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 沖縄集団自決冤罪訴訟第1審、被告大江提出の陳述書  H20-9-20   
 
〔テキストスキャンのためスキャンの誤読があります〕


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                             陳  述  書              乙第97号証

                                                2OO7年9月29日

                                               東京都世田谷区
                                                大江健三郎

大阪地方裁判所第9民事部合議2係御中

原告梅澤裕ほか1名被告株式会社岩波書庖ほか1名問の御庁平成17 年(ワ)第7696号事件について、以下のとおり陳述いたします。

1経歴
私は、193S年(昭和1O )愛媛県喜多郡大瀬村(現在、内子町大 瀬)に生まれました=
右‘の学歴及び職歴は以下のとおりですO
(学歴)
1941年(昭和16)4月、大瀬国民学校入学D大瀬中学校、松山 東高等学校を卒業して、1954年(昭和29)4月、東京大学文科2 類に入学D 1959年(昭和34)東京大学文学部フランス文学科卒業o (職歴)
1957年(昭和32)小説「奇妙な仕事」を『東京入学新聞』に発 表O小説家としての活動を開始しましたC
1958年(昭和33)小説「飼育Jによって芥川賞を受けるO以後、 野間文芸賞、朝日賞ほかの賞を受ける。1994年(平成6)ノーベル 文学賞を受けるD現在にいたるまで、小説、エッセイを発表することで


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生活をしてきましたc
1976年(昭和51)メキシコ・シティにおいて国立大学コレヒオ・ デ・メヒコ客員教授o以後、カリフォルニア大学バークレイ校、プリン ストン大学、ベルリシ自由大学で、それぞれ客員教授をつとめましたo 2O O O年(平成12)ハーバード大学で、名誉博士号を受ける。以後、 フランス国立東洋言語文化研究所ほかの名誉博士号を受けましたD 2O O 2年(平成14)フランス・レジオン・ドヌール勲章コマンド ール受賞o日本ペンクラブ、日本文芸家協会に属する。国外では、アメ リカン・アカデミー他に名誉会員として属しています。

2著作
1958年(昭和33)短編小説集『死者の奮り』、長編小説『芽むし り仔撃ち』に始まり、現在に及ぶOエッセイ・評論集も1965年(昭 和4O )『厳粛な綱渡り』に始まり、現在に及ぶO海外での翻訳出版も、 アメリカ、イギリス、フランス、スペイン、中園、韓国他で行なわれて いますo

3沖縄との関わり
私は1965年(昭和4O )文蓋春秋新社の主催による講演会で、二 人の小説家と共に、沖縄本島、石垣島に旅行しました。この旅行に先立 って沖縄について学習しましたが、自分の沖縄についての知識、認識が 浅薄であることをしみじみ感じましたOそこで私ひとり沖縄に残り、現 地の出版社から出ている沖縄関係書を収集し、また沖縄の知識人の方た ちへのインタヴィユーを行ないましたO 『沖縄ノート』の構成が示して いますように、私は沖縄の歴史、文化史、近代・現代の沖縄の知識人の 著作を集めましたO沖縄戦についての書物を収集することも主な目標で


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したが、数多く見出すことはできませんでしたO この際に収集を始めた沖縄関係書の多くが、のちの『沖縄ノート』を 執筆する基本資料となりましたOまたこの際に知り合った、ジャーナリ スト牧港篤三氏、新川一明氏、研究者外問守善氏、大田昌秀氏、東江平之 氏、そして劇団「創造jの若い人たちから学び、語り合ったことが、そ の後の私の沖縄への基本態度を作りましたoとくに沖縄文化史について 豊かな見識を持っていられた、沖縄タイムス社の牧港篤三氏、戦後の沖 縄史を現場から語られる新川明氏に多くを教わりましたo そして6月、私は自分にとって初めての沖縄についてのエッセイ「沖 縄の戦後世代」を発表しました。タイトルが示すように、私は本土で憲 法の基本的人権と平和主義の体制に生きることを表現の主題にしてき た自分が、アメリカ軍政下の沖縄と、そこにある巨大基地について、よ く考えることをしなかったことを反省しましたoそれに始まって、私は 沖縄を訪れることを重ね、さきの沖縄文献に学んで、エッセイを書き続 けました。
本土での、沖縄への施政権返還の運動にもつながりを持ちましたが、 私と同世代の活動家、古堅宗憲氏の事故死は大きいショックをもたらし ました。古堅氏を悼む文章を官頭において、私は『沖縄ノート』を雑誌 「世界Jに連載し、197O年(昭和45)岩波新書として刊行しまし たo
私はこの本の後も、1972年(昭和47)刊行のエッセイ集『鯨の 死滅する日』、1981年(昭和56)『沖縄経験』、2O O 1年(平成 13)『言い難き嘆きもて』において、『沖縄ノート』に続く私の考察を 書き続けてきましたOとくに最後のものは、『沖縄ノート』の3O年後 に沖縄に滞在して「朝日新聞Jに連載した『沖縄の「魂Jから』をふく んでいます。


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4この裁判を契機に、多様なレベルから『沖縄ノート』に向けて発せら れた問いに答えたいと思いますo

a,座間味島、渡嘉敷島で行われた集団自決の問題が、後半の沖縄戦に ついての記述で重みを持っているが、その記述はどのようなものを根 拠としたのか。

沖縄戦について、戦後早いうちに記録され、出版された戦争の体験 者の証言を集めた本を中心にして読みましたoそれらのなかで195 O年沖縄タイムス社刊の『沖縄戦記・鉄の暴風』を大切に考えました。 理由は、私が沖縄でもっともしばしばお話をうかがった牧港篤三氏が この本の執筆者のひとりで、経験者たちからの聴き書きが、一対ーの それはもとより、数人の人たちを一室に集めての座談会形式をとるこ ともあったというような、詳細な話を聞いていたからですoもとより 牧港氏の著作への信頼もありますo
私は、それらに語られている座間味島、渡嘉敷島において行なわれ た集団自決の詳細について、疑いをはさむ理由を持ちませんでしたo 私は、この集団自決が太平洋戦争下の日本国、日本軍、現地の第3 2軍までをつらぬくタテの構造の力によって島民に強制された、とい う結論にいたりましたOそして、このタテの構造の先端にある指揮官 として島民たちの老幼者をふくむ集団自決に、直接の責任があった、 渡嘉敷島の守備隊長の、戦後の沖縄に向けての行動について、それが 戦前、戦中そして戦後の日本人の沖縄への基本態度を表現していると して、批判する文章を書きました口この批判は、日本人一般のもので あるべき自己批判として、私自身への批判をふくみますO


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さて、その『沖縄ノート』医章から、私は批判を書いていますが(P 2O 8~2O 9)、まず、その2O 8頁1O行目にある、自分が慶良 間列島の関係者をたずねて直接にインタヴィユーをしていないこと について、一言述べておきますD私はこの本で、沖縄の戦後世代に対 するインタヴィユーの結果を文章にしています。しかし、沖縄戦の最 初の戦場の悲劇について、二つの島に行って生存者たちのインタヴィ ユーをすることはしていません。私は本土の若い小説家が、二つの島 の生存者を訪ねて、その恐ろしい悲劇について質問する資格を持っか、 またそれを実のある対話となしうるかに自信をもてませんでした口そ れより、沖縄のジャーナリストによる(牧港氏によれば一人づつの、 また時には座談会による)証言の記録を集成したものに頼ることが妥 当と考えたからですo

《僕は自分が、直接かれにインタヴィユーする機会をもたない以上、 この異様な経験をした人間の個人的な資質についてなにごとかを推 測しようとは思わないDむしろかれ個人は必要でない口それは、ひと りの一般的な壮年の日本人の、想像力の問題として把握し、その奥底 に横たわっているものをえぐりだすべくつとめるべき課題であろうD

その想像力のキッカケは言葉だ。すなわち、おりがきたら、という言

葉であるo一九七O年春、ひとりの男が、二十五年にわたるおりがき

たら、という企画のつみかさねのうえにたって、いまこそ時は来た、 と考えたoかれはどのような幻想に鼓舞されて沖縄にむかったのであ るかDかれの幻想は、どのような、日本人一般の今日の倫理的想像力 の母胎に、はぐくまれたのであるか?》

この一節で私は自分が旧守備隊長にインタヴィユーしていないこ


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とをいい、そこで自分はかれの「個人的な資質」を「推測」しない、 といっていますo 「推測」という言葉を私は『広辞苑』の定義「ある 事柄に基づいておしはかること。」として考えますが、私はある事柄 に基づいで、事実をおしはかり、決定するのではなく、あくまでもそ のかわりに自分として「想像」したこととして書いているのですO そして、『沖縄ノート』の終章にあたるこの章を、その答えにあて ていますDとくに答えの要旨は214~215頁に書いていますo 私はこの守備隊長の個人としての名前をあげていませんが、それも 上に書いている理由からですD私は渡嘉敷島の集団自決が、日本軍一 第32軍一渡嘉敷島の守備隊という構造の強制力によってもたらさ れた、と考えてきましたoそこで、この守備隊長の個人としての名前 は必要でありませんでした。この批判において私は戦後になってこの 守備隊長が行ったこと、発言した言葉を検討しています。材料は新聞 に公表されていましたDそこではじめて浮かび上がってきた個人とし ての資質を私は批判しています。私はそれを日本人一般の資質に重ね ることに批判の焦点を置いています。それが『沖縄ノート』において、 個人名をあげなかった理由です。もし具体的に今述べた部分を引用す るならば、次のようです。

《おりがきたら、とひたすら考えて、沖縄を軸とするこのような逆 転の機会をねらいつづけてきたのは、あの渡嘉敷島の旧守備隊長のみ にとどまらないo日本人の、実際に尼大な数の人聞がまさにそうなの

であり、何といってもこの前の戦争中のいろいろな出来事や父親の行

動に責任がない、新世代の大群がそれにつきしたがおうとしているの

である。(中略)この前の戦争中のいろいろな出来事や父親の行動と、 まったくおなじことを、新世代の日本人が、真の罪責感はなしに、そ


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のままくりかえしてしまいかねない様子に見える時、かれらからにせ の罪責感を取除く手続きのみをおこない、逆にかれらの倫理的想像力 における真の罪責感の種子の自生をうながす努力をしないこと、それ は大規模な国家犯罪へとむかうあやまちの構造を、あらためてひとつ ずつ積みかさねていることではないのかO 》

b,『沖縄ノート』全体の趣旨はどういうものか?《日本人とはなに か、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえること はできないか》という、この本で幾度も繰り返されているフレーズは、 その全体の趣旨において、どのような重要性を持っているか?

『沖縄ノート』は、本土の戦後世代である私が、明治の日本近代化 の始まりに重なる「琉球処分Jによって、沖縄の人聞が日本国の体制 のなかに組み込まれてゆく、そして皇民化教育の徹底によってどのよ うな民衆意識が作りあげられ、1945年の沖縄戦における悲劇にい たったか、を学んでゆく過程を報告したOそれが第一の柱ですo 私は戦後日本の復興、発展が、講和条約の発効、独立の出発点から、 沖縄を本土から切り離しアメリカ軍政のもとにおいて巨大基地とす ることを根本の条件としたこと、それが沖縄にもたらした新しい受難 について書くことを第二の柱としましたDその実状を具体的な人間の 経験をつうじて示すために、とくに私が「沖縄の戦後世代Jと呼ぶ、 自分と同世代の人々へのインタヴィユーを中心にすえています。私の 見る限り、それを伝えている刊本はまだありませんでしたO そのようにして長い新しい苦難のなかで、沖縄の施政権返還が(巨 大基地はそこにおいたままで)達成するまでを、私は報告したのです が、その過程で私のうちにかたまってきた主題がありましたo私は太


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平洋戦争以前の近代・現代史において、本土の日本人が沖縄に対して 取ってきた差別的な態度、意識について資料を読みとく、ということ をしてきたのでしたが、戦後においても、日本の独立と新しい憲法下 において、その憲法からは切り離されている沖縄の犠牲のもとに、本 土の平和と繁栄が築きあげられてきたことに、本土の日本人は、それ をよく認識していないのではないか、そしてそれは近代化以来、現代 に続くこのような日本人としての特性を示していることなのではな いか、と考え始めたのでしたo
そして、私がこのような日本人としての、もとより自分をふくむ現 在と将来の日本人について、このような日本人ではないところの日本 人へと自分をかえることはできないか、と問いかけ、答えてゆこうと する努力が、この『沖縄ノート』の第三の柱をなすことになりましたo この三本の柱にそくして『沖縄ノート』を書いてゆく上で、いま私 がのべてきたような日本人としての自己批判のためのきっかけとし て、もっとも明瞭な問題群を示していると私が考えたのが、慶良間列 島における1945年の集団自決の事実です。私はそれを日本軍一第 32軍一そして慶良間列島の二つの守備隊へとつながるタテの構造 に責任があるものとしてとらえましたo私がこの『沖縄ノート』を書 き続けている間に、25年後の日本本土と沖縄の、それぞれの民衆意 識における、慶良間列島の集団自決の受けとめの、大きい裂け目を示 すと思われるような出来事が続きました。
それらに集中して考察を進めることで、私は『沖縄ノート』を書き 続け、自分にとって「日本人とはなにか、このような日本人ではない ところの日本人へと自分をかえることはできないか」という問いへの 答は、自分にまだないということを書いて私は本を結びました口私は それ以後も、沖縄と本土日本とについての、ここにのべたような問い


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かけを続けて、文章を書き続けることもしてきました。 私が5O年間にわたって小説とエッセイ、評論を発表し続けてきた ことは、経歴を記したくだりで申しましたが、いまその5O年を振り かえる機会をえて考えますことは、自分のエッセイ、評論が1945 年の敗戦によって軍国主義体制から解き放たれた少年の、新しい憲法 による民主主義、平和主義のレジームのなかで、どのように自己実現 してきたか、それを語るものを中心としている口ということですD 『沖 縄ノート』はそれらすべての中心にあります。

C,『沖縄ノート』69頁1O行目から7O頁5行目までには、次のよ うに記されています。

《慶良問列島においておこなわれた、七百人を数える老幼者の集団 自決は、土地一史著『沖縄戦史』の端的にかたるところによれば、生 き延びようとする本土からの日本人の軍隊の《部隊は、これから米軍 を迎えうち長期戦に入るDしたがって住民は、部隊の行動をさまたげ ないために、また、食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》 という命令に発するとされているD沖縄の民衆の死を抵当にあがなわ

れる本土の日本人の生、という命題は、この血なまぐさい昼前味村、 渡嘉敷村の酷たらしい現場においてはっきり形をとり、それが核戦略 体制のもとの今日に、そのままつらなり生きつづけているのであるo 生き延びて本土にかえりわれわれのあいだに埋没している、この事件 の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていないが、 この個人の行動の全体は、いま本土の日本人が綜合的な規模でそのま ま反復しているものなのであるから、かれが本土の日本人にむかつて、 なぜおれひとりが自分を名手めねばならないのかね?と開きなおれ


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ば、たちまちわれわれは、かれの内なるわれわれ自身に鼻つきあわせ てしまうだろう。》

私がここに述べている中心は、1945年の沖縄戦から、この執筆 の現在時である1969年に始まり197O年に至るまで(そして 『沖縄ノート』がなお出版され続けて同時代の読者を得ている、いま 現在まで)、「沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の 生Jという命題ですoそれを私は、「この血なまぐさい座間味村、渡 嘉敷村の酷たらしい現場においてはっきり形をとった」、と資料にそ くして論じていますoしかし、この文脈において(また『沖縄ノート』 の全体をつらぬく執筆動機に関わって)もっとも重要なのは、「それ が核戦略体制のもとの今日に、そのままつらなり生きつづけているの である」という認識ですo
この一節において、私が上地一史著『沖縄戦史』を引用しているの は、次の理由からですoはじめ私は上記の『鉄の暴風』からの引用を 考えていましたが、それだと(引用は34頁の9行目~13行目)赤 松氏の個人としての名前が二度出て来ますDそこで『沖縄戦史』の文 章を引用しました。
私は、上の二冊の書物を初めとする記録によって、集団自決の現実 について知り、そこから出発して考え始めました。それが二つの島の 住民たちによって、軍の命令、軍によって発せられた、抵抗しえない 命令と受けとめられ、実行にうつされたことに疑いはないoそれを沖 縄戦の全体の文脈のなかで理解しようとするとどうなるか?私は その方向で考え続け、私としての結論にいたりましたOつまり私は慶 良間列島の集団自決について、日本の近代化をつうじての皇民化教育 が沖縄に浸透させていた国民思想、日本軍、第32軍が県民に担わせ


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ていた「軍官民共生共死」の方針、列島の守備隊というタテの構造の 強制力、そして米軍が島民に虐殺、強姦を加えるという、広く信じら れた情報、イ字虜となることへの禁忌の思想、それに加えて軍から島民 に与えられた手摺弾とそれにともなう、さらに具体的な命令、そうし たものの積み重なりの上に、米軍の上陸、攻撃が直接のきっかけとな って、それまでの日々の準備が一挙に現実のものとなったのだ、とい う考えにいたって、それを書いたのですD
「生き延びようとする本土からの日本人の軍隊」とは、本土防衛の ための沖縄戦を戦いぬくために、なによりも日本軍が生き続けて戦う ことを第一義とみなしている(その根本条件の上に、第32軍の「軍 官民共生共死Jの方針がある)と私が考えていることを示していますo 「沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の命題jにつ いては、さきに私の考えを示しましたo
「この事件の責任者はいまなお」以下において、私は197O年現 在においてなお、渡嘉敷島の集団自決という事件をもたらした、日本 軍一第32軍一渡嘉敷島の守備隊という、責任のタテの構造の、最先 端にあった守備隊長は、事件の被害者たちになにひとつあがなってい ない、と書きました。そして、それに続けて、《この個人の行動の全 体は、いま本土の日本人の綜合的な規模でそのまま反復しているもの なのであるから、かれが本土の日本人にむかつて、なぜおれひとりが 自分を名手めねばならないのかね、と聞きなおれば、たちまちわれわれ は、かれの内なるわれわれ自身に鼻つきあわせてしまうだろう》と書 いています。
そこに私がこの一節で書こうとした考えの中心がありますo 「この事件の責任者jと私が書いているのは、1945年当時の慶 良問列島の二人の守備隊長のことですOそして私がなぜ「この事件の


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責任者」の個人の名前をあげていないかに、私は自分の、渡嘉敷島、 座間味島の集団自決の責任はどこにあるか、誰にあるか、という考え 方を示しました。すなわち、この島のそれぞれの守備隊長という、日 本軍一第32軍につらなる命令のタテの構造の一端、ということがも っとも重要なのです。
もし、渡嘉敷島、あるいは座間味島で、そのどちらかの守備隊長が、 日本軍一第32軍の命令のタテの構造の最先端で、その命令に反逆し、 集団自決を押しとどめる命令を発して、実際に働き、悲劇を回避して いたとしたら、その時こそ守備隊長の個人名を前面に出すことが必要 でしたロ

d,『沖縄ノート』2O 8頁1行目から同頁8行目まで己は、次のよう に記されていますo

《このような報道とかさねあわすようにして新聞は、慶良間列島の 渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男、どのよう にひかえめにいってもすくなくとも米軍の攻撃下で住民を陣地内に 収容することを拒否し(乙2『鉄の暴風』33頁、乙7『秘録・沖縄 戦記』山川泰邦著148頁)、投降勧告にきた住民はじめ数人をスパ イとして処刑したことが確実であり(乙2『鉄の暴風』38~39頁、 乙7『秘録・沖縄戦記』152頁)、そのような状況下に、「命令され たJ集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守 備隊長が、戦友(!)ともども渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄 におもむいたことを報じたO僕が自分の肉体の奥深いところを、息も つまるほどの力でわしづかみにされるような気分をあじわうのは、こ の旧守備隊長が、かつて《おりがきたら、一度渡嘉敷島にわたりたい》


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と語っていたという記事を思い出す時であるo 》

ここで私が記述している事例のいちいちは、私が『沖縄ノート』を 書き始める前から読み続けできた、1945年の沖縄戦の生き残りの 証言にもとづく書物に、すべて根ざしています。さきの引用の中に括 弧に入れて本とそのページ数を記しましたoこの一節で私が「おりが きたら一度、渡嘉敷島へわたりたい」という言葉で代表させている発 言と同じ意味の、旧守備隊長の言葉は、次のように繰り返されていま した。たとえば、1968年4月6日号の「週刊新潮」の記事「戦記 に告発された赤松大尉J (甲B 73)ですD同年3月の実際の沖縄訪 問の際の「沖縄タイムス」「琉球新報Jにも同種の発言があります。 たとえば前者の単独インタヴィユ一、そして後者の談話o 「前からぜ ひ来沖したいと考えていたが、こんど渡嘉敷村から招かれたこともあ って来沖したo 」
集団自決について「命令された」と私が括弧つきで書いているのは、 これまでも明示してきた私の「命令」という言葉の意味づけ、それが 日本軍一第32軍一そして慶良間列島の二つの島の守備軍というタ テの構造によって、沖縄の住民たちに押しつけられたものであり、直 接には二つの島に入って来た日本軍によって、多様なかたちでそれが 口に出され、伝えられ、手摺弾の配布のような実際行動によって示さ れた、その総体を指すということ、その構造的な日々の積み重ねが島 民のなかに浸透していなければ、集団自決が、ついにその時が来たと いう島民の窮地での認識にいたり、それが実行されることはなかった こと、そのきっかけをなす「命令」の実行の時はいまだ、という伝達 がどのようになされたのであれ(多くの語り伝えがありますが)、一 片の命令書があるかないか、というレベルのものではないことを強調


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するためでしたC私は、旧守備隊長がその沖縄訪問の時をずっと待っ ていたという、さまざまな発言をひとまとめにして、「おりがきたら、 一度渡嘉敷島にわたりたい」と考えている、という表明に代表させて ーいます口週刊誌、新聞で、の例は上記に示しましたO

e,『沖縄ノート』21O頁4行白から212頁2行目までには、次の ように記されていますo

《慶良聞の集団自決の責任者も、そのような自己欺臓と他者への目前 着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろうo人間としてそれ をつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんと か正気で生き伸びたいとねがう。かれは、しだいに希薄化する記憶、 歪められる記憶にたすけられて罪を相対化する。つづいてかれは自己 弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力をつくすoい や、それはそのようではなかったと、一九四五年の事実に立って反論 する声は、実際誰もが沖縄でのそのような罪を忘れたがっている本土 での、市民的日常生活においてかれに届かないD一九四五年の感情、 倫理感に立とうとする声は、沈黙にむかつて次第に傾斜するのみであ るo誰もかれもが、一九四五年を自己の内部に明瞭に喚起するのを望 まなくなった風潮のなかで、かれのペテンはしだいにひとり歩きをは じめただろうo
本土においてすでに、おりはきたのだoかれは沖縄において、いつ、 そのおりがくるかと虎視耽々、狙いをつけている己かれは沖縄に、そ れも渡嘉敷島に乗りこんで、一九四五年の事実を、かれの記憶の意図 的改変そのままに逆転することを夢想するOその難関を突破してはじ めて、かれの永年の企ては完結するのであるOかれにむかつて、いや


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あれはおまえの主張するような生やさしいものではなかったoそれは 具体的に追いつめられた親が生木を折りとって自分の幼児を殴り殺 すことであったのだoおまえたち本土からの武装した守備隊は血を流 すかわりに容易に投降し、そして戦争責任の追及の手が二十七度線か らさかのぼって届いてはゆかぬ場所へと帰って行き、善良な市民とな ったのだ、という声は、すでに沖縄でもおこり得ないのではないかと かれが夢想する。しかもそこまで幻想が進むとき、かれは二十五年ぶ りの屠殺者と生き残りの犠牲者の再会に、甘い涙につつまれた和解す らありうるのではないかと、渡嘉敷島で実際におこったことを具体的 に記憶する者にとっては、およそ正視に耐えぬ歪んだ幻想をまでもい だきえたであろう。このようなエゴサントリクな希求につらぬかれた 幻想にはとどめがないDおりがきたら、かれはそのような時を待ちう け、そしていまこそ、そのおりがきたとみなしたのだO 日本本土の政治家が、民衆が、沖縄とそこに住む人々をねじふせて、 その異議申立ての声を押しつぶそうとしているoそのようなおりがき たのだoひとりの戦争犯罪者にもまた、かれ個人のやりかたで沖縄を ねじふせること、事実に立った異議申立ての声を押しつぶすことがど うしてできぬだろう?あの渡嘉敷島の「土民jのようなかれらは、 若い将校たる自分の集団自決の命令を受けいれるほどにおとなしく、 穏やかな無抵抗の者だったではないか、とひとりの日本人が考えるに いたる時、まさにわれわれは、一九四五年の渡嘉敷島で、どのような 意識構造の日本人が、どのようにして人々を集団自決へと追いやった かの、およそ人間のなしうるものと思えぬ決断の、まったく同ーのか たちでの再現に立ちあっているのであるo 》

1)「慶良聞の集団自決の責任者も」で始まる最初の段落は何を述べ


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たものか?

「慶良聞の集団自決の責任者もJという、この段落を書き出した 時、私にはニニでf沖縄ノー-ト』の執筆の時点、197O年、渡嘉 敷島を実際に訪れようとしている、当の渡嘉敷島において行なわれ た集団自決の責任者を批判する、という思いがもっとも強くありま した。この段落に始まって、私の考察は、渡嘉敷島の集団自決の責 任者に焦点をおいて展開していますo
集団自決の責任者は、私の考えでは、すでにのべたとおり、日本 軍一沖縄にある第32軍一慶良問の二つの島の守備隊という命令 手続のすべての段階において見出しうる者ですが、この批判の焦点 はとくに渡嘉敷島の守備隊長を指していますo
実名で記載しなかった点Dそれもすでにのべましたが、私の考察 の中心の軸をなす責任論に立っていますD私は沖縄戦における集団 自決について書きながら、注意深く、守備隊長の個人の実名を記述 しない、という原則をつらぬきました。
守備隊長は、さきにのべた日本陸軍の命令系統の、最先端の責任 者として、確実に責任を負っているのです。たとえば、第32軍の、 軍としての階級や専門において、守備隊の編成の際、A、B 、Cと いう個人名を持つ将校のいずれもが、渡嘉敷島の守備隊長に選ばれ る位置にあったとして、私はそれらのA、B 、Cの人間的資質の差 によって、現実に行なわれてしまった悲劇が違ったものになったの ではないか、というようには考えないのですD
もし、たとえば慶良問の二つの島の一方で、集団自決の決行の時 が迫った時、ひとつの島の守備隊長が、かれの権限において、島民 の内に広まっている集団自決をする企図を放棄するように、と命令


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し、部下の兵隊たちから島民にその命令を徹底させたとすれば、悲 劇の避けられる可能性はおおいにあったでしょうoそして現実にそ れがあったのだったら、私は全力をつくして、その守備隊長の人間 的資質について調査L 、個人的インタヴューも行なって、当然にそ の個人名をあげたでしょうo
しかし、現実に行なわれたことは、慶良聞の二つの島での集団自 決ですoそしてそれぞれの島の守備隊長には、責任がありますoそ こで私はこの部分で、渡嘉敷島の旧守備隊長を批判しながらかれを 個人名でなく、守備隊長という役職の名において呼んだのですoそ して、集団自決以後の、とくに戦後においてのかれの責任の取り方 (それらはともに、責任の回避の仕方ということになりましたが) を考える、という手法をとったのですo
そのようにすることで、私は、日本の軍隊構造のなかでの一守備 隊長の、1945年の沖縄戦で行なったことが、近い将来、まった く別の日本人によって繰り返されることがありうる、そしてそれを 許容する方向に、日本の社会は進みつつあり、その意味において、 日本人は、戦前、戦中の「このような日本人」から自分自身を作り かえてはいない、という私の認識を表現したのです。 「責任者Jの内面について想像したものか? そのとおりですDそして私はこの「責任者Jに、渡嘉敷島におい て軍の責任者としての自分が行なったことの「罪jについての認識 がなかったはずはない、と考えますoそれを自分の内面の思考の手 続きにおいて、「罪Jではないものに置きかえた操作、それを私は 「自己欺時」と呼びますDそしてそれで他人を納得させようとして いる作業を「他者への附着の試み」と呼びましたo 「あまりに巨きい罪の巨塊」とは、集団自決の強制で、自分の権


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力のもとにある島民たちを死に至らしめることをした、そのいちい ちの「罪Jの総体をさしていますoひとつの家族の一家での自殺、 殺し合いをもたらした者としての「罪」がありますoその具体的な 「罪」が、三百人ーを超える人々について、ひとつひとつ重ねられて いるのです。それを私は、「あまりに巨きい罪の巨塊」というので すO
私の使った「あまりに巨きい罪の巨塊」という表現について、そ れをひとつの家族に死をもたらすという「罪Jとは次元の異なった (神でない者には云々できない、といった)「罪」を指す、という 読みとりをする人がいますOしかし、私は、渡嘉敷島で引き起され た、一家族、一家族の悲惨な死という具体的な「罪」について、そ れらが渡嘉敷島でどれだけの大きい規模に積み重ねられたか、それ を(神ではない)人間として考えようとして、この表現を用いたの ですo
「過去の事実の改変に力をつくす」とは、どういうことを指して いるのか?渡嘉敷島の元守備隊長が、この島で行なわれた集団自 決が、日本軍の強制によって行なわれたのでない、という方向に向 けて事実を改変するために行なった発言は幾つもの報道によって 私の知るところでしたoとくに旧守備隊長の沖縄再訪にあたっての 新聞紙上の幾つもの談話にそれは一貫してみられますが、その旅発 ちに先だつての、『週刊新潮』(1968年4月6日号・甲B 73) での談話は、典型的ですO旧守備隊長は、終始、集団自決が行われ た夜、自分はそれを知らなかったと言い通します。「私はまったく 知らなかったOおそらく気の弱い防衛隊員が絶望して家族を道連れ に自殺しはじめたんだと思うD Jこの週刊誌で旧守備隊長は、伊江 島から投降勧告に来た女子3名、男3名を処刑したことについて、


P19
「…私は、村長、女子青年団長とどう処置するか相談したら、“捕 虜になったものは死ぬべきだ"という意見でした。Jといっていま す。またやはり投降勧告に来た二人の少年についてはこういってい ますb 「そこで“あんたらは米軍の捕虜になったんだo日本人なん だから捕虜として、自ら処置しなさい。それができなければ帰りな さい"といいました。そしたら自分たちで首をつって死んだんで す。」この裁判を契機に、法廷の外と内でそれらの実態はさらにあ きらかとなっていますo
「かれのペテンはしだいにひとり歩きをはじめただろうJとは? ここで「かれJは渡嘉敷島の集団自決の日本軍一第32軍のタテの 構造の先端で責任をもっ、守備隊長をさしていますが、かれが上に のべた事実改変の発言を行なう一方、あらためて引用しますが、《誰 もかれもが、一九四五年を自己の内部に明瞭に喚起することを望ま なくなった風潮のなかで》、いやそれは事実とは違う、という反論に さえぎられることなしに、通用するようになった、その現在時にお いて、守備隊長は、それが自分たちの作り出した、虚偽の物語であ ることを意識しなくなりさえしているだろう、という意味ですo私 はかれのこの種の言動について新しい報道に接するたびに、その思 いを深めましたo

2)「本土においてはすでに」で始まる次の段落は何を述べたものか?

この段落において、私は先の段落で書いている、1945年に行 なわれた集団自決の悲惨が、本土においてしだいに表立った声にな らなくなってゆく時代状況のなかで、その守備隊長として責任のあ る人物が(ここでも個人名をあげていませんが、私は渡嘉敷島の旧


P20
守備隊長を指しています)、本土においてと同様、沖縄においても、 自分を批判する声は起こらなくなっているのではないか、と夢想し、 幻想することがあったはずだ、という私の想像を語っていますD 197O年、→実際にこの旧守備隊長が沖縄に向かったとき、かれ は集団自決を引き起すことになった日本軍の、この島での責任者と して、その罪を認め、償いうる道があれば償いたい、と島民に向け て語るために行ったのではありませんoかれは戦後ずっと考えてき た、「おりがきたら」渡嘉敷島を訪れて、島民たちの友好的な雰囲気 のなかで「英霊をとむらうJ、その企画の実現のために沖縄に向かっ たのですDここで私が指摘しているのは(そして批判しているのは) 右にのべたような1945年の悲劇を忘れ、問題化しなくなってい る本土の日本人の態度であり、それに乗じて、沖縄でも、25年前 の集団自決の悲惨をかれに向けて批判する者はいない、と考えるよ うになっていた、その旧守備隊長の心理についてですo私は新聞報 道からその認識を誘われ、旧守備隊長の持っていたはずの夢想、幻 想を、私の想像力をつうじて描きましたoそれは小説の方法ですが、 私はこのエッセイ・評論にあえて用いましたo そこで私の批判した「かれJは渡嘉敷島の旧守備隊長であり、私 は各種の現地からの新間報道で「かれJの発している言葉が、「か れJの戦後作りあげたどのような信条から出ているかを、私が「か れ」に見出すと考える「夢想」「幻想」として書きましたO 「エゴサ ントリクな希求jとは、自己中心的なねがいですo 「屠殺者と生き残りの犠牲者の再会Jという表現を、私はここで 批判的に描いている人物の、「夢想j 「幻想Jの特殊さを強調するた めに用いていますO 「生き残りの犠牲者Jとは、集団自決の経験の なかから生き残った人たちです。このような過酷な経験をし、家族


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を自分の手で殺すこともしなければならなかった、その上での生き 残りの人物を、私はその人たち自身犠牲者でもあると考えます。 「屠殺者Jという言葉を(私はこの仕方を自分の小説の技法とし て作ってきたのですが)、日本語であいまい化されている言葉を、 それにあたる外国語とつき合わせ、自分としての訳語を作って正確 にする、という仕方で使っていますoその仕方での私の意味付けは、 「むごたらしく人間を殺した者」ですo
なぜ私が自分の定義によるこの日本語を使用したか? 現在使われている日本語の辞書として代表的な『広辞苑』には、「屠 殺Jはあり、「(肉などを利用するため)家畜などの獣類をころすこ と。」という意味があてられていますo
しかし明治以来のわが国の翻訳文学、またそれに影響を受けて書 かれた小説に見られることのあった「屠殺者Jという言葉は、この 辞書にはありませんO 「屠殺者」という日本語は、bli t che rつまり一 般的には肉屋、そしてさきの字義による、家畜などを食用にするた めにころす職業につく人のことを示します。ところがbli t che rには、 比喰的な意味として「むごたらしく人を殺す者」という使われ方も あるのですO
今日の英文字でbli t che rは文字通りの「家畜などを食用にするた め殺す職業の人Jという意味と、いまの比喰的な意味で使われ続け ています。しかし、新造語としての「屠殺者Jという日本語には、 この両方の意味を混在させることで、食用の肉を作る職業人への差 別的な使用がなされる危険がありますDそこで『広辞苑』からは、 この言葉が消されることになったのでしょうc そのような言葉の歴史を承知した上で、私はあのー節に「屠殺者J という言葉をbli t cile rの比喰的な意味をきわだたせて使っています。


P22
噂性 身休、J戸司令ぷ

つまり、渡嘉敷島の集団自決においての「そのむごたらしい死の責 任を持つ人間と生き残りの犠牲者の再会jということです。

3)「日本本土の政治家が」で始まる段落は何を述べたものか?

この段落の文章の構造を説明しますo
まず前の段落の、ひとりの人物(かれは渡嘉敷島の旧守備隊長で、 この段落では当時「若い将校」であった「ひとりの日本人」と呼ば れています)が、1945年渡嘉敷島で、その指導下にある守備隊 が島民に強制した集団自決について、事実に反する下記憶」を作り あげての「夢想J 「幻想Jを抱く、そしてそれを現実に置き換える ことが可能だと考えて25年後の沖縄におもむく、という場面を私 は書いていますD
いまやそれができる、それができるようなおりがきた、とこのひ とりの日本人が考えて、沖縄に行くDそれは「日本本土の政治家、 民衆Jもいまやそれが事実に反しているといいたてるようでない現 在、「そのようなおりがきたのだ」とかれは考えている。その時(以 下は、書き手である私の認識の表明ですoそのまま引用します)《ま さにわれわれは、一九四五年の渡嘉敷島で、どのような意識構造の 日本人が、どのようにして人々を集団自決へ追いやったかの、およ そ人間のなしうるものと思えぬ決断の、まったく同ーのかたちでの 再現の現場に立ちあっているのであるO 》
「戦争犯罪者Jとは誰のことか?「若い将校Jとは誰のことか? 渡嘉敷島の旧守備隊長のことですO
「若い将校Jたる自分の集団自決の命令とは、何か?その根拠 は何か?


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私は、すでにこの陳述書でのべていますが、日本軍一第32軍一 渡嘉敷島の守備隊というタテのつながりのなかで、しかもそれが現 実に行われた現場で守備隊の最高責任を持っていた将校として、他 に変る者はいな-いこの島の守備隊長に、渡嘉敷島の集団自決の直接 の責任があると考え、その根拠ものべていますo渡嘉敷島の守備隊 長は、私の認識を繰り返しますが、さきにいった、タテの構造の一 員として、集団白決に責任があります。この集団自決が「最後の時」 にはなされなければならないということは、島民に徹底されている (慶良問列島の日本軍が米軍に勝利し、沖縄戦が逆転することがあ る場合、この「最後の時」は「命令jではなくなりますが)。そこ で、渡嘉敷島の陣地脇に集合させられている島民が「最後の時Jが 来た、と考えた時、それに対して積極的に実行中止の命令を出しう るのは、現地の守備隊長のみでしたDそれを旧守備隊長はせず、そ の夜起こったことを知らなかったとたびたび主張しています口それ は、いまのべた、現地の指揮官として「最後の時Jだ、という島民 の認識をそのままにしておいたことで、それまでに積み重ねられた 「集団自決」への「命令」が、実際に受けとめられてきたままに実 行されたことへの、まやかしの発言なのです。 「渡嘉敷島で、どのような意識構造の日本人が、どのようにして人々を集団自決へ追いやったのか、およそ人間のなしうるものとは 思えぬ決断Jとは何か? 旧守備隊長は、集団自決のその当日まで、守備隊長として、すで に島民に行きわたっている、集団自決に向けて押しつめられている、 かれらに共通の思いに対して、それをやってはならない、と命令す る決断ができる立場にいる、島でただひとりの人間でした。かれは それをせず、大きい悲劇が起るままにしました。放っておけば「最


P24
後の時Jとして起こることをそのまま放置したことこそが、島民の 側からいえば逃れようのない結末をもたらした、直接の責任者のひ とつの決断であったのですo F再現の現場に立ちあっているのだJとは?戦後25年たって、 1945年の渡嘉敷島での「ひとりの日本人」の心の働きが、その まま本人によって再現されている(そうすることで1945年の罪 が、罪でないものとして自他に受けとめ直されるように企ててい る)ということですDもし197O年の旧守備隊長の訪沖が、あの ように激しく批判されることがなかったとしたら、この企てはマン マと成功したでしょうD

f,『沖縄ノート』213頁3行白から11行目は、次のように記され ていますo

《おりがきたとみなして那覇空港に降りたった、旧守備隊長は、沖 縄の青年たちに難詰されたし、渡嘉敷島に渡ろうとする埠頭では、沖 縄のフェリイ・ボートから乗船を拒まれたoかれはじつのところ、イ スラエル法廷でのアイヒマンのように沖縄法廷で裁かれてしかるべ きであったであろうが、永年にわたって怒りを持続しながらも、穏や かな表現しかそれにあたえぬ沖縄の人々は、かれを投致しはしなかっ たのであるOそれでもわれわれは、架空の沖縄法廷に、一日本人をし て立たしめ、右に引いたアイヒマンの言葉が、ドイツを日本におきか えて、かれの口から発せられる光景を思い描く、想像力の自由をもっ。 かれが日本青年の心から罪責の重荷を取除くのに応分の義務を果し たいと、「或る昂揚感」とともに語る法廷の光景を、へどをもよおし つつ詳細に思い描く、想像力のにがい自由をもっo 》


P25
私が、この段落で書いていることは、1945年の渡嘉敷島で行な われた、日本軍から強制されての島民の集団自決が、197O年の日 本の青年たちにとってしっかり受けとめられているのではない、それ はむしろいまや日本の政治家から日本人一般を包みこむ大きい風潮 ではないか、それをあらかじめ見きわめての、渡嘉敷島の旧守備隊長 の、渡嘉敷島に渡ろうとする企てではなかったか、ということですo 私は沖縄戦で行なわれた沖縄住民への日本軍の犯罪の典型的な例 として、渡嘉敷島での集団自決の強制がある、と考えていましたoそ れに対していかなる法的機関による裁判も行なわれていない以上(お なじことの、将来における再現をふせぐために、というのが私の考え の中心にありましたが)なんらかのかたちでの「沖縄法廷」が聞かれ るべきであった、と考えていました。そしてここでは、ひとつの「沖 縄法廷jの架空のものを想像したのですo
その架空法廷で、渡嘉敷島の元守備隊長がどのようなことを語るだ ろうか、ということを様ざまに考え、私は戦後の(197O年現在の) 「日本青年」と「ドイツ青年」の比較を設定しました。そして、私が そこにイスラエル法廷におけるアイヒマンの証言を(ハナ・アーレン トの書物から)引用したのは、次の意図からです。 アイヒマンは友人から「或る罪責感がドイツの青年層の一部を捉え ている」ということを聞きます。それを契機にかれはナチス・ドイツ のユダヤ人虐殺の犯罪を追及する捜索班から逃れることをやめ、逮捕 されると、イスラエル法廷に対して(現実にはありえないことでした が)自分を公衆の前で絞首するようにさえ提案しましたOその理由と してかれはこういいます。「私はドイツ青年の心から罪責の重荷を取 除くのに応分の義務を果したかったOなぜならこの若い人々は何とい


P26
つでもこの前の戦争中のいろいろな出来事や父親の行動に責任がな いのですからo J
一方で私は、「日本青年」にはこうした前の戦争に対する罪責感は 一般的にないのではないか、と考えたのですDそしてやはり沖縄戦に 対する罪の意識はない旧守備隊長が、「沖縄法廷Jでその意見を申し たてるとすると、どういう内容となるだろうか?私はそれをグロテ スクに感じる、と書いていますD渡嘉敷島の集団自決の、日本軍の責 任を現地で担うべき旧守備隊長をアイヒマンになぞらえ、「沖縄法廷」 による公開処刑をまで言い出している、とする読み取りは、まったく あたっていませんo戦争の責任の考え方について、アイヒマンと渡嘉 敷島の旧完守備隊長との考え方は逆なのですoアイヒマンはドイツの 青年が感じとっている「罪責の重荷Jを取除いてやるために自分で罪 を引き受け、絞首によってそれを償おう、と考えたのです口渡嘉敷島 の旧守備隊長にも、日本青年にも、罪の意識はないのですOその点を 私は比較してグロテスクに感じる、と書いたのです。

g,『沖縄ノート』は今日まで版を重ねているが、その刊本について最 初の版を改訂していないことに関してo

1)渡嘉敷島についてO赤松隊長命令説を否定する文献等が出たこと を知っているか?(甲B 18・曽野綾子著『ある神話の背景』、甲 B2・赤松嘉次『私は自決を命令していない』)

知っています。読んでもいます。この陳述書のなかにもすでに赤 松嘉次『私は自決を命令していない』を私が信頼しない理由は示し てきました。曾野綾子著『ある神話の背景』で直接私の名があげら


P27
れている部分への、私としての解答も示しましたoこの本の全体に 向けては、私は太田良博氏ら沖縄の知識人たちの批判よりほかの、 自分としての批判は持っておりません。その上で私は『沖縄ノート』 の守備隊長と自決命令に関する部分、自決命令を前提に論評した部 分を訂正する必要はない、と考えていますoその理由を申しますo 私が「命令」という言葉を『沖縄ノート』で使用しているのは、 次の部分ですo

《慶良問列島においておこなわれた、七百人を数える老幼者の集 団自決は、土地一史著『沖縄戦史』の端的にかたるところによれば、 生き延びようとする本土からの日本人の軍隊の《部隊は、これから 米軍を迎えうち長期戦に入るoしたがって住民は、部隊の行動をさ またげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自 決せよ》という命令に発するとされている。》(69頁) 《あの渡嘉敷島の「土民」のようなかれらは、若い将校たる自分 の集団自決の命令を受けいれるほどにおとなしく、穏やかな無抵抗 の者だったではないか、とひとりの日本人が考えるにいたる時、ま さにわれわれは、一九四五年の渡嘉敷島で、どのような意識構造の 日本人が、どのようにして人々を集団自決へと追いやったかの、お よそ人間のなしうるものと思えぬ決断の、まったく同ーのかたちで の再現の現場に立ちあっているのである。》(211~212頁)

私は、このように書きながら、「命令」という言葉を、渡嘉敷島 の守備隊長が、本日**時に、集団自決せよ、と島民たちに告げる 「命令書」を書いて渡した、あるいは島民たちの代表に向かつて第 三者の前で、同じ内容の「命令Jを発した、という意味のレベルで、

P28
そう書いたのではありませんo
すでにのべてきましたが、私は日本軍一第32軍一渡嘉敷島の守 備軍一そして、皇民教育を受けてきた島民というタテの構造のなか で、島民たちが日々、島での戦闘が最終的な局面にいたれば、集団 自決の他に道はない、という認識に追い詰められてきたと考えてい ますo米軍の上陸と攻撃が島民たちの現実の問題として追った時、 このすでに島民たちにとって共通の、自分らのとるべき態度はほか にないとされていたことが、実行されたのですoそれは日々、島民 たちに向けて徹底されてきた、タテの構造におけるその命令が、現 実のものとなった、ということですoすでに私の認識は示しました が、日本国一日本陸軍一第32軍一慶良問列島の守備隊という「タ テの構造」の、「最後の時」における集団自決の実行は、すでに装 置された時限爆弾としての「命令」でありました。それを無効にす るという新しい命令をしなかった。そしてそのまま、島民たちを「最 後の時Jに向かわせた、というのこそ渡嘉敷島の旧守備隊長の決断 であり、集団自決という行為を現実のものとしたのですo 私が『沖縄ノート』で行なっている批判の根本にある動機は、;将 来の日本人が、同じタテの構造に組み込まれて、沖縄戦での悲劇を もう一度繰り返すことにならないか、という懸念ですo私は194 5年の経験がありながら、日本人一般はこのタテの構造への弱さを よく克服していないのではないか、と倶れていますOそこで、この ような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはで きないか、という問いを繰り返す『沖縄ノート』を書いたのですD 私は『沖縄ノート』を改訂しなければならない、と考えていません。

2)座間味島についてO宮城晴美著『母の遺したもの』(甲B 5)は


P29
読んだか?

読みましたoこの裁判が、はじまってから、それに向けて提出さ れる各種の資料を読むようになりましたから、その時点においてで すO
座間味島を含む慶良問列島の集団自決は日本軍の命令に発する とされている部分を訂正する必要はないか? その必要はない、と考えています。私が直接に座間味島という名 をあげず、しかし慶良間列島での集団自決について、日本軍の命令 として論評している部分の「命令」についての意味づけは、すでに のべたとおりですo
なお、『母が遺したもの』に記述されている、1945年3月2 5日の、座間味村の指導的立場にあった人々とともに5人で守備隊 長のいる壕に行く情景には深く印象づけられました。5人のなかの 村の助役がこういいますD 「もはや最後の時が来ました。私たちも 精根をつくして軍に協力致しますOそれで若者たちは軍に協力させ、 老人と子供たちは軍の足手まといにならぬよう、忠魂碑の前で玉砕 させようと思いますので弾薬をくださいJOそれに対する守備隊長 の返事はこうです。「今晩は一応お帰りください、お帰りください」。 私はこの返事に、強いリアリティーを感じますOこの通りの返事 がなされたのだ、と考えます。もっとも重要な選択を、責任をかけ て行なわねばならぬ問いかけを受けて、返答を留保する、先送りす る口その際の日本人に特有の(といいますのは、私の長年読んでき た外国文学で、この言い廻しに出会ったことがないからですが)言 い方がこれです。そしてその留保の聞に、つまり決して否定された のではない、それまでに積み重ねられていたタテの構造をつらぬく


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集団自決の命令が、島民たちによって現実の問題となったのですo 私は『沖縄ノート』において座間味島の集団自決について、その 隊長命令のあるなしを論評していませんoそして、現在の私は、渡 嘉敷島においでと同様にγ座間味島において集団自決への日本軍の 命令があった、と考えますoそれはこの裁判において、新たに行な われている、生き残りの島民たちの証言によっても支えられている 確信です。

3)「書き直すJことの大切さを述べているが、本件についてはどう なのか?(『石に泳ぐ魚』事件・甲B 5O )

私は今年で5O年間、小説(そしてエッセイ、評論)を書いてき ましたoその経験に立って、私が作り出した小説(そしてエッセイ、 評論)の技法の、中心にあるものが、草稿の文章の書き直しを、必 要と感じる回数、行い続けることです口私の草稿としての原稿とそ れが定稿となる過程を実際に見てきている編集者は、私が el abor a t ionと呼んでいる技法の実際をよく知っていますo なぜ私が、定稿となるまでの様ざまな段階で、文章の書き直し、 el abor a t ionを行ない続けるのか?それは、自分の表現を正確に するためですo私は原稿用紙にペンで文章を書く段階から、ゲラ刷 りになった段階まで、繰り返しこれを行ないますOさらにもう一度 (これも日本に特有といっていい発表形態なのですが、月刊の文芸 雑誌に掲載してからも、単行本にする前に)書き直しを行ないますD そして、いったん単行本にすれば、それによって作者としての最終 的な責任をとりますOしかし、もちろんミスプリントの訂正は目に つく限りしてきましたし、書いである事実、論評に事実に反すると


P31
ころがあると白分で認めれば、訂正します。『沖縄ノート』につい ては、その必要を認めておりませんo

以上