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息子よ!  550W

 この本は私もいささか関係している。下記、「あとがき」をお読みいただければ「いささか」がお分かりいただけるが・・・・。鴨野氏の文章力に脱帽。

あとがき

本書は、二十一歳のある青年の転落死が、実際には自殺に見せかけた他殺、すなわち殺人 だったとして、遺族や友人等の必死の調査の甲斐あって、事件発生から六年以上も経ってよ うやく容疑者逮捕にまで至った「久留米同僚殺人事件」を扱ったノンフィクションである。 日刊紙「世界日報」平成二十一年五月八日から六月六日まで掲載した記事「息子よ!友田 家・粋のかたち」に大幅加筆を行った。服役中の鈴木行夫以外、実名である。
大阪に住む筆者の友人、増木重夫氏が、この事件の被害者である友田和宏君の死に言及し たメールを配信したのは昨年(平成二十年)四月十四日未明のことだった。
タイトルは「『子供を愛してます』と言える基準」。
増木氏はそのメールで、警察が当初事故または自殺と判断したことに納得がいかない父親の友田博之氏が、「うちの息子が階段を踏み外すわけがない。その一心で息子を信じての戦いだった」と振り返っていることを紹介していた。
「目撃者なし、物的証拠なし、警察に再再再・:捜査を頼み、そして送検、起訴。判決確定。頼むといっても、『お願いします』『はい、わかりました』で一旦出した結論を警察がひっくり返し動くわけもない。博之氏、奥さん、娘(姉) さん。家族三人が雨の日も風の日も久留米署の前で立ち続けた。
博之氏が子を思う気持ちだけで警察を押し切り、検察を押し切り、裁判所を動かした。世界最大のブルドーザーをもってしでもここまでのパワーはあるまい。そして氏は我々への礼 状の中で、『息子は絶対自殺ではないと信じて遺骨とともに戦った』とあり、『皆様にお礼を 申し上げる』。最後に『親の責務が果たせた』と書かれています。 人は人を尊敬したり軽蔑したりします。人それぞれがそれぞれの価値観で。私は私ができ ないことを平気でやってのける人が「尊敬に値する人』という価値観を持っています。もし 自分の子なら私がここまでやったであろうかと自問します。最近特にTVや新聞で、『子供
を愛してます』と日々耳にします。友田氏を思うとき、気安く『子供を愛してます』とは一言えない。増木」
 一人娘を持つ父親である増木氏の本直な心情がそこに吐露されていた。
 その頃、筆者は生まれて初めての座骨神経痛に襲われており、うかつにもこのメールを見落としていた。その後、メールの整理をする中でこの一文を読み、即座に増木氏に「友田さんに会いたい」と頼んだのであった。
 この二、三年、筆者は沖縄戦集団自決の取材に没頭していた。舞台は大阪高裁に移ってお り、関係者も大阪に多く、取材では毎月のように出かけていた。そこに昨年五月から友田氏 の取材も加わった。 出張取材だから一回で最低二、三時間の取材はしたいと意気込んでいくのだが、少し話し 始めるとすぐに友田氏は「鴨野さん、今夜、何を食べたい?」と聞いてくる。あれこれ言う と、「じゃ、行こうか」となる。 「あのう、取材は?」 「まあ、この次もあるし。」 こんなパターンが何度かあった。やがて、理解した。生前の楽しい思い出を語ることも、事件の真相を究明した当時を思い出すことも、いずれも当事者にとっては苦しいことなので
ある、と。自らが口にする言葉であっても、自分が抱いた憤りや痛哭、無念の感情を的確に表現しきれない。もどかしきを覚えながらも、他の表現が見いだせないという葛藤。
 生きていく上ではどうしても避けがたい不条理や理不尽と出合う。「それが人生なのだから仕方ないじゃないか」と、人はそれらの出来事と折り合いをつけて生きていく。されど、友田家にとって、愛するわが子を失った悲しみが時とともに和らぐことはなかった。真相究明ができないからと、ギブアップはできない。
 彼らは、真実をつかみ取るまで闘う覚悟で臨み、それなくして闘いの終わりはなかったの である。
 ゴールがどこにあるか全く見えない闘いほど苦しいものはない。しかし、友田家はこの闘 いに挑戦し、多くの友人、支援者らの協力を得て、真相にたどり着いたのである。当初、友 田家に対して警戒していた清原社長と従業員は、やがて一致団結するようになり、事実解明 の先頭に立つことを惜しまなかった。清原社長の要請を受けて、「とり清」への調査をやめ よ、と友田博之に文書を出した久切米市の豊田圭一弁護士も、後に友田家の顧問弁護士とな って法廷で闘うようになる。 最後までこじれた住友生命の顧問弁技士とも、無事に「和解」ができたことは、本文の終わりで触れた。
 平成二十一年五月三十一日。豊中市稲津町一丁目にある友田氏が持つ食堂「和」の二階で、和宏君の十三回忌の法要が営まれた。
 地元はじめ九州からも多くの友人・知人が駆けつけて、会場に全員が入り切れなかった。和宏君の遺影は、彼が好きだったカスミソウや百合の花などに包まれていた。また、壁には幼少期から成人になるまでの楽しい思い出の写真が貼り付けられている。
 友田博之氏も妻、サヤ子さんも嬉しそうな笑顔を見せていた。和宏は絶対自殺なんかしな い、必ず隠された真相があるはず・・・・そう信じて、遺骨を抱いてワゴン車に乗り込み、親と しての切ない真情を訴えた日々、炎天下の中、何度も何度も頭を下げながら真相究明の署名 集めに奔走した日々・・・・。あちこちから集まった署名の数は合わせて二万四千にもなった。 署名は頼んでも一円のカンパも求めることはしなかった。和宏の供養のためにと寄せられた お金は全額、寄付してきた。十三回忌の香典も例外ではなかった。 「十二年の歳月が経ちました。真相究明のために貧乏になりましたが、皆様のお陰で一生、悔いない心でいられます。ありがとうございます。これからも親の意地、信念を貫いていきたい」と博之氏。
「こんなに多くの人にお集まりいただき、和宏が私たちの子でよかったな、と改めて思っています」とサヤ子さん。
 サヤ子さんは一週間も前から、この日集まってくれる人たちをもてなすために手料理の準備に心を砕いてきたようだ。
愛するわが子、和宏君のために両親は、周囲の人が驚くほどの執念と愛情を込めて闘い、そのゴールにたどり着いた。これからはその愛情が、姉ひろ子さんに注がれることだろう。 ひろ子さんの幸せこそ、両親の最大の慰めとなり、生きる励みになろう。
 取材した警察官や弁護士の誰もが指摘したことだが、ずぶの素人が、警察が一度出した結論をひっくり返して犯人を捜し出した前例など、聞いたことがないという。
 私は、そのような前例のない難問の解決に全エネルギーを投入した友田博之という男の姿、 そして家族や友人らの絆と友情を描いてみたかった。理屈抜きでわが子のために闘う男の熱 情を記録に留めたかった。それがこの本を出す理由である。
 ジャーナリストとして言えば、もう一つ理由がある。もし、友田氏が民族運動をしておら ず、市井の人であれば、マスコミ各社はこぞって彼をヒーローのように書き立てたであろう。 だが、犯人が迷捕され刑が確定した時も地方版で紹介されたにすぎない。 マスコミもまた、彼に冷淡であったと思う。自分としては、そんなマスコミの世界に生き る一人として、「よそが書かないなら俺が書こう」という動機もあった。同和問題で揺れた広島公教育問題しかり、軍人を”悪魔の頭”のように責め続けてきた沖縄戦集団自決問題しかり。
世の多くは、巨大なるものに恐れをなし、弱き者を責める。メディアは、愛国運動と言えば「右翼」とレッテルを貼り、左翼運動は「市民運動」という美辞麗句で飾る。
 友田博之氏は、そんな偏見や先入観とがっぷり四つの相撲を取って、悪戦苦闘の末に見事、倒した。拍手喝采である。
 友田親子が愛した石原裕次郎の歌に「わが人生に悔いなし」(作詞・なかにし礼)がある。 その二節目にこうある。 「親にもらった体ひとつで/戦い続けた 気持ちよさ/右だろうと左だろうと/わが 人生に悔いはない」
「息子の死の真相究明に時効はない」と己自身に言い聞かせ、満身創撲となりながらも人懐っこい笑顔を忘れない友田博之氏に、「わが人生に悔いはない」という言葉はよく似合う。
 私自身これからも、そんな人間の生き方を取材し続けていきたいと密かに願う。最後になったが、友田家をはじめ、快く取材に応じてくださった皆様に心から感謝を申し上げたい。また、本の編集を担当してくれた大切な友人である渡邊茂氏、本の発行を引き受けてくれたアートヴィレッジの越智俊一社長にも併せて謝意を伝えたい。

平成二十一年十月  五十四歳を迎えた秋に 鴨野 守

※ 書籍をそのままテキストスキャンし、修理していません。スキャンロスはご容赦ください。