第149号  皇紀二千六百六十六年(平成18年) 皐月(5月)     TOPへ戻る

『共生.調和主義』の勧め                         

−共存・共生・調和の人聞社会を確立せよ−l


〈ウソで固めた所謂「戦後民主主義」)

所謂「進歩的文化人」が「GHQ反日支配 体制」の下で理念的拠点とした砦の一ったる 「岩波書庖」が出版した「広辞苑」第一版i 昭和三十年刊行iに依れば、「民主主義」と は、「主権が人民に属し人民によって人民の ために政治を行う立場。(中略)その根本思 想は多数者の意志の尊重。(後略〉」とある。
所詮「民主主義」なる宣伝用語は、百の国家 があれば、百通りの解釈が存在する「ぬえ」 的理念であって、定義が甚だ不明瞭である為 に・、理論的には、肯定も否定もしにくい怪物 なのである。取敢えず米軍直接占領解除後三 年を経て刊行された米軍占領政策の悪臭漂う 「広辞苑」の解釈を前提に論を進めよう。
「主権が人民に属し」の愚論は、従来から指摘している様に子供編しの低劣な定義である。即ち、「主権」とは「国家」の三要素のー一つであり、他の「国民」「領土」と謂った形而下的要素とは異質の形而上的概念である。其は、国民個人に対して死刑を執行する権限を有し、国際社会では宣戦を布告する権能を保有する「国家」の「最高権力」である。其の「最高権力」を「人民」が保有しているのであれば、「人民」は気に入らない隣人を処刑する事が可能と成り、不愉快な外国に宣戦布告を行う事が許容される事態が発生する。其の様な有り得ない事態を前提にした所謂
一転緩長主主義」とほ詐夢断、圧心廷でしかなレc 尤も、其の発想を合理化する事も一部可能で はある。岩波謂う処の「人民」の解釈である。 問題は、此の「人民」が「個人」なのか「全体」なのか、「日本語」の暖昧性から幾つかの解釈が分かれるが、此の問題に関しては、「占領基本法i所謂(日本国憲法〉i」 る「国民主権ハ主権在民〉」の主権文言への 解釈が大いに参考になるであろう。
自称「日本国憲法」では、「主権」なる文 言は、二ケ所しか出て来ない。まず「前文」 で「主権が国民に存在し」とあり、第一条で 「主権の存する国民の総意」と表記されてい る。広辞苑の「人民」と同様に此の「国民」 の単複は暖昧不明である。 無論、佐々木博士 等の「京都学派」は「国民の総意」即ち「国 民全体」「人民全体」と把えているが、小森 先生のご高話では、此の立場は現在少数であ り、大部分の憲法学者が「主権」は「国民個 人」にあると解釈していると謂う。事実、選 挙の度に「児眠党」から「狂産党」迄、総て の政党が、「有権者の皆様一人々々が主権者 です」等と煽てて「清き〈愚劣な〉一票」を 編し取ろうと議いている。他者への処刑権限 や他国への宣戦布告の権能が無い「国民個人」に対して、恰も其れを保有しているかの心象を付与するのは、ペテンであり、洗脳であって、所謂「戦後民主主義政治」の実態は、ぺテン政治に過ぎないのである。『主権』或は其れに類する権力、権限は「国家」が保有する概念である。
無論、筆者等の「個人主権保有否定論」に対して「国民主権分有論」即ち「一つの国家主権を国民個人一人々々が分有している」との発想も有る。だが、「主権」とは国家の「最高権力」であり、「最高性」とは「唯一性」を前提にする以上、「分有」すれば「唯一性」が消去され、「唯一性」が無く成れば、同時に「最高性」が消滅し、「最高性」が無
く成れば、其は既に「主権」では無くなっているのだ。量の変化が質の変質を粛す事は往々にしてある。つまり、主権の分有は論理的於に成立し得ない蒙昧な屈理屈に過ぎないのである。


〈「民主教」に依る洗脳支配〉

 広辞苑に拠れば、「民主主義」とは「多数 者の意志の尊重」とも表記されている。成らば、多数者が民主主義を否定した場合、「民 主主義が民主的に排除される」場合が有り得 るのではないか。此の疑念は、筆者の専売特 許では無く、既に三十年以上以前「岩波新書」 で某教授が指摘していた矛盾である。同教授 は暖昧な弁明の後、「其れでも私は民主主義 を採る」旨の主張を行っていた。同様な意見 は五月二十七日付産経新聞「正論」欄で拓殖 大学の森本教授が述べている。日く「民主主 義は最善の統治制度ではない。民主主義は非 能率で腐敗しやすく、無責任で特定の利益に 服従するなど衆愚政治の体質を持つ。」と指 摘しながらも、「にもかかわらず、民主主義 に代わりうる望ましい統治制度はない。」と 断言している。「非能率」「腐敗」「無責任」 「衆愚」である成らば、当然次善三善のより 良い政治制度を選択、模索すべきであろうに、 結局は「民主主義」を最善の「統治制度」として採択、採用すべきと主張し、「民主化」なる社会現象に起因する社会の混乱に関しては、「揺り戻し」「押し付けへの反発」等と、「民主主義」其れ自体に内包する矛盾や誤謬を無視して其の理念の外部に問題発生の原因を転嫁しようとする。
 其れは、科学的論理を超越した「まず、信じる」事から始まる「信仰」であって、「民主教」とも称すべき一種の宗教である。予てから指摘している様に、平成三年「蘇連邦解体」以来、全世界で消滅、変質してしまった「共産党」が、所謂「西側」では日本だけに残存している原因は、同党が政治的理念を共有する「政党」的要素よりも、「日本共産教教団」としての宗教的要素が強いからである。
此等、日本特有の情緒的非論理的l韓国ではより其の傾向が強いがl「政教混交」感覚に 反して、欧米では、より論理的、強圧的に政治体制を規定している。
即ちフランスやイタリアでは、憲法改正を認めてはいるものの、「政体」(共和制度)の変更は禁止している。
つまり、国民の九十九パーセントが「王政」や「帝政」を求めても、革命やクーデターで「共和制憲法」を打倒しない限り、民主主義(共和主義〉的多数意志は実現出来ない此の「絶対民主主義制度」体制は、 曾ての「クリスト教」を凌駕し、或は共存し つつ、欧米諸国を席巻し、実効支配している。
正に一神教たる「民主教」、より正確に述べる成らば、「民主主義」との呪文を唱えれば総てが正当化される「民主呪文教」の横行である。


(衆愚「民主主義」の矛盾と限界〉

 一口に「民主主義」と言っても、其の概念 規定は暖昧模糊として居り、例えば民主主義 の先進国とされる英国では、「民主」の反対 概念たる「君主」(国玉、女王)が現在し、 金日成、金正目、金正哲(?)三代の儲主が 世襲を続ける君主国たる北朝鮮の正式国名は 「朝鮮民主主義人民共和国」である。同様の儲主政治は近世のフィレンツェ共和国でもメ ディツィ家に拠って行われた。中共は「人民 民主主義」を唱え乍ら「文化大革命」等で数 百万人、数千万人の「人民」を虐殺し、「日本」共産党は「民主集中制」「大民主制」を主張し異論を持つ党員を排除した。「アメリカン・デモクラシー」では、リンカーン大統領の時期迄、黒人奴隷が売買され、大正年間に於てさえ日本人移民は港で海に放り込まれていた。スターリンの人民民主政治の下では、数百万人、数千万人の囚人労働力が組織的に生産されlシベリア抑留の関東軍も其の一部分であった!凍土に空しく放置させられて行った。
 「民主主義匡として世界最大¢人口を擁する インド」では、首都でも路傍で半裸の家族が 日昼から屯す自由があり、民主主義の先進国 たるフランスでは前年夏の猛暑で死亡した父 母の遺体三百体が引き取られないままに冷蔵 車に放置された。人権侵害国家として他国を 非難、攻撃する米国こそ、世界最大、最悪の「東京大虐殺」「広島大虐殺」「長崎大虐殺」等々の極悪非道の蛮行を行い、現にイラクで侵略を継続し続けている。本年秋の中間選挙に向けても何らかの選挙目当ての対外強硬政策、謀略が実施されるであろう。
 此等「民主呪文教」に共通する要素は、如 何にして国民を一定の方向へ誘導、洗脳する かであり、其の目標は特定の独裁者や政党、 宗教、階層等の利益、利権、栄誉、身分等の 獲得である。真偽の程は別にして、過日米国 の雑誌が発表した個人資産十位以内にキュー バのカスト口氏が入っていたのを全面否定す る事は出来ない。パレスチナでゲリラを統率 していたヤセル・アラファトの遺産は数百億 円とも数千億円とも言われている。カストロ
もアラファトも「民主主義」を呼号していた。
 倒れるにしても「民主主義」「君主主義」共に「主」〈あるじ)を設定する政体は必然的日社会矛盾を生起する。現在「人主主義」が自然を従者として抑圧、破壊しつつある。其れに対して我国の園韓は『君民一体』『祭政一致』の同化、同和精神を基盤にした極めて高度な感性に起因している。


(「米国型民主主義」の問題点〉

 第一次、第二次世界大戦を経て、何れの大戦にも勝利した米国は、世界最大最強の連邦国家と成り、全世界を牌脱するに至った。対立国たる蘇連邦を「鉄のカーテン」内部に 押込んだ米国は、国家内部で「米国思想」の 純粋化と普及化が図られて行く。即ち「独立品旦二=ロ」や徳目は「ワス。フ」「自由・平等」等の理念 ハ英国系白人新教徒)がに闇明された狂上」し、霊山人キアジア茅には与えられてはレ なかったが、所謂「公民権運動」や「ヴェト ナム戦争」等々を通じて、有色人種や宗教的 少数者にも権利の保障が拡大して行く。 其の様な傾向をエセ日本の自称「人権派」勢 力は肯定的に4評価する。
だが、問題なのは「米国思想」の中身であ る。良好な思想、傾向が普及化して拡大するならば、其は米国にとっても人類にとっても好ましい。然し、「人民の権利」を握った「独立宣言」の文言が一人歩きを始めた結果、無数の「自由と権利の暴走」が始まった。
 性道徳の類廃と堕胎(嬰児殺人)の急増、犯罪の激増と凶悪化、教育の二極分化と学力低下、同性愛、同性婚の容認、麻薬、薬物の 濫用、家族の崩壊と個人の孤立化、共同体の 希薄化と公共意識の低下、等々。
 其の本質は、「社会的動物」たる人聞の否 社会化、つまり「個人」への分断と、人間の 人間たる所以、即ち精神文化を否定する動物 的「本能」の全面的な是認、放任、否人間化 にある。
其の結果として、大衆は礼儀を失い、何時如 何なる時点地点でも平気でだらし無い格好で 居眠りをし、何処でも歩きながら飲食し、ポルノグラフィl、又は其れに近い図画が街に溢れ、街娼と変わらぬ一般女性が公道を闘歩する人間史上異常な社会現象を現出させるに至った。無論、此の低劣且つ否人間的文化、思想たる「米国思想」は、所謂「グロiパライゼlション」の野蛮な荒波に乗って、全世界に押寄せ、現に高度な精神文化を侵食し続けている。
 残念乍ら其の最悪の被影響国が此のエセ「日本」なのである。


(『共調主義』こそ人類と自然を救う)

近現代欧米物質文明の発生、成立、展開は、 人類と自然との分離を質せた。
本来自然から生まれ、自然と共有して来た人 類が、「産業革命」以来人畜の労働力を遥か に凌駕する動力と生産力を獲得し、大地自然 の摂理を無視、侵害して独自の生活様式を確 立するに至り、其が全世界に蔓延した。
自然から事離した生産力は、同時に自然への破壊力である。即ち欧米物質文明の際限なき発展は、大地自然への限りない環境破壊であって、人類が依拠する生活基盤の喪失を意味する。
 現に此処十年余の気象状況を顧みれば、無 数の異常気象が年と共に増大している事実が 認識できる。人類の反自然的生活が自然環境 を破壊、混乱させ、来人類を包容して育ん で来た自然が、人類に凶暴な牙を向けて来たのである。だが、其の原因は、逆に人聞が自然に対して凶暴な破壊行為を加えた結果に他
ならない。人類が動物的本能を最大限に充足 させる為に拡大された生産力が、彪大な反自 然的!悪魔的l物質を量産、散逸、蓄積させ、 所謂「地球温暖化」を基軸とする環境破壊を 定着化させ、人類を滅亡の淵に立たせている。
其の状況を思想的に支えているのが米国型 「民主主義」である。人類の動物的欲求を際 限無く充足させる「自由と権利」を最大限に 許容、容認、推奨するこの「民主主義」に潜 む悪魔的性格、即ち「自己破壊性」は、「民 主教」信者には、容易に認識、理解不能であ ろうが、現実の自然現象を直視すれば、当然 了解可能な筈である。
 北極の雪原が面積を縮め、南極の氷河が大陸に後退し、「キリマンジャロの雪」は過去の物語に変じつつあり、夏の欧州で雪や一賓が降り、冬の日本で桜が咲き、台風やハリケーンが多発する。これら無数の事実から我等人類は、現在の価値観を根本的に変更しなければならない。即ち、本能と欲求の際限なき追求を放棄して、人類全体の欲求を最大限に抑制する価値観に転換する必要があるのである。
そして、其の基本的発想は、自然から生まれた人類が、其の生活環境から反自然的要素を排除して、自然に帰り、自然との共存、共生 し、大地自然と調和した生活様式を確立する 事である。其れは何も困難な試行錯誤を必要 としない。単に「産業革命」よりも前の人聞 社会に回帰すれば良いだけである。
我国の場合、従来から筆者が主張して来た様 に、『江戸時代に帰れ』ば済む事である。日 の出と共に起床し、自然の中で大地や大気に包まれて第一次産業に従事し、豊能の自然に敬意と感謝の念を忘れず、自己の本能を抑制しつつ、高次元の精神文化を心から楽しむ。
物量や本能といった反自然、野蛮な生活から、高度な内面生活を充足させる精神文化的生活へ。其れが人類を破滅から救済する『共存、共生、調和主義』つまり『共調主義』である。