平成15年度の活動を振り返って
最近「何かおかしい」ことの一つに「共生」「共に生きる」という言葉があります。1年ほど前から急に浮上して来た言葉ですが、「○○○と共に生きる」「男女共生教育」などと、いつの間にかつかわれるようになっているのを目にされた方も多いのではないでしょうか。この言葉から受ける印象は、いかにもいたわり合い助け合って生きることのようで文句のつけようがないのですが、実態はどうも違うようです。
例えば、共生教育と銘うって性教育が行われていますが「いかに自分を大事にするか」という点に主眼がおかれ、たとえその行為に社会的に責任のとれる年齢でなくても、相手や親の意見を聞くよりも「生む生まないは自分で決める権利がある」として自分の意志を通すことが重要だと教えています。 そこには、社会の中で生きていることの自覚も親やその他の人々と共に生きるという姿勢もありません。
また、昨年豊中市で、「男女共同参画社会推進条例」という条例ができました。この条例の名前だけ見ると、男女が共に助け合って生きる社会を想像しますが、じつはそうではなく、男性であれ女性であれ、夫であり、妻であり、父親であり、母親であり家族の一員である前に、その「個人」を尊重するという考え方であふれています。条例の文言の中に繰り返し出てくる「一人一人の」という表現からも読み取ることが出来るわけです。家族や社会と共に生きようとして自己を抑制するよりも、「自分のやりたいようにやれ」ということでしょうか。特に「虐げられ続けてきた女性」として女性を捉え、“男女の区別”の中にひそむ小さな差別さえも許さないとして、自己を侵害するものを告発するシステムも整えてあるという徹底ぶりには驚かされます。
これらのことから「共に生きる」といういかにも耳ざわりのよい言葉の中身は、実は自分の何かを差し出す事もなく「権利」だけを主張ということだとおわかりいただけると思います。このように、教育現場だけでなく、社会に向かってのメッセージにも自分を尊重する「人権意識」が気づかない間に浸透するように、仕組まれているというわけです。
もっと文明が発達していない頃、私達の祖先は身を寄せ合い助け合い、家族や村という共同体や、国家の存続の為には、わが身を犠牲にして時としては闘って連綿と命をつないでくれたはずです。しかしこの時代にいる私達は、ややもすると、誰の助けも受けず何の恩恵も受ける事なく一人で生きてみせているような錯覚に陥ってしまいがちな上に、こうした教育や、行政からの市民への啓発で、家族の一員としての私、クラスの一員としての私、学校の・・・、会社の日本国の・・・、という大事な「公」の意識が益々削ぎ落とされようとしています。
先日、サンケイ新聞に、小六同級生殺害事件について、中学一年生を対象に、事件が起きた原因について複数選択方式でアンケートを実施したところ、四割を超える生徒が「被害女児の性格や態度」を選んだという記事が掲載されました。
その驚くべき結果について、実施した教論は「社会的に認められないとわかっていても『自分的価値観』を侵害されてしまうと『自分的正義感』で暴走してしまう精神構造が子供達に広がっている」と分析していますが、まさにこれが、日本人の未来の姿なのではないかと危惧するしだいです。
共同体の一員であるという意識を培うこともなく、人権意識ばかりの肥大した自己を主張することに重点を置いた教育の成れの果て、といったところでしょうか。
私どもは、教育現場に「公」の視点をとりもどしたいと願い、これからもがんばって生きたいと思います。
平成16年3月31日
教育オンブッド豊中 事務局長 前川栄子