「 歴 史 の 真 実 」


■学習指導要領
 学習指導要領は、社会科および総合的な学習の時間における歴史教育について、次
のように述べている。
 「広い視野に立って社会に対する関心を深め、諸資料に基づいて多面的・多角的に
考察し、わが国の国土と歴史に対する理解と愛情を深め、公民として基礎的教養を培
い・・・」

■東京裁判と戦後日本の歴史教育
@前野徹「戦後・歴史の真実」より
 「東京裁判は俗称で、正式には『極東国際軍事裁判』といい、昭和21年から23
年まで二年間、東京の市ヶ谷陸軍士官学校跡で開かれました。東京で行われたので
『東京裁判』の名がついています。日本の断罪は、昭和6年に勃発した満州事変にさ
かのぼります。満州事変から大東亜戦争(太平洋戦争)にいたる一連の日本の行為を
連合国側は侵略とみなし、占領軍であるマッカーサー司令部が作成した『極東国際軍
事裁判条例(チャーター)』に基づき、戦争犯罪人を起訴しました」

A渡部昇一「新憂国論」より
 「東京裁判というのは、アメリカを中心とする連合国側の戦時プロパガンダ(日本
人は残虐非道で世界で最も悪い民族だ。騙し討ちによってこの戦争の先端を開き、南
京では30万人もの民間人を殺した。だから、日本という国は徹底的にやっつけなけ
ればならない)の延長線上で行われた非合法な裁判でした」
 「その戦勝国側の日本人観、歴史観を、こともあろうに当の日本人の一部が、その
まま受け入れてしまい、学問の世界、マスコミの世界はもとより、教育の場にまで持
ち込んでしまったのです。ですから、そのような観点からして、戦後の教育を受けた
人は、みんな学校で「反日教育」をされたようなものであるということができます。
日本の学校で、日本の子供達が、日本人の先生から『反日教育』をされるという異様
な姿が、ここ半世紀にわたってずっと続いていて、それはさらにエスカレートしそう
な気配なのです」

B前野徹「戦後・歴史の真実」より
 「日本を侵略国と断じた東京裁判の有罪判決で、それまで築き上げられた日本の伝
統文化はことごとく否定されました。日本の歴史はゆがめられ、大東亜戦争(太平洋
戦争)をめぐる真実は封印されました。
 以後、日本人はある種の罪悪感を植え付けられ、多くの日本人が日本の歴史や伝統
文化を東京裁判史観に基づき否定的に眺めるようになりました。自身気づいているか
どうかは別にして、今、多くの日本人たちが自虐史観にさいなまれ、日本民族として
の誇りや思想を失い、日本人としてのアイデンティティを喪失しています」

■歴史の真実・その1「東京裁判を検証する」
@キーナン主席検事(アメリカ)            杉本幹夫「歴史と教育」
第78号
 「東京裁判は公正なものではなかった」

Aウェッブ裁判長(オーストラリア) 杉本幹夫「歴史と教育」
第78号
 「東京裁判は誤りであった」
 「米英とも日本と同じ立場に置かれたら戦争に訴えたであろう」

Bベルナール判事(フランス))
 「東京裁判は法の適用および手続きにおいて誤りがある」 前野徹「戦後・歴史
の真実」

Cローリング判事(オランダ)    前野徹「戦後・歴史
の真実」
東京裁判が行われた当初から意見書を出し、「ドイツのナチスに比して(日本の戦
犯の)刑が重すぎる。減刑せよ」と判決に疑義を投げかけていたオランダのローリン
グ判事は、帰国後78歳で亡くなる8年前に「ザ・トウキョウ・トライアル・アンド
・ビヨンド(東京裁判とその後)」という東京裁判の真相を書き残した本を刊行し
た。
 「東京裁判には法的手続きの不備と、南京大虐殺のような事実誤認があったが、裁
判中は箝口令が敷かれていて言えなかった。」
 「われわれは日本にいる間中、東京や横浜をはじめとする都市に対する爆撃によっ
て市民を大量に焼殺したことが念頭から離れなかった。われわれは戦争法規を擁護す
るために裁判をしているはずだったのに、連合国が戦争法規を徹底的に踏みにじった
ことを毎日見せつけられていたのだから、それはひどいものだった。もちろん、勝者
と敗者を一緒に裁くことは不可能だった。東條(元首相)が東京裁判は勝者による復
讐裁判だといったのは、まさに正しかった」
 「次の戦争では、勝者が戦争を終結した時に新しい法律を作って、敗者がそれを
破ったといって、いくらでも罰することができる悪しき前例を作った」

Dブレイクニー弁護士(アメリカ)の冒頭陳述より        渡部昇一
「新憂国論」
 「戦争での殺人は罪にはならない。戦争は合法的だからだ。たとえ嫌悪すべき行為
でも、犯罪としての責任は問われない。キッド提督の死が真珠湾爆撃による殺人罪に
なるならば、我々は広島に原爆を投下した者の名を挙げることができる。投下を計画
した参謀長の名前も我々は承知している。彼等は殺人罪を意識していたか。してはい
まい。それは戦争自体が犯罪ではないからである」
 ブレイクニー弁護士のこの発言にキーナン検事は沈黙し、検察側は反論しなかっ
た。このくだりは英文の速記録には載っている。だが法廷は日本語の通訳を停止さ
せ、日本人に知らせることをしなかった。東京裁判がいかに公平を欠き、欺瞞に満ち
たものだったかがこの一例からも察せられる。                 
         産経新聞「産経抄」
 「広島と長崎への原爆投下という空前の残虐を犯した国(アメリカ)の人間には、
この法廷の被告(日本)を裁く資格はない」
 「日本は原爆に対し、報復する権利をもつ」      杉本幹夫「歴史と教育」
第78号
 ※原爆投下は、「住民に対する無差別殺戮」を禁じたハーグ陸戦協定(第1回18
99年、第2回1907年)に違反することは明白である。

Eローガン弁護士(アメリカ)の最終弁論より        
         渡部昇一「新憂国論」 「日本は挑発挑戦されて自衛戦に起ったのだ」

Fパール判事(インド)の無罪判決より            前野徹「戦後・歴史の真実」
 「ハル・ノートのようなものを突きつけられれば、モナコやルクセンブルグでもア
メリカに宣戦布告するであろう。日本は無罪である」
 「この裁判は、国際法に違反しているのみか、法治社会の鉄則である法の不遡及ま
で犯し、罪刑法定主義を踏みにじった復讐裁判にすぎない。したがって全員無罪であ
る」
 「この裁判は文明国の法律に含まれる貴い諸原則を完全に無視した不法行為であ
る」
 「日本への同情からではなく、私はあくまでも真実を真実として認め、法の真理に
則って、日本の無罪を主張したのだ」

Gハンキー卿(イギリスの外交官)                 「戦争犯罪の錯誤」
 「パール判事を100%支持する。パリ不戦条約の制定に携わったものとして、同
条約が、『戦争犯罪』の基礎の根拠とされたことには驚きを禁じ得ない」

Hウエスト博士(アメリカ)「昭和44年の東京講演」より     清水馨
八郎「愛国」
 「開戦準備の時間かせぎのため野村大使とハル国務長官との日米交渉をダラダラと
十ヶ月も引き延ばした結果の、11月26日の最後通牒「ハルノート」もしかりであ
る。これは、明らかにアメリカの日本への宣戦布告である。真珠湾は日本が先に手を
出すように誘うだまし討ちで、開戦の責任を日本に押しつける巧妙なワナであった」

I米国上院に於けるマッカーサー証言  小堀桂一郎「東京裁判却下未提出弁護側資料」

STRATEGY AGAINST JAPAN WORLD WAR U

Senator HICKENLOOPER. Question No 5
Isn't your proposal for sea and air blockade of Red China the same
strategy by which Americans achieved victory over the Japanese in the
Pacific?
General MACARTHUR.
Yes,sir. In the Pacific we bypassed them. We closed in. You must
understand that Japan had an enormous population of nearly 80 million
people, crowded into 4 islands. It was about half a farm population. The
other half was engaged in industry.
Potentially the labor pool in Japan, both in quantity and quality, is as
good as anything that I have ever known. Some place down the line they have
discovered what you might call the dignity of labor,that men are happier
when they are working and constructing than when they are idling.
This enormous capacity for work meant that they had to have something to
work on. They built the factories, they had the labor, but they didn't have
the basic materials.
There is practically nothing indigenous to Japan except the silkworm. They
lack cotton, they lack wool, they lack petroleum products, they lack tin,
they lack rubber, they lack a great many other things, all of which was in
the Asiatic basin.
They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12
million people unoccupied in Japan. Their purpose, therefore, in going to
war was largely dictated by security.

邦訳:
 マッカーサー元帥は1951年(昭和26年)五月三日、アメリカ合衆国上院議会
の軍事外交合同委員会において、ヒッケンルーパー上院議員より五番目に次のような
質問を受けた。

 「中共(原文は赤化支那)に対し海と空とから封鎖してしまえという貴官の提案
は、アメリカが太平洋において日本に対する勝利を収めた際のそれと同じ戦略なので
はありませんか」
 「その通りです。太平洋においてわれわれは彼らを迂回しました。我々は包囲した
のです。日本は八千万に近い厖大な人口を抱え、それが四つの島の中にひしめいてい
るのだということを理解していただかなくてはなりません。その半分近くが農業人口
で、あとの半分が工業生産に従事していました。潜在的に、日本の擁する労働力は量
的にも質的にも、私がこれまでに接したいずれにも劣らぬ優秀なものです。歴史上の
どの時点においてか、日本の労働者は、人間は怠けているときよりも、働き、生産し
ているときの方がより幸福なのだということ、つまり労働の尊厳と呼んでもよいよう
なものを発見していたのです。これほど巨大な労働能力を持っているということは、
彼らには何か働くための材料が必要だということを意味します。彼らは工場を建設
し、労働力を有していました。しかし彼らは手を加えるべき原料を得ることができま
せんでした。日本は絹産業(原語はsilkwormとなってカイコの意。silkworkの間違い
か?)以外には固有の産業はほとんど何もないのです。彼らは綿がない、羊毛がな
い、石油の産出がない、錫がない、ゴムがない、その他実に多くの原料が欠如してい
る。そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在していたのです。もしこれらの
原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうこ
とを彼らは恐れていました。したがって、彼ら(日本)が戦争に飛び込んでいった動
機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです」

■歴史の真実・その2「戦後日本の歴史教育を検証する」
                           前野徹「戦後・歴史の真実」より
 「東京裁判の過ちを認めたのは、ローリング判事だけではありません。ローリング
から『とうてい役不足』と酷評されたウェッブ裁判長も、東京裁判の主席検事で米国
の代表者キーナン検事も、後に東京裁判は国際法に準拠しない違法裁判であることを
認める発言を行っており、現在、東京裁判の正当性を信じている法律家は皆無といっ
ていいほどです。
 東京裁判を画策した張本人のマッカーサー元帥でさえ、昭和25年10月15日、
ウェーキー島でトルーマン大統領と会見した際、東京裁判は誤りだったとの趣旨の告
白を行ったばかりか、翌年5月3日に開かれたアメリカ上院の軍事外交合同委員会の
聴聞会においても、『日本が第二次世界大戦に突入していった理由の大半は、安全保
障だった』と明言しています。GHQでマッカーサーの側近であったホイットニー少
将の回想録にも、マッカーサーの次のような発言が出てきます。『敗戦国の政治指導
者を犯罪人としたことは忌まわしい出来事だった』と」
 「国際法の常識では、占領軍は占領地の国内法を尊重しなければならないとなって
います。この基本的な決めごとすら無視して、東京裁判は行われたのですから、東京
裁判に関わった当事者たちが非を認めても当然です。
 なのに、ひとり日本人のみが、東京裁判から50年以上たった今でも、その正当性
を疑おうともせず、東京裁判史観に呪縛され続けている。これはいったいどうしたこ
とでしょう。
 当時、欧米など世界の法学者の間では、すでに東京・ニュルンベルク両軍事裁判の
是非について激しい論争が展開されていました。そして、多くの学者たちが東京裁判
の正当性に疑問を呈し、裁判に対する反省を口にしていました。欧米のマスコミもさ
かんにこのニュースを流し、ロンドン・タイムスは二ヶ月間にわたって論争を連載、
多くの書籍も出版されたほどです。ところが、被害国であるはずの当の日本は、議論
に参加しないばかりか、マスコミも国民もこの重大な国際問題に無関心でした。
 『同胞たちが、牢獄で苦しんでいるというのに、議論にソッポを向き、国際正義を
勝ち取ろうともしないのはどうしたことか』と(パール)博士は、日本人のふがいな
さ、無関心、勉強不足にいたく失望し、憤慨すらされていたというのです。
 裁いた連合国ですら東京裁判の違法性が議論されたのに、なぜ日本では世論が盛り
上がらなかったのか。後で述べるように、@最大の原因は、占領軍による戦後のプロ
パガンダが成功していたためです。そのため、本当に日本に侵略意図があったのか、
戦犯に法的根拠があるのかなどの本質にふれることなく、日本人は東京裁判史観を受
け入れていきました。
 本来、問題を指摘すべき、当時の日本の有識者や法律家、それを伝えるべきジャー
ナリストは、あえて東京裁判から目を背け、歴史の真実を解き明かそうとせず、アメ
リカのご機嫌をうかがってばかりいました。
 それだけならまだしも、外務省は、英文パンフレットまでつくって、東京裁判に対
する御礼を出していたのですからあきれます。当時は、アメリカの影響力が大きく、
『アメリカが風邪を引けば、くしゃみをする』といわれた時代です。独立を果たした
とはいえ、まだ日本はアメリカの庇護がなければ、経済的にも、国際政治の場でも、
力を持ち得ませんでした。
 しかし、そんな状況下でも、日本の国益を考えれば、間違いは間違いとして正し、
将来への禍根は断ち切っておくべきでした。ここで道を誤ったために、『長いものに
は巻かれろ』『ことなかれ主義』という戦後の悪しき習慣が日本国民に浸透していっ
たといっても過言ではありません」

@「最大の原因は、占領軍による戦後のプロパガンダが成功していたためです」につ
いて

 アメリカの日本占領政策・戦争贖罪宣伝計画  
                           渡部昇一「国益の立場から」より
 「アメリカ国務省は、終戦前の一九四三年に、すでに「平和と戦争」というタイト
ルの、アメリカ側から見た「太平洋戦争史」を編纂していて、戦後に日本を占領する
や否や、文部省にこの「平和と戦争」を教材として「利用セラルベキ」と命じまし
た。この「平和と戦争」はアメリカ国務省がアメリカの戦争目的を正当化するための
宣伝文書、つまり戦時プロパガンダなのです。その中には、第二次世界大戦は「日独
伊ファシズム対英米ソ民主主義」の戦いであり、邪悪なファシズムが負けて民主主義
が勝ったということが、懇切丁寧に書かれていました。そのアメリカ産の「太平洋戦
争史」が、日本の戦後教育の中に持ち込まれたわけです。
 このとき日本側があくまで抵抗すれば、けっしていまのように「太平洋戦争」史観
が定着することはなかったはずです。が、当時のA学校の先生たちの多くは、それを
積極的に受け入れました。なぜそのようなことになったのかというと、アメリカ陸軍
情報部は、まず最初に日本においてはどのような人物が、占領軍に協力的であるかと
いうことを調査していたのです。そして、日本の歴史教育を根本的に転換するために
利用できる団体として、マルクス主義者の多い「歴史学研究会」をとくに重視すると
いうように、綿密にこの歴史観が日本に受け入れられるように準備をしたのです。
 戦後の歴史教育に指導的な役割を果たした「歴史教育者協議会」の初代委員長は、
この「歴史学研究会」から出ています。戦後の教科書を執筆した人の多くも「歴史学
研究会」のメンバーでした。「歴史学研究会」は、Bアメリカから強要された「太平
洋戦争」史観を、マルクス主義的に再編することによって自己納得し、戦後の歴史教
育の主流となったといっていいでしょう」

A「学校の先生たちの多くは、それを積極的に受け入れました」について

 先生のプリントをゴミ箱に捨てたN君   自営業・佐藤 修(東京都・33歳)
                  「正論」平成十三年十一月号の「読者の指定席」より
 「お盆に帰省し、久しぶりに高校時代の友達と会った。同級生だったN君の話題を
するうち私は高校時代のある場面がふと浮かんだ。
 それは高校の現代社会の授業でのこと、先生が資料としてプリントを配布した。内
容は旧日本軍の中国での残虐ぶりを示すもので、現在では作り話であることが分かっ
ている百人斬り競争や、軍刀を振り上げて首を切ろうとする写真があった。先生はそ
のプリントをもとに授業を進め、旧日本軍がいかに非道な行為を行ったかを熱心に教
えた。単純な私は何の疑いをもつこともなく、先生の言われるがままに旧日本軍の残
虐性を信じ、著しく憤慨したものだ。
 ところが驚いたのはN君の行動。授業が終わり先生が教室からいなくなるとサッサ
とプリントを手で丸め、「あの先生、日教組だもんなぁ」といいつつゴミ箱に捨てて
しまった。当時の私は日教組がどういう組織であるかも知らず、その言葉の意味する
ところが分からずに、その行為にあ然としたわけだが、今思えばN君はすべて見抜い
ていたということだろう。
 高校時代、成績抜群だったN君。卒業後は大学に進み、現在ではいわゆる”キャリ
ア”として中央省庁で働いているということだ」

B「アメリカから強要された『太平洋戦争』史観」について、次の言葉は示唆に富む
ミラン・フューブル
 「ある国民を消すには、その国民の記憶を消し去ることから始める。まず、その国
民の本を焚書に付して、その国民の文化を破壊し、その国民の歴史を破壊する。そし
てそれから他人が、その国民用に別の本を書いて、もう一つの文化を与え、もう一つ
の歴史をでっちあげる。そうするとその国民は、自分たちが何であり、何であったの
か、ゆっくりと忘れ始める」

アーノルド・トインビー
 「その国の歴史、伝統、慣習を否定する民族はかならず滅ぶ」

李鵬・元中国首相
 1995年豪州を訪問した折りハワード首相との会談で日本のことが話題になった
とき、
 「日本などという国は、二十年か三十年もすれば、この地球上から消えてなくなっ
ている」
と発言。李鵬元首相の予言が正しければ、2015年乃至2025年には日本はどこ
かの国の属国となっていることだろう。

■歴史の真実・そのB「中国との戦争を検証する」
@1935年(昭和10年)コミンテルン大会におけるスターリン演説「歴史と教育」
第78号
 「ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならな
い。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせ
よ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前にはアメリカを参戦させて立ちはだから
せよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと日本が荒らし回った地域、つまり
日・独砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日・独をそっくり共産陣営に頂くのだ」

A1937年(昭和12年)のコミンテルン指令   「歴史と教育」
第78号
 「あくまで局地解決を避け日中全面衝突に導かねばならない。右目的貫徹のため、
あらゆる手段を利用すべく、局地解決や日本への譲歩によって中国を裏切る要人は抹
殺しても良い」

B毛沢東    西尾幹二「国民の歴史」/「正論」平成十四年九月号
 1964年(昭和三十九年)、日本社会党の佐々木更三委員長が訪中し、日本の中
国への侵略戦争の「過去」について「謝罪」表明をしたとき、毛沢東は次のように
語った。
「何も謝ることはない。日本の軍国主義は中国に大きな利益をもたらした。お陰で中
国人民は権力を奪うことができた。日本の皇軍なしには、我々は蒋介石の国民軍から
権力を奪取することは不可能だった」(東京大学近代中国史研究会訳『毛沢東思想万
歳』より)

Cトウ・小平          清水馨八郎「破約の世界史」/「正論」平成十四年九月号
昭和五十二年、三橋健次郎元陸将との会談で、当時中国の国家主席だったトウ・小
平は次のように答えた。
「日本は中国を助けたことになっている。日本が蒋介石を重慶まで押し下げてくれた
ので、われわれは日本軍の占領地域の後方に広がり、八年間の間に八路軍は120万
に増え、さらに数百万の民兵を作ることが出来た。日本の皇軍のおかげで蒋介石の力
を弱め、台湾に追い払うことができたのです。皆さんだけを責めるのは不公平だと思
う」

D孫文(中国革命の父)         「新しい歴史教科書」
 「日本がロシアに勝った結果、アジア民族が独立に対する大いなる希望を抱くに
至ったのである」

E鄭春河(台湾の元日本軍人)              清水馨八郎「愛国」
 「日本以外のアジア諸国の民は皆知っている。日露戦争がアジア解放の出発点であ
り、大東亜戦争がその完結であることを」

■歴史の真実・そのC「日本の朝鮮統治を検証する」
@呉善花・国際大学グローバルコミュニケーションセンター主任研究員 「韓国併合
への道」
 「戦後の韓国で徹底的になされてきたことは、『日帝三十六年』の支配をもたらし
た『加害者』としての日本糾弾以外にはなかったのである」
 「日本人といえば『過去を反省しようとしない人たち』と教えられ、そう思い込み
続けてきた。しかしそれはどうやら、韓国人のほうにあてはまる言葉だと知ったの
は、日本に来てから数年ほどした頃である」

A金完燮・評論家                    「親日派のための弁明」より
 「韓国で生まれ育った私にはかつて強い反日感情がありました。日本が嫌いで、日
本語をまったく学びませんでしたし、日本語を使う人をみると不愉快になりました」
 「その後、私の対日観は大きく変化していきます。・・・私の日本観において決定
的な方向転換がなされたのは、海外旅行の結果であることはまちがいありません。・
・・私は海外旅行をとおして、国際社会における韓国と日本の位置をより客観的に認
識できるようになり、朝鮮の開国期と日本統治について、一方的に歪曲された歴史認
識から徐々に抜け出し、バランスのとれた認識がもてるようになったのだと思いま
す」
 「反日感情を意図的に作り出すうえで基本となったのが、歪曲された、まちがった
歴史認識です。韓国人は幼いときから、学校や家庭で、あるいは社会を通じて、さま
ざまなやり方で捏造された歴史を学びます。これによって、ごく普通の韓国人は『総
督府時代(日韓併合時代)とは、あらゆる朝鮮人が日本人の奴隷として生き、搾取さ
れて死に、追い出された時代だった』という認識をもつにいたります」
 「いまの私は、韓国人の誤った歴史認識は、なんとしてでも正さなければならない
と考えています。(『親日派のための弁明』の)韓国語版を出版したのち、私は何人
かの韓国人学者から『だれかが、いちどはすべき仕事だ』といわれました。つまり韓
国でもこうした誤った歴史認識を正す作業の必要性は感じているということであり、
しかしそれを表だっては口に出せないということです。韓国の歴史教育の誤りが深刻
なものだという点については、すでに多くの専門家が承知していることですが、彼ら
には勇気がないのでしょう」

B安秉稷・ソウル大教授   「韓国歴史学会創立五十周年記念国際会議」での発表
論文より
 「歴史記述は明暗織り成す歴史の両面性、多面性に留意し均衡感覚を持つべきだ。
日帝治下の韓国人の生活に表れた肯定的な面は無視してはならない」

C李栄勳・ソウル大教授            2004年4月30日付
韓国日報
 「日帝の一方的な収奪の下で植民地朝鮮の民衆は窮乏と暗黒の中でうめいていたと
いうのが(わが国の)伝統的な歴史認識だった。しかし最近、学界の一角でこうした
歴史認識は当時の実情とはほど遠いという主張が出ており、当時、特に経済的に大き
な発展が見られ、その時移植された近代的資本主義の土壌が1960年代以降の飛躍
的経済成長の一つの要因になった」
 「韓国ではいまなお悪名高い日韓併合直後の『土地調査事業』が、実際の史料に接
してみると日本が無知な(朝鮮の)農民から土地を取り上げるためのものだったとい
うのはウソで、農民は歓迎しており、これまで教えられてきた植民地朝鮮のイメージ
は架空の創作と分かった」
 「日本は収奪や略奪ではなく、朝鮮を日本と同じ制度や社会基盤を持った国にして
日本に永久編入するのが目的だった。その結果、日本からの資本の流入、近代的市場
制度の定着、所有権の整備、近代的な企業制度や商業、商取引の安全性を保証する信
託、通信、運輸などが発達した。植民地時代を通じ総額八十憶ドルの資本が流入し、
人口は二倍近くになった。特に1920−30年代の国内総生産(GDP)の成長率
は年平均4%で、これは当時、世界の最高水準だった」

D崔基鎬・加耶大学客員教授                     「日韓併合の真実」
 「わが国の人々の多くは、日本統治が犯罪行為であったごとく力説するが、それは
事実を知らぬ妄説にすぎないと、私は信ずる。あの時代を理性的に振り返ってみれ
ば、いかに日本統治がわが国にとってプラスになったか、日本が真摯に朝鮮半島の近
代化に努力したかを、読みとることができるだろう」
 「日韓併合の収支決算は韓民族にとって、大いなる善であった。他力本願ながら、
日韓併合が韓国民を救済し、韓国に今日の繁栄をもたらした。もし、韓民族が中国の
属国であり続けたとしたら、あるいはロシアの支配下に置かれたとしたら、今日の韓
国の発展はあり得なかった。いまこそ、歴史を再検証すべき時が訪れたのだ」
 「今日、韓国では日本が日韓併合によって、韓国から『七つ』のものを略取したと
いっている。いわゆる『七奪』である。七奪は国王、主権、土地、資源、国語(朝鮮
語)、姓名(創氏改名)、生命を奪われたことをいうが、この主張は正しいだろうか
?現代の韓国歴史書は、朝鮮総督府が『日帝七奪』の先頭に立ったとしている。
 『七奪』の最初に『国王』があげられているが、李氏朝鮮がいかに悪逆な体制で
あったのかという歴史を歪めている。・・・李朝は明を宗主国と仰ぎ、自国をその属
国に変えて、自主独立精神を抹殺し、五世紀以上にわたって同胞をほしいままに搾取
した。・・・
 『七奪』の二番目が『主権』だ。しかし、李氏朝鮮では王による専制独裁が行わ
れ、王が恣意的に生殺与奪の権を行使した。主権といっても、王の邪な統治権しかな
かった。・・・
 三番目が土地を収奪したというが、・・・資本主義体制のもとで日本人は買いたい
土地があっても、所有権が明確でなかったために、困難に直面した。・・・そこで李
朝の土地所有関係を整理、改編する必要に迫られ、統監府は1910年からその基礎
事業に着手した。・・・
 この土地調査事業は公平な税制の確立と社会基盤の整備に大きく貢献した画期的な
事業であったものの、両班や豪族がいっそう大きな土地の所有者となり、無学な農民
たちは土地調査令の恩恵に浴する術を知らなかったために犠牲となった。・・・その
結果、多くの農民が生きる糧を求めて満州の吉林省や沿海州へ流出した。この農民た
ちが後に反日独立運動の中核を構成した。このように農民を無学な状況に放置したの
は518年にわたる李朝の責任であることはいうまでもない。李朝を通じて農民は、
両班による苛斂誅求の対象でしかなかった。・・・
 四番目は資源である。この非難も全く当たっていない。高宗(李朝最後の王)と閔
妃が、ロシア、フランス、アメリカへ鉱山や森林の利権を売って賄賂をふんだんに掠
め取った。・・・日韓併合は日本による壮大な持ち出しであった。日本は朝鮮半島
に、日本本土にないような発電所や重工業を建設した。目を見張るようなインフラス
トラクチュアを整備して韓民族の福祉の向上に大きく貢献した。・・・
 『七奪』の五、六番目に国語と人名があげられている。・・・日韓併合時代は当然
のことに日本がリーダーシップをとっていたから日本語教育に力が注がれた。といっ
て、総督府はハングルを教える教科書も大量に作った。
 人名を奪ったという説も同意できない。・・・当時、創氏改名は各人の自由に委ね
られたが、人口の80%以上が同意した事実がある。日本軍の高級将校であった多く
の韓国人が創氏改名を行わなかった。もし創氏改名が強制されたものであったとした
ら、朝鮮半島出身の高級将校こそ手本を示すためにまず名を改めさせられたはずであ
る。
『七奪』の七番目は生命を奪ったということだが、これも大きな歪曲である。李朝
518年と、朝鮮総督府(日韓併合)時代と、1945年以後の南北(朝鮮)分断時
代の三つの時代を比較すれば、このうち、もっとも人命が尊重されて人口が増えたの
は朝鮮総督府時代であった。この事実は人口統計が証明している。・・・事実は統計
数字に委ねるべきである。」

■歴史の真実・その5「東南アジア諸国およびインドの対日観を検証する」
@プラモート・元タイ首相                   清水馨八郎「愛国」
 「日本のおかげでアジア諸国はすべて独立できた。今日東南アジア諸国民が米英と
対等に話ができるのは誰のおかげだ。それは身を殺して仁をなした日本というお母さ
んがあったためだ。十二月八日(真珠湾攻撃の日)はお母さんが一身を賭して重大な
決意をされた日だ。我々はこの日を永遠に忘れてはならない」

Aアリ・ムルトポ准将       前野徹「戦後・歴史の真実」
 1977年マニラにおける国際会議で韓国代表が日本を強く非難した時、インドネ
シアの大統領内外政治担当特別補佐官兼副長官のアリ・ムルトポ准将が発言を求め
て、次のように述べた。
 「日本はアジアの光である。太平洋戦争はアジアの独立のための戦争であったゆ
え、本来ならアジア人が戦うべきであったのに、日本人が敢然と立ち上がって犠牲に
なったのである」

Bマハティール・元マレーシア首相             清水馨八郎「愛国」
 「日本なかりせば、現代のアジアと世界の諸民族の独立はあり得ない」

Cレイキ博士 (インド法曹界の重鎮)    前野徹「戦後・歴史の真実」
 インド独立五十周年式典における挨拶で日本軍のインパール作戦にふれて、
 「太陽が空を輝かし、月光が天地を潤し、満点に星がまたたく限り、インド国民は
日本の恩義を忘れない」
  ↓       前野徹「第四の国難」
「アジアには、日本を慕い、過去の日本の歴史を冷静沈着に、そして温かく見守っ
てくれる国がある。それはマハティール首相のマレーシアだけではない。
 私はアジア各国を歴訪しているが、2000年、インドを訪れて、かつてないほど
の感銘を受けた。
 昭和天皇が御崩御なされた十三年前、日本国民は三日間、喪に服した。だが、日本
よりはるかに長い間、喪に服した国がある。それがインドである。
 インドでは、全国民が一週間もの間、喪に服し、昭和天皇の死を悼んだ。『我々を
西欧の植民地支配から救ってくれた偉大な指導者の死』にあたって、国をあげて嘆き
悲しみ、その恩に報いようとした。世界で唯一、昭和天皇を心底から国家レベルで
弔った国がインドである。
 インドに日本が供与しているODA(政府開発援助)は、中国へのそれに比べれば
五十分の一にも満たないかもしれない。しかし、インド国民は今だに日本への恩義を
忘れてはいない。私はこの話を今回初めて聞いて感動に胸が打ち震えた。
 翻って日本はどうか。インドの一週間にもわたる国民葬を誰も知らない。新聞も一
行も報道しなかった。本来はトップで大々的に報じるべき出来事だったにもかかわら
ず。日本という国を、それほどまでに大切に感じてくれている国がある」

Dエリック・ホプスバウ(ロンドン大学教授)              「過激な世紀」
 「インドの独立はガンジー、ネルーが率いた国民会議による独立運動ではなく、日
本軍とチャンドラ・ボース率いる(ア)インド国民軍(INA)が協同してインドへ
進攻したインパール作戦によってもたらされた」
(ア)インド国民軍
 「F機関」として知られた日本軍の藤原機関が育成したインド解放軍のこと。イン
ド国民軍の戦友会(INA委員会)は日本に感謝を示すため、九七年、靖国神社に
(イ)感謝状を奉納した。
(イ)感謝状
 「インドが日本のおかげをこうむっていることは、言語に尽くせない大きなものが
あります。偉大な貴国はインドを解放するにあたって、可能な限りの軍事援助を提供
しました。何十万人にものぼる日本軍将兵が、インド国民軍の戦友として共に血と汗
を流してくれました。インド国民軍は日本帝国陸軍がインドの大義のために払った崇
高な犠牲を永久に忘れません。インドの独立は日本帝国陸軍によってもたらされまし
た。ここに日印両国のきずながいっそう強められることを祈念します。
         S・S・ヤダフ・インド国民軍全国委員会事務局長 インド国民軍大尉」

Eラビ・レイ元下院議長    前野徹「戦後・歴史の真実」
 一九九七年八月インド独立五十周年式典における挨拶で、
 「このよき日を祝うにあたって、1905年を忘れることはできない。日本が日露
戦争に勝ったことによって、インド国民が勇気づけられて独立運動に立ち上がった」

Fムスタファー・カミール(エジプト民族運動の指導者)        「新しい歴史教科書」
 「日本人こそは、ヨーロッパに身のほどをわきまえさせてやった唯一の東洋人であ
る」

Gラジャー・ノンティック元上院議員       前野徹「戦後・歴史の真実」
 マレーシア独立の父と言われるノンティック氏は、日本軍のマレー人虐殺を調べに
来た現地日本大使館職員と日本人教師にこう答えた。
 「日本軍はマレー人をひとりも殺していません。日本軍が殺したのは、戦闘で戦っ
たイギリス軍や、それに協力した中国系共産ゲリラだけです。そして日本の将兵も血
を流しました」
 ノンティック氏は、自分たちの歴史・伝統を正しく語り継がない日本人に対して、
一編の詩をメッセージとして残しています。
 「かつて 日本人は 清らかで美しかった
  かつて 日本人は 親切で心豊かだった
  アジアの国の誰にでも 自分のことのように 一生懸命つくしてくれた」

 何千万人もの 人のなかには
  少しは変な人もいたし おこりんぼや わがままな人もいた
  自分の考えをおしつけて いばってばかりいる人だって いなかったわけじゃな


 でも そのころの日本人は
  そんな少しの いやなことや 不愉快を越えて
  おおらかで まじめで 希望に満ちて明るかった
  戦後の日本人は
  自分たち日本人のことを 悪者だと思いこまされた
  学校でも ジャーナリズムも そうだとしか教えなかったから
  自分たちの父母や先輩は
  悪いことばかりした 残酷無情なひどい人たちだったと 思っているようだ

  だから アジアの国に行ったら ひたすら ひたすらペコペコあやまって
  私たちはそんなことはいたしませんと 言えばよいと思っている

  そのくせ 経済力がついてきて 技術が向上してくると
  自分の国や自分までが えらいと思うようになってきて
  うわべや口先では すまなかった悪かったと言いながら
  ひとりよがりの 自分本位の えらそうな態度をする
  そんな いまの日本人が心配だ
  本当に どうなっちまったんだろう
  日本人は そんなはずじゃなかったのに
  本当の日本人を知っているわたしたちは
  今は いつも歯がゆくて くやしい思いがする

  自分のことや 自分の会社の利益ばかりを考えて
  こせこせと 身勝手な行動ばかりしている
  ヒョロヒョロの日本人は これが本当の日本人なのだろうか

  自分たちだけで集まっては
  自分たちだけの楽しみや ぜいたくにふけりながら
  自分がお世話になって住んでいる
  自分の会社が仕事をしている
  その国と 国民のことを さげすんだ眼でみたり バカにしたりする
  こんな人たちと
  本当に仲良くしてゆけるだろうか
  どうして どうして日本人は
  こんなになってしまったんだ
      1989年 クアラルンプールにて」

■歴史の真実・その6「欧米諸国の対日観を検証する」
@アムステルダム市長の「歓迎挨拶」より              清水馨八郎「愛国」
 平成三年、日本の傷痍軍人代表団が大東亜戦争の敵国のオランダを訪問した際、当
時のアムステルダム市長は次のように語った。
 「あなた方日本は先の大戦で負けて勝ち、勝った私どもオランダは大敗した。今日
本は世界一、二位を争う経済大国になった。私たちオランダはその間屈辱の連続、即
ち勝ったはずなのに、世界一の貧乏国になった。戦前にアジアに大きな植民地(イン
ドネシアのこと、当時は「蘭領印度シナ」と言った)があり石油等の資源では本国は
栄耀栄華を極めていた。今は日本の九州と同じ広さの本国だけになった。
 あなた方日本はアジア各地で侵略戦争を起こして申し訳ない、諸民族に大変迷惑を
かけたと自分をさげすみ、ペコペコ謝罪しているが、これは間違いです。あなた方こ
そ自ら血を流して東亜民族を解放し救い出す人類最高の良いことをしたのです。あな
たの国の人々は過去の歴史の真実を目隠しされて今次大戦の目先のことのみ取り上
げ、あるいは洗脳されて悪いことをしたと自分で悪者になっているが、ここで歴史を
振り返って真相を見つめる必要があるでしょう。
 本当は私ども白人が悪いのです。私どもが百年も二百年も前から競って武力で東亜
諸民族を征服し、自分の領土としての、植民地や属領にした。これに対して日本は、
永い間奴隷的に酷使されていた東亜諸民族を解放し、ともに繁栄しようと遠大崇高な
理想をかかげて大東亜共栄圏という旗印で起ち上がったのが、貴国日本だったはずで
しょう。
 すなわち日本軍は戦勝国のすべてを東亜から追放してしまった。その結果アジア諸
民族は各々独立を達成した。日本の功績は偉大であり、血を流して戦ったあなた方こ
そ最高の功労者です。自分をさげすむことを止めて堂々と胸を張って、その誇りを取
り戻すべきです」

Aヘレン・ミアーズ(アメリカ)              「アメリカの鏡・日本」より
 「アメリカは自国から遠く離れたところで物を売ったり、資源を開発する権利を主
張している。そして、自分たちの権益擁護のために必要とみれば、武力まで行使して
いるのに、日本が混迷の未開発地域で同じことをしようとすると、何で邪魔だてする
のか、日本には理解できなかった」
 「アメリカの『存亡にかかわる利益が脅かされた』と判断したら、大統領は世界の
どこであれ、その国あるいは国々を攻撃する権利を持つというのだ。アメリカ大統領
は、アメリカの存亡にかかわる利益とその侵犯者を決める権利を持っているという
が、自国の国益を定義し、それを誰が脅かしているかを決める権利がアメリカにある
なら、日本にも同じ権利があるはずだ」
 「民主主義諸国は自分たちの『利益』が脅かされているとみれば、中国で頻繁に武
力を使った。満州事変における日本の武力行使は、それ以上ではなかった」
 「つい五年ほど前、米英両国の軍隊と砲艦が自国民の生命財産を守るために中国の
『盗賊』を攻撃したとき、両国の世論は中国人を野蛮人と呼んで非難した。・・・と
ころが、日本が同じように中国の『盗賊』を攻撃すると、同じ国民が日本人を野蛮人
と呼ぶのである」

Bアインシュタイン博士     
 「正論」
大正十一年十一月、アインシュタイン博士は彼の全集を世界で初めて出版した改造
社の招きで来日。四十三日間の滞在中、実に十四回も講演を行った。次は、この日本
訪問で万世一系の日本固有文明に感銘を受けたアインシュタインが語った歴史的名言
である。
 「近代日本の発展ほど世界を驚かせたものはない。一系の天皇を戴いていることが
今日の日本をあらしめたのである。私はこのような尊い国が世界の一ヶ所位なくては
ならないと考えていた。世界の未来は進むだけ進み、その間、幾度か争いは繰り返さ
れて、最後の戦いに疲れる時が来る。その時、人類はまことの平和を求めて、世界的
な盟主をあげなければならない。この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、
あらゆる国の歴史を抜き越えた、最も古く、また尊い家柄でなくてはならぬ。世界の
文化はアジアに始まって、アジアに帰る。それはアジアの高峰、日本に立ち戻らねば
ならない。我々は神に感謝する。我々に日本という、尊い国をつくって置いてくれた
ことを・・・・。」

Cアンドレ・マルロー・元フランス文化相         平成十四年九月号「正論」
 「日本は太平洋戦争に敗れはしたが、そのかわりに何ものにもかえ難いものを得
た。それは、世界のどんな国も真似のできない特別攻撃隊である。スターリン主義者
達にせよ、ナチ党員にせよ、けっきょくは権力を手に入れるための行動だった。日本
の特別攻撃隊たちは、ファナティックだったろうか。断じて違う。かれらには、権力
欲とか名誉欲など、かけらもなかった。祖国を憂える尊い情熱があるだけだった。代
償をもとめない純粋な行為、そこには真の偉大さがあり、逆上と紙一重のファナティ
ズムとは根本的に異質である。人間は、いつでも、偉大さへの志向を失ってはならな
いのだ」
       (会報「特攻」第九号。元リヨン大学客員教授・長塚隆二氏との会話より)



「歴史の真実」を学び、「日本人としての誇り」を取り戻そう
          一日会講演資料 平成十六年九月五日
■歴史の真実・その3 「米・ソによる対日謀略」を検証する
I清水馨八郎              「郷守人」第六号(平成十六年六月三十日発行)
 「一九三二年、フランクリン・ルーズベルトが大統領に当選した。彼は叔父の大統
領(セオドア・ルーズベルト)のオレンジ計画を信奉し、日本を極度に嫌い、早くか
ら日本打倒を企画、四期も連続当選して一貫して日本打倒を叫び続けた。
 当時、支那大陸は西洋の列強によって侵略し尽くされ、残っていたのは満州だけで
あった。極東侵略に手遅れていたアメリカは、ライバル日本を打倒し、早くアジアの
覇権を握ろうと焦っていた。そこでルーズベルトは今度はソ連と提携し、支那を扇動
し抗日、侮日運動を支援し、間接的に対日包囲計画を進めていた。そして次の戦争は
日本との戦争になるという確信のもとに対日戦争計画を作成していたのである。
 日米戦争は日本の真珠湾奇襲で始まったのではなく、アメリカの長い対日打倒の侵
略計画の企みがあったからである。前例はパリ講話会議(一九一九年)、ワシントン
会議(一九二一年)、ロンドン会議(一九三○年)、日英同盟破棄(一九二一年)な
どで周到に準備されていたのである。
 アメリカは大正十年に日英同盟の破棄を強硬に迫って、英国を日本から外して、ア
メリカの味方につけた。日本の軍事力を制限するために、ワシントン軍縮会議とロン
ドン会議(昭和四年)で主力艦の日英米比率を三・五・五と決めて、これを強要し
た。日本は不満だったがこの国際法を忠実に守った。米英にとってはこれで日本を戦
争に挑発すれば、その軍事力は三対十で圧倒的に勝利すると企んだのである。
 第一次世界大戦後のパリ講和会議でも日本の人種差別撤廃の提案に対して17対1
1で日本案が通るかに見えたのに、議長のアメリカ大統領ウィルソンは、『この様な
重大な決定は全会一致でなければならぬ』と廃案に追い込んだ。植民地を多く抱える
欧米列強にとっては、人種差別を唱える日本の存在は世界秩序の変更なので、米英に
とっては大変な脅威と映ったのであろう。一方この会議の行方を、固唾を呑んで期待
していた世界の植民地民族は、この白人の横暴に怒りを叫び、有色人種解放者の日本
への信頼と期待を高めたことは言うまでもない。
 早くから日本打倒の侵略戦争を画策していた米ソは、日本と蒋介石の支那軍とを戦
わせ、日本の勢力をとことん大陸内で消耗させた上で、対戦して大勝しようとする漁
夫の利を策していたのである。
 以後の支那事変、大東亜戦争、ソ連参戦などの経過はすべてこの線に沿って進めら
れたものである。
 まずソ連のスターリンは、中共軍をそそのかして?溝橋事変を策謀し、蒋介石軍と
戦わせた。日本はその陰謀を察知して不拡大方針をとった。中共軍は日本がその手に
乗らなかったのをみて、中国在留日本人街を襲って残虐非道なテロ行為を次々に起こ
した。通州事件、済南事件、上海事件などがそれである。
 つまり、テロのモグラ叩きをやって日本軍を中国大陸に無理矢理引っ張り込んで日
支事変を拡大させていったのである。
 一方、米国は援蒋ルートを介して、軍需物資や軍事顧問団を送り、支那事変の拡大
を扇動した。直接的には、フライングタイガースと称する二百六十名のパイロット義
勇軍、実は正規軍を派遣して日中戦争に参加していたのである。この時点でアメリカ
は対日戦に宣戦布告していたのである。
 米国は日米戦争前において、できるだけ日本軍を中国大陸で消耗させて、もういい
だろうと見計らったところで、直接日本挑発に乗り出した。それは昭和十六年春頃で
あった。その前年の秋にルーズベルトは三選し、彼は自信を持って対日挑発戦争の決
意を固めた。
 日本いじめは既に進めていた。日本移民の排斥を更に強化し、日本資産を凍結し、
石油、くず鉄の輸出禁止、ABCDラインの日本経済封鎖を強行した。日本は、たま
りかねて駐米野村大使を介して日米交渉を始めた(昭和十六年二月)。相手のハル国
務長官は、日本側が到底受け入れられない要求を次々と突きつけ、日本側を苛立たせ
た。米側は戦闘準備の時間稼ぎだった。
 遂に十一月二十六日、ハル・ノートが発せられた。それは、『日本の軍隊・警察
を、満州・支那大陸・仏印から全面撤退せよ』『日本は大陸における全ての権益を放
棄せよ』『三国同盟を廃棄せよ』だ。日本よ、日清・日露戦争以前の状態に帰れとい
うもので、ハル・ノートは到底日本が受け入れないことを承知の上で突きつけて来た
のだ。これは明らかに日本に対する強烈な戦争挑発行為だ。この時点でアメリカは早
くも先に対日宣戦布告したことになった。東京裁判の判事インドのパール博士は、
『ハル・ノートのような最後通牒を受ければ、モナコやルクセンブルクのような小国
でも、干戈を執って大国アメリカに立ち向かうであろう』と、日本を窮鼠猫を噛む状
態に故意に陥したのだと断言している。
 以後ルーズベルトは、いかにして日本に先に手を出させるかの、日本奇襲を容易に
するため真珠湾を開けて待っていたのである。アメリカの対日戦争挑発を知っていた
のは、ルーズベルト大統領とハル国務長官、スチムソン陸軍長官、ノックス海軍長官
の四人組だけである。
 ハル・ノートを日本に渡した後、ハル長官は『これで私の手を離れた。後は陸海長
官のお二人の出番ですよ』と語っている。ルーズベルトは選挙公約で、『アメリカが
攻撃を受けた場合の他は、米国民を戦場に送らない』と言った手前、日本軍の奇襲を
誘って、米軍に大量の損害を受けて、国民を怒らせ、開戦を正当化することにした。
 ルーズベルトの謀略を知らずにハワイに向かって発進した連合艦隊の動静は、レー
ダーで全てキャッチされていながら、四人組はハワイの軍司令官キンメル提督には故
意に知らせなかったのである。ハワイの軍港から新鋭空母二隻と新鋭艦十九隻を外海
に待避させて、老朽艦十六隻を並べて日本軍の囮として奇襲を待ったのである。結
果、奇襲は大成功し、米側二千四百名の戦死を出し、パールハーバーを忘れるなの対
日戦に突入することができた。
 この知らせを受けて、最も喜んだのは英国首相のチャーチルであった。すぐ米大統
領に、おめでとうの祝電を発したのである。日本は騙し討ちという騙しに乗せられた
のである。
 アメリカは独立以来、わずか二百年で約二百回も戦争をしている。二十世紀最大の
好戦国家である。地政学上、新大陸の米国に対して、大西洋、太平洋の大海原を越え
てまで侵略を仕掛ける国があろうはずがない。しかし戦争がなければ領土の拡張も、
米国旗の星の数を増やすこともできない。そこで歴代大統領の中には戦争を製造する
という悪魔的な常套手段を弄する人物が出てくることになったのである。それには敵
がやったと見せかけ、自国の軍人や一般市民を多数見殺しにして、その犠牲をテコ
に、国民の敵愾心を一気に沸騰させ、戦争を造るのが一番である。既に歴史的に認知
されている例を挙げると、次の如くである。
 第一例が『リメンバー・アラモの砦』である。一八四五年の対メキシコ戦である。
二百名の米義勇兵を犠牲にして宣戦布告し、テキサス、ニューメキシコ、カリフォル
ニアなど、当時のメキシコの国土の半分を奪い、国旗の星の数を一挙に倍増させた。
 第二例は『リメンバー・メーン号事件』である。自国の軍艦メーン号を爆発させ二
百六十名の犠牲者を出し、これをスペインの仕業と宣伝して米西戦争を造った(一八
九八年)。これによりスペインからキューバ、フィリピン、グアムなどを奪った。
 第三例が『リメンバー・パールハーバー』である(一九四一年)。
 米国の外交文書は、公文書舘で三十年経つと公表される。9・11の同時多発テロ
事件が『リメンバー・ワールドトレードセンター・アンド・ペンタゴン』という同じ
ヤラセのパターンか否かは三十年後の二○三一年九月十一日になれば明らかになるで
あろう。そのとき『歴史は繰り返すもの』ということが実証されよう。最近のアフガ
ン戦争とイラク戦争もその延長の造られた戦争の様相を呈してきている。
 戦後の日本では、大東亜戦争は日本が軍国主義が高まって無謀な戦争を起こしたも
のと洗脳されてしまっている。だから戦争責任を日本側にのみ求めてきた。当時白人
たちの日本打倒の戦争の危機が迫っている国際情勢の中では、軍人がリードする軍事
大国化は避けられなかった。首相が文人の近衛さんであろうと、軍人の東條さんであ
ろうと、日本を侵略戦争に巻き込み亡ぼそうとする米国の意志がある限り、この侵略
戦争を日本は避けることが出来なかったのである。この戦争の責任を自国の中だけに
求める戦後日本の自虐史観がいかに空しいものか知るべきである」


■歴史の真実・その5 「インド・中近東諸国の対日観」を検証する
Iネール首相 インドの元首相                    前野徹「凛の国」
「二十世紀の初め、アジアの精神に大きな影響を及ぼした事件が起こった。それは
ロシアが、日本と戦って負けたことである。あのちっぽけな日本が、ヨーロッパのう
ちでも最大の、最強の国の一つであるロシアを敗ったということは、多くの人々を
びっくりさせた。アジアにとって、これは嬉しい驚きであった。私は、今でも日本の
勝利のニュースが伝えられるたびごとに、どんなに感激したかを、まざまざと覚えて
いる」

Jインドの新聞「サメイ」    平間洋一元防衛大学教授 産経新聞「新地球日本史48」
 「日本が西欧との闘争に勝利したことを誇りに思う。われわれは心から日本人の勇
気と規律、鉄のような意志、不屈の力によって勝利を収めた日本に心から祝意を贈
る。日本だけがアジアの名誉を救った」

R平間洋一 元防衛大学教授   産経新聞平成十六年八月三十一日付「新地球日本
史49」
 「日露戦争が始まると数多くの日本や日露戦争に関する本が出版された。エジプト
ではカーミルの『昇る太陽』が出版されたが、カーミルは、日本のように一致団結す
れば、エジプトも英国から独立を戦いとることができることを教えるためにこの本を
書いたという。
 また国民的詩人、イブラーヒームが『日本の乙女』という詩を作ったが、この詩は
エジプトだけでなく、レバノンの教科書にも掲載された。現在でもインターネットの
日本・アラブ通信に『新アラブ千一夜』として掲載されている。」
 「イラクでは詩人のアツ・ルサーフィーが『対馬沖海戦』を、レバノンでは詩人
アッ・ディーンが『日本人とその恋人』を書いた。アフマド・ファドリーは、桜井忠
温の『肉弾』を一九○九年に翻訳したが、これがアラビア語に翻訳された最初の日本
の本であった。」
 「イランからはタバタバーティーらの立憲派学者が、天皇に電報を打ち、イスラム
社会への支援と保護を求めた。」
 「一九二一年三月にはヘヂアスの王族アルカデリーが、イスラム民族連盟の極東駐
在武官として来日し、イスラム教徒代表者会議で、日本を盟主と仰ぐことが決議され
たと伝えた。」

   産経新聞平成十六年九月二日付「新地球日本史51」
 「米国の黒人たちは、日本の勝利を自分たちの勝利のように誇りに思い歓喜し、日
本が白人優位を覆し、有色人種を解放してくれるであろうと夢想した。特にのちにア
フリカ独立の父といわれたウィリアム・デボイスは、
 『日本がヨーロッパに圧迫されているすべての有色人種を救出してくれる。有色人
種は日本をリーダーとして仰ぎ従うべきである』と主張した。
 黒人の新聞『ニューヨークエイジ』紙は、
 『行け、黄色い小さな男たちよ。天罰を加えるまではその剣を側に置くな。欲望の
固まりのロシアを投げ飛ばせ』との詩を掲載した。」


■歴史の真実・その6 「南米諸国の対日観」を検証する
Hアルゼンチンの新聞「ナシオン」  占部賢志「祖国と青年」平成十六年八月号
 一八七○年創刊のアルゼンチンの代表的新聞ナシオンは、日清戦争に関して次のよ
うに分析している。
 「十倍の人口を持つ国に挑戦するという、これ以上望むべくもない勇猛さと剛胆さ
を体現しているのであるから、我々は清国より日本に共鳴せずにはいられない」
 また、同紙は一九○五年七月五日付の論説「西洋と東洋」の中で日露戦争を取り上
げ、日本についてこう論述している。
 「東洋と西洋の間で今日まで繰り返されてきたすべての紛争において、両者はとも
に各々の優位性を発揮して戦ってきたが、ヨーロッパの優位性に対する東洋の抗戦は
常に敗北に帰してきた。ところがこの度は、交戦国の一方が東洋と西洋の二面性を同
時に備えており、その国が歴史に記録される最も偉大な成功を収めたのである」
 「日本は東洋にあって西洋文明の優れた部分を取り入れ、また他方では自国の伝統
を遵守し、継承している国である」
 「日本はすでに六○四年に憲法が制定されており、その憲法は『和を以て貴しとせ
よ。群卿百寮、礼を以て本とせよ。それ民を治める本なり』と定めている」
 一方ヨーロッパに対しては、
 「ずっと以前から暴力と高慢、無礼が家庭、教会、そして学校で威喝されながら教
育されてきた人間を統治する根源的な手段となってきた」と指摘して、その精神的風
土の際だつ違ひを剔抉(剔って穿り出すこと、悪事などを暴き出すこと)する。
 さらに、日本は聖徳太子によって示された精神が千三百年後の近代日本にまで継承
され、 「現在アジアで憲法を持つ唯一の国である日本は、威喝によってではなく、
道徳によって社会を律し、国家への忠、親への孝、夫婦の和、兄弟の愛が、宗教人と
してではなく、社会人、家庭人としての義務とされている」と洞察する。この一文が
明治二十三年(一八九○)に発布された「教育勅語」を説明したものであることは想
像に難くない。
 七世紀初頭における憲法十七条の制定以来、国是として継承されてきた精神が教育
勅語に具体的に承け継がれてゐる日本にアルゼンチンは深い敬意を覚えた。かうした
認識があったればこそ、次のような記事が書かれたのであらう。
 「大砲の大小、銃の軽重、巡洋艦、魚雷艇、装甲艦の性能のあれこれといった技術
者の間で長談義される問題は、専門家の屁理屈以外の何物でもない。勝利をもたらす
のは爆薬の威力ではなく、人間なのである。日露両国民の精神は十世紀も十五世紀も
かけて形成されてきたのであり、その結果として四五○○万人の日本人が一億三五
○○万人のロシア人を打ち破ったのである」
 日露戦争の意義をこれほど洞察し得た国がアルゼンチン以外にあつただらうか。筆
者は寡聞にして知らない。
 この対日観は、大東亜戦争に敗北した日本に対しても失せることはなかった。敗戦
後の青年期にアルゼンチンに移住した、現地日本語紙「ラプラタ報知」の編集主幹高
木一臣氏の回想談には胸迫るものがる。
 「私は移民した当時貧しかったから、スペイン語を教える学校に行けず、無料の夜
間小学校に通った。・・・歴史の先生は、いつも前回の授業のおさらいのため、生徒
の一人を前に呼んで質問したが、ある日私が呼ばれた。ところが私の名前を呼ばずに
『日出る国の生徒よ、前に出なさい』というのである。そこで私が『先生、そんな呼
び方はやめて下さい。日本は戦争に負けたんです。太陽は落ちたんです』というと、
『君は間違っている。日本が日出る国と言われるのはなぜか。それはアジアの国の中
で最初に西洋文明を取り入れ、五大強国の仲間入りをするとともに、東洋文明と西洋
文明という全く異質の二つの文明を統合して世界文明を作り上げる能力を持っている
ことを示した唯一の国だからだ。戦争に強いなどということは大したことではない。
二つの対立する文明を統合するということこそ大したことなのだ。それは日本人にし
か出来ない。だから君は胸を張って、俺は日出る国の生徒だと云え』というんです。
泣きましたよ。偉い先生がいるもんだと思いました」
 これは赫々たる勝利をおさめた日露戦争期の挿話ではない。敗戦に打ちひしがれた
我が国の青年が異国の地で体験した忘れがたい思ひ出なのである。


■歴史の真実を学び、日本人としての誇りを取り戻そう
C蔡焜燦  台湾の実業家                    「台湾人と日本精神」
 「かつての日本人は立派だった。公職に就く者の心構えは民衆の絶大な信用を集
め、人の生命を預かる者の使命感に人々は崇敬の念を抱いたものである。今一度故き
を温ね日本人が世界に誇った『魂』を学ぶべきであろう。どうぞ心に留めていただき
たい。『日本』はあなた方日本人だけのものではない。我々『元日本人』のものでも
ある。私は台湾にやってくる日本人に説く。『自分の国を愛しなさい』と。自分の国
をも愛せない人が、どうして他人や他の国の人々を愛せるだろうか。自らの祖先を慕
い、親兄弟を愛し、そして、そうした人々が幸せに暮らす祖国を愛してこそ、世界の
人々を愛せるのだ」


D竹本忠雄 フランス文学者                    「日本の精神世界」
 「人間だれしも神聖なるものを持っているのです。大東亜戦争の最中に出撃して
いった神風特別攻撃隊のパイロットをはじめ、二百二十万の英霊となった人々。こう
いう私どものお父さん、兄さんたちは、軍国主義などのために戦いに行ったのではあ
りません。自分が愛する、命を賭しても守りたい同胞、そしてこれと一体化した祖国
を守らんがために出撃して行ったのであります。ここに守るべくしてあったものが神
聖というものです。人間というものは、『神聖なもの』のために死ぬことも出来る。
死んでも守りたい、それが穢されれば、いっそ死を選ぶ、こういったものが神聖とい
うことであります」

B平泉 澄博士 東京帝国大学國史学科教授     「少年日本史」の‘はしがき’から
 「皆さんは日本人だ。皆さんを生んだものは、日本の歴史だ。その顔、その心、そ
の言葉、それは皆幾百年前からの先祖より受け継いだものだ。それを正しく受け継い
だ者が、正しい日本人だ。従って、正しい日本人となる為には日本歴史の真実を知
り、之を受け継がねばならぬ。然るに、不幸にして、戦敗れた後の我が国は、占領軍
の干渉の為に、正しい歴史を教える事が許されなかった。占領は足掛け八年にして解
除せられた。然し歴史の学問は、占領下に大きく曲げられたままに、今日に至ってい
る。・・・
 皆さんよ、人の貴いのは、それが誠実であるからだ。誠実は一切の徳の根本だ。そ
の誠実を守る為には、非常な勇気を必要とするのだ。世の中には、自分の欲の為に、
事実を正しく視る事の出来ない人もあれば、世間の人々を恐れて、正しく事実を述べ
る勇気のない人も多い。今後の日本を担うべき少年の皆さん、皆さんは、何よりも先
ず誠実でなければならぬ。日本の歴史は、さような誠実と勇気の結晶だ。凡そ不誠実
なるもの、卑怯なるものは、歴史の組成に与る事は出来ない。それは非歴史的なるも
の、人体でいえば病菌だ。病菌を自分自身であるかのような錯覚を抱いていてはなら
ぬ」