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 堀喜美子著「従軍看護婦の集団自殺」より
ありもしない「従軍慰安婦」が非難されるなら、ロシアはその千倍も万倍も非難されなければならない


■青葉慈蔵尊由来記■

あなたは知っていますか。

赤十字看護婦として従軍し、

終戦後に異境の地満州で悲しくも壮絶な

自決を遂げた大和撫子たちのことを。

何故に、若き乙女たちは死を選んだのかを。

何故に、この慈蔵尊が建立されたのかを。



●青葉慈蔵尊由来記
 ―従軍看護婦団の悲壮なる自決―

痛恨の事のみ多き大東亜戦争の中で最も憤ほろしく許せないのは、米軍の原爆投下とともに、それ以上に、日ソ中立条約の有効を信じて対米和平の斡旋さえひたすら頼み込んでいたその相手ソ連から、背信の火事場泥棒に続いて加えられた史上未曽有の悪魔的惨虐であり、何よりも痛ましいのはその鬼畜の蛮行に曝された女性たちの悲劇であった。

 昭和二十一年六月、ソ連占領下の満州の長春でソ連軍の蛮行に抵抗して純操を守り抜いた従軍看護婦の集団自決は、その中の一つの事実であるが、あの時期における全ての受難同胞を代表して実に見事に日本人の魂を犯すべからざる威厳を示した、永遠に語り継がれるべき悲歌である。

〇卑劣なる悪魔の毒牙

 八月九日、突如ソ連軍の侵略が開始されるや、満州東部国境に近い虎林の関東軍野戦病院に軍医である夫と共に勤務していた堀喜美子婦長以下三十四名の従軍看護婦は移動を命ぜられ、一週間の強行軍を経て当時の首府新薪、今の長春に辿り着いたが、その日、八月十五日、そこで日本の降伏を知った。ソ連軍の南侵は急速であり、すでに中共軍も入って来ている。覚悟は出来ていたものの、栄えある白衣の天使が一転して虜囚の身である。
 これからどうなるのか誰にも判らなかった。殊に夫、堀軍医中尉と今生の別離になるとも知れず離れ離れとなった堀看護婦長に、男女二人の幼児が残されたのである。

 暗澹たる日々であったが、長春の通化路第八紅軍病院に一ケ月二百円の給与の約束で勤務することになって、ともかく帰国の望みを抱きながらその年は暮れた。
 明けて二十一年の春、城子溝にあるソ連の陸軍病院第二赤軍救護所から三名の看護婦を応援に派遣せよという命令が婦長に伝達された。惨劇はこの一枚の命令書から始まったのである。

 看護婦長堀善美子さんはこの命令を受けた時「ただ何となしに手が小刻みに震え、ふっと曇った胸に不安の黒雲が段々広がっていく行くのをどうしても消すことが出来なかつた」と言っている。ともあれ、命令には応援は一ケ月でよい、月給は三百円を支給するとあるが、この危険を感じる所へ誰を送るか。婦長と軍医は相談の上、仕事も出来、気も利く優秀な大島はなえさん、細井たか子さん、大塚てるさんの三名を漸く選び出した。

不運な白羽の矢を立てられた三名はそれでも極めて元気に一ケ月のお別れ告げて出掛けて行ったが、予定の一ケ月を過ぎても帰って来ないうちに、同じ城子溝の病院から、また三名の看護婦追加の申し込みが来た。
 やむを得ず、荒川静子さん、三戸はるみさん、澤田八重子さんの三名が第二回目の後続として送り出された。そうこうするうちに二ケ月経ったが誰一人として帰って来ない。そこへまた第三回目の命令である。一ケ月という約束など眼中にないらしいソ連の図々しさに痛憤したものの、戎厳令下の長春で占領軍の命令を拒否したならば、長春三百人の日本人が皆殺しされるかも知れぬという恐怖があった。もうこれきりと申し合わせて、しぶしぶまた、井出きみ子さん、澤本かなえさん、後藤よし子さんの三名を送った。

 ところが、何事ぞ、厚顔無私、またしても第四回目を申し込んで来たのである。
 もはや我慢の限界であったが、しかし敗れた者の情なさ、どうすることも出来ない。やはり送る外ないと、四たび三名の女性が選ばれ、月曜日の午前中に出発することになった。それは六月十九日土曜日の夜であった。

 堀婦長が憂鬱な人選を終え八時過ぎに病院を出ようとした時、扉口によろめき倒れかかって来た傷だらけの女性がある。
 日本の振り紬をイブニングドレスに更生した肩も露な洋服をまとい、裸足で桃色の繻子の靴を片足だけしっかり握りしめている。落ち着いてよく見ると、何と第一回に派遣した大島はなえ看護婦ではないか。病室にかつぎ込んで手当したが危険は刻々と追って来る。堀婦長はこの時のことを次のように語っている。

 ≪しかし、聞くだけのことは聞かねばならないので、大島さんを揺すぶって起こし起こして聞いてみますと、哀れなこの看護婦は私の腕に抱かれながら、ほとんど意識を失いかけている臨終の眼を無理矢理にひきあけて、次のように物語るのでした。
「私たちはソ連の病院に頼まれていったはずですのに、あちらでは看護婦の仕事をさせられているのではありません。行った日から病院の仕事は全然しないで、ソ連将校の慰みものにされているのです。
 最初に行きました三人に、ほとんど毎晩三人も四人もの将校が代わる代わるやって来て私たちをいい慰みものにするのです。否と言えば殺されてしまうのです。
 私も殺されるぐらいはかまいませんが、次々と同僚の人たちが、ここから応援を名目にやって来るのを見て、何とかして知らせなければ死んでも死に切れないと考えましたので、厳重な監視の眼を盗んで脱走して来たのです」というのでした。
 聞いている私をはじめ、居残っていた病院の人たちも、その話にただ暗澹と息をのみ、激しい憤りに身内が震えてくるのを禁じ得ません。脱走した時、うしろから撃たれたのでしょう、十一発の銃創の外に、背中に鉄条網をくぐって来たかすり傷が十数本、血をふいて、みみずばれに腫れています。どんな気持ちで鉄条網をくぐって脱走してきたのか、どんな危険を冒して来たのか、その傷は何よりも雄弁に物語っているではありませんか。
 身を挺して次の犠牲者を出したくないと決死の覚悟で逃れて来たこの看護婦の話に、私の涙は噴水のように後から後から噴き出し釆ました。
 国が敗れたとしても個人の尊厳は冒すこと出来ないのではないのでしょうか。
 それをわずか七日間の参戦で勝ったというだけで、清純な女性を犯すとは何事ぞと、血の出るような叫びを、可憐な二十二歳の命が消えて行こうとする臨終の床に、魂をさく思いで叫んだのでした。
「婦長さん!もう後から人を送ってはいけません。お願いします」という言葉を最後に、その夜十時十五分、がっくりと息をひきとりました。泣いても泣いても涙が止まりませんでした。》

〇死をもって守る乙女の純操

 よく二十日日曜日満州の慣習に従い、土葬の野辺送りをすませ、髪の毛と爪をお骨代わりに箱に納め、大島さんには懐かしい三階の看護室に安置し、その夜は一同遅くまで思い出話に花を咲かせた。
 明くる月曜日朝、別にあてがわれている合宿所から出勤して来た婦長に、待ちかまえていた人事課長の張宇孝が「もう九時を過ぎているのに一人も出勤して来ない。患者がもうあんなに来ているのにどうするつもりだ」と怒鳴りつける。
婦長は、ハッとして夢中で三階の看護婦室に駆け上がった。そして見たものは・・・。婦長はこう語っている。

 《入口には一同の靴がきちんと揃えてありました。障子を開けると大きな屏風が逆さまに立ててあります。中からプンと線香の匂いがしました。変だなと考えるひまもなく部屋に駆け上がってみました。胸がドキドキしました。二十二人の看護婦がズラリと二列に並んで眠っています。しかも満州赤十字看護婦の制服に制帽姿で、めいめい胸のあたりで両手を合わせて合掌しているではありませんか。
 脚は紐できちん縛ってあります。直感的な不安を感じ私はあわてて一人に触ってみました。もう冷たくなっているのでした。(中略)
 し−んとした死の部屋で、どの顔もどの顔も、極めて平和な、しかも美しい顔をして、制服制帽こそ長い間の従軍につぎが当たり色は褪せてていますが、折り目正しく、きちんと着ています。二列になった床の中央には机を持ち出し、その上に昨日各自の手でお弔いをした大島はなえさんの遺髪を飾り、お線香と水が供えられてあります。》

 その遺書にはこう書かれていた。

 『二十二名の私たちが自分の手で命を断ちますこと、軍医部長はじめ婦長にもさぞかしご迷惑と深くお詫び申し上げます。
 私たちは敗れたりとはいえ、かつての敵国人に犯されるよりは死をえらぴます。
 たとい命はなくなりましても、私どもの魂は永久に満州の土に止り、日本が再びこの地に還って来る日、御案内致します。その意味からも、私どものなきがらは土葬にして、この満州の土にしてください。』

 この後に全員の名前がそれぞれの手で記されてあった。

 現場検証に来たゲー・ペー・ウーにその遺書を見せ、婦長は溢れ落つる涙を拭きもあえず、投獄されようと厭う所でなく、嗚咽とともに、最初からの経緯をことごとくぶちまけてソ連の非道をなじった。さすがのゲー・ペー・ウーも顔色を変えて感動したようである。翌日直ちに「ソ連の命令として伝えられるもので納得行かぬものがあれば二十四時間以内にゲー・ペー・ウーに必ず問い合わせること」 「日本の女とソ連兵がジープその他の車に同乗してはならない」というような布令が出た。どうせソ連のことであるが、これで当面いくらかの効果はあったであろう。

 二十二名の自決の模様は、一番年長で監督をしていた二十六歳の井上鶴美さんが、皆に青酸カリを与えて一同の死を見届けた上、最後に自分も服毒して息絶えたものらしく、二十一名はきちんと膝を紐でくくり、静かに眼をつぶって合掌していたが、一番端でこと切れている井上さんだけは断末魔の苦悶の表情があった。
 彼女たちは死の当日、ボイラー室に大きな包みを二つ持ち込んで来て目の前で燃やしてもらい、汚れ物一枚残さず、日本女性の身だしなみのよさと覚悟のほどが偲ばれた。

 病院からこの非業の死を遂げた人々に送られたものは小さな花束一つ。誰にも金はない。遺書のとおり土葬にしようとしたところ、それではあまりに気の毒と同情した張宇孝人事課長の供養によって火葬に付し祖国に帰れることになった。

〇この壮絶に鬼も哭け

 二十二名のお骨を祀って四十九日を迎えた日、堀婦長はお供えのお饅頭を作る粉を買いに出掛けた時、たまたまミナカイデパートの地下室のダンスホールに、あの三回に分けてソ連の病院に瞞されて行った人たちがダンサーをしているということを知った。早速訪ねて行って、待っていると六人の看護婦は急いで出てきた。日本の着物を更生した肌も露わなイプニングドレスに、眉を細くひき、ルージュを濃く、いかにもナイトクラブのダンサー然としているが、顔は病人のように蒼白である。
「こんな所でこんなことをしないで、早く私どもの所に帰って来て」と極力勧めたが、俯いて肩を震わせて泣く彼女たちは、首を横にふるばかり。たまりかねた堀さんが、「あなた達はそんなことを好きでやっているのね。そこまで日本人も堕落したのか」と罵って三っつぱかりひっぱたいた。するとみんな一層しょげて、涙ながらに言うには、
「婦長さんがそれほどにまで私たちのことを考えて下さるなら申し上げます。最初私たちがソ連の病院に送られた時から、私たちは毎晩七八人のソ連の将校に犯されたので、すぐに国際梅毒をうつされてしまいました。私も看護婦です。今では大分悪化していることがわかります。こうなっては自分の体は屍に等しいのです。
 どうしてこの体で日本に帰れましょうか。仮に今後どのような幸運に恵まれて日本に帰れる日が来たとしても、この体では日本の土が踏めません。この性病がどんなに恐ろしいものか十二分に知っています。暴行の結果うつされたこの性病を私はソ連軍の一人でも多くうつしてやるつもりです。今は歩行も困難なくらいですが、それでも頑張って一人でも多くのお客をとることにしています。これが敗戦国のせめてもの復讐です」

 決然といいはる彼女たちに帰す言葉もなく別れた婦長は、病院中の性病の薬を集めてキャバレーに届けさせた。しかし、彼女たちは「日本の人たちが作ったこの薬品、こんな貴重な薬品をいただいては
申し訳ない。ソ連軍からうつされた私どもの病気を日本人の作った薬で治すのは勿体ない」と言って受け取らない。
そして重ねて訪ねて行った婦長に、「その御親切を無にするわけをお見せしましょう。ょう」と自分たちの部屋に案内して患部を見せた。制止できない症状。コンジロームが局部一杯に広がってその先が全部化膿して膿が流れ、無花菓(いちじく)の腐敗したのを見るような感じに、長年看護婦をして馴れているはずの堀さんも全身総毛立ちの寒気がしたという。
 この六人のうち四人は、堀さんたちの引き揚げに際しては、ハルピンに身売りまでしてその費用を稼いでくれたという。

〇この世は鬼あり仏あり

 このような犠牲をあとに、二十三年の暮、堀さんはその遺骨を抱き、幼い二人の子を連れて、千辛万苦、死線を越えて漸く祖国に辿り着いたが、それからまた大変であった。日本赤十字をはじめ国の関係の何処かで霊を祀ってもらいたいと奔走したが、いずれも冷たく拒否された。
 やむを得ず、遺骨は自分の郷里山口県徳山市の家に仮に納めたが、一日も早くちゃんとした安息の地を定めたい。清水市の桜ケ丘保健所に勤務し、二人の子供を育てながらも、亡き友たちのことは一日も忘れることはなかった。

 満州から一緒に引き揚げてきた軍医の平尾勉なる人物と相談して、冥福を祈るため毎月二百円ずつ貯金を積み立てる計画を立てたが、それではとても間に合わぬので、自分の持ち物一切、子供のものまでも質に入れて、五万八千円という大金を工面して平尾元軍医に預け、七回忌までに、彼女たちが満州に渡る直前二週間幕舎生活をして訓練を受けた思い出の地、群馬県吾妻郡大泉村に慰霊の御地蔵さんを建てることにした。堀さんは自分は現地に行けないが、平尾が当然実行してくれたものと信じていた。

 しかるに数年後、当時堀さんの話に感動して浪曲にし、仝国を巡演していた松岡寛さんがお詣りをするつもりで大泉村に行ってみると、何も建っていない。平尾が堀さんの信頼を裏切り、金を着服してしまっていたのである。堀さんの受けた傷心は察するに余りあるが、しかし苦労し抜いた彼女の心は正に地蔵様のように思いやりと慈愛に満ちていた。「こんな時代です。みんな苦しいのです。平尾さんは決して悪い人ではないけれど、家族を養うためにどうにも仕方がなかったのでしょう」といって、もう何も責めず、愚痴も言わなかった。

 ただ其処から再び悲しい従軍看護婦たちの安眠の地を求める忍苦の生活が始まった。しかし、この悪い奴がはびこる汚れた世にあっても、観世音菩薩はいろいろな人の形に身を現じて、堀さんに救いの手をさし伸ばして下さった。

 まず前述した松岡寛さん。やがて結ばれて夫婦になるのであるが、春日井梅鴬の門下で若梅鴬と名乗る人気の高い浪曲師であった。堀さんの話しに感激し、『あゝ従軍看護婦集団自殺』と題する浪曲を作って全国を巡業したが、それによっても、奇跡的にも、まったく手掛かりもなかった十九人の遺族が名乗り出ることになるのである。

 そして、も一人は、埼玉県大宮市の墓地青葉園の理事長吉田亀治氏。山下奉文将軍の副官を勤めたことがある元陸軍歩兵大尉であるが、侠骨稜々たる氏は、偶々この若梅篤師の浪曲を聴いて涙を流し、その青葉園の一角に地蔵尊を建立してくれることになったのである。

 またつけ加えれば、堀さんが身ぐるみ入質した質屋の御主人。話を聞いて、期限が来ても流すどころか、一切無利子無期限に預かりますということになった。

〇いざ受けたまえ紫の数珠

 かくして、昭和三十一年六月二十一日、名も爽やかな「青葉慈蔵専」の開眼供養が行われ、自決した二十二名の乙女たちの遺骨はその台下に納められ、大島看護婦たち非業の運命を倶にした同僚たちの霊も併せ祀られた。この日、堀さんは現在勤務している陸上自衛隊中央病院の制服も凛々しく、胸に溢れる無量の感慨をジッと噛みしめていた。

 像は高さ五尺余の小松石。左の掌に赤十字の制帽を載せて微笑んでいる。白衣が取り除かれて慈蔵尊が全身を現した時の情景を当時私は次のように書いた。
その一節。

 《今日この一隣のためにこそ生きて来たこの人たちの命であったのだ。覚えずよろめくように慈蔵専にシカと抱きついて咽び泣いた堀さんは、しかしすぐ気を取り直して起ち上がり、ふるえる手を伸ばして、慈蔵尊の右の手に紫の緒の数珠をかけた。息をのんで見守っていた私の眼は瞬間溢れる涙で何も見えなくなった。あちらこちらから畷り泣きの声が洩れる。
 あの満州で健気にも自らの純潔を守って自決していった乙女たちの悲しい願いは果たされたのである。あなたたちのほしがった紫の緒の数珠は、堀さんの約束通り慈蔵尊の御手にかけられ、とこしへに彼女たちの霊に捧げられたのである。
 天も泣くこの時、降るともなく一滴、また一滴、雨の雫が頬をうつのであった。》

 《堀さんが今日捧げた紫の数珠、それはあの乙女たちがかわるがわる夢枕に立って、婦長持っている紫の数珠を下さいと泣いて訴える。あげますよ、あげますよ、あなたたちのお地蔵さんを建てて、その手に掛けてあげますよ・・・と夢に現に、約束をし続けて来たその数珠であったのだ。
 純白の仏像に紫の数珠。白衣の天使たちが微笑んでいるではないか。この世ならぬ美しきものを仰いで、私どもの涙は、払えども払えども止まらなかった。》 (『救国運動』昭和三十一年六月号)

 こうして敗戦国民の悲哀と恥辱を限りなく味わいながら地下に哭いていた看護婦の乙女たちの御霊は、ようやく安眠の地を得て、「青葉慈蔵専」に、その在りし日の可憐な姿と美しい心を表現したのである。

〇芳魂とこしなえに此処に

 それから更に月日は流れて平成八年六月二十一日、五十周忌の命日に、有志の手により、次のような由来を記した顕彰碑が、慈蔵尊の側に建てられ、遺書とともに乙女たちの姓名も刻まれた。

 『昭和二十一年春 ソ連占領下の旧満州国の新京の第八病院に従軍看護婦三十四名が抑留され勤務していたが ソ連軍により次々に理不尽なる徴発を受けその九名の消息も不明のまま更に四回目三名の派遣を命ぜられた
 拒否することは不可能であることを覚悟したその夜 最初に派遣された大島看浅婦が満身創痍瀕死の身を以て逃げ帰り全員堪え難い陵辱を受けている惨状を報告して息絶えた
慟哭してこれを葬った二十二名の乙女たちは 六月二十一日黎明近く 制服制帽整然として枕を並べて自決した
 先に拉致された同僚たちも 恨みを呑んで自ら悲惨なる運命を選び満州の土に消えた
 二十三年の暮れ 堀婦長に抱かれて帰国した二十二柱の遺骨は幾辛酸の末 漸く青葉園園主の義侠により此地に建立された青葉慈蔵尊の台下に納められた
九名の友の霊も併せ祀られ 昭和三十年六月二十一日開眼供養が行われて今日に至った
 凛烈なる自決の死によってソ連軍の暴戻に抗議し 日本女性の誇りと純血を守り抜いた白衣の天使たちの芳魂とこしなえに此処に眠る  合掌

 堀看護婦長、今は松岡喜美子さんは、その一生を貫く悲願と祈りの故に、年老いても若々しい精神を以て、後進の看護婦養成に専念しておられる。
 痛ましい限りだが、先日(平成8年)最愛の子、槙子さんを亡くされた。あの死線をともに越えて来た当時一才のお嬢さんである。さすが気丈の松岡さんもこのショックには絶えられず、お慰めする術もなかったが、「青葉慈蔵専」の御霊たちの励ましによってであろう、ようやく身心とも快復され、後進の指導に打ち込んでおられる。
 国の勲章というようなものは、送るなら誰よりも、このような人に送るべきではないかとしみじみ思う。

 最後に特記しておく。
 この日本魂の権化と仰ぐべき女性たちは日本赤十字より派遣されて「満州赤十字」に所属していたというだけの理由を以て「日本」の従軍看護婦として扱われず、靖国神社にも祀られず、国から何の援助も弔意も受けていない。それでよいのか。法律とはそんなものか。彼女たちの祖国はそんな国であったのか。耐え難い悲しみと憤りをもって国民同胞各位にご報告申し上げる。(中村 武彦)

 六月二十一日、青葉慈蔵専の前で、自決した従軍看護婦さんたちの五十一回命日の慰霊祭が営まれた。多くの心探き男女が参列して、あらためて遺烈を賛仰し後に続くことを誓ったが、その場で、松岡喜美子さんが挨拶に立ち、厚生省や総理府に陳情しても官僚的な対応を受けただけだった経過を報告し、せめて大臣・局長でなくてもよい、当局の誰かから、「看護婦諸君よくやってくれた、有難う」とか「相済まぬ」という一片の暖かい言葉を霊前に供えてやっていただけませんかと嘆願したが、それでも聞き入れてて貰えなかったと、涙ながらに訴えておられた。
 なんという政府の冷淡と不条理。あきらめてはっておけることではないと痛感した。

   平成九年六月十日付け「新日本」第949号より転記

*    *    *    *    *

 昭和二十三年九月のある朝、その日午後七時、南新京駅に集結という、突然の帰国命令が出た。堀婦長は子供たちに準備を言い残すと走り出していた。そうです。ダンスホールで働いている、あの六人の看護婦、細井たか子・後藤よし子・荒川静子・澤田八重子・井出きみ子・澤本かなえさんらの所です。「みんな帰れるのよ。帰国命令が出たのよ、今夜七時、南新京駅へ集まるのよ」と話した。
 彼女たちの言葉は、「七時までに準備して必ず参ります」というものだった。

 しかし、その約束には衝撃的な永遠の別れが堀婦長を待っていた。約束の時間の二時間前に行き、六人の来るのを待ったが細井さんらの姿は見えなかった。
 そのうち引揚げ用の貨車が入り、堀婦長は二人の子供らと共に貨車に乗った。
 そして目線は六人の姿を求めて遠く近くをさまよった。その時、意外に近くに制服制帽の荒井、細井、後藤さん三人が貨車に向かって来るのが見えた。
 三人を貨車に引っ張り上げ、堀婦長は「あとの三人は?」と問うと、「あとから来ます。これ、食料の足しにしてください」と言って抱えていた大きな包みを差し出し、「婦長さん、私たち澤本さんたちを探してきます」と言って貨車を降り始めた。

 飛び降りた三人の姿が堀婦長の視界から消えてものの一分もしないうちに、「バーンという銃声、続いてもう一発」の銃声が鳴った。誰かが、貨車の下の方だ、と叫んだ。
 何事かと堀婦長が立ち上がろうとしたその時、「婦長さぁん、さようならぁ・・・」と言う細井たか子さんの声が聞こえると同時に三発目の銃声が鳴った。
 堀婦長は反射的に貨車を飛び降り自分の乗っていた貨車の下に目を注ぐと、「うおぅー」と狼のような声を上げて走り寄った。後藤さんと荒川さんの身体を覆うようにして倒れていた細井さんの右手には拳銃が握られていた。

 おそらく、気丈な細井さんが先に二人を射殺し、最後に自分のコメカミを撃ったことが、堀婦長にはわかった。当然即死であった。
「わかる、わかるよう。あんたたち、こうする外なかったのね。こうしなければあの忌まわしい記憶から逃れる術がなかったのね。ごめんね。・・・早く、楽になってね。今度はもっと強い運をもらって生まれてくるのよ」 堀婦長はそう言って線路の砂利の上に座っていた。
嗚咽の中で冥福を祈り、もう一度合掌してさて遺髪をと、思いついた矢先引揚げ列車は無情にも、発車の汽笛を鳴らし、堀婦長は車上の人となった。
 結局、澤本かなえ・澤田八重子・井出きみ子さんの三人は姿を見せなかった。
 また、ソ連の病院に派遣された九人のうち、二人の行方は杳(よう)として知れずに終わった。

  堀喜美子著「従軍看護婦の集団自殺」より


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マスキ様こんにちは。日本の心をつたえる会です。
ねずブロメルマガより     H25-4-17


祖国遙か
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「祖国遙か」というお話を書きたいと思います。
昭和21年6月20日、長春で自決した22名の日本人看護婦たちは、遺書に、
「たとえ生命はなくなりましても、私どもの魂は永久に満州の地に止まり、日本が再びこの地に帰ってくる時、ご案内をいたします」としたためました。
その思いを、命を絶ってまで満州の地を愛したその思いを、私達はけっして忘れてはならないと思う。
以下は実話です。
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掘喜身子さんは、幼い頃から病人を看護することが好きだったそうです。
彼女は、女学校を出ると、昭和11(1936)年、満州に渡りました。
そこで満州赤十字看護婦養成所に入所し、甲種看護婦三年の過程を修めて、郷里の樺太・知取(シリトリ)に帰り、樺太庁立病院の看護婦になりました。
昭和14(1939)年の春、彼女は医者である堀正次さんと結婚しました。
結婚して1年目の春、堀喜身子さんに、召集令状がきました。
看護婦として従軍せよ、という令状です。
彼女は、令状を受けた一週間後には、単身で任地の香港第一救護所に出発しました。
まもなく、彼女は任地が上海に移り、ついで満州国牡丹江から、さらにソ連との国境に近い虎林の野戦病院に48名の同僚とともに異動となりました。
彼女が出征して6か月目のことです。
その虎林の野戦病院には、医師である夫の正次も令状を受けてやってきました。
ふたりはそこで医師と看護婦の夫婦として、毎日前線から送られてくる傷病兵の治療をして過ごしながら、同時に長男静夫(しずお)、長女槇子(まきこ)の二人の子にも恵まれまています。
昭和20(1945)年8月8日、ソ連が日ソ不可侵条約を破って、突然満州に攻め込んできました。
戦況は激しいものでした。
爆撃の危険から、虎林の野戦病院では、患者全員を長春に移すことに決定しました。
けれど患者のうち70余名は、伝染病の重患なので一緒に連れて行くことができません。
野戦病院では、軍医中尉であった夫の堀正次と、他に2名の軍医、それと5名の兵隊さんを残して、ある程度元気な者のみ、長春に向かわせることにしました。
喜身子さんは、夫からもらった将校用の水筒を肩に、長春に向かいました。
二人は、これが今生の別れとなりました。

・・・・・・

虎林を出発した病院の医師、看護婦、患者たちの一行は、牡丹江を過ぎ、ハルピンを通過して、一週間目の8月15日に、ようやく長春にはいりました。
そこで終戦の玉音放送を聞きました。
そして日をおかず、長春はソ連軍に占領されました。
長春がソ連軍に占領された後、掘喜身子さんは、将校夫人や子供たちと一緒に、女ばかり76名で合宿所に入れられました。
そこでは身上調査を受けました。
調査の結果、掘喜身子さん以下虎林の野戦病院から来た看護婦34名は、長春第八病院に勤務せよとの命令を受けました。
月給はひとり200円です。
彼女たち34名の看護婦は、その給料をみんなでまるごと出し合い、一緒に収容されている将校家族を養う費用にしました。
けれど、物価はあがる一方です。
生活は日に日に苦しくなりました。
堀喜美子さんも、次第に体がガリガリに痩せ細って行ったそうです。
昭和21(1946)年春のことです。
第八病院の婦長をしていた堀喜身子さんのもとに、ソ連陸軍病院第二赤軍救護所から、一通の命令書が来ました。
内容は、
 看護婦の応援を要請。
 期間は一か月
 月給300円
というものでした。
生活が苦しい中、月給300円は魅力です。
それに、いくらソ連軍とはいえ、世界各国で公認されている赤十字を背負う看護婦に間違った扱いなどすることはないだろうと思われました。
しかも、「ソ連陸軍が発令した公文書」としての「命令書」です。
婦長をしていた堀喜美子さんは、一抹の不安はあったけれど、引率者である平尾勉軍医と相談して、看護婦の中でも、もっともしっかり者だった大島花枝、やはりしっかり者の細川たか子、大塚てる、の3名の看護婦を選びました。
出発の日、堀喜美子さんは、三人に、
「決して無理はしないように」と言い聞かせました。
このとき、大島花江看護婦は、元気いっぱいの笑顔で、
「心配はいりません。敗戦国であろうと、世界の赤十字を背負う看護婦として、堂々と働いてきます!」と答えています。
「大島さん、細井さんと大塚さんのこともお願いね」と気遣う婦長に、
細井、大塚両名も、
「あら、大塚さんばっかり。私たちはいつまでたっても一人前じゃないようだわ」
「ほんとうに、失礼しちゃうわね」
と明るく冗談を言い合い、みんなで明るく笑いあっていました。
堀喜美子さんは、出発する3名に、きちんと制服(看護婦の白衣の他に軍看護婦としての制服があった)を着せました。
そして、制服の右腕に、しっかりと「赤十字の腕章」を付けさせました。
誰がどこからどうみても、赤十字の看護婦であることがひとめでわかるようにしたのです。
こうして三名の看護婦は、元気に一か月の別れを告げて出かけて行きました。
ソ連陸軍病院第二赤軍救護所に到着した三人は、それぞれ離れた場所に別々に部屋を与えられました。
部屋は個室で、ベットまで付いていたそうです。
大部屋暮らしだった大島看護婦たちにとって、個室はまさに夢のような環境でした。
やがて一か月が経過しようとしたとき、同じ病院から、また3名の追加の命令書がきました。
堀喜美子婦長は、荒川静子、三戸はるみ、沢田八重の3名を、第二回の後続として、ソ連陸軍病院第二赤軍救護所に送りだしました。
もうまもなく、最初の三名が交代して帰ってくる。
誰もがそう思いました。
ところが、最初の3人が帰ってきません。
やがてさらに一か月が経過しました。
すると、また3名の追加の命令が、ソ連陸軍病院第二赤軍救護所からもたらされたのです。
堀婦長は、心配になりました。
引率者の平尾軍医に、命令を断るよう談判しました。
一か月という約束で看護婦を送っているのです。
最初の3名が行ってから、もう3か月も経過しています。
2回目の看護婦が行ってからも、2か月です。
その間、誰も帰してもらっていません。
向こうが約束を反故にしているのです。
普通なら、そんな約束も守れないようなところに、大切な部下を送ることなんてできません。
しかも6名とも、行ったきり音信不通です。
おかしいのではないですか?
けれど相手はソ連軍です。
命令に背けば、医師や看護婦だけでなく、患者たちまで全員が殺されてしまう危険があります。
病院としては、命令に背くことはできない。
みんなで相談しあい、やむなく井出きみ子、澤本かなえ、後藤よし子の3名を送り出しました。
けれど、仏の顔も三度までといいます。
4度目の命令がきたら、こんどこそ絶対に拒否してやろう。
先に行った者たちが心配でたまらない堀婦長がそう思っている矢先、一か月後、誰ひとり帰らないまま、4度目の命令が来ました。
今度もまた、3名の看護婦を出せ、というものです。
なんという厚顔無恥!
残る看護婦は、婦長の堀喜美子の他、22名です。
その中から、4度目の3名を選出しなければならない。
堀婦長の心の中には、暗澹とした不安がひろがっています。
その日の夜、堀婦長は、次に向かう3名を呼びました。
明後日出発すること、先に行った看護婦たちに手紙で状況を報告するように話してもらいたい旨を、3名に伝えました。
その日の夜のことです。
すっかり夜も更けたころ、病院のドアをたたく音がしました。
こんな時間に何事だろう・・・・
堀婦長が玄関の戸を開けました。
小さく明けた戸口から、髪を振り乱し、全身血まみれになった人影が、「婦長・・・」とつぶやき、ドサリと倒れこんできました。
見れば、その人影は、なんと最初に出発した大島花枝看護婦です。
たいへんな重体です。
もはや意識さえ朦朧(もうろう)としています。
大島看護婦は、全身11か所に盲貫銃創と貫通銃創を追っていました。
裸足の足は血だらけでした。
全身に、鉄条網を越えたときにできたと思われる無数の引き裂き傷がありました。
脈拍にも結滞があります。
着ている服もボロボロです。
「なにがあったのか」
堀婦長は、とっさに「そうだ。こうまでしてここに来なければならなかったのには、理由があるに違いない。その理由を聞かなければ」と思い立ったそうです。
そして、
「花江さん!、大島さん! 目を開けて!」と、大声で大島看護婦を揺り動かしました。
重体の患者です。
ふつうなら、揺り動かすなんてことはしません。
他の看護婦が「婦長! そんなことをしたら花江さんが!」と悲鳴をあげました。
けれど堀婦長は毅然として言いました。
「あなたたちは黙って! 花江さんは助からない。
 花江さんの死を無駄にしてはいけない!」
大島看護婦が目を覚ましました。
そして語ったのです。
「婦長。私たちはソ連軍の病院に看護婦として頼まれて行った筈ですのに、あちらでは看護婦の仕事をさせられているのではありません。行ったその日から、ソ連軍将校の慰みものにされてしまいました。
半日たらずで私たちは半狂乱になってしまいました。
約束が違う!と泣いても叫んでも、ぶっても蹴っても、野獣のような相手に通じません。
泣き疲れて寝入り、新しい相手にまた犯されて暴れ、その繰り返しが来る日も来る日も続いたのです。
食事をした覚えもなく、何日目だったか、空腹に目を覚まし、枕元に置かれていたパンにかじりつき、そこではじめて事の重大さに気が付き・・
それからひとりで泣きました。
涙があとからあとから続き、自分の犯された体を見ては、また悔しくて泣きました。
たったひとりの部屋で、母の名を呼び、どうせ届かないと知りながら、助けを求めて叫び続けました。
そしてどんなにしても、どうにもならないことがわかってきたのです。
やがておぼろげながら、一緒に来た二人も同じようにされていることもわかりました。
ほとんど毎晩のように三人か四人の赤毛の大男にもてあそばれながら、身の不運に泣きました。
逃げようとは何度も思い、しかもその都度手ひどい仕打ちにあい、どうにもならないことがわかりました。
記憶が次第に薄れ、時の経過も定かではなくなった頃、赤毛の鬼たちの言動で、第八病院の看護婦の同僚たちが次々と送られてきていることを知って、無性に腹が立ち、同時に我にかえりました。
これは大変なことになる。
なんとかしなければ、みんなが赤鬼の生贄になる。
そんなことを許してはならない。
そうだ、たとえ殺されても、絶対に逃げ帰って婦長さんにひとこと知らせてあげなければ・・・
赤鬼に汚された体にも、命にもいまさら何の未練もありませんでした。
私は、二重三重の歩哨の目を逃れ、最後お鉄条網の下を、鉄の針で服が破れ、肉が引き裂かれる痛みを感じながら潜り抜けて、逃げました。
後ろでソ連兵の叫び声と銃の音を聞きながら、無我夢中で逃げてきました。
婦長さん。
もう、ひとを送ってはなりません・・・・」
そこまで話して大島花江看護婦は、こときれました。
なんという強靭な意志の持ち主なのでしょう。
蜂の巣のようにされながら、この事実を伝えようとする一心だけで、まさに使命感だけで、彼女はここまで逃げてきたのです。
病室内に、
「はなえさん・・・」
「大島さん・・・」という看護婦たちの涙の声がこだましました。
こうして昭和21(1946)年6月19日午後10時15分、大島花江看護婦は、堀婦長の腕の中で息をひきとりました。
大島看護婦の行動は、どんなに勇敢な軍人にも負けない、鬼神も避ける命をかけた行動です。
大島看護婦の頬は、婦長や同僚の仲間たちの涙で濡れました。
あまりにも突然の彼女の死を、みんなが悼みました。
翌日の日曜日の午後、遺体は、満州のしきたりにならって、土葬で手厚く葬りました。
そして彼女の髪の毛と爪を、お骨代わりに箱に納め、彼女にとってはなつかしい三階の看護婦室に安置してあげました。
花を添え、水をあげ、その日の夜、一同で午前0時ごろまで思い出話に花をさかせました。
すべて、懐かしくて楽しかった内地の話ばかりだったそうです。

・・・・・

翌朝のことです。
堀婦長が、出勤時刻の9時少し前に病院の看護婦室に行くと、そこに病院の事務局長の張(チャン)さんがいました。
張さんは、日本の陸軍士官学校を卒業した人です。
張さんは、ひどく怒っていました。
看護婦たちが、だれも出勤していないからです。
こんなことは前代未聞です。
「変ですね〜」と最初、気楽に答えた堀婦長は、その瞬間、はっと気が付きました。
無我夢中で3階の看護婦たちの宿所に走りました。
いつもなら、若い女性たちばかりでさわがしい宿所です。
それが、今朝は、シーンと静まり返っています。
もの音一つしない。
堀婦長の胸に、ズシリと重たいものがのしかかりました。
宿所の戸を開けました。
お線香の匂いがただよっていました。
内側の障子は閉まっています。
なにが起こっているの?
おそるおそる障子を開けました。
部屋の中央に、小さなテーブルがありました。
その小さなテーブルの上には、大島看護婦の遺品と花とお線香、そして白い封筒が置かれていました。
そして、その周囲に・・・
きれいに並んだ、22名の看護婦たちの遺体が横たわっていました。
机の上の白い封筒は、彼女たちの遺書でした。
【遺書】
二十二名の私たちが、自分の手で生命を断ちますこと、軍医部長はじめ婦長にもさぞかしご迷惑のことと、深くお詫びを申し上げます。
私たちは、敗れたとはいえ、かつての敵国人に犯されるよりは死を選びます。
たとえ生命はなくなりましても、私どもの魂は永久に満州の地に止まり、日本が再びこの地に帰ってくる時、ご案内をいたします。
その意味からも、私どものなきがらは、土葬にして、この満州の土にしてください。
遺書の終わりには、22名の名前が、それぞれの手で記されていました。
遺体は、制服制帽の正装姿です。
顔には薄化粧がほどこされていました。
両ひざはしっかりと結ばれ、一糸乱れぬ姿だったそうです。
その中で、たったひとり、井上つるみの姿だけは乱れていました。
26歳で最年長だった彼女は、おそらく全員の遺志をまとめ、衣服姿勢を確かめ、全員の死を見届けた上で、最後に青酸カリを飲んだと推定できました。
畳を爪でひっかいた跡にも、顔の表情にも、それは明らかでした。
・・・・・・
現場に、通訳を連れたソ連軍の二人の将校と二人の医師がやってきて、現場検証が行われました。
堀婦長は逮捕されてもいい覚悟で、国際的にも認められている赤十字の看護婦に行った非人道的行為を非難しました。
事のてんまつを訴えました。
最後は、泣き崩れ、言葉にさえなりませんでした。
ソ連の将校たちは無言のままでしたが、事態の重大さは、わかったようでした。
この22名の集団自決による抗議に、ソ連軍当局も衝撃を受けたらしく、翌日、
■ソ連の命令として伝えられることで納得のいかないことがあれば、24時間以内にゲーペーウー(ソ連の秘密警察)に必ず問い合わせすること。
■日本の女性とソ連兵が、ジープあるいはその他の車に同乗してはならない。
というお触れが、日本人の宿舎にもまわってきました。
22名は、死ぬ前に全員、身辺をきれいに整理整頓していました。
ちなみに、彼女たちが「土葬にしてほしい」と遺言したのは、婦長や引率の平尾軍医などにお金がないことを気遣ってのことです。
「それではあまりに22名の看護婦たちがかわいそうだ。火葬にしたうえで分骨し、故郷の両親に届けれあげれるようにしようじゃないですか」と、張氏が、当時ひとり千円もする火葬代を出してくれました。
日本が負けて立場は変わっても、陸士出身の張さんの温情は変わらなかったのです。
張さんは「せめてこれまで朝夕親しく一緒に働いた人たちへの、これがささやかな供養ですから」と述べてくれました。
こうして22名の骨壺がならび、初七日、四十九日の法要もお経を唱えて手厚く執り行われました。

・・・・・

その四十九日のことです。
張さんが、亡くなられた看護婦さんたちに、せめてお饅頭でも作ってあげたら?と饅頭を作る材料費を出してくれました。
堀婦長は、張春のミナカイという市場に出かけました。
ミナカイは当時、東京でいえば銀座のような、張春一番の繁華街でした。
(といっても、闇市のようなバラックです)
堀婦長は、そのミナカイで、ふとしたことから、噂話を耳にしたのです。
長春第八病院に向かった9名の看護婦のうち、亡くなった大島花江を除く8人が生きている、というのです。
場所は、張春市内にあるミナカイデパート跡で、その地下のダンスホールに、ソ連陸軍病院第二救護所に送られた8名が生きてダンサーをしている、というのです。
堀婦長は、矢も楯もたまらず、その足でダンスホールに駈けました。
ダンスホールは、中は十畳ほどの広場になっていて、客はソ連人です。
働いているのはソ連人と中国人で、ダンサーは日本人、朝鮮人、中国人でした。
入口から中に入ろうとすると、ソ連人がそこにいて、入室を拒みました。
けれどどうしても彼女たちが気がかりで会いたいと思う堀婦長の迫力に圧倒されたのでしょう。
その入り口にいたソ連人は、隅にある小さな部屋で待っていろ、といいました。
部屋にひとり待っていると、ガチャリと音がして、扉が開きました。
そして肌もあらわな派手なパーティドレスを着た女性たちが部屋に入ってきました。
「ふ、婦長・・・」
「婦長さん!!」
「みんな・・・」
堀婦長にも、彼女たちにも言葉はありませんでした。
互いと会うことができた。
それだけで涙があふれました。
しばらくして落ち着くと、堀婦長は言いました。
「大島さんがね・・・」
「知っています。同僚たち22名が集団自決したことも聞いています。」
「だったら、こんなところにいないで、早く帰ってきなさい!!」
「・・・・」
「あなた達の気持ちは、痛いほどわかるわ。だけど帰ってきてくれなかったら、救いようがないじゃないの」
8名の看護婦たちは、その婦長の言葉に、うつむいて黙ってしまいました。
堀婦長は思いました。
自分の言葉が、あまりに一方的だったのではないかと。
けれど、彼女たちからすれば、そんな単純なものではなかったのです。
眉を細く引き、口紅を赤くし、ひとりひとりの顔は、以前の看護婦に違いありません。
けれど8人とも、まるで生気が感じられません。
それどころか、目をそらして堀婦長の目から逃れようとさえします。
堀婦長は心を鬼にして言いました。
「どうして黙っているの?どうして返事をしないの?
そう、あなた達は、そういうことが好きでやっているのね」
そう突き放したとき、ひとりが答えました。
「婦長さん、そんなにあたしたちのことを思っていてくださるのなら、お話します。
私たちは、ソ連軍の病院に行ったその日から、毎晩7、8人のソ連の将校に犯されたのです。
そして気づいてみたら、梅毒にかかっていたのです。
私たちも看護婦です。
いまではそれが、だいぶ悪くなっているのがわかるのです。
もう、私たちはダメなのです。
もう、みなさんのところに帰っても仕方がないのです。
仮に、幸運に恵まれて日本に帰れる日が来たとしても、こんな体では日本の土は踏めません。
この性病がどれほど恐ろしいものか、十二分に知っています。
だから、私たちは、梅毒をうつしたソ連人に、逆にうつして復讐をしているのです。
今はもう、歩くのにも痛みを感じるようになりました。
ですからひとりでも多くのソ連人に移してやるつもりで頑張っている・・・」
もう何も受け付けない。
もう何を言っても、彼女たちには通じない。
彼女たちを覆っているのは、完全な孤独と排他と虚無だけです。
彼女たちのその言葉を聞いたとき、堀婦長は流れる涙で、何も言えなくなってしまいました。
自分の人選です。
責任は自分にある。
彼女たちが負った傷の深さ、過酷さを思えば、彼女たちが選択したことに否定や肯定をするどころか、何の助言さえもしてあげれない。
ただただ、自分の無力さに悔し涙が止まらないまま、この日、さいごは、気まずい雰囲気のまま部屋を後にしたのでした。
けれど、堀婦長は思いました。
このままでは済まされない!
なんとしても彼女たちを助け出すんだ!
年が明け、昭和24年の6月19日の命日がやってきました。
その日、堀喜身子さんのもとに、彼女たちがやってきたといいます。
そしてこう言ったのです。
「婦長さん、紫の数珠をくださいな」
紫の数珠というのは、終戦の年の冬の初めにあったできごとに端を発します。
その日、張春の第八病院に、モンゴル系の女性が担ぎ込まれてきました。
妊婦でした。難産でした。
助産婦の資格をもつ堀婦長が軍医とともに診察しました。
すでに重体です。
もはや妊婦の生命は難しい状態です。
あとはせめて赤ちゃんの命だけは、という状態でした。
その日のうちに嬰児はなんとか取り上げました。
けれど出産で、妊婦は瀕死の状態です。
そこから二日三晩にわたって、婦長と看護婦たちみんなで献身的な看護をしました。
「なんとかして命だけは助けてほしい」と何度も哀願するご家族たちが、「ここまでやってくれるのか」と感激して涙を流すほどの真剣な看護でした。
そしてようやく、妊婦は一命をとりとめたのです。
一部始終を見ていた妊婦の身内の中に、モンゴルで高僧と言われた老僧がいました。
この老僧が、妊婦の生命をつなぎとめた神業のような看護を、驚異の眼で評価してくれたのです。
そして老僧は、生涯肌身離さず持ち続けるつもりでいたという紫の数珠を、お礼にと堀婦長に差し出してくれました。
その紫の数珠は、紫水晶でできていて、2連で長さ30cmほどのものです。
見た目もとても美しいが、それだけではなく、一個一個の珠に内部が覗けるように細工がしてあります。
そこから透かしてみると、ひとつひとつに仏像が刻まれている。
その日から、そのお数珠は看護婦たちの憧れの的になったそうです。
やまとなでしことはいえ、若い娘たちです。
美しい宝珠に興味津々だったのは、想像に難くありません。
婦長は何度も彼女たちにせがまれ、何度も見せてあげていました。
ある日、婦長はみんなに、
「いっそのこと、数珠の紐を切って、みんなで分けようか?」と提案したことがあります。
このひとことで看護婦たちは大騒ぎになりました。
彼女たちが亡くなったとき、婦長は彼女たちに誓いました。
「私の命に代えても、みんなの遺骨を日本に連れて帰るね。
日本に帰ったら必ず地蔵菩薩を造って、みんなをお祀りする。
その地蔵菩薩の手に、この紫の数珠をきっとかけてあげるね・・・・」
けれど、まだ地蔵菩薩はありません。
彼女たちの遺骨は菩提寺とはいえ、無縁仏にちかい形で置かれたままです。
婦長はなんども心の中でみんなにお詫びしました。
「ごめんね。いまの私にはどうすることもできないわ。
でもね、きっと、必ず、お地蔵さんを造ってお祀りする。
だから、もう少し待っていてくださいね・・・」
どうすることもできない境遇の中で、そのことを思う都度、婦長の眼からは涙があふれてとまらなかったといいます。
帯広で生活するようになってしばらくしたとき、徳山の夫の生家から、夫正次戦死の公報があったとの知らせが届きました。
こうなると、北海道にいる堀喜身子さんにとっても、遠く山口県の徳山市とのご縁も遠くなってしまいます。
けれど、死んだ仲間たちの遺骨は、徳山にあります。
なんとかしなければ。
そう思う堀婦長の心に、23名のご遺骨のことが、ずっと重い負担となり続けます。
なにもしないでいるわけにはいきません。
堀喜身子さんは、あちこち手立てを講じて、元の上官であった平尾軍医とようやく手紙で連絡をとりあいました。
そして二人で地蔵菩薩の建立費を積み立てようと決めました。
そして堀婦長から平尾元軍医にあて、毎月送金することにしました。
たとえ少額でも、たとえ一回に少しのことしかできなくても、こうして積み立てていれば、いつか必ず地蔵菩薩を建てられるに違いない。
そうと決まると、月給は少しでも高いにこしたことはありません。
堀喜身子さんは、給料の良い職場を求めて、静岡県の清水市にある病院に転職しました。
・・・・・・
この頃、戦後の何もない時代、庶民の唯一の娯楽といえばラジオくらいしかありませんでした。
なかでも、謡曲や浪花節は人気が高く、この時代に、広沢虎造や春日井梅鶯などが庶民の人気をさらっていました。
この春日井梅鶯の愛弟子に、将来を嘱望された「若梅鶯」と呼ばれる浪曲家がいました。
その若梅鶯が熱海で公演をしたとき、旅館のお帳場でお茶を頂いていると、旅館の社長さんが週刊誌を手にしてくるなりこう言ったのだそうです。
「いやあ、すごいものですねえ、満州の長春で、ソ連軍の横暴に抗議して、22人もの看護婦が集団自決したんだそうですよ。終戦の翌年のことだけどね・・・」
若梅鶯は、旅館の社長さんからその週刊誌をひったくると、むさぼるようにしてその記事を読みました。
読みながら、若梅鶯は、全身に鳥肌がたったそうです。
「こんな酷いことがあったのか・・・」
実は、若梅鶯こと松岡寛さんは、敗戦時に樺太と関わりを持っていました。
その樺太で、ソ連軍がやった殺戮や略奪、暴行、強姦の実態をつぶさに見ていました。
ですから、長春の看護婦たちの話も他人事には思えなかったのです。
松岡さんは、一座の者を使って、堀婦長の追跡調査をしました。
するとなんと熱海からほど近い清水に、堀婦長がいることがわかったのです。
その日のうちに松岡さんは、清水に向かいました。
そして堀喜身子さんの勤務する病院に行き、面談を申し込みました。
そして、地蔵菩薩の建立に資金的な協力をしたいと申し出たのです。
けれど堀元婦長は、あっさりと断りました。
ただお金があればいいというものではない、そんな思いが婦長の心にあったのかもしれません。
けれど松岡氏も真剣でした。
「ならば、自分は浪曲家です。この語り継ぐべきこの悲話を、大切に伝えて行きたい。ぜひそうさせてください」
松岡さんの真摯な態度に、堀喜身子さんの心は動きました。
実は、終戦から復員にかけての混乱の中で、亡くなられた看護婦たちの身元がわからなくなっていたのです。
浪曲家である松岡氏が、その物語を全国で公演してまわれば、もしかすると彼女たちの身元がわかるかもしれない。
堀婦長は、当時の様子を松岡氏に語って聞かせました。
松岡さんは、誠実でまじめな人です。
堀婦長は、その日の夜、ひっそりと静まり返って誰もいなくなった薬剤室に入り、梅毒の薬を持ち出しました。
そして翌日、ふたたびダンスホールへと向かいます。
通されたのは、昨日の部屋です。
女ばかり9人が、そこに集まりました。
婦長は、せいいっぱい元気よく明るく彼女たちに声をかけました。
「みんな!今日はお薬を持ってきてあげたわ。みんなの分、たくさん持ってきたから!
あなたたちは、まだ若いのよ。
復讐する気持ちはわかるけれど、それでは際限がないじゃない!
それよりも、この薬を飲んで、一日も早く体を治してちょうだい。
そしてね、気持ちを立て直して、生きることを目標に努力しようよ!」
「婦長さんのお心はありがたいと思います。
だけど婦長さん。
そのお薬は、日本人が作ったものです。
そんな貴重なものは、私たちには使えません。
私たちのことは、もういいんです。
本当に、もういいんです・・・・」
「そんなことを言ってはダメ!
お願いだからあきらめないで!
お薬、ここに置いていくわ。
それじゃ、帰るわね・・・」
薬を置いて帰ろうとしかけた堀婦長に、ひとりが立ち上がりました。
「ふ、婦長さん。そんなに私たちの気持ちがわからないなら、わかるようにしてあげます。」
彼女の中のひとりが、そう言ってスカートをたくしあげ、自分の性器を露出したのです。
梅毒は、性器全体に水泡ができます。
そしてそこがただれて膿が出ます。
さらに尿道口にも膿が出て、排尿困難、歩行困難が起こり、性器が腐る病気です。
広げた足の間には、典型的な梅毒の症状がありました。
あまりにむごい、末期の姿です。
もはや手遅れかもしれない。
けれど、病気は弱気になったら負けです。
堀婦長は、きっぱりと彼女たちに言いました。
「この程度なら、時間はかかるけど、必ず治ります!
根気よ! 薬は十分あるのだから、あなた達も、絶対に良くなるんだという強い気持ちで治療するのっ! いいわね!」
「治らない、治りっこないなんて、勝手な思い込みはやめなさい!
もう商売なんかしてはダメよ。
良くなるのよ!
毎日お互いに声をかけあって、手抜きをしないで治療するの。いいわね!」
こうして彼女たちは、わずかでも「治る」という希望を持ちました。
そして治療を受けると約束してくれたのです。
薬の調達は容易ではありませんでした。
ただでさえ、日本人の医師や看護婦に扱える量は少ないのです。
それでも堀婦長は、彼女たちを助けたい一心でした。
薬をすこしずつ確保し、貯めた薬が一定量になる都度、彼女たちのもとに、お饅頭と一緒に、通いました。
お饅頭と、堀婦長の誠意、そして日、一日と軽くなる体に、彼女たちの目にも少しずつ光が宿りはじめました。
このような彼女たちとの関わり合いは、帰国命令の出る昭和23年まで続いたそうです。
そしてまる2年越しの交流の中で、堀婦長は、彼女たちがひどい仕打ちを受ける以前よりも、彼女たちにたいしてより深い愛情を持つようになったといいます。
「一緒に日本に帰ろうね」
その言葉を、彼女たちにどれほどかけたでしょう。
けれど、敗戦の混乱が続く日本に帰ったとしても、楽な生活など待っているはずはありません。
それでもみんなと仲良く、苦労をわかちあい、助け合って生きていくんだ。
みんな、私が面倒みてあげるんだ。
堀婦長は、そう固く決意をしていました。
・・・・・
昭和23(1948)年9月、張さんが病院にバタバタと駆け込んできます。
長春にいる在留邦人に、帰国命令が出た、というのです。
その日の午後7時に、一週間分の食料を持参で南新京駅に集合することになっている、というのです。
あまりにも急な話です。
時間がない。
あの娘たちに知らせなければ。
堀婦長は、二人の子供たちに、とにかく準備をするようにと言い残し、自分の身支度も忘れて、彼女たちのもとに走りました。
「みんな一緒に日本に帰れるんだ」
走りながら堀婦長の目には涙が浮かびました。
ダンスホールに着きました。
堀婦長は、彼女たちに面会を求めました。
そして、
「午後7時に南新京駅に集まるように」と話しました。
わーい、帰国命令だぁ、良かったぁ〜!!
彼女たちは、満面の笑顔で答えてくれました。
ほんとうにうれしそうでした。
「きっと来てくれるわね?」
「婦長さん、ありがとうございます。7時までには準備して、必ず参ります」
「必ずよ! 準備をして、必ず来てるのよ」
婦長もうれしくてたまりません。
「みんな一緒に帰れるんだ」
こだわりはあることでしょう。
ないはずなんてありません。
けれど、自分がなんとか彼女たちを立ち直らせてみせる。
絶対に立ち直らせてみせる!
帰宅した堀婦長は、子供たちと自分の身支度を整えると、心配でたまらずに、集合時間の2時間も前に南新京駅に行き、彼女たちを待ちました。
まさか・・・とは思いました。
けれど、彼女たちは「時間までには行きます」と約束してくれたのです。
その言葉を信じよう。
きっと来てくれる。
貨車が到着しました。
長春にいた日本人たちが、続々と貨車に乗り込み始めました。
堀婦長は、それでも彼女たちを待ちました。
もう出発の時間です。
来ないかもしれない。。。。そう思った時です。
「婦長さ〜ん!!」と明るい声がしました。
どこにいたのか、意外と近くに、ワンピースにもんぺ姿の細井、荒川、後藤の三人の姿が見えました。
とっても嬉しそうな顔をしています。
「こっちよ〜〜、早く〜〜!」
「あとの娘たちは?」
「大丈夫です。あとから来ます。それより、これ、食糧のたしにしてください。」
「ええっ!こんなにたくさん?! こんなことしたらあなた達が困るじゃないの」
「いいんですよ、婦長さん。私たちの分は、あとからくる娘たちが持ってきます。
だから、これ、みなさんで。それからこれ、ほんの少しですけれど、何かに使ってください。」
「何なの?」
「アハハ、あとでですよぉ〜。じゃあ、あたしたち、澤本さんたちを探してきますね」
「わかったわ。でも、もうあまり時間がないと思うから、早くしてね。急ぐのよ」
「はいっ!」
そのとき、振り向いた彼女たち3人の笑顔を、堀婦長は生涯、決して忘れない。
忘れようがないです。
三人とも、とても明るい、ほんとうに何事もなかったかのような、明るくてさわやかな笑顔だったのです。
堀婦長が、彼女たちが戻ると安心して、貨車に乗る順番の列に並んだ時です。
バン、バンと2発の銃声がしました。
そしてすこし遅れて、バンと、3発目の銃声が響きました。
列車への乗車を待っている日本人たちが、騒ぎ始めました。
「おいっ!自殺だ」
「若い女3人みたいだ」
「!」
三人とも即死でした。
後藤さんと荒川さんの体を覆うようにして、倒れていた細井さんの右手にピストルが握られていました。
申し合わせてのことでしょう。
細井たか子が先に二人を射殺し、最後に自分のこめかみを撃ったことがわかりました。
頭部からは、まだ血が、流れています。
わかる。わかるわ。
あなたたち、こうするほかなかったのね。
ごめんね。ごめんね。ごめんね。
はやく気が付いてあげれなくて。
もう、なにもかも忘れて、楽になってね。
今度生まれてくる時にはね、
絶対に、絶対に、もっともっとずっと強い運を持って生まれてくるのよ・・・・・
「お母さん、お母さん!」
子供たちの叫ぶ声に我にかえり、堀婦長は汽車に乗りました。
結局、澤本かなえ、澤田八重子、井出きみ子の三人は、姿を見せませんでした。
このほかに二人、どこにいるのか行方知れずに終わりました。
ひとりは、ソ連将校が連れ帰ったという噂でした。
引き揚げ列車は南下し、それぞれの悲劇と過酷な過去から、まるで逃れるように、祖国日本へ向け鉄路を南へ向けて走りました。
・・・・・・
こうして堀喜身子婦長が、長男静夫(5歳)と、長女槇子(3歳)を連れて、九州の諫早(いさはや)で日本の土を踏んだのは、昭和23年11月のことでした。
親子三人を待っていた日本の戦後社会は、想像を絶する混乱の社会でした。
戦争に負けた。それだけのことで、人心が変わってしまったのです。
それまでの日本は、まさに家族国家でした。
人々が地域ぐるみ、家族ぐるみで助け合い、支えあって生きることがあたりまえの社会でした。
それが、終戦によって180度変わってしまったのです。
人の情けがなくなりました。
人情が消えました。
支えあうという考えが、人々からなくなっていました。
堀喜身子さんは、ソ連に抑留されている夫正次氏の故郷である、山口県徳山市に向かいました。
戦前の社会では、いまでもそうした風潮は残っているけれど、いったん嫁に入ったら、夫の家の家族です。
自分の生家に帰ろうとは思わない。
戦前は、それがあたりまえでした。
ところが親子して夫の実家に到着すると、夫の母(お姑さん)が「引揚者は家には入れられない」といいます。
敷居の中にさえ、入れてくれませんでした。
当時、いろいろな噂話があったのです。
引揚者の女性は、穢れているとか、です。
堀喜身子さんは、その意味では看護婦であって引揚げに際して不埒な真似に遭うことはありませんでした。
けれど世間体がある。
何があったかなんてわかりゃあしないと、姑は納得してくれません。
はるばる徳山まで来て、子供の前で自尊心をズタズタに引き裂かれ、泊まるところもなく、とほうにくれたお堀喜身子さんは、二人の子供の手をひいて堀家の菩提寺を訪ねました。
ご住職に事情を話すと、わかりましたと言って、一夜の宿と、命に代えてもと持ち帰った23名の看護婦のご遺骨を、菩提寺の墓所で預かっていただけました。
親子は、ようやく肩の荷を少しだけ卸したのです。
翌日、親子は、堀喜身子さんの母親が住む、北海道の帯広に向かいました。
帯広では、幸い看護婦として市内の病院に就職することができました。
けれど終戦直後というのは未曽有の食糧難の時代です。
勤務の制約などもあり、給料も少なく、生活費をぎりぎりに切りつめても、末っ子の槇子を養うことができません。
涙ながらに因果を含め、堀喜身子さんはたいせつな娘を、親戚の家に預かってもらうことにしました。
そんな苦しい生活を送りながらも、堀喜身子さんの脳裏を片時も離れないもの。
それは、命を捨ててまで事態を知らせに来てくれた大島花江看護婦と、井上つるみ以下自決した22名の仲間たちのご遺骨です。
年長者26歳、年少者はまだ21歳の女性たちです。
彼は堀元婦長から聞いた話を「満州従軍看護婦集団自決物語」の浪曲に仕立てました。
そしてこの物語を語るために、世話になった師匠に事情を話して、春日井若梅鶯の芸名を返上し、師匠の一座までも離れ、無冠の松岡寛一座を開きました。
彼は、白衣の天使たちの悲話の語り部として、後半の人生を生き抜く決意をしたのです。
いくら人気の一番弟子とはいっても、独立すれば会社の看板のなくなったサラリーマンのようなものです。
なんのツブシも聞きません。
中央のラジオのゴールデンタイムの人気浪曲家だった若梅鶯は、名前も変えて、まるまる一から地方巡業でのスタートをきることになりました。
終戦の悲話が、直体験として日本中に数多くあった時代です。
白衣の天使の集団自決の浪曲が売れないはずがありません。
松岡師匠の公演は、またたくまに全国でひっぱりだこになりました。
その松岡師匠は、浪曲の中で、必ず「皆様の中で心当たりの方はいらっしゃいませんか?」と問いかけました。
そして3年余りの公演によって、実に23名中19名の身元が判明したのです。
そして19名のご遺骨は、ようやくご両親のもとに帰ることができました。
一方、松岡師匠がこうして巡業をしながら看護婦たちの身元を尋ねて回っていたころ、堀元婦長は、自身の給料の中から、実家にいる子供たちと、元上司の軍医のもとへの少なからぬ積立金の送金を続けていました。
その金額もある程度のものになったと思われたので、そろそろお地蔵さんの建立を、と思って元上司に電話をかけました。
すると、元上司は「それなら、前にもお話した群馬県邑楽郡大泉村に建てましたよ」というのです。
群馬県大泉村というのは、看護婦たちが満州へ向かう前に、厳しい訓練を受けたところで、彼女たちにとっての出会いとゆかりの場です。
そこにお地蔵さんが建った。
ほんとうなら、これほどうれしいことはありません。
ちょうど、彼女たちが亡くなってから7周忌でもある年でした。
堀元婦長は、松岡師匠にもこの話を伝えました。
松岡師匠はたいへんに喜んでくれて、それなら私が見に行ってみましょう、とおっしゃてくれました。
師匠はさっそく群馬県大泉村の役場をたずねました。
地番を探しに行ってみたところ、そこはあたり一面、草ぼうぼうの原っぱでした。何もありません。
役場にとって返して聞いてみたけれど、地蔵なんて話は聞いたこともないといいます。
帰ってきて堀喜身子さんにその話をすると、どうしたことだろう、ということになって、元上司に問い合わせをしました。
すると、実はよんどころない事情で、遣いこんでしまったという。
思い当たることはあるのです。
その上司の奥さんが、結核で入院されていたのです。
間が抜けていたといえばそれまでだけれど、汗水流して貯めた貴重な地蔵尊建立基金は、こうして霧散してしまいました。
同じ年のことです。
埼玉県大宮市に、山下奉文将軍の元副官で、陸軍大尉だった吉田亀治さんという方がおいでになりました。
吉田亀治さんは、自己所有の広大な土地に、公園墓地「青葉園」を昭和27年11月に開園しました。
そしてそこに、沖縄戦の司令官牛島中将の墓を設け、さらに園内に青葉神社を建立し、鶴岡八幡宮の白井宮司の司祭によって、鎮座式も行いました。
その青葉園が開園して間もない頃、地元の大宮市(現・さいたま市大宮区)で松岡寛師匠の浪曲の公演がありました。
演目は、もちろん「満州白衣天使集団自決」です。
この公演の際、吉田亀治さんは、松岡師匠から直接、堀元婦長が存命で、いまも看護婦たちの身元を探していること、命日になると、亡くなった看護婦たちが寄ってきて、お地蔵さんの建立をせがむことなどの話を聴きました。
すると吉田亀治さんは、松岡師匠を介して堀元婦長に面会し、地蔵尊の建立を快く引き受けてくださったのです。
埼玉県大宮市は、命を捨てて危険を知らせに来てくれて亡くなった大島花枝看護婦の出身地です。
なにやらすくなからぬ因縁さえ感じる。
資金面では、すべて吉田氏が引き受けてくれることになりました。
そうして大宮市の青葉園のほぼ中央に、彼女たちの慰霊のための「青葉慈蔵尊」が建立されました。
青葉慈蔵尊
http://blog-imgs-31-origin.fc2.com/n/e/z/nezu621/201102232236513f2.jpg
地蔵尊の墓碑には、亡くなられた看護婦たちと婦長の名前が刻まれています。
(五十音順)
荒川さつき 池本公代 石川貞子 井出きみ子 稲川よしみ 井上つるみ 大島花枝 大塚てる 柿沼昌子 川端しづ 五戸久 坂口千代子 相良みさえ 滝口一子 澤田一子 澤本かなえ 三戸はるみ 柴田ちよ 杉まり子 杉永はる 田村馨 垂水よし子 中村三好 服部きよ 林千代 林律子 古内喜美子 細川たか子 森本千代 山崎とき子 吉川芳子 渡辺静子
看護婦長 堀喜身子
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以上のお話は、日本航空教育財団の人間教育誌「サーマル」平成18年4月号に掲載された「祖国遙か」をもとに書かせていただいたものです。
大島花枝看護婦のことについては、以前、
「満洲国開拓団の殉難」
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-730.html
という記事でも書かせていただいていますで、そちらもご参照いただけると良いかと思います。
またこの記事そのものは、昨年2月に三回にわけて当ブログに掲載させていただいたものを、今回、少し文章等を手直ししてお届けさせていただきました。
前回のアップのときもそうなのですが、今回も、心が死んだような状態になっていた8名の看護婦たちが、堀婦長の献身的な努力で、徐々に生気を取り戻した。そして、やっと、ようやく日本に帰れるとなったその日、晴れやかな笑顔で駅前に現れた3人は、残りの者を迎えに行くといって、覚悟の自殺をしてしまう。
ちょうどこのくだりを書いているとき、ボロボロに泣けてしまいました。
戦後の混乱、敗戦のショック、食べる物さえなく、餓死者まで数多く出した戦後の混乱期の中で、家族国家の住人だった日本人は、生きるのに精いっぱいの状態になりました。
そこへGHQが思想統制、言論統制を行い、日本人の精神構造の破壊工作という追い打ちをかけました。
その呪縛はいまでも続いています。
けれど、そういう過酷な時代にあっても、日本人としての心を失わず、必死に生きた堀喜身子さんのような方や、彼女をささえて献身的に努力してくださった松岡師匠のような方、そして自らの家の土地を進んで墓所にご寄進なされた吉田亀治元陸軍大尉のような方もおいでになりました。
そしてそういう方々のおかげで、いまなお、私達は大島花枝さん以下32名の看護婦さんたちのことを、忘れずに今に伝えることができています。
いま、日本国家を解体しようとする人たちが政界その他に数多くいます。
けれど現実に国家が解体した実例が満州国です。
そこにいた人々がどんな目に遭ったか。
国というものが、いかに大切なものかも、本稿を経由してお感じいただけたら幸いに思います。

【後日談】
夫と死に別れた堀元婦長は、その後お二人の子を連れ、寡婦としてがんばっていましたが、松岡師匠の温厚さと誠実さにふれ、後年、お二人はご結婚され、堀喜身子は、松岡喜身子となられたそうです。
お地蔵さんが建立された青葉園は、いまもさいたま市にあり、その中央には青葉慈蔵尊がご安置され、いつもどなたか(お身内の方でしょうか)によって綺麗なお花が添えられています。
この物語を最初に当ブログでご紹介したとき、この話はつくり話だ、嘘だ等々と中傷する方やサイトがありました。
けれど私は思うのです。
なるほど私はその場にいたわけではないし、当事者でもない。ですから事実の有無は私にもわからない。
けれど、その物語はつむがれ、そこに大きなお地蔵さんが建立されている。
その日本人の真心は、忘れてはならない日本の心として、絶対に後世に伝えていかなければならないと思うのです。
浪曲になった話だから、嘘だ、そういう決めつけではなく、そこから何を学ぶかが大切なのではないでしょうか。