第153号 皇紀二千六百六十六年(平成18年) 長月(9月) TOPへ戻る |
見よ 東海の空明けて 中山 嶺雄 (奉祝 親王殿下御誕晨) ー皇国つねに 栄あれー 平成の御代十八歳陽暦長月六日、有難くも畏くも御皇室に親王殿下が御降誕あらせられた。国民悉く慶賀し、吾等感涙に咽び御皇統の千代に八千代に弥栄ならん事を感謝祈念致した次第である。 想起すれば七十九年前、昭和の御代十二年、元海軍軍楽長『瀬戸口藤吉』翁ー当時七十歳ーが森川幸雄氏の歌詞に作曲した『愛国行進曲』の第三節後半に次の様な部分がある。 『ああ 悠遠の 神代より 轟く歩調 うけつぎて 大行進の 往く彼方 皇国つねに 栄あれ』 『軍艦行進曲』の作曲でも知られている瀬戸口藤吉翁の此の歌謡は全国民の愛唱歌であったが、同時に日本民族の精神と理想、行動規範をも明示している。 昭和十六年以来、栄光と苦難、屈辱を体験し、文字通り「艱難辛苦」に耐えて来た日本民族には、内外の敵から発せられる「民族滅亡謀略・攻撃」を撃攘する根本精神が常に現在しているのである。『天皇即日本』『日本即天皇』と看破した三島由紀夫烈士の指摘を俟つ迄も無く、一見して否定的側面が目立つ昨今の御皇室環境の態様を、より純粋化、清澄化 する契機としても、今回の親王殿下御降誕は、誠に意義深く有難い御慶事である。 (御皇統連綿として万世に至る) ー世界に冠たる要は無し、さあれどもー 『神武天皇』御即位あらせられてより今上 陛下にわたらせられる百二十五代、皇統連綿として維続させられ、正に『世界に冠たる』御皇室ではあるが、本来ならば殊更其れを強調する必要は無かった。何故ならば『天皇(御皇室)』は、我国土自然から自然発生的に出でまされた御存在であらせられ、国土民族と一体不可離の御存在にあらせらる。其の土着的とも表現可能な御存在は、五次元空間としての『日本文化圏』ー三次元空間に時間空間と社会(文化)空間を加味した概念ー独自の存在意義を護持させられたまい、他の文化圏と競い合う必要は無かった。 だが、多くの文化圏が盛衰を重ね、近・現代欧米物質文明が現下世界を席巻し、其の巨大な破壊力(物質生産力)が、我国も含めて全世界人類を滅亡瀬戸際迄追い詰めている現在、豊饒の自然風土から出でまされた御皇室の御存在と其の背景に潜める日本民族精神文化の偉大性、重要性を『世界に冠たる』概念として全世界に強調、喧伝しなければならない。其の意味に於て、『八紘一宇』の『皇道宣布』は、喫緊の課題である。 (邪気を攘い、蛮夷を撃つべし) ー内外の魑魅魍魎、穢奴醜輩を誅滅せよー 全国に遍く慶祝の動向は、全体としては肯定すべきであるが、個々の問題点は山積して居る。「GHQ」以下諸々の反日反動勢力が六十余年に亙って撒き散らして来た社会的毒素は、國内外至る処で、日本人国民大衆の心身を蝕み、多種多様な被害、障害、損害を齎せている。 殊に御皇室に対する尊崇赤誠の念を奪われ、正しい国語能力を付与教育され無かった多くの国民大衆には、情念としての尊皇精神を理念として理解する事が出来ず、其れを正しい国語で表現する事が出来ない。本来、御皇室及び御皇室伝統を護持すべき重責を担う筈の宮内庁高官の中にさえ、「天皇家」なる不敬発言を行う奴輩がいる。政府高官に至っては更に多数の者が其種の不敬発言を繰返す。 本質的に『無私の天皇』に「私」が存る筈が無く、当然、私利私欲から超然とした『天皇』に置かせられては私的な「家」が存る筈も無い。若し敢えて『家』が存るとすれば、其は此の清澄秀麗な我国の国土自然と其処に生きる生きとし生けるもの、そして日本民族総体を包摂する概念としての『家』である。決して、巷間の私利私欲に齷齪する庶民同様の其れでは無い。 此の「天皇家」なる不敬反日言語は、平成改元前後から、国内反日勢力が反日マスコミを通して、『天皇』の権威低下洗脳を目的に国民大衆へ浸透させた不敬不逞語彙の一つである。 皇室典範で「呼称」として義務付けられている『殿下』の尊称を敢えて恣意的に「様」と言換える反日工作も其の一環である。「GHQ」以下の反日勢力に洗脳された愚劣、蒙昧なエセ「日本人」大衆は、社会的地位や立場に拘わらず、『尊皇』理念を教育されなかったが故に、斯る不敬不逞なる言動を排除出来ない。今や義務教育課程の教科書からは『皇統』を表す『皇室系図』が削除され、多くの歴史学者は御皇室の『百二十五代』を疑問視、或は否定するに至って居る。 斯る反日否日非日傾向は、現在に始まった事では無く、遠くは「GHQ」に因って、そして近くは『平成改元』前後から始まる。即ち『天皇(御皇室)』の御存在の何たるかを知らぬ「君側の姦」共が採用した「開かれた皇室」謀略が、無知蒙昧愚劣悪趣味な大衆に迎合して、御皇室の権威と尊厳を貶めて来たのである。 本年、秋篠宮妃殿下御懐妊以来、親王殿下御降誕に至る諸々の報道の殆どを愚生は視聴してはいない。正視正聴に耐えない不敬不逞愚劣醜悪な言動に依る報道が、恰も芸能人の其れの様に垂流され、誠に恐懼の極みであった。本来、権威や尊厳は自然的神秘的なるものから成立する観念である。電車内の吊広告如きに登場する「開かれた皇室」等、我国の『國體』を破壊する最低の姦策であり、『皇道』の何たるかを知らぬ低劣な奴輩の蛮行である。無論、斯る民族存亡の危機に天下回天の大業を果たし得ない吾等『尊皇民族派』の罪は深く万死に値する。我身を百断、千断に切刻んでも其の罪は贖えない。だが、吾等は戦い続けねばならない。『國體』の何たるか、『民族』の精神を発揚、継承するには、浅学非才とは雖も、吾等の実在が必要不可欠なのである。 (皇国再興の曙光、歴然と東天に輝く) ー神州不滅、大義悠久、民族永存ー 六十余年も継続した「GHQ反日体制」の下で、多くの民族的価値が奪われ、忘失されたが、『大東亜戦争』を象徴する二つの民族的価値観が、偽りの「日本」社会で『真正日本』を護り続けた。其の第一は『國體護持』の民族精神であり、其の第二は特別攻撃等に代表される『滅私奉公』の方法論的実践活動にある。 所謂『終戦』が遅延した為に多くの人命が失われたとの子供だましの愚論が横行しているが、其は二重に誤っている。まず指摘すべきは、『國體』とは十億日本民族の有機的精神的生命そのもので有って、若干の同胞の身体的生命よりも遥に価値あるものである。 更に、終戦直前に我同胞が受けた犠牲の大半は、「米英蘇軍」の国際法違反の無差別砲爆撃ー広島・長崎大虐殺等を含むーに依る虐殺の結果発生したものであって、其の責任は総て所謂「連合国」に帰するのである。 多くの犠牲をものともせずに、六十年の風雪に耐え『断乎と守』ー愛国行進曲ーって来た『國體』こそ、現在の皇国再興の基盤であり、先人の痛恨の労苦と努力には、最大限の敬意と感謝の赤誠を捧げずにはいられない。 今や「敗戦後遺症」と「反日洗脳狂育」で日本精神を喪失、忘失させられた一般日本人大衆の中にも、遺伝子的に『日本回帰』の機運、現象が顕著に顕現されつつある。 本年八月十五日、靖国神社には二十五万人もの参拝者が訪れ、中途半端な参拝ではあったが、中共、韓国の脅迫に屈しなかった小泉首相への支持率は事前の予想を超えて高率であった。九月二十六日成立の「安倍内閣」では「拉致担当相」が設置され、東亜反日国家の軍備増強に対しては、より精確な第三の偵察衛星打上げが予定され、「教育基本法改正」も視野に入って来た。 『愛国行進曲』の序章『見よ 東海の空明けて』は、今や現実のものと成りつつある。 愛国画家『横山大観』は、民族的情念から『旭日』と『霊峰富士』を数多く描いたが、今、正に燦然と輝く生命感溢るる旭日と清澄且つ端正な威厳を保つ富嶽の真姿が顕現し、偽りと汚濁の「似非日本」を純化しつつある。六十年間降積もった悪臭を放つ醜悪な汚泥を払い清めるには、長期間の忍耐と努力が必要な事は言う迄も無い。だが、『日本民族』の民族的本能と國史的命脈は、『日本及び日本的なるもの』の復活と再生、再興を目指して突き進んでいる。『日本』が『日本』であった六十一年以上以前を回顧、回帰すれば、吾等『民族派』の主張、提言を受容する迄も無く、自然に『日本』が復活再生するのである。敵は多い、困難も山積している、だが、吾等は確実に勝利しつつある。其の原因は、「反日体制」の下で、『日本及び日本的なるもの』を肯定すると言う当然且つ自然な主張と姿勢を堅持し来ったからに他ならない。然し、油断は禁物である。 吾等、飽迄も『民族の尖衛』に徹して尊皇愛国、自尊自衛の極に立脚して『日本及び日本的なるもの』を否定、攻撃する内外の敵に必死必殺の攻撃、糾弾を継続せん。 『大東亜戦争未だ敗れず』、戦い続ける限り「敗北」は無し。攻撃こそ最大の防禦なり。 同志、同憂各位、東天に曙光燦然と輝き我民族の未来は明るい。民族悠久の大義を確信し、民族永存の希望を抱きつつ『皇道』実践に全力を尽くそうではないか。 |