解出来る様に応えたが、相手は敬語の使い分けの出来る知日派で、話すにつれて、頻りに感動した面持ちで「お慰めするのはいいことです」「宗教的な儀式はとてもいいです」「何の宗教ですか」と聴いて来る。『神道です』と応えて『靖国神社』の御札を取り出して色々と説明すると興味深く聴いていた。但し、知日派らしく「靖国神社については中国なんかが反対していますね」と言うので『あれは内政干渉です』と一蹴しておいた。
暫く会話した後で「お食事中失礼しました。どうぞお食事をお続け下さい」と頭を下げて、自席に戻って行った。外交官かメディア関係者の様であったが、最後まで「いいことです」を連発していた。平均的日本人以上に正確で上品な日本語を話し、日本及び日本人に興味と理解を示す豪州人に接して、エセ「日本」の外交官に同様の能力や意欲があるのかと改めて侮蔑の念を抱きつつ、外国人でも『靖国神社参拝』を当然視する事実を体験した。
外国及び外国人とは、「共産支那」「反日ヒステリー韓国」だけではないのだ。

(皇国『日本』は猶、健在なり)

自称「首相」、自称「衆議院議長」、自称「皆様のNHK」等のマス・メディア以下、権力の中枢が反日、自虐、売国の思想的、精神的異常者に依って占拠されているエセ「日本」の現状は、絶対に許容すべきではないが、『大楠公』は『日本民族』に明確な指針を示されて居る。『非理法権天』、即ち野卑低劣な権力を弄ぶ売国奴共も所詮は『天命』(自然法、人類法、民族法と換言しても良い)に逆らえないのである。
現下エセ「日本」社会が、如何に巨大な潮流で『愛国・自尊』の好ましい方向に流れつつあるか。毎日、毎時、目前の事象のみに流される者には見えないが、半年、一年、五年、十年と言った歴史的単位で社会の変質を認識出来る者には、大いなる社会変動が看取され得るのである。
歴史認識に関して所謂「東京裁判」ー実態は国際法違反の反日復讐茶番劇ーを否定した奈良県の森岡衆議院議員は、反日諸国の外圧にも拘わらず、政務官を罷免されなかった。其の師たる奥野文部大臣が極ありきたりの歴史認識を示しただけで辞職に追込まれた時期に比べれば、「日本」国内での「反日ヒステリー」勢力は格段に退潮化し、「普通の国」指向勢力が大勢となりつつある。彼等「普通の日本人」が、「当たり前の感覚」に目覚め、現在よりも極端な「外圧」「国難」に遭遇した時、『愛国・自尊』の意識は急速に復活するに違いない。彼等には、二千六百有余年の民族精神(やまとごころ)と日本人としての血脈(遺伝子)が、程度の差こそあれ、必ず内在しているのである。エセ「日本」で「反日洗脳」に呪縛された「眠れるブタ共」が、「普通の国民」に向上し、更には『民族の正気』に覚醒した時、光輝溢るる道統を堂々と全世界に宣布し、八紘を一宇と成す『皇国日本』が再興するのだ。
そして、其の時期が歴史的には、さほど遠く無い処迄、日本社会は『正常化』ー反日派は「右傾化」等と言うーの方向に回復しつつある。楽観論は戒めなければならないが、悲観論は否定すべきである。吾等、草莽が『日本及び日本的なるもの』を『肯定』し、自信と確信を持って日々『一日一動』の精神で活動を効果的に継続していれば、『天』は、そして畏くも『皇祖皇宗』『英霊』の御霊は、吾等愚鈍無力の草莽に持てる力量に数千、数万倍もの民族再興力を付与して下さるのだ。其れは希望、願望、想像、思込み等では無い。現実の日本社会に於る眼前の事実を歴史眼的且つ率直にに直視すれば、即座に認識出来るのである。
葉月十五日、売国奴コイズミは『靖国神社』に参拝しなかった。だが、二十万人ー其れも若者が多かったとかーもの『くにたみ』が、思いに多少の違いが有っても、参拝して英霊に感謝の念を捧げ、其の御霊と交わり、参拝者同士でも同胞としての共感の美酒に酔いしれた。『日本民族』は、完全な形では無いものの、確実に、着実に、其れでいて急速に復活、復興の大道を突進し始めているのである。

(『八月十四日』への回帰)

『民族再興』の動向が顕著に成りつつある現況の下で、「普通の国」『独立国家』『皇国再興』を目指す社会的潮流は、今や我国最大の政治的、文化的傾向と成っている。だからこそ、中共、韓国、北鮮等の反日国家は、国家ぐるみで遮二無二「反日」攻撃を掛け、『日本の復活、復興』を阻止、妨害せんと悪辣且つ露骨なる謀略を国内外で大々的且つ執拗に展開している。其の結果、事実として「日本」での各種「世論調査」では、「首相は靖国神社参拝すべきではない」が『すべき』を上回る迄に変化する程の効果を上げている。此れは、六十年間にも亙る「反日洗脳」を効果的に悪用した反日諸国の一時的、部分的勝利ではある。ならば、何故に斯の如き醜態が「この国」ー敢て『我国』とは呼ばぬーで出態したのか。其れは、単に我『日本』への妨害、攻撃勢力の執拗、巧妙さ故のみならず、愛国・自尊勢力自体が孤立、乱立、分断され、統一した論理や歴史観が確立処か、認識されていない点に起因している。六十年間も弾圧、圧殺、黙殺、無視され続けていた『日本』を、「日本人」自身が知らないのである。「GHQ反日体制」の下で、『日本』処か『独立国』の常識さえ奪われてきた「日本人」にとって、歴史的事実や価値判断の最低統一基準が何か、認識されていないのだ。
だが、其の基準は深く考える必要が無い程に単純且つ明快なものである。即ち『日本』が独立国『日本』であり、二千六百年の道統を殆どの国民が共感、共有し、麗しき暖かき『日本民族共同体』が現存していた時期の一般的な価値判断基準こそ、占領軍や反日外国の手先共に汚染、汚濁される前の、清澄、神聖なる『日本』の意識、常識、良識、民族法なのである。従って、吾等の意識が『昭和二十年八月十四日』時点での、意識に復活、昂揚された時、現下エセ「日本」社会に於る反日諸国の「内政干渉」等々、諸矛盾の大半は自然消滅、解決するのだ。八月十五日以降、当面の権力交替を予測した時局便乗組や責任転嫁組、混乱の中での利権、利得獲得組、等々が醜悪な反民族的妄動を開始した。たった一日前の『十四日』までは『一億玉砕』の国史上最高度に純化、昂揚した『民族精神』が実在していたにも拘わらず、である。
『八月十五日』は無論重視すべきだが、現在吾等が、日本国民に意識覚醒すべきは、『八月十四日迄』の純粋、無垢な『日本精神』なのである。
其の際、当然『終戦』の御詔勅との整合性が問題になる。
『終戦』の御詔勅は、国際法違反の残虐非道な日本民族絶滅攻撃から、大日本帝国の『國體・皇道』と臣民ー無論『半島』『臺湾』を含むーの生命、財産を救済する為の『緊急避難』的御聖慮の顕現であり、其れ故に、御『詔書』には『開戦』の御詔勅を否定する文言は存在しない。つまり、『開戦』『終戦』の大詔を拝すれば、共に、其の本質には『國體護持』『愛国・自尊』『自存・自衛』『八紘一宇』といった『民族法』の大原則が厳然と闡明されているのである。無論、『承詔必勤』は、聖徳太子の『十七条の憲法』以来、我臣民の遵守すべき責務であり、『終戦』の詔にも従わねばならない。だが、無差別爆撃、原爆大虐殺等々、国際法違反を繰返す暴虐にして残忍、卑劣な連合国の日本民族皆殺し犯罪に対して、『終戦』の詔は、飽くまでも『緊急避難』的に軍事的、政治的な『御聖断』として下されたものであって、其処には『大東亜聖戦』の意義、並びに『日本民族』の大義を否定する文言や意図は一切存在しないのである。従って『終戦』の御詔勅を承る事は、『開戦』の其れを奉じるのと同義であるのだ。 然し、八月十五日以降、敵国たる連合国が我国を占領し、我国民に強要した「GHQ反日体制」と、其れに便乗した国内の民族買弁反日売国勢力は、絶対的な権力で、祖国『日本』を支配した。そして、歴史の真実を圧殺し、歪曲、捏造、創作した諸々の「反日神話」に拠る「反日洗脳」を学校教育、検閲統制マス・メディアを総動員して温厚な我国民に押付けた。其の結果、今や国民の大半は「日本加害者説」「日本性悪論」「国家・国民否定論」「国史・伝統破壊」「御皇室軽視」といった発想を意識の根底に定着させられてしまっている。
だが、『靖国神社』参拝『二十万人』の事実は、潜在意識、深層心理に現存する『民族精神(やまとごころ)』の実在と復活を物語って居る。但し、其等の心理を自覚、覚醒させるには、未だ長大な距離が存在する事を認識せざるを得ない。今後共、『日本』がより完全な『日本』であった頃、即ち『八月十四日迄の日本』の良さ美しさを国民大衆に啓蒙、啓発、教導しようではないか。

(『日本』さえ有れば何もいらない)

世界に冠たる我豊饒の國土に大地自然と一体となり、共存共生して居れば、特に生活に不自由を感じる事は無い。
國土の大半を占める山野は林産資源、山菜、山果をもたらし、沃野を覆い尽くす田畑は主食、副食の源泉たるのみならず自然環境を守る偉大な役割を担って居る。國土の周辺の海洋は世界有数の水産物を国民に提供する。
此の世界一豊饒の自然環境に生活する限り、原則として『自給自足』が可能であり、事実江戸時代は『鎖国』で二百年以上も調和安定した豊かな農耕社会が営まれて居た。其処には、鎮守の社を中心にした地縁、血縁に基づく地域共同体が、強固に然も郷土愛と相互扶助の精神生活の中で安心、安定して存在して居た。江戸時代を「暗黒時代」に歪曲した反日派の『階級闘争史観』は、事実に全く反する。恰も所謂「戦前」を「暗黒社会」と決めつける手口と同様の詐術である。
現在の欧米で「理想」とされる所謂『循環型社会』は、江戸時代の我が国では目前で日夜繰り広げられる日常生活そのものであった。
此の『日本』さえあれば、そして、其の『日本』の中で『知足』ー足るを知るーの心掛けさえ抱いて居れば、吾等日本人は、人生を心楽しく快適に、四季折々の変化を賞でつつ豊かに過ごせたのである。
然し、幕末維新以来、欧米物質文明の侵攻で我が国は『和魂洋才』を目指しつつも、「文明開化」を採用して欧化するに至り、資本主義化の害毒が都市中心に拡大した。
更に所謂「戦後社会」が、我が国の米国化を強要、強制する中で、自然環境、社会環境の何れもが、汚染、汚濁、破壊されつつあり、第一次産業(農林・水産・牧畜業)の就業者は既に一割を切ってしまった。然も其の大半は高齢者であって若年後継者は枯渇している。「産業別人口構成」で見る限り、『日本民族』は死滅寸前にある。
だが、心配は要らない。我國史を紐解く時、「国難」に対しては、日頃温厚な『日本民族』の中に必ず其れに立向かい克服する人物や人間集団が輩出する。民族的危機に際しては、『やむにやまれぬ やまとだましひ』故に、必ず祖国『日本』の何処かで誰かが立ち上がるのである。此処数十年、日本社会が「都市型」に変化したからと言って、『農本主義』的発想や『自然志向、嗜好』を否定している訳でもない。吾人等が、『民族の尖衛』として、大地自然を含めた『日本』の為に此れからも戦い続けている限り、必ず開眼、覚醒するに違いない。民族の為の戦いを忘れ、或は放棄した時、其の民族は滅亡するのである。
 「GHQ反日体制」の下で『日本民族』的価値観が圧殺され、コイズミの様に「権力」に固執する者、堀江某の様に「金」の亡者となる者、河野某の如き外国の手先となって高い「地位」を得る者、池田某の様に外国に金をバラ撒いて偽りの「栄誉」を買う者等々、醜悪な「反日分子」が汚れた社会の表面を這いずり回って居る。だが、吾人等は、其等の汚濁に充ちた「権力」「金」「地位」「栄誉」等は不要である。唯、『日本及び日本的なるもの』さえあれば、其の中で安寧、充足の生活を送り、『日本民族悠久の大義』の下に永遠の生命を得る事が出来るのである。其の『大義』を護持し奉る為に『やむにやまれぬやまとだましひ』を燃やし続けるのだ。