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教育裁判第1回控訴審
控訴理由書(平成19年8月2日)
 
 
平成19年(ネ)第2856号 損害賠償請求控訴事件 
控 訴 人(被告) 土屋敬之 外3名  
被控訴人(原告) 増田都子   

         控 訴 理 由 書 

平成19年7月2日
東京高等裁判所第7民事部 御中

              控訴人ら訴訟代理人
               弁 護 士 徳永信一

弁 護 士  勝 俣 幸 洋



第1 原判決の根本問題       
   原判決は、本件書籍の記述のうち、11 箇所の表現につて、被控訴人(以下「原告」という)に対する名誉毀損による不法行為を認め、かつ、3箇所について、プライバシー侵害による不法行為を認め、控訴人ら(以下「被告ら」という)らに対し、合計金76万円の慰謝料の支払いを命じたが、その理由をみると、本件事案が有する包蔵する特質ないし本質を見落としているだけでなく、幾つかの大きな矛盾と逸脱を抱えたものである。      
原判決が見落としている本件事案の特質の第1は、本件書籍『こんな偏向教師を許せるか!』が教育を憂える弾劾告発の書であるということである。
本件書籍は「足立十六中事件」と呼ばれる教育現場で発生したある異様な事件(その授業に苦情を呈した女生徒の母親の行為を「密告」「アサハカな思い上がり」などと攻撃するプリントを授業中に配布し、当該女生徒を登校拒否から転校にまで追い込んだ人権侵害事件)をきっかけに明らかになった「紙上討論授業」という生徒達を原告が立つ政治的立場に誘導する原告による教育手法の実態と、その問題性を知りながら、事なかれ主義で放置してきた教育行政の怠慢を広く国民に告発する書であった。
市民団体である東京教育再興ネットワーク代表の石井公一郎による巻頭の「足立十六中事件が問いかけるもの」は本書発刊の背景にあった原告をめぐる問題状況を簡潔に述べている。
                
「『唯我独尊』という言葉があるが、これほどまでに自己を正当化
    する人間を私は見たことがない。己の主義主張や意見を異にする者への執拗なまでの攻撃。その攻撃のなかで被害者の女生徒は学校を去り、加害者の女性教師は平然と授業を続け、二度にわたる東京都教育委員会の処分も“平和教育に対する攻撃”と問題をすりかえる。
     そうしたなかで、『人権』『人格』を守る立場から有志の市民が立ち上がり、『足立十六中の人権侵害を考える会』が結成された。そして本書の著者である古賀俊昭、田代ひろし、土屋たかゆきの三人の都議会議員が、これら良識派市民と連携し、行政の後手後手ともいえる対応を都議会で厳しく追及している。」
   
即ち、原判決は、本件書籍の各表現が、いずれも公務員の職務行為と教育行政の不当を弾劾告発するものであり、民主主義社会において厚く保護されるべき真摯で誠実な意見論評であることを見落としているのである。

原判決が抱える第2の問題は我が国の「公正な論評」の法理に関する適用解釈の誤りである。本書が取り上げているのは公教育の在り方という公共の利害に関する事項であり、そこにある問題の深刻さと異常さを広く公衆に訴えかけるためには、辛辣な非難や誇張的な表現も必要となる。そもそも公共事項については、国民が広く情報を与えられ、自由に批判・討論をし得ることが、国民や社会の利益であることから、公共事項に対する意見ないし論評の自由は民主主義社会に不可欠な表現の自由の根本を構成するものとして手厚く保護されなければならない。
かかる趣旨に出た英米法由来の「公正な論評」、即ち「公共の利害に関する事項又は一般公衆の関心事であるような事項については、なんびとといえども論評の自由を有し、それが公的活動とは無関係な私生活暴露や人身攻撃にわたらず、かつ論評が公正である限りは、いかにその用語や表現が激越・辛辣であろうとも、またその結果として、被論評者が社会から受ける評価で低下することがあっても、論評者は名誉毀損の責任を問われることはない」とする法理は、最高裁判決の採用するところであり、基礎事実の主要部分が真実であれば、論評内容の正当性や合理性は特に問うことなく、人身攻撃に及ぶなど、論評の域を逸脱するものではない限り、免責されるものとされている。ところが後述するように原判決は、論評内容の正当性や合理性を審査し、免責を否定しているのである。原判決の誤りは余りにも明らかである。   
  
第3は、論評の対象となった原告の紙上討論授業の異常さ、そしてそこで使われていた煽情的とも言える激越さと侮蔑的表現を見落としているということである。本件各表現は、原告が授業で用いてきたプリント教材の内容を批判するものであり、被告ら三都議の主導によって漸く都教委が下した処分に対する原告からの激しい反駁に対する再批判という意味において対抗性・応酬性をもっており、その問題性を正しく指摘するには、それ相応の辛辣な非難や誇張表現が必要となる事案である。
確かに、本件書籍中の表現で用いられている「洗脳」「アジテーター」「唯我独尊」「確信犯」といった言葉は、いずれも辛辣であり容赦のないものである。しかし、原告が授業で保護者や生徒に対して用いてきた表現「チクリ」「アサハカな思い上がり」「恥知らず」「ド厚かましい」などの煽情的かつ侮蔑的表現に比べれば随分穏当なものにさえみえてくるのである。原告が授業で用いた表現の異常性を捨象して、本件書籍中の表現が論評の域を逸脱しているとする原判決がバランスを失していることは明らかである。
  
要するに、原判決は、本件書籍が、公共事項である東京都の公教育の在り方に関し、専ら公益を図る目的で公衆に訴える弾劾告発の書であり、本件各表現がいずれも民主主義社会の根幹を担う誠実で真面目な意見論評であることを理解せず、しかも最高裁が採用する「公正な論評」の法理に反して各表現の内容の正当性や合理性を審査し、更には告発の対象となっている原告が授業等で行った非常識かつ侮蔑的な表現とのバランスを全く無視して、恣意的に「論評の域を逸脱している」などの判断を下したものであり、到底肯認できるものではない。

第2 全体的考察 
 1 「公正な論評」の法理  
   「公正な論評」という概念は、英米不法行為法中名誉毀損の体系のなかにおける違法性阻却事由ないし免責事由の一つという地位を持つものである。これを紹介した幾代通教授によれば、「すなわち、それは、公共の利害に関する事項または一般公衆の関心事であるような事項(政治問題、社会問題、学術的労作、文学その他の芸術作品活動、運動競技など)については、なんびとといえども論評の自由を有し、それが公的活動とは無関係な私生活暴露や人身攻撃にわたらず、かつ論評が公正であるかぎりは、いかにその用語や表現が激越であろうとも、またその結果として、被論評者が社会から受ける評価が低下することがあっても、論評者は名誉毀損の責任を問われることはないとする法理である。そして、論評の『公正』とは、その意見が客観的に正当であることは必要ではなく、たとえ客観的にはいかに偏見にみち愚劣なものであっても、論評者自身が善意で正当なりと信ずるところを発表したものであればよいということは、一般に確立されている。もし客観的な正当性が要求されるとするならば、陪審や裁判所がたとえば文学作品の良否を判定するということになるし、政治問題ならば、陪審や裁判所が正しいとする見解(多くは、その時の多数党的見解か、それに近いものとなろう)と異なる見解はすべて名誉毀損だとすることを意味し、現代の民主国家のみとめる言論の自由は根底から否認されるからである。その意味では、まさに、『人は、誤りをおかす権利(right to be wrong)を有する』ということができる」というものである(乙50・平成9年最判解説1169頁参照)。
   これはまた、「偏見を抱く人の批判も特権を与えるのでなければ言論の自由はありえず、正確な表現のためには非難や誇張的な表現も必要であるとの考え方による」とされている(乙49・平成元年最判解説628頁参照)
 2 最高裁判例(我が国における『公正な論評』の法理) 
   最高裁判例も前記「公正な論評」の免責法理を採用している。
   はじめて「公正な論評」に言及したのは、最大判昭和61年6月11日における長島裁判官の補足意見であり、「政治、社会問題等に関する公正な論評(フェア・コメント)として許容される範囲内にある表現行為は、具体的事実の摘示の有無にかかわらず、その用語や表現が激越・辛辣、時には揶揄的から侮辱的に近いものにわたることがあっても、公共の利害に関し公共目的に出るものとして許容されるのが一般である」としている(乙49・630頁)。
最1小判平成元年12月21日は、公立小学校教師に「お粗末教育」「有害無能な教職員」といった非難を浴びせるビラが名誉毀損を構成するかどうかが争われた事案につき、「公共の利害に関する事項について自由に批判、論評を行うことは、もとより表現の自由の行使として尊重されるべきものであり、その対象が公務員の地位における行動である場合には、右批判等により当該公務員の社会的評価が低下することがあっても、その目的が専ら公益を図るものであり、かつ、その前提としている事実が主要な点において真実であるとの証明があったときは、人身攻撃に及ぶなど論評としての域を逸脱したものでない限り、名誉侵害の不法行為の違法性を欠くものというべきである」として「公正な論評」の法理をとることを明らかにした。
続いて最3小判平成9年9月9日は、「ある事実を基礎としての意見ないし論評の表明による名誉毀損にあっては、その行為が公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあった場合に、右意見ないし論評の前提としている事実が重要な部分について真実であることの証明があったときには、人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱したものでない限り、右行為は違法性を欠くものというべきである(最2小昭和62・4・24日民集41巻3号490頁、最1小平成元・12・21民集43巻12号2252頁参照)。そして、仮に右意見ないし論評の前提としている事実が真実であることの証明がないときにも、事実を摘示しての名誉毀損における場合と対比すると、行為者において右事実を真実と信ずるについて相当の理由があれば、その故意又は過失は否定されると解するのが相当である」とした。
最判解説の八木一洋調査官によるとこの基準は、「前提事実に関しては、免責要件として真実性を要求する一方、これに基づく意見ないし論評に関しては、あえてその内容の合理性を要求せず、意見ないし論評としての域を逸脱するものでない限り、不法行為責任の成立を否定し、意見ないし論評の表明の場合について、事実の摘示よりも緩和された要件で免責を認めるもので、我が国における『公正な論評』の法理と呼ばれている」とする(乙50・1158頁)。また、「この点、本件の原判決は、そのいうところの意見言明につき、その基礎を成す事実が真実である場合にも、右事実から当該意見を推論することが不当、不合理といえないときに限り不法行為責任の成立が否定されるとするもので、意見ないし論評の表明についての保護範囲は、従来の判例法理よりも、むしろ狭くなる結果となっている」とのコメントを附し(乙50・1159頁)、更に、次のように敷衍する。「むろん、前提事実から当該意見を形成することが合理的と見得るような場合には、それが意見ないし論評としての域を逸脱したものではないと考えることが多く、その意味で、右逸脱の有無を判断するに当たり意見の合理性をしんしゃくする意義はないとはいえないであろう。しかしながら、それはあくまで、逸脱の有無を判断する上での手法の一つとしての位置づけにおいてであって、合理性を欠く意見は保護の対象から除外されるとすることとの間には、やはり決定的な相違があると考えられる」(乙50・1160頁)。
そして最1小判平成16年7月15日(乙51)は、漫画のカットを転載した行為に対する「ドロボー」という表現による名誉毀損が争われた事案につき、「意見ないし論評については、その内容の正当性や合理性を特に問うことなく、人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱したものでない限り、名誉毀損の不法行為が成立しないものとされているのは、意見ないし論評を表明する自由が民主主義社会に不可欠な表現の自由の根幹を構成するものであることを考慮し、これを手厚く保護する趣旨によるものである」と判示し、意見論評については、その内容の合理性を問うことなく保護の対象とすることを明言したうえで、「法的な見解の正当性それ自体は証明の対象とはなりえないものであるから、裁判所が具体的な紛争の解決のために公権的判断を示すことがあるとしても、法的な見解の表明は事実を摘示するものではなく、意見ないし論評の表明の範ちゅうに属する」と判示した。
 3 意見内容に客観的な正当性を求める原判決の誤り            原判決は名誉侵害の不法行為を11箇所の表現において認定していたが、  うち下記8箇所の各表現にかかる意見論評については、基礎事実の真実性  を認めながら、その内容の不当・不合理を理由に保護を否定している。
     第2表現「完璧な洗脳教育」
     第3表現「アジテーター」
第5表現「洗脳テクニック」
第6表現「反皇室思想を植えつける行為・・・」
第8表現「唯我独尊」
第9表現「偏向授業をしている確信犯」
第23表現「明確な犯罪事実」
第27表現「マインドコントロール授業」
   例えば、第2表現「完璧な洗脳教育」との論評について見れば、「原告の授業方法が生徒に原告の政治的思想に沿う意見を持つよう誘導するものである」との基礎事実の主要部分において真実であると認定しながら、「『洗脳』という語には人の思想改造を図るとの意味があることからすると、上記基礎事実をもって『洗脳』と評することは論評の範囲を逸脱している」(原判決41頁)との論法をもって「公正な論評」による免責を否定したものであるが、その論法は当該論評の正当性やその基礎事実との合理的関連性を要求するものであり、「その内容の正当性や合理性を特に問うことなく」保護の対象とするとした最1小判平成16年7月15日(乙51)に真っ向から反するものである。   
   他の各表現も、前記第2表現に対してとられた手法と同様、基礎事実の真実性を認めながら、当該意見の内容にかかる正当性や合理性の見地から、「論評の域を逸脱している」「教師の適格性を論評するという趣旨を逸脱している」「憶測の域を出ず、慎重さを欠いた表現である」「過度に蔑視的である」等として免責を否定したが、いずれも我が国の「公正な論評」の法理に反していることは明白であり、その根拠である「意見ないし論評を表明する自由が民主主義社会に不可欠な表現の自由の根幹を構成するものであることを考慮し、これを手厚く保護する趣旨」を裏切るものである(もっとも各論で詳述するように、各表現の論評内容は十二分に正当性も合理性も有するものであった)。
 4 原告の授業における極端な揶揄と激越な個人攻撃 
   我が国の「公正な論評」の法理の要件中、「人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱したものでないこと」との要件につき、『名誉毀損の法律実務』(乙52・260頁)は、「逸脱の有無の外延がはっきりしているとはいえない」としたうえで「この要件は、肯否・賛否が本来自由であるべき論評につき、いわば節度を求め、『書き過ぎ』を抑えるものであるので、公的言論の保障の見地から、その判断については慎重が求められる」としたうえで、東京地判平成8年2月28日が示した判断基準を肯定的に紹介している。いわく、「論評としての域を逸脱するか否かを判断するに当たっては、表現方法が執拗であるか、その内容がいたずらに極端な揶揄、愚弄、嘲笑、蔑視的な表現に渡っているかなど表現行為者側の事情のほか、当該論評対象の正確や置かれた立場など被論評者側の事情も考慮することを要するというべきである」。
   確かに、被告らが原告の「紙上討論授業」を批判するために用いた前記各表現は、激越かつ辛辣であり、それだけ切り取ってみれば、「慎重さを欠いた」表現のように見えるかも知れない。しかし、それらはいずれも原告の教師の立場を離れた個人的人格に向けられた人身攻撃ではなく、あくまで教師としての適格性やその教育手法に向けられたものである。そして前記各表現が批判の対象とした「紙上討論授業」のプリントにおいて記載され、生徒や保護者に向けられた原告の侮蔑的かつ嘲笑的表現の激越さは、被告の前記各表現を遥かに上回るものであった。
例えば、原告の偏った授業について苦情を申立てた保護者の行為を非難するプリントを授業中に配布するだけでも異常であるところ、そのプリント(乙1)には、「教育委員会に密告、若者スラングでいうチクリ、電話や密告ファックスを送るという暗いエネルギーには敬意を覚えます」とか「アサハカな思い上がり」とか「偏狭な思想」といった当該保護者を侮蔑的に非難する表現があり、紙上討論授業において「先生はしつこい。なんで米軍にこだわるのか」との意見を書いた生徒に対し、「アサハカに満足して生活をしているという態度を選ぶのは君の問題であって先生の感知するところではありません」と侮蔑的に突き放し、ある生徒が「先生の言葉遣いが気になります。『ド厚かましい』『恥知らず』とかの言葉は、もっと他の言葉は使えないのですか」とただすと、「わたしはいつも『馬』は『馬』といい、『鹿』は『鹿』といい、『馬』を『鹿』というものには『馬鹿』ということをためらったことのない人間です。『恥知らず』であるという事実をそれを知らない人に教えてあげるのは『先生』の仕事だと思っています」と当該生徒を名指しにして、揶揄と侮蔑に満ちた表現を用いて徹底的な反論を浴びせているのである(甲1・71頁参照)。それが授業として教室で用いられたことを思うと、その不適切・非常識は明らかである。 
   原告が、その授業において用いていた矯激とさえいえる言葉使いに比べれば、これを批判するために被告らが用いた言葉は、むしろ穏当かつ慎重なものに見えてくる。当該意見が対象としている言論の異常さを無視して本件各表現を「論評の域を逸脱している」とする原判決の判断がバランスを失する不当なものであることは明白である。 
 5 原判決の恣意的な判断
  意見論評の内容につき、その正当性や合理性を審査する原判決の手法が誤りであることは既に論じたとおりであるが、その審査の中身についても疑問は多い。
即ち、前述のように原判決は、第2表現「完璧な洗脳教育」、第3表現「アジテーター」、第8表現「唯我独尊」、第9表現「偏向授業をしている確信犯」、第23表現「明確な犯罪事実」、第27表現「マインドコントロール授業」といった表現について、「論評の域を逸脱」「憶測の域を出ず」「過度に蔑視的」等としてその合理性ないし正当性を否定しているが、他方では、
第1表現「マインドコントロールに近い授業」
第7表現「はっきり自己の政治的立場、思想を持ち込む教師」
第16表現「憲法、教育基本法を無視し、学習指導要領を否定し、人権侵害事件を起こした教諭の犯罪」
第19表現「つるしあげ」
第22表現「執拗な反米政治教育を行い」
  の各表現については、原告の教師としての社会的評価を低下させるものではないとして名誉毀損性を否定し、
第14表現「自分の信条に反するものはその存在も認めない」
第16表現「人権侵害事件を起こした教諭の犯罪」
第17表現「確信犯として、教育秩序を破壊」「人権侵害教師」第18表現「紙上討論と称する偏向教育」
第19表現「つるしあげ」
     第20表現「増田教諭一流の恫喝」
第21表現「教室という密室で独善的に行ってきた授業」
第22表現「執拗な反米政治教育」
第24表現「偏狭な思想を持った教師」
 の各表現については、「紙上討論を偏向授業と表現することはやや慎重さに欠ける表現ではあるが、事実と表現方法のバランスを失しているとまではいえず」(第18表現)、「いささか行き過ぎの印象はあるものの、原告も特定の立場にこだわって授業を主導してきたといえるのであり、論評の域を逸脱したとまでは認めることができない」(第24表現)とのコメントを附してその合理性を認めているのである。
  思うに「唯我独尊」(第8表現)も「自分の信条に反するものはその存在も認めない」(第14表現)も「独善的に行ってきた授業」(第21表現)も、ほとんど同じ基礎事実に基づく論評であり、「唯我独尊」が論評の域を逸脱しており、「自分の信条に反するものはその存在も認めない」や「独善的」が論評の範囲内であるとする原判決の判断には些かの客観性も予測可能性も認めることはできない。
   同様のことは、「偏向授業をしている確信犯」(第9表現)及び「明確な犯罪事実」(第23表現)を「過度に原告を中傷する表現である」などとして論評の域を逸脱したとしながら、他方で「人権侵害事件をひきおこした教諭の犯罪」(第16表現)や「確信犯として教育秩序を破壊」(第17表現)については論評の範囲内であるとしている点についてもいえる。
  結局のところ、原判決は本件書籍中の論評内容の合理性を審査しているが、客観的な基準も持たず恣意的に名誉毀損性の有無や論評の範囲の内外を判定しているといわざるをえないのである。
  言論の違法性の有無を決する名誉毀損性や論評の範囲に関する原判決の恣意性が、公共の利害や関心事に対する告発や意見論評を甚だ萎縮させる結果をもたらすことは、敢えて論じるまでもない。原判決の不当性は、ここでも明らかである。
6 プライバシー侵害について
 原判決は、本件書籍が公表した原告の個人情報等にかかる第1情報ないし第4情報のうち、第2情報の一部(生年月日)、第3情報(研修命令通知書)及び第4情報(教育研究所での研修態度)につき、みだりに開示されることを欲しない私的事柄に属するプライバシー情報であるとし、原告の教育公務員としての適格性を批判するという論評の目的に照らし、これらを開示する必要性はないなどとして違法性の阻却を否定している。
  しかし、そこには「公正な論評」法理の適用解釈の誤りにおいてもうかがえたように、原判決が持つ、表現の自由に対する無理解、とりわけ公務員の職務行為ないし適格性という公共利害事項についての意見論評が民主主義社会において担っている役割に対する認識不足が露呈していることを指摘することができる。そして、そればかりか、免責否定の結論を導くために、公教育を歪める病理を告発する本件書籍における論評の目的を敢えて狭く限定的に解する過誤を犯しているのである。
即ち、本件書籍は、原告の教育公務員としての適格性に対する批判であるとともに、これに基づいて同人の罷免を東京都に要求する意見論評であるという事実である。
 
 「市民声明−厳正な処分を都教育丁に要請する。」(甲1・7頁)
  
「しかし、それこそ『平和』と『民主教育』、『子供たちの人権』を守るためにも私たちは監視を続け、人権侵害事件を引き起し、反省もしていない教師の懲戒免職を要求していく必要があるのです。」(甲1・195頁)

   憲法第15条は「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」としている。東京都の教育公務員であった原告の罷免を求める行為は、まさに憲法第15条によって国民固有の権利として認められているところであるが、本件書籍において公表された第1ないし第4情報は、いずれも被控訴人の罷免の必要性を訴え、これを批判・検討するための論評材料を公衆に提供するために必要かつ合理的な処置であった。
   本件書籍を正しく読めば明らかなように、被告らは、東京都教育委員会が発令した研修命令につき、それが多くの子供たちを原告の攻撃的な学習から守ったとして高く評価しているが、他方、教育研究所における研修態度からみて研修の効果は不十分であり、研修後の現場復帰を許すべきでないとの観点から罷免を求め、都議会各会計決算特別委員会等において教育長に「是非とも実効ある処理」を求めているのである(甲1・169頁〜)。
教育研究所での研修を命じるだけでは教育健全化に向けた実効性を期待できないとする被告らの主張が当を得ているかどうかを公衆に問うためには、原告の具体的な研修態度(全く反省することなく、公然と都教委を批判するもの。)を明らかにして公の批判・検討に供する必要がある、と被控訴人らは考えて、本件書籍にこのことを掲載したのである。  
原判決は「具体的研修態度までが公の批判・検討の対象になるということはできない」とするが、被告らが本件書籍において原告の罷免を求めていることを敢えて看過したものであり、そもそも公務員の罷免要求が国民固有の権利であることを失念したものだと言うほかはない。また、具体的研修態度の公表が、教育公務員である原告の罷免という公共事項にかかる被告らの真摯な論評活動の一環としてなされたこと照らせば、「公正な論評」法理が、当該意見の客観的な正当性を敢えて問わないとして言論の自由を厚く保護していることと比較し、原判決の恣意性・不当性は明らかである。    
国民に保障された公務員罷免権の行使に関する公共言論の必要性・重要性を忘れているとしか言えない原判決は到底維持され得ないものである。
        
第3 各表現の個別的考察
1 第2表現:
? 原判決は、第2表現の「完璧な洗脳教育」につき、「被告らは、原告が紙上討論授業において政治的対立のあるテーマを題材として選び、これについて特定の立場に立って授業を主導していた事実を基礎事実として『洗脳教育』との語を用いたと認められる」とし、これを意見言論であると位置づけたうえで、「同基礎事実はその主要部分において真実である」と認めながら、「特定の政治的立場からのみ授業をしたとしても、それが直ちに洗脳になるということはできず」、また「『洗脳』という語には人の思想改造を図るという意味があることからすると、論評の範囲を逸脱している」として違法性を阻却しないとする。
  ? まず、原判決の上記論法は、「洗脳教育」という被告らの意見論評の内容の当否を問うものであるが、かかる論法が我が国の「公正な論評」法理に違背していることは既に指摘したとおりである。「特定の政治的立場からのみ授業をしたとしても、それが直ちに洗脳になるということはできず、また『洗脳』という語には人の思想改造を図るという意味があることからすると、論評の範囲を逸脱している」という論法は、まさしく「洗脳」という語を用いる正当性と合理性の欠如を論難するものであり、原判決による第2表現に対する意見論評になっている。これは意見論評の自由が民主社会における表現の自由の根幹を構成するものであることを重視してこれを手厚く保護し、その当不当の問題は、言論の市場に委ねる趣旨に出た「公正な論評」法理に反するものであり、「その内容の正当性や合理性を特に問」わないとする最判平成16年7月15日に真っ向から反するものである。 
  ? また、原告の紙上討論授業を「洗脳教育」と評した被告らの論評は、全く正当なものであり、これを論評の域を逸脱したものと切って捨てる原判決は、一定の立場から被告らを批判するものに過ぎず、到底「公正」な判断ということはできない。 
そもそも原判決は、「第2表現の意味内容から、原告が現実に生徒らを洗脳しようとしていたとの趣旨で記述したものではなく、原告の授業方法が生徒に原告の政治的思想に沿う意見を持つように誘導するものであるとの趣旨で第2表現を用いていると認めることができる」と正当に認定している。
「洗脳」とは、「第二次大戦後の一時期、共産主義者でない者に共産主義教育を施して思想改造を図ったこと。転じて、ある人の主義・主張や考え方を根本的に変えさせること」(乙15・大辞林)、「新しい思想を繰り返し教え込んで、それまでの思想を改めさせること」(乙53・広辞苑)を言うが、第2表現の「洗脳」とは、その意味に則って上記趣旨、即ち「原告の授業方法が生徒に原告の政治的思想に沿う意見を持つように誘導するものであるとの趣旨」を表現するために使用したものであり、その基礎事実である「原告が紙上討論授業において政治的対立のあるテーマを題材として選び、これについて特定の政治的立場に立って授業を主導していた事実」の主要部分は真実であることからすれば、第2表現の論評が十分な合理性を有していることは明らかである。
更に、原判決が第3表現の箇所でその真実性を認定しているように、原告は授業において「原告の政治的立場に沿った参考資料を多く提供し、原告の政治的思想に反対する意見を持つ生徒に対してはさらに原告の立場に沿った参考資料を提供し、生徒に自己の政治的思想に近い意見を形成するよう誘導していた」(この事実もまた第2表現の基礎事実とすべきである。原判決が第2表現の基礎事実としたものは狭きに失する)のであり、まさに自らの「思想を繰り返し教え込んで」それまでの生徒の「考え方」を「変えさせる」ものということができ、「洗脳」という表現の合理性を完全に否定することは到底できない(42頁参照)。 
? また意見論評の正当性についてみれば、原告が「政治的対立のあるテーマを選び、特定の立場に立って授業を主導していた事実」に対しては、当然のことながら、原告と対立する政治的立場に立つ側からの非難がなされることが想定される。
しかも公立中学校における教諭という立場が、政治的議論に未熟な状態にある生徒に強い影響力を有することから、原判決もまた「教育現場においては政治的中立を求められる社会的地位」(31頁参照)と認定しているのである。
被告ら都議が東京都民の選良として、「原告が特定の立場に立って授業を主導し」、しかも「生徒に自己の政治的思想に近い立場の意見を形成するよう誘導していたことに向けてなした厳しい非難・弾劾には、社会的にみても相当な正当性があると言わざるをえないのである。
? 最後に「洗脳教育」という批判は、あくまでも原告が職務行為として行った紙上討論という教育方法に向けられたものであり、教諭としての立場を離れた個人的な人格に向けられた人身攻撃の類ではないことは明らかである。
     従って原告の紙上討論授業という教育手法を「洗脳教育」と評してする被告らの厳しい非難には、十分な正当性があり、しかも真実と認定された基礎事実と「洗脳」の用語との間には十分な合理的関連性があり、人身攻撃ともいえないことから、たとえ多少の誇張があるとしても、これをもって論評の域を逸脱していると評価することはできないものと言わざるを得ない。 

2 第3表現:  
? 原判決は、「増田教諭の授業は、・・・最初に提供される資料も似たり寄ったり、学問的というより、政治的に偏ったものであり、現実との矛盾に気が付いた生徒からの質問には、さらに偏った資料を提供し、巧みに自らの政治的意図に近づけようとするこの手法は、教育者というよりアジテーターといったほうが適切でしょう。こうしたマインドコントロールによって、最後には、昔の鬼畜米英と同じで『米軍壊滅作戦』を主張する生徒も出てくるありさまです。」との第3表現につき、「アジテーター」の表現は、「原告が紙上討論授業において、原告の政治的立場に沿った参考資料を多く提供し、原告の政治的思想に反対する意見を持つ生徒に対してはさらに原告の立場に沿った参考資料を提供し、生徒に自己の政治的思想に近い意見を形成するよう誘導していた事実」を基礎事実として、原告の教師としての適格性を論評する表現としたものとしたうえ、「同基礎事実はその主要部分において真実である」と認めながら、「教師とアジテーターとは全く異質の表現であり、『政治的に偏った』、『マインドコントロール』との表現とも相俟って、第3表現は、教師としての適格性とは異質の問題が原告にはあるとの印象を読者に印象づけるという内容となっており、教師の適格性を論評するという趣旨を逸脱していると言わざるを得ない」とする。
  ? まず、原判決は、真実性が確認された基礎事実(紙上討論授業において、原告の政治的思想に反対する意見を持つ生徒に対しては、さらに原告の立場に沿った参考資料を提供し、生徒に自己の政治的思想に近い意見を形成するよう誘導していた事実)と「アジテーター」という具体的表現との関連性、或いは、「アジテーター」という表現をもって教師の適格性を論評することの当否を論じていることを指摘することができる。 
けだし、原判決は、「アジテーター」の表現によって教師の適格性と異質の問題が原告にはあるとの印象を与える点を問題視しているが、これは、これは畢竟、紙上討論授業を主催する原告を「アジテーター」と評価することの合理性ないし正当性を難じるものに他ならないからである。
そもそも、被告らは、「教育者というよりアジテーターといった方が適切でしょう」という表現によって、原告の手法には、まさしく教育者とは異質のものがあることを強調し、その教師としての適格性を問題にしようとしているのである。或いは、原判決は、かかる意見表明をもって憶測に基づく偏見だとするものかも知れない。しかし、仮にそうだとしても、かかる原判決の手法は、「たとえ客観的にはいかに偏見にみち愚劣なものであっても、論評者自身が善意で正当なりと信ずるところを発表したものであれば」保護すべきだとする「公正な論評」法理に反することは明らかである(乙50・1169頁)。
  ? また、原告を「アジテーター」と評して教師としての適格性を論評する第3表現は、その基礎事実に照らしても合理的な表現であり、論評としての正当性も備えたものであり、決して論評の範囲を逸脱するものということはできない。 
けだし、「アジテーター」の言葉は、「煽動」すなわち「人の気持ちをあおりたてて、ある行動をすすめそそのかす」(乙16・広辞苑)者の意味を有しているが、原告が授業の教材として配布したプリント(乙1)は、前述のように、生徒の保護者の行為を「チクリ」「アサハカな思い上がり」などの激越な表現を用いて攻撃するものであり、煽動者が持っている攻撃性・煽情性が表れていることは一読して明らかである。また、現に原告の授業を受けた生徒の中には、原告に賛同して「米軍全滅作戦」を主張する生徒や、原告に迎合して「親の電話のとおりに校長先生に言った教育委員会の人はおかしい。もっとひどいのはその親。ろくに知識もないのに先生がよく調べて真実を教えるのを止めさせようとするなんて」などと保護者を批判するような意見を表明する生徒が出てきたのである(第15表現参照)。
さらにまた、第7表現にもあるように被告らは原告をして「かつての日教組にはかなりいましたが、平成12年の今日、めずらしいとしか言いようが」ない、「はっきりと自己の政治的立場、思想を持ち込む教師」であるとして教師の適格性に疑問を呈しているのである。被告らはかかる資質は、革命家やアジテーターや政治家のものであり、政治的中立性が求められる教師のものではないという立場に立っている(甲1・48頁参照)。この点原判決は、「はっきりと自己の政治的立場、思想を持ち込む教師」という第7表現について、これにより原告の社会的評価は低下するとは認められないとし、授業に自己の政治的立場を持ち込んでも構わないとの立場をとるようである。そうだとすれば原判決は被告らと全く異なる立場から被告らの意見を批判するものに過ぎない。教師は授業に「はっきりと自己の政治的立場、思想を持ち込む」べきではないという被告らの立場からは、かかる授業を信念をもって行う原告の姿勢は、教師のものとは異質な、革命家や政治家に見られる「アジテーター」としてのものと映るのであり、被告らは、かかる立場から、教師の適格性に反するものだと非難しているのである。  
第3表現は、その内容において、意見論評としての合理性も正当性も備えているというべきである。   
? 原告を「アジテーター」と評し、教師としての適格性を問題視する第3表現は、多少の誇張はあるとしても、その意見の内容においても真っ当なものであり、原告の教師適格性を離れて人身攻撃に及ぶものということもできないのであるから、論評の域を逸脱するとは到底言えない。

3 第4表現:
? 原判決は、「ある意味、白紙状態の中学生に一方的な情報を注入し、一部にある『米軍はあったほうがいいな』という意見は無視。」との表現を捉えて、原告が米軍を肯定する生徒の意見を無視したか否かという事柄を取り上げたものであるとして、事実の摘示であると認め、事実と認めることはできないし、真実と誤信するに付いて相当な理由があったとも認められないとする。
? しかし、これは、被告らの表現を正確に読み取っていないことから生じた明らかな誤りである。「無視」という語には、「存在や価値を認めないこと。ないがしろにすること。」(乙54・広辞苑)という意味があるが、文のし冒頭に「ある意味」とあることからも明らかなように、米軍の存在価値を認める生徒の意見に対して、単に消極的にその意見を取り上げないという否定姿勢にとどまらず、積極的に意見を変更するよう誘導していることに着目して、「無視」という語の持つ「価値の否認」という要素の共通性を指摘しているのである。事実の摘示ではなく、積極的に意見を変更するよう誘導している事実を基礎事実とする論評である。
? 現に、原判決も、「原告の政治的立場に沿った参考資料を多く提供し、原告の政治的思想に反対する意見を持つ生徒に対してはさらに原告の立場に沿った参考資料を提供し、生徒に自己の政治的思想に近い意見を形成するよう誘導していた事実はその主要部分において真実である」と認めているのであるから、米軍の存在価値を認める生徒の意見を否認する方向で誘導していることは明らかであって、上記の意味内容において「ある意味・・・無視」と論評したことをもって、論評の域を逸脱したものとは言えない。

4 第5表現:
? 原判決は、「増田教諭にしてみれば、・・・責任を巧みに回避しようとするのでしょうが、これは明らかに『はじめに答えありき』式の巧妙な『洗脳』テクニックです。」との第5表現につき、「原告が特定の政治的思想に基づく立場から、真実であるとして原告の政治的思想に基づくコメントをプリントに付し、もしくは原告の政治的思想に沿う参考資料を多く添付するなどして行った紙上討論授業を基礎事実としてこれを『洗脳』テクニックと評している。」と正当に認定し、同基礎事実の主要な部分が真実であると認めながら、「しかし、同基礎事実から、原告が責任回避を意図していたとの評価は直ちに導かれず、被告らの憶測が多分に含まれているといわざるを得ない。そしてそのような憶測のもとで原告の授業を『洗脳』であると評することは、過度に蔑視的であり表現の相当性を欠く」として違法性阻却を否定した。
? 原判決の上記判示は、紙上討論授業の巧妙さを「洗脳」テクニックと評する意見表明が、憶測に基づくものであると非難していることから分かるように、当該意見論評の基礎となった事実と意見内容との合理的関連性ないし客観的正当性を問うものである。当該意見が偏見に満ちた愚劣なものであっても保護の対象とする「公正な論評」法理の趣旨に反し(乙50・1169頁)、意見内容の正当性や合理性を特に問わないで名誉毀損を免責するとした最判平成16年7月15日(乙51)に反するものである。たとえ憶測に基づくものであっても公務員の職務に関する批判は保護されなければならないという「公正な論評」の法理の原点にある思想を失念していると言わざるをえない。 
? また、そもそも原判決が原告の巧妙な手法を「洗脳テクニック」だと評したことを憶測によるものだと批判している点も誤りである。
  第5表現は、原判決も指摘しているとおり「原告が生徒に対して特定の政治的思想を押し付けたことの責任を免れるため、生徒に自発的に考えさせる体裁を整えた上で原告の望む特定の政治的思想に沿うように生徒に意思形成するよう誘導した」との趣旨のものである(32頁)。原告が、生徒に自発的に考えさせる体裁を採って授業をしていたことは、プリントの随所に「考えてみてください。」とのコメントがあることからも認められる事実である。しかしながら、他方で、考える前提として与えられる資料の多くは、原告が拠って立つ特定の政治的立場にあるものであり、原告の意に沿わない意見には容赦ない攻撃的非難を浴びせられることからすれば、「考える」ことは即ち原告の是とする立場への帰結ないし迎合になっていく可能性が大きいことは、誰も否定することはできないはずである。
 被告らはこのことを捉えて、洗脳的テクニックと評しているのであり、ストレートに被告の見解を押し付ける方法をとらないことで「押し付け」の批判をかわす一方で、間接的に被告の拠って立つ立場と同じ立場に立つ第三者の資料を多く提供することによって、一見公平を装いながらその意に沿う見解に誘導しているとして、原告の巧妙性を指摘しているのである。
   原判決は、この点、「原告が責任回避を意図していたとの評価は直ちに導かれず、被告らの憶測が多分に含まれているといわざるをえない。」とするが、上記のとおり、「原告が一見公平を装いながら、その意に沿う見解に誘導している」との評価は、事実に基づく合理的な推測であり、これをもって「押し付け」との非難を回避するためにとられた巧妙な手法と評価することもまた、合理的な推測というべきである。かかる合理的な推測に基づいて、原告の手法に対し「巧妙な『洗脳』テクニックです」と論評することにも十分な合理性と正当性が認められるというべきである。
しかしながら、こうした合理的推論に対しても、そうした評価は「直ちに導かれず、被告らの憶測が多分に含まれている」として表現の相当性を認めない原判決の論法は、高度に確実な推論・評価しか許されないとする過度に萎縮的かつ抑制的な言論状況をもたらすものである。原判決の不当性はこのことからも明らかである。 
 ? 最後に、「洗脳テクニック」という表現については、多少の誇張があるとしても、あくまで一定の政治的思想の方向に生徒を誘導する授業の手法に向けられたものであり、教師の立場を離れた原告の個人的人格に向けられた人身攻撃ではないのである。真実性が認められた基礎事実に基づく合理的な推測に基づく論評であり、かつ人身攻撃とも言えない「洗脳テクニック」の表現については、「過度に蔑視的である」との評価は当たらず、論評の範囲を逸脱するものということはできない。  

5 第6表現:
? ここでも原判決は、「反皇室思想を生徒に植え付ける行為であり、これが憲法、教育基本法、学習指導要領に反するとの趣旨の記述」であるとし、それが「原告が、紙上討論授業において、天皇の戦争責任について触れた資料を用い、天皇の戦争責任を肯定する立場から授業を主導したこと」を基礎事実とする意見言論であることを認め、当該基礎事実の「主要部分は真実である」としながら、「これをもって原告が生徒達に反皇室思想を植え付けたと直ちに評することはできない」とか、「天皇の戦争責任を肯定する見解を授業において表明したからといって、憲法、教育基本法、学習指導要領を無視する行為をしたと評することもできない」として、第6表現の論評としての正当性ないし合理性を否定し、もって違法性阻却を否定する。
  ? 原判決が、基礎事実から論評内容が客観的に導かれることを要求している点で、我が国の「公正な論評」法理の適用による保護の要件として論評内容の正当性や合理性を特に問わないとした前記最高裁判例の立場に反していることは明らかである。
とりわけ「憲法、教育基本法、学習指導要領を無視」との法的な意見表明については、最判平成16年7月15日(乙51)が判示しているように「法的な見解の正当性それ自体は、証明の対象とはなり得ないものであり、法的な見解の表明が証拠等をもってその存否を決することが可能な他人に関する特定の事項ということができないことは明らかであるから、法的な見解の表明は、事実を摘示するものではなく、意見ないし論評の表明の範疇に属するものというべきである。前述のとおり、事実を摘示しての名誉毀損と意見ないし論評による名誉毀損とで不法行為責任の正否に関する要件を異にし、意見ないし論評については、その内容の正当性や合理性を特に問うことなく、人身攻撃に及ぶなどの意見ないし論評としての域を逸脱したものでない限り、名誉毀損の不法行為が成立しないものとされているのは、意見ないし論評を表明する自由が民主主義社会に不可欠な表現の自由の根幹を構成するものであることを考慮し、これを手厚く保障する趣旨によるものである」。 
従って「憲法、教育基本法、学習指導要領を無視」といった法的な意見表明の正当性を問題としてこれを否定するに及んだ原判決の判断が、これに真っ向から反するものであって容認される余地のないことは明らかである。             
  ? さらに言えば、ここでも、原判決の基礎事実の捉え方は狭小に過ぎるのであり、「反皇室思想を生徒に植え付けたと評価することはできない」という原判決の判断は失当である。   
原告が紙上討論において、天皇の戦争責任について触れた資料を用い、天皇の戦争責任を肯定する立場から紙上討論授業を主導したことは、原判決の指摘のとおりであるが、その立場から加えられるコメントの内容やアンダーラインを引いた生徒のコメントもまた「生徒に反皇室思想を植え付ける行為」との論評の基礎事実となるものである。すなわち、原告は、本件書籍にあるとおり、天皇の戦争責任を認める一方的な資料ばかりを紹介したうえで、例えば「天皇が戦争をやりなさいっていったから戦争が始まったと思う。」「天皇が国民の意思を無視して勝手にやった。」という生徒のコメントにアンダーラインを引かせ、「日本の象徴さん」といった嘲笑的なコメントを付すことで、皇室・天皇に対する反感を誘導し、あるいは天皇に対する尊敬の念を否定する方向に誘導しているのである(甲1・211〜212頁)。
その結果、生徒は、「もしもオレがその時代の人間だったらたまったもんじゃない。天皇たちで勝手に戦争をはじめて、国民を使うだけ使って、最後には自分だけ逃げる。だから絶対に戦争を始めた天皇が責任をとるべきだと思う。」「なぜ戦争責任は東京裁判の東条ら7人だけなのか?ちゃんと関係者全員に罰を与えなきゃ。だって310万任を殺した人が無罪なんだよ!でも一番責任があるのは天皇だと思う。」「現在の天皇とその一族が、国民の莫大な税金で優雅に暮らしたり、結婚式を盛大に行うようなことは、もうすぐ終わるのではないかと思う。幼い頃に『天皇は偉い』とマインドコントロールされていた人々はいなくなると思うから。」「今のマスコミも国民をマインドコントロールしようとしているのではないか。今は、ただの象徴の人を『陛下』なんて呼んで国民を臣民みたいに扱っていることに腹が立つ。早くみんなこのことに気付いてマスコミと天皇の戦略にうちかたなければならない。」といった反天皇、反皇室の立場に立った偏った意見を発表するに至ったのである(甲1・35頁)。
被告らは、こうした天皇制に対する「一方的な攻撃」とも言える手法と、これにより生徒が反天皇、反皇室の立場から偏った意見を表明するようになった事態を捉えて、生徒に反皇室思想を植え付けたと評したのであり、全く合理的な論評である。
また、被告らは、かかる手法と事態について、国民統合の象徴としての天皇を擁する憲法、憲法擁護と政治的中立を求める教育基本法、天皇に対する敬愛を目的とする学習指導要領に反する行為であると評したのであって、十分な合理性と正当性を有するものである。
   
6 第8表現:
? 原判決は、「反戦地主、島袋善祐氏は、同じ文章の中で、教師に次のような檄を飛ばしています。『しっかりしろ!最近だらしがないよ。教師は、この国がどうあって欲しいのか、国の進むべき方向をしっかり描き、いうべきことはいい、勇断をもって首をおそれず正しいことは正しいと教えて欲しい』増田教諭、島袋氏は、どうも教師の使命を勘違いしているとしか思えません。教師は、革命家でもアジテーターでも政治家でもないことに、この二人は気付いていないのです。この二人の目指す教師像は、唯我独尊。教師としての資質に一番欠ける人物だと言えます。」との第8表現につき、「原告が紙上討論授業において政治的見解の対立のある問題をテーマとして取り上げ、これについて原告が特定の政治的思想に基づく立場から、原告の政治的思想に基づくコメントをプリントに付し、もしくは原告の政治的思想に沿う参考資料を多く添付するなどして行っていた事実、校長の指導にもかかわらず本件プリントを配布した事実及び島袋善祐の言葉の存在」を基礎事実として、原告の目指す教師像と原告の適格性に対する意見表明と認め、かつ、「その主要部分において真実である」としながら、「原告の目指す教師像が何であるかを推測することは困難であり、これを『唯我独尊』と断定した表現は原告を愚弄するもので、憶測の域を出ない慎重さを欠いた表現である」として、違法性を阻却しないとする。
? まず、原判決の上記論法は、原告が目指す教師像に対し「唯我独尊」と評し、原告の教師としての適格性を批判した被告らの論評の内容につき、その合理性と正当性に問題があるとするものであり、これを特に問わないとした我が国の「公正な論評」の法理に違反していることが明らかである。    
?  また、原判決は、「唯我独尊」の評価の対象となった「原告の目指す教師像」につき、それが「何であるかを推測することは困難で」あるとする。「唯我独尊」の表現が「原告を愚弄する表現」であるとする原判決の評価は、その対象が何であるか分からないことに依拠していると解される。
しかし、通常の注意力をもって前後を読めば、被告らが「このふたりの目指す教師像」としているものが何であるかは明瞭である。
第7表現の「はっきり自己の政治的立場、思想を教育に持ち込む教師」のことである。教材用のプリントに「地震は天災ですが米軍基地は人災です」とか「アメリカの戦争のお手伝いに自衛隊を協力させるという約束をしています」とかいった一方的なコメントを書く原告につき、「ここまで、はっきり自己の政治的立場、思想を教育に持ち込む教師は、かつての日教組にはかなりいましたが、平成12年の今日、めずらしいとしか言いようありません」とし、「首をおそれず正しいことは正しいと教えて欲しい」とする島袋氏の「檄」からも、「このふたりの目指す教師像」が「はっきり自己の政治的立場、思想を教育に持ち込む教師」であり、「首をおそれず正しいことは正しいと教え」る「かつての日教組にかなり」いた教師像であることは明らかである。
被告らは、かかる教師像について、それは革命家、アジテーター、政治家のものであり、政治的中立を求められる教師としては相応しくないとの良識的立場から、「唯我独尊」と論評するものであり、その内容についても十分合理性を持つものである。  
? さらに「唯我独尊」という表現は、「世の中で自分一人だけがすぐれているとすること」という意味の他に、「ひとりよがり」の意味でも用いられる(乙56・広辞苑)。
そもそも原判決は、「はっきり自己の政治的立場、思想を教育に持ち込む教師」(第7表現)、「自分の信条に反するものはその存在も認めない」(第14表現)、「教室という密室で独善的に行ってきた授業」(第21表現)、「偏狭な思想をもった教師」(第24表現)という原告の授業に見られるひとりよがりな態度を指摘・非難する表現につき、いずれも基礎事実の真実性を認め、それが論評の範囲内の意見表明であることを認めているのである。
また原告に対し「唯我独尊」の印象を抱くのは被告らだけではない。本件書籍の巻頭文を執筆した東京教育再興ネットワーク代表の石井公一郎は、「『唯我独尊』という言葉があるが、これほどまでに自己を正当化する人間を私は見たことがない。」と評している(甲1・1頁)。
かかる「唯我独尊」との表現が妥当する原告に対し、「教師としての資質に一番欠ける人物」だとする非難が、論評としての合理性と正当性を有することは明らかである。

7 第9表現:
? 原判決は、「これだけの偏向授業をしている確信犯ともいえる教師」との第9表現につき、それが「政治的見解の対立のある問題をテーマとして取り上げ、これについて原告が特定の政治的思想に基づく立場から、真実であるとして原告の政治的思想に基づくコメントをプリントに付し、若しくは原告の政治的思想に沿う参考資料を多く添付するなど行っていた事実」を基礎事実とした論評で、「その主要部分において真実」としながら、「偏向授業と評すること自体は論評の範囲内の表現であると認めうる」が、「『確信犯』は、通常犯罪者に対して用いられる語である以上、一般人の理解からすれば道徳的・宗教的若しくは政治的な確信を決定的な動機としてなされた犯罪に対して用いる語であると認められるから、偏向授業であるとの評価からさらに進んで『確信犯』と表現することは、過度に原告を中傷する表現であると言わざるを得ない。」として違法性は阻却されないとする。
? しかしながら、基礎事実の主要部分の真実性が認められる論評について、そこで用いられた「確信犯」の言葉が一般人に犯罪を連想させることを理由に、過度に原告を中傷する表現であるとして免責を否定するのは、それが公務員に関するものであれば、当該意見論評が、たとえ激越かつ辛辣な語を用いて誇張的表現をとることがあっても、敢えてその正当性を問わず手厚い保護を与える「公正な論評」の法理に反するものである。
? また、第9表現の論評としての合理性ないし正当性を判断するうえで、原判決がその基礎事実としたところは、狭小に過ぎ、適切ではない。見解に対立のある問題についても原告の拠って立つ特定の政治的思想のみが「真実である」として授業を指導したことに止まらず、「校長の指導にもかかわらず保護者を一方的かつ乱暴な言葉を駆使して非難するプリントを教材と称して配布することで、本件生徒が不登校、転校に追いやった」こと、「結果として本件保護者の名誉は毀損され、本件生徒は精神的障害に追いやられた」ことも基礎事実となるものである。そして、これらの基礎事実もその主要部分において真実と認められているのである(48〜49頁)。
被告らは、これらの基礎事実をもとに、原告が自ら拠って立つ特定の政治的思想のみに基づいて、校長の指導をも無視して、確信的に保護者を非難し、生徒を精神的障害をきたすまでに追い込んだと非難したのであり、論評としての合理性ないし正当性に欠けるところはない。
? 「確信犯」の語は、原判決の指摘するとおり厳密には「道徳的・宗教的・政治的な信念に基づき、自らの行為を正しいと信じてなされる犯罪」とされる言葉であるが、社会一般には「ある行為が問題を引き起こすことをあらかじめわかっていながら、そのようにする人」(乙55・広辞苑)の意味で用いられることも多い。すなわち、社会一般には、犯罪に至らなくとも不適切なことや不道徳とされることについて政治的な信念を決定的な動機として実行する者に対しても「確信犯」と評することが観察できるのである。ここでは自己の政治的信念をもってする「偏向授業」や「人権侵害」といった不適切な行為もまた「確信犯」と評するに足りるというべきである。
さらに言えば、「偏向授業」や名誉棄損による「人権侵害」を「確信犯」と評する被告らの法的評価は、証拠をもって確定することのできない意見論評であり、その正当性や合理性は特に問われることはないのである(乙51)。ちなみに、第26表現で用いられた同じく「確信犯」という言葉につき、原判決は、「その趣旨は、原告が正当な行為であると信じていることを評価するところにあり、そのことが原告の社会的評価を低下させるものとはいえない」として柔軟な解釈態度を見せている(39頁)。
従って、その表現にやや慎重さに欠けるところはあったとしても、原告の前述の行動に対する評価の表現としては、なお論評の範囲内であると言うべきである。

8 第10表現:
? 「何かあれば『減点』という『脅し』をかけられながらも」云々とは、原告は生徒に対して、成績査定等の権限を有した優越的立場にあること、そして現に、生徒の保護者を攻撃したプリントの中で、社会科の究極の目的は、テストでいい点を取ることではなく(もちろん点数は、いいほうがいいけれどネ)」と明記し、半ばその権限の存在を暗示すらしている(乙1の1bP)ことに加えて、反対意見や原告への批判的意見には、辛辣なコメントを長文で付し(乙33bP、同bU、乙1の1同bS9等)、減点を仄めかすような指導(乙1の1bR7、同bS9等)をしている原告の授業手法に対する批判的意見を表明したものである。
? 「いくら恐怖政治をひいたところで」云々についても、これと同様であるが、その最たるものは、保護者といえども、原告に逆らえば一方的な意見で感情に任せて徹底的にこき下ろされるという恐怖感を煽るようなやり方(乙1の1bP)であり、また、原告の意見に反対するような意見に対しては、原告による批判的コメントに加えて、大量の資料を添付することで、反対意見を出した生徒をして、あたかも自分の考えが常識的な考えから程遠いものであるかのように思い込まされてしまう指導方法(乙1の1bP9〜21等)を捉えて「恐怖政治」と批判的意見を表明したものである。

9 第15表現:
? 原判決は、「・・・見事なマインドコントロール、偏向教育の見本とも言えます。教育委員会に苦情を持ち込んだ保護者を『密告者』と断定、校長の指導にも、そんな苦情は『政治的意図があるか、全くの無知かのどちらかですから心配なさることはありません』『前任者の校長の時もありましたから、この地域の特徴かしら』とはぐらかし、生徒を煽動して感想文を書かせるなど、足立十六中で増田教諭が行ったことと同じことを十二中でもしていたのです。」との第15表現につき、「原告が12中学校教諭として在職中に、原告の授業に対する抗議を区教委に伝えた保護者を批判する本件プリントを生徒に配布し、かつ生徒をして原告の意見に共鳴する感想文を書くよう強要ないしは誘導した事実」を基礎事実とした論評であるとしたうえで、「原告が生徒に対し原告の意見に共鳴する感想文を書くように強要し若しくは誘導した事実」を認めることはできない等として違法性は阻却されないとした。
? 原判決は、「原告が生徒に対し原告の意見に共鳴する感想文を書くよう強要し若しくは誘導した事実」を第15表現の論評における基礎事実としているが、被告らは「生徒を煽動し感想文を書かせた」とは言ったが、その感想文が「原告の意見に共鳴する」よう強要ないし誘導したと言っているわけではない。しかしながら、原告が本件保護者に対して煽情的な表現による侮蔑的中傷を浴びせかけ、「わたしのコメントはすべて事実」「真理や真実、人権問題は多数決で決まるものではありません」とのコメントを付した本件プリントについて生徒に感想文を書かせたという事実があり、その結果、原告の意に添う迎合的とも言える感想文が生徒によって書かれたという事実があるのである。
第15表現の検討吟味における現判決の決定的な問題点は、それが教育委員会に苦情を持ち込んだ保護者の行動について「密告(若者スラングでいうチクリ)」「クラーイ情熱」「私を『偏っていると』というのはこの親が『偏っている』証拠です」「教師の教育内容に介入しようなど笑止千万な、あまりにも『アサハカな思い上がり』というべきです」等と我が眼を疑うような煽情的で侮蔑的な表現を用いて個人攻撃する本件プリントを教材として用い、それに「生徒達は『知る権利』がありますから」「わたしのコメントはすべて事実です」「真理や真実、人権問題は多数決で決まるものではありません」「今、自分がどんな社会、どんな矛盾を持つ社会に生きているか知り、より良い社会を作るために自分はどう参加していくか」とのコメントを付して生徒に配布し、それに関する感想文を生徒に書かせることが、いかに異様な事態であるかということを全く見落としているということにある。
  本件保護者を個人攻撃する本件プリントに対する感想文を書かせたという事実をもって「感想文を書くよう煽動した」と評するに足るというべきである。そしてその結果、生徒が書いた感想文には、「親の電話のとおりに校長先生に言った教育委員会の人はおかしい。もっとひどいのはその親。ろくに知識もないのに、先生がよく調べて真実をわたしたちに教えるのを止めさせようとするなんて」という原告の言い分をそのまま真実と認めて同調し、本件保護者を非難するものが複数あったのである。被告らがした表現とは違うが、かかる事実を基礎としてみれば、「原告の意見に共鳴する感想文を書くよう強要若しくは誘導」したと評価することも正当化されるというべきである。
 
10 第23表現:
? 原判決は、「明確な犯罪事実」という第23表現につき、「原告の授業が特定の政治的立場を生徒に強要するものであるとの抗議をした本件保護者に対し、原告が本件プリントを配布して本件保護者を批判した行為を基礎事実」とする論評であり、「同基礎事実は主要部分において真実である」と認めながら、「しかし、上記原告の行為は直ちに犯罪事実にあたるものではなく、第23表現は同基礎事実から通常人が理解する以上の悪印象を与える行き過ぎた表現であると認められ、論評の範囲を超えたものというべきである。」とする。
? 基礎事実の主要部分が真実であると認めながら、「犯罪事実」という意見表明は、「行き過ぎた表現」であるとして論評の範囲を超えたものとする原判決の論法は、公共事項に対する意見論評については、その内容の正当性と合理性を特に問うことなく手厚く保護するとした我が国の「公正な論評」の法理に反するものである。
また、原判決は、他方で同一の基礎事実に基づき、「人権侵害事件」(第12表現、第25表現)や「人権侵害教師」(第17表現)という、読者が持つ印象としては、「犯罪事実」に勝るとも劣らない辛辣な表現を用いて行っている論評については、これらを論評の範囲内であるとしているが、「犯罪事実」と「人権侵害」とで保護を区別する基準が客観性をもっているとは言い難い。
前述(第2の「公正な論評」の法理)したように、適切かつ有効な意見論評が、しばしば激越・辛辣な語を用いて、誇張的な表現を行う必要が認められることもあるのである。恣意的な基準をもって論評意見の内容を審査することになれば、公共事項に対する意見論評を萎縮させることになることは明らかである。むしろ第23表現は、意見論評の内容の正当性や合理性を問うべきではないことを具体的に示す好例であるともいえる。
? また、意見内容の合理性と正当性について検討して見ても、原告が、上記プリントを配布して本件保護者の名誉を毀損し、本件生徒を精神的障害をきたすまでに追い込んだことは真実であり、裁判所の認定でも認められた事実である(乙11)。
第23表現の「犯罪事実」との表現は、それが刑法上の名誉毀損罪や傷害ないし過失傷害罪といった犯罪に該当ないし匹敵するものであるとの観点から、これを犯罪事実であると論評したものであって、十分な合理性が認められるのであり、論評の相当範囲内にあるものとい言うべきである。
? そもそもある行為が犯罪に該当するか否かといった法的評価は、その性質上証拠によって証明しえないものであり、意見論評の範疇に属する表現であると認められるのであり、それが公共事項に関して専ら公益を図る目的によるものであれば、その正当性や合理性については特に問うことなく「公正な論評」として保護されることは、最判平成16年7月15日(乙51)が明言しているところである。

11 第27表現:
? 原判決は、「増田教諭が行ってきたマインドコントロール授業」の表現について、「原告が、特定の政治的立場に立って授業を進行したこと、授業に用いたプリントに付したコメントは原告の立つ立場からの視点のものが大半を占めること、配布した資料の多くが原告の意見に沿うものであること」を基礎事実とする論評であるとし、「その主要部分において真実である」としながら、「上記基礎事実からさらに進んで、原告が生徒に対し、積極的にマインドコントロールをもしていたと評価することは、論評の範囲を逸脱した」として違法性は阻却されないとする。
? 原判決の上記論法が、意見論評の内容にわたる正当性や合理性を問題にするものであり、これを特に問うことなく、偏見に満ちた愚劣なものであっても手厚く保護するという我が国の「公正な論評」法理に反していることは敢えて論じるまでもない。
? さらにまた、「マインドコントロール授業」という表現の合理性ないし正当性について言えば、原判決は、第1表現における「マインドコントロール」の語の意味について「生徒を一定の方向に誘導する」との語の言い換えとして捉えており(30頁)、第14表現では、「原告は自己の立場に沿う意見をもつ事を生徒たちに求めていたと推認できるのであり、少なくとも紙上討論授業においては、自己の政治的思想に相容れない意見の生徒に対しては再考を促す方針で授業をしていたと認めることができる」とし(47頁)、「生徒に自己の政治的思想に近い意見を形成するよう誘導していた事実」を認めている(42頁)ことを挙げるだけで十分であろう。
ここで突然「特定の政治的立場からの資料を提供することとマインドコントロールとは異質な行為である」と断定されても当惑するばかりである。 
本件書籍には、生徒達が感想文に「マインドコントロール」という言葉を使っていたことが記載されている。「幼い頃に『天皇は偉い』とマインドコントロールされていた人々はなくなると思うから」 「今のマスコミも国民をマインドコントロールしようとしているのではないか」(甲1・36頁)などである。それが政治的意見や信条を「一定の方向に誘導する」趣旨で用いられることは明らかである。「マインドコントロール」の語は、一般にこうした意味で使われていることの好例である。
「生徒達に自己の政治的思想に近い意見を形成するよう誘導していた」事実が認められている原告の「偏向授業」に対し、「一定の方向に誘導する」趣旨でマインドコントロールの語を用いて論評することが、論評の範囲を逸脱したなどと断じ得ないことは明らかである。

12 第2情報:
? 原判決は、「原告の生年月日以外の情報は公の批判・検討の対象とされるべき事柄で、公開することが、原告の教育公務員としての適格性を批判する目的を達するため必要である」としなから、「生年月日を公開した点は、公開によってもたらされる利益が認められず違法である」とした。
? しかし、生年月日という情報は、人の成長過程における時代背景を知る有力な情報となるものであるし、特に本件のような「特定の政治的立場に立って授業を指導した」ことが問題の一つとされた場面にあっては、教育公務員としての適格性を批判する目的を達するためには、当人の年齢や時代背景を考察することも必要である。しかも、原判決が認めているように、本件書籍より以前に報道された産経新聞においても年齢の記載は認められていること、生年月日を除く主たる情報部分については原告はその支持団体が作成したビラにおいてこれらの情報を公開することを承諾していること(55頁)などからして、原告の姿勢はいわばプライバシー権の主張を放棄しているに等しいのである。少なくとも、これらの一連の流れの中では、生年月日という情報のみを除外しなければならないような受忍限度を超える特別な事情はないのである。以上から公開によってもたらされる利益が認められないとした原判決は誤りである。
 
13 第3情報:
? 原判決は、「教育研究所での研修を命ずる発令通知書にある情報は、教育公務員である原告の適格性に関わる事柄であって、公の批判・検討の対象になるべき事柄である」としながら、「教育公務員の適格性を批判するという被告らの目的を達成するためには、原告の学校における授業方法等公になっている事実を取り上げてこれを批判することで足りる」として、「発令通知書の全文を引用することにより原告が教育研究所での研修命令を発令されたとの事実を公にする必要性までは認めることはできない」として、公開の違法性は阻却されないとする。
? 上記の原判決の判断は、本件書籍が、原告の教育公務員としての適格性に対する批判に止まらず、第2の6で論じたように、同人の懲戒免職を都教委に求める意見論評であることを失念している。
原告が命じられた研修の内容に関する第3情報は、原告の具体的な研修態度と相俟って、果たして原告に対して下された処分が十分なものだといえるか、果たして所期の効果を挙げているかを批判・検討するうえで必要なものである。公務員の罷免を求める権利が国民固有の権利(憲法15条)であることに照らし、原告に対する罷免当の厳正な処分を求めるうえで、検討材料を公衆に提供することの合理性は認められるというべきである。
?  しかも、原判決が認めているように、原告はその支持団体が作成し
たビラにおいてこれらの情報を公開することを承諾しているのであって(56頁)、そこには、「氏名」、「所属」、「研修命令が出されたこと」、「研修場所」、「研修期間」など、発令通知書(乙5)と同じ内容が公表されているのであるから、プライバシー権の主張を放棄しているに等しいのである(乙40)。原判決は、「原告が教育研究所での研修命令を発令されたとの事実を公にする必要性」を否定するが、この観点を過小評価するものであり、不当である。なお同ビラには、唯一「研修内容」について触れられていないが、前述のように教育公務員としての適格性と下された処分の当否、罷免の要否を論じるにあたっては、原告がどのような研修を命じられたのかは重要不可欠な情報であるから、これを発令通知の全文を載せる形で公表したことには、十分な理由と必要性が認められるのである。

 3 第4情報:
?  原判決は、「原告が指導力不足教員であると評価され、研修を
受けた事実が公の批判・検討の対象となるべき事柄であるとしても、その具体的研修態度までが公の批判・検討の対象になるということはできない。」とし、「研修における具体的態度まで公開する必要があったと認めることはできない。」とした。
? 本件書籍を正しく読めば明らかなように、被告らは、東京都教育委員会が発令した研修命令につき、それが多くの子供たちを原告の攻撃的な学習から守ったとして評価しているが、他方、教育研究所における研修態度からみて研修の効果は不十分であり、研修後の現場復帰を許すべきでないとの観点から罷免を求め、都議会各会計決算特別委員会等において教育長に「是非とも実効ある処理」を求めているのである(甲1・169頁〜)。
教育研究所での研修を命じるだけでは教育健全化に向けた実効性を期待できないとする被告らの主張が当を得ているかどうかを公衆に問うためには、原告の具体的な研修態度(全く反省することなく、集会等で公然と都教委を批判するもの。)を明らかにして公の批判・検討に供する必要がある。   
原判決は「具体的研修態度までが公の批判・検討の対象になるということはできない」とするが、被告らが本件書籍において原告の罷免を求めていることを敢えて看過したものである。
また、具体的研修態度の公表が、教育公務員である原告の罷免という公共事項にかかる被告らの真摯な論評活動の一環としてなされたこと照らせば、「公正な論評」法理が、当該意見の客観的な正当性を敢えて問わないとして言論の自由を厚く保護していることと比較し、原判決の恣意性・不当性は明らかである。    
                            以上