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絆抱くペリリュー・日本を愛する島  500W
 
新刊チラシ  名刺

プロローグ
第一次世界大戦で戦勝国となった日本は、赤道以北の南洋諸島をドイツから引き継いで、南洋庁を設置してこれの統治にあたることになった。
ほとんど無血に近い状態で占領した島々で、ほぼ三十年後には宿敵アメリカと激烈な戦闘を交えようとは、神ならぬ身には知る由もなかったが、数百年間にも及ぶ白人への隷属に呻くアジアからの時代の要請に応え、自らの生存をも賭けて大東亜戦争に立ち上がった日本は、やがて圧倒的に優勢なアメリカ軍を南の島々に迎え撃ち、飢えと劣勢をものともせずに最後まで雄々しく戦い抜いた。
なかでもペリリュー島の戦いは、敵将ニミッツをして、かのテルモピレーを詠ったシモニデスを模した文章を草させるほどの勇戦敢闘ぶりであり、今はもう、逝きし世の遙か彼方の面影となってしまった、日本人の忠勇義烈のかぐわしい香りを留めた、祖国の名に恥じない戦いぶりだった。
ペリリュー島での決戦を前に、日本軍はパラオ本島へと島民を全員避難させて、一人も巻き添えにはしなかった。
フィリピンと本土へ連なっていく海と空の文字どおりの防波堤として、日本人兵士達は自らの命以外の多くの命のために気高いふるまいを残した。
悲嘆も絶望も反目も乗り越え、幾度も試みる断念でもなお消し難かったであろう希望すらも押し流してしまうほどの隠れた義務の観念と、深く信じ抜いた祖国日本が掲げた理想への祈りが彼らを突き動かしていった。
いつの世も、戦いは惨く顔をそむけたくなる悲劇だが、通り過ぎた後には哀しくとも美しい歌が残される。
生き残った人々に語り継がれる歌は伝説となり、伝説はまた、新しい祈りと愛の業を生み出していく。
これは、かつての日本人が後に続く者達を信じながら、かけがえのない命で描き切った、愛と勇気に満ち溢れた高貴な戦いの軌跡である。
 
 
エピローグ
作戦終了を確認した米軍は、ブルドーザーで洞窟陣地入口を埋めながら、全島域で米軍兵士の遺体のみを回収していった。
置き捨てられたままの日本軍兵士達の遺体は、やがて戻ってきた島民達の手で涙ながらに埋葬された。
こうしてペリリューは、島全体が墓地となった。
日本軍兵士達はこの島に多くの尊い血を流し、文字どおりパラオの古諺に言う「家族」となったのだった。
それは、世界中が一家となって共に栄えようという、建国以来の日本が掲げた理想に連なる二十世紀の神話であり、物語だったのかもしれない。
島民は激戦から護られ、ア バイは燃え尽きた。
アメリカは奪い取ったパラオで、南洋統治時代に日本が築いた総てを徹底的に破壊したが、多くの日本軍兵士達がかけがえのない命で綴った「伝説」を、ついに抹殺することはできなかった。
オレンジビーチに寄せては返す波は、今日もまた南の潮騒を奏でている。誰にも、どんな力を使っても消し去ることのできない、日本軍兵士達が大義のために一身を放擲して懸命に示した気高さで歌い上げた物語は、美しく輝く南の海深くに、輝くような白い貝の首飾りになって今も漂っているのかもしれない。
哀しくも美しい伝説の余韻は、強くて優しかった日本軍の神話と共に今もなお島民の心に息づき、豊かな黒潮の流れは、遙か彼方の祖国の山河へと、今は逝ってしまった歴史の微かな呼び声を届けている。
二十世紀末に独立したパラオは、国旗に日の丸とよく似たデザインを国民が選んだ。
美しい南の海に鮮やかな月が浮かぶその旗には、かつての日本人が示した忠誠と武勇、高貴な献身と荒削りで自然な島民への素朴な愛情が偲ばれるようである。
ペリリュー戦での島民の協力者に「靖国神社で会いましょう」と、声をかけて散っていった日本人兵士達がいた。
声をかけられた島民は、戦いが過ぎ去った後も兵士の言葉をいつまでも胸に抱いて生き、約束の聖なる場所、靖国神社への参拝をためらい姑息にごまかす戦後日本の首相達を嘆いた。
今はダイビングのメッカとして賑わうパラオに、互いにその祖国のために命を捧げた日米の若者達が残した物語があった。
ひたむきに掲げた理想に日本人が決然と挑み、幾多の未練を断ち切って殉じていった時代に、南十字星の下で演じられた高貴な献身に鎮魂の思いを致すことは、永劫への憧れに満ちた最後の波の音を胸に抱きながら永久に瞳を閉じていった多くの人々へ、後世を生きる我らが捧げるべき真心からの祈りであると思われる。
  
 
あとがき
 小学校中学年を終えようとする頃,大東亜戦争(太平洋戦争)敗戦によって台湾から北薩摩の宮之城という町に引き揚げてきた母方の祖父が,私を連れて外出した折に集英社の「ジュニア版・太平洋戦史四巻組」を買ってくれた。
真珠湾攻撃に始まる文字どおりの百戦百勝で,東洋を数百年間も奴隷化していた白人達を追い払った開戦百日の栄光から,むごたらしい原爆を投下されての初めての敗戦に至るまでの日本の歩みがそこにはあった。
父方の祖父は志願兵として陸軍に入り,父は定年退官するまで陸上自衛隊に奉職したという家庭環境もあり,学校では太平洋戦争と習い,家庭では大東亜戦争と呼ばれる戦いへの私の興味が強まり始めていた時期だった。
最も心惹かれ,少年の胸に焼きついたのは,著者が記した「ここには,海空戦に,密林戦に,日本人が誇りをもって戦った記録が収めてあります」という言葉だった。
長じて高校,大学へと進む中で,ある時は教壇から,ある時は支配的な言論の思潮から浴びせかけられる,挙げて世を支配する反日的な風潮に揺さぶられもしたが,戦わずして屈服する道を決して選ばなかった先人達の勲は,暴風の中の灯台のように最後は私を導いてくれた。
昭和五十七年に陸上自衛隊の一般幹部候補生で入隊をし,任官後に志望かなわず除隊してからほどなく昭和の御代が終り平成を迎えた。
制服を脱いで初めて接した一般社会は,国旗国歌論争に始まり,元号法制化や偏向教科書是正,いわゆる南京問題に慰安婦など,目にする動き総てが,はてしなく続くアメリカ占領軍による日本弱体化の延長のように思われた。
そういった風潮と職場で戦いつつ,地方公務員として県内各地を転勤して回る中,東京裁判却下未提出弁護側資料を始め,戦勝国によって戦犯とされた方々の御遺書や,西郷隆盛の明治十年の敗戦から福岡玄洋社につながる大亜細亜主義の流れと挫折にふれる機会を得た。
それは,わが国の学校でいったい何が故意に教えられなくされたのか?敗戦後に封印され,貶められ,危険視されたのは何か?日本人の血の記憶を抹殺することで利を得るのは誰か?といった疑問が湧いてくる時間でもあり,日本人が,征服者によって禁じられた楽器で禁じられた調べを奏でる日を取り戻さなければ,永久に独立自尊は得られないことに気づかされた日々でもあった。
また,教科書改善や南京百人斬り冤罪支援など,様々な社会運動を通して学ぶうちに突き付けられたのは,日々洪水のように流れてくる情報には全くと言っていいほど「日本の弁明的視点」は含まれていないことだった。
逆に日本の名誉が失墜することならば,各界が勇み立って声を揃えて非難を繰り広げ,あげくは恥ずかしげもなく外国への御注進に及ぶ。まるで自分達は日本人ではないような,あるいは,自らのみは全能の神の視点を持つかのような,太宰治の言葉を借りれば「いい気な愚行の匂い」が息詰まるほど漂ってもいた。
そんな中で,平成六年に硫黄島で皇后陛下が詠まれた「慰霊地は今安らかに水をたたふ如何ばかり君ら水を欲りけむ」が,上京の折に必ず立ち寄る靖国神社からの帰路で必ず私の胸に浮かぶようになっていった。
酷暑の孤島防御で,喉の渇きも癒せず入浴もかなわず,空腹に耐えて壮絶な力闘を続けた人々の胸中に,程度において比較にもならないが,自らの自衛隊での僅かな体験と比べながら長く思いを馳せることが増えて行った。
日本の弁明を私なりの形にするために,まず公刊戦史に目を通すことから始めた。生還者の手記にも可能な限りふれた。
その際,元情報将校としての冷静な筆致で,敵味方にバランスよく目配りしつつ,一大パノラマのように第二次大戦における独ソ戦を描き出した,パウル・カレル氏の著作群と対比しながら進めるようにした。また,故名越二荒之助教授が中心となって収集編纂された,近代日本が世界に残した後世に語り継がれるべき多くの足跡も心に刻み込んだ。
平成の御代も二十年に達しようかという晩夏に,私は長い歳月を経て再び「ジュニア版・太平洋戦史四巻組」を手に取った。開いた写真ページには,ペリリュー島の焼け焦げた密林を背景にビーチにへばりついている海兵隊員達の姿があった。
今春,両陛下の行幸啓をいただくまでは,ほとんど知られることがなかったパラオ共和国に属する小さな島で,若者達がふるまいで書き残した詩を,その命で贖われた戦後に生を受けた者の責務として物語にしたいという願いが勃然と湧いた。        
 ヨハンネスの聖句に「人がその友のために自分の命を捨てる事,これよりも大きな愛はない」がある。この物語は,多くの先達が指し示してくれた歴史の鉱脈から,献身と犠牲という,人が持つ純金の煌めく輝きを取り出そうと試みたものである。
 当然ながら,このような本は一人ではできない。本にするためには元の原稿に加筆し,再検討を加えつつ必要な修正をしなければならなかった。
 とりわけ,お世話になった展転社社長の藤本隆之氏,同編集長の荒岩宏奨氏には御礼の言葉もない。また,知人の嘉野文広氏を始め,多くの方々にも支えていただいた。謹んで感謝を申し上げたい。
 パラオ共和国との親日の絆と,両国に交わされる愛情の礎を築いた先人達の尊い勲を,真心からの供養の思いと共に些かなりとお伝えできたなら幸いである。