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 稚内公園 殉職九人の乙女の碑 H5-8-3
 

                   樺 太 の 悲 劇

世界日報社  鴨野 守
平成20年6月19日

ソ連参戦で阿鼻叫喚の住民
捨て身で娘たちを守る老女も


 稚内公園に立つ「氷雪の門」。氷と雪の厳しい環境で生き抜いた人々を象徴する女人像と、樺太の方向を指す8メートルの望郷の門から成り、樺太で亡くなった人々の慰霊と望郷の思いが込められている
 札幌駅から特急に乗り換えて五時間半、稚内を訪ねたのは四月の下旬だった。ミズバショウの群生が遅い春の到来を告げていた。だが、“風の町”稚内を歩くとまだまだ肌寒かった。
 先の大戦で、国内で住民の集団自決が起きたのは、慶良間諸島のほかに樺太でも起きている。戦時中の集団自決の実相に迫るべく、この地を訪ねたのであった。

 両者は、いろいろと対照的である。地理的には、慶良間諸島と樺太は、日本の両端に位置する。米軍が本島に上陸した昭和二十(一九四五)年四月一日から沖縄戦は本格化するが、それ以前に、慶良間諸島の集団自決は起きた。戦争は日本がポツダム宣言を受け入れ、八月十五日で敗戦となるが、樺太の住民にとっての「戦争」は、その前後から始まった。ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄、侵攻したためだ。

 樺太の地は、アイヌなどの先住民族と日本人とロシア人が雑居する形で明治維新を迎えた。明治三十八(一九〇五)年のポーツマス会議で、北緯五〇度までが日本領となり、二年後にはコルサコフに樺太庁が発足。鉄道、道路、港などのインフラが整備され、漁業、林業、石油、石炭開発などで活況を呈した北の大地に、多くの日本人が移り住み、終戦時は約四十五、六万人までに膨れ上がっていた。

 そこにソ連軍が空、陸、海から一気に侵攻。住民は一瞬にして大混乱に陥ったのである。

 各地でわれ先に港に向かい、避難しようとする人々の群れ。そこに容赦なく、ソ連軍が攻撃した。樺太の北部、恵須取―内路間にある百六キロに及ぶ内恵道路にも、避難民は太い川のようになって南下したのだが――。

 <この避難民の流れをソ連機がしばしば襲った。多くは婦女子の列と知っての威かくとみられたが、逃げまどう人の群れに無差別な機銃掃射や爆撃が加えられたこともあり死傷者がでた。悲惨なのは機銃弾で死んだ母親の死体にすがって泣く幼児。子供を失って発狂する母親。若い人たちについて歩けないと自ら離れていき死を待つ老人。取り残されるかもしれない不安から足手まといの幼な子を断崖からつき落としたり、死が待つばかりの草むらにえい児を捨て、わずかなミルクを残していく母親などもいた。そして絶望的な逃避に疲れ、劇薬をあおり、手榴弾を胸に抱いて一家が自決する惨劇も相次いだ>(樺太終戦史刊行会編纂『樺太終戦史』より)

 日本軍は戦闘を避けようと、真岡市街でも住民の中にかなりの死傷者が出ていることを知りつつも、交戦を禁じ、停戦のための軍使派遣を命じた。

 八月二十日朝、ソ連軍の先兵が豊真山道入り口付近にいるのを確認、白旗を掲げた上等兵を先頭にして村田徳兵中尉が軍使となり、護衛兵とともに交渉に向かった。だが、ソ連兵は日本兵の武装を解かせ、軍犬を電柱に縛り付けるよう要求。その上でいきなり銃口を日本兵に向けて乱射したのだった。白旗を掲げた豊原市の駅前に殺到した避難民にも、ソ連軍は銃弾を浴びせた……。

 こうして、わずか二週間で住民・兵士ら約四千三百人が亡くなった。この間に、七万八千人が内地に引き揚げることができた。だが、樺太に残された人は殺されるか、占領下で強制労働をさせられるか、遠くシベリアに抑留され、二度と日本の地を踏めなかった人々も数多い。幸い命が助かった人も、それまで汗水流して築き上げた土地財産の一切をソ連に奪われてしまったのである。

 ある会社員は、妹を陵辱しようとするソ連兵を制止しようとして銃殺された。婦女子らが仮泊していた真岡町の小学校に、ソ連兵数人が押し掛けて「マダムダワイ(女を出せ)、マダムダワイ」と叫んで、女性を連行しようとした。その時、七十歳くらいの老女が立ち上がり、「私が行ってやる。ほかの者には手を触れるな」と兵士を外に追い出した。老女は輪姦(りんかん)され、翌日、死体となって発見された。

 入院していた重病者看護のために最後まで大平神社の防空壕(ごう)に踏みとどまっていた看護婦二十三人の近くにも、ソ連兵が迫った。八月十六日のことだ。避難する内恵道路にも既にソ連兵が立ちはだかっていることを確認した高橋ふみ子婦長は、「この若い看護婦たちを無事な姿で親元に帰せないならば、死を選ぶことよりほかにない」と覚悟。用意していた青酸カリを注射または飲み干した。致死量に足りず十七人が蘇生(そせい)したが、六人は死んでいった。


相次ぐ家族の自決、心中
遺族が自問「愛の極致とは」


日本最北の不凍港を持ち、商工業でにぎわいを見せた真岡町(航空写真=昭和11年樺太庁発行『樺太写真集』より)
 樺太の悲劇を書いた著作の中でも、圧巻は映画「氷雪の門」の原作といわれる、金子俊男氏の『樺太一九四五年夏』(講談社、昭和四十七年)である。樺太・豊原市生まれの金子氏は、「北海タイムス」社会部長、編集委員などを務め、同紙に「樺太終戦ものがたり」を一年にわたり連載。この原稿が作家、吉村昭氏の目に留まり、単行本となった。
 八月九日朝のソ連対日参戦から、二十二日の停戦交渉前後までの約二週間の、樺太でのソ連と日本(軍だけではなく義勇隊・民間人)との戦闘の状況を克明に描いたものだが、四百人を超える関係者の手記とインタビューを合わせて、極めて密度の濃い戦場記に仕上げられている。

 ソ連軍を目前にして、家族同士の心中や自決が相次いだ。真岡中学の体育教師、平野太さんは、妻の真砂子さん(当時43歳)と四男、剛男君(同9歳)が、隣家の江村孝三郎少尉(同55歳)一家五人と共に自決したことを知らされる。収録されている平野さんの手記を紹介する。

 周囲の人の話では、江村少尉は家族四人と、平野さんの妻子に目隠しをさせて、首をはねた後、最後に自ら仏壇に面して切腹したという。知人の校長らは、その自刃を、口を極めて褒めた。

 平野さんは、綴(つづ)る。

 〈私としては、相手がソ連兵でなくてよかった、日本軍人、しかも長い間の友人によって、その一家と死を共にしたのだから、何もいうことはないと思った。ただ、なんとかして船で引き揚げさせようと思って、叱って区長のところへやったことがこうなったと思うと、悪いことをした、私が軽率であったとくやまれてならなかった〉

 死後、一カ月以上が過ぎて、道路脇に埋められていた遺体を掘り出した時の平野さんは、江村少尉の行動を尊敬する一方で複雑な心境でもあったと告白する。

 〈思考、意志という点でおとなの江村少尉と妻たちは、ある覚悟があって切られ、自決したのであろうが、子供たち五人は目隠しをされ、おそらくは合掌し、お題目をとなえながら首をはねられたのであろう。そのときの気持ちを思いやれば、私には名状すべからざる悲惨な悲しみがわいてくる。

 悲しかったであろう子供たちの気持ちを想像するたびに、思い起すたびに、じっとしていられないような気持ちになり、夜も眠りつけないことが、いまなおしばしばある。しかし、私よりももっともっと不幸な人びともあったであろうからと、忘れる努力をする以外にはない〉

 平野さんの手記は、江村さんの隣の官舎にいた同中学の軍事教練の助教官や柔道の教官、英語の鴨志田義平教諭の一家六人の自決などにも触れられている。鴨志田教諭は、外国語学校の出身で、かつて樺太国境警備の巡査だったが、敷香中学開校のときに英語教諭として迎えられ、後に真岡中学に移ったという。

 平野さんは、江村少尉の自決と、この英語教諭の自決を比較して、こう述べる。

 〈江村少尉の自刃を軍人のかがみとしてほめるのは当然であるが、英語教諭一家の自決については、周囲の人びとのほとんどが、あまり語らなかった。なぜだろう。私は一抹の寂しさをそのことに感じたものである。両家とも、子供たちを思う愛情が死に結びついたものであろう。そうであれば文官であった鴨志田先生の精神をももっと称揚してよいのではなかろうか。ただ、なんとか生き残って将来の道を打開することも人間としての愛の極致ではなかったかと当時思ったこともあったが、これは私のごとき凡人の考えであるかもしれない〉

 万に一つでも、愛する妻子の体に敵のソ連兵の指一本も触れさせないようにするためには、自決しかない。死をもって家族を守ろうとした江村氏や鴨志田教諭の決断と行動を、「愛の極致」と称賛する気持ちに偽りはない。

 だが、その半面、平野さんは自問する。何とか生き残って将来の道を打開することも人間としての愛の極致ではなかったか、と。

 誰も、この問いに答えることはできない。平野さん自身も。ただ、明白なのは、平野さんの手記に、自決に関して軍の強制があったとか、日本軍への恨み言などが一行も書かれていないということだ。


真岡の電話交換手9人の自決
碑文から消えた「軍命」

稚内公園に建つ「殉職九人の乙女の碑」
 映画「氷雪の門」は、真岡郵便局の電話交換手九人が懸命に業務を行い、最後に青酸カリを飲んで自決するという実話を基に制作され、樺太最大の悲劇として知る人も多い。
 稚内公園の「氷雪の門」のそばには、「皆さん これが最後です さようなら」と刻まれた「殉職九人の乙女の碑」が建立されている。氷雪の門と同じく昭和三十八(一九六三)年八月十五日に公開されたものだが、その碑文には、次のような説明が添えられた。

 「昭和二十年八月二十日日本軍の厳命を受けた真岡郵便局に勤務する九人の乙女は青酸苛里を渡され最後の交換台に向った ソ連軍上陸と同時に日本軍の命ずるまゝ青酸苛里をのみ最後の力をふりしぼってキイをたゝき『皆さん さようなら さようなら これが最後です』の言葉を残し夢多き若い命を絶った 戦争は二度と繰りかえすまじ 平和の祈りをこめてこゝに九人の乙女の霊を慰む」(原文)

 樺太ではソ連軍の無差別攻撃を受けて、小規模な集団自決があちこちで起きたが、いずれも本人の意志で決行されたものだ。ところが、この九人の乙女に関して、碑文は「日本軍の厳命を受けた」「日本軍の命ずるまゝ青酸苛里をのみ」などと、「軍の自決命令」が死の原因であったと記している。樺太で起きた集団自決が「軍命」絡みで関連付けられた唯一のケースであろう。

 ところが、碑が公開されると、この記述を真っ向から否定する人が現れた。当時、彼女たちの上司であった、真岡郵便局長の上田豊三氏である。上田氏は、「北海タイムス」編集委員、金子俊男氏の取材に答えて「軍の命令で交換手を引き揚げさせることができなかったから、結局、軍が彼女らを死に追いやったといわれているが、これは事実無根です。純粋な気持で最後まで職場を守り通そうとしたのであって、それを軍の命令でというのはこの人たちを冒涜するのもはなはだしい」(『樺太一九四五年夏』)と怒りを隠さない。

 上田氏の残した手記によれば、昭和二十年八月十六日、豊原逓信(ていしん)局から女子職員の緊急疎開の指示が入り、上田氏は全員を集めてその旨を通知した。ところが、担当主事から、「全員が応じない」との報告。そこで、上田氏は直ちに女子職員を集めて、ソ連軍進駐で予想される事態を語り、説得した。だが、女子職員は「電話の機能が止まった場合どうなるか、重要な職務にある者としてそれは忍びない」と主張して譲らなかったという。

 上田氏は回想する。「私は感動した。しかし、その決意を肯定することはできない。ソ連軍進駐後はどのような危機が女子の上にふりかかってくるか、と思うと私は慄然となる」

 そこで、上田氏は緊急疎開の方針を変えず、小笠原丸が真岡に入港したらそれに乗船させる決意を固める。だが、同船入港前にソ連軍が上陸してしまう――。

 その上で、氏はこう綴(つづ)る。「あらゆる階層の人たちがあわてふためき、泣き叫び、逃げまどっていたなかで、郵便局の交換室、ただ一ヵ所で、彼女らがキリリとした身なりで活動を続けていたのである。このようなことが他人の命令でできることかどうか。その一点を考えてもわかることだ。崇高な使命以外にない」

 やがて、碑文から「軍命」が消えた。新たに次のようになった。

 「戦いは終わつた。それから五日昭和二十年八月二十日、ソ連軍が樺太真岡上陸を開始しようとした。その時突如日本軍との間に戦いが始つた。戦火と化した真岡の町、その中で交換台に向つた九人の乙女等は死を以つて己の職場を守つた

 窓越しに見る砲弾のさく裂、刻々迫る身の危険、今はこれまでと死の交換台に向かい『皆さんこれが最後です さようなら さようなら』の言葉を残して静かに青酸苛里をのみ、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた 戦争は再びくりかえすまじ、平和の祈りをこめて尊き九人の乙女の霊を慰む」(原文)

 碑文が取り換えられた日付は分からない。昭和四十三(一九六八)年九月初め、昭和天皇と香淳皇后が北海道百周年記念祝典にご臨席のため、北海道をご訪問。祝典の後の九月五日、稚内をお訪ねになった。浜森辰雄・稚内市長(当時)から「九人の乙女の碑」の説明を受けられた両陛下は目頭に涙を浮かべられ、深く頭をお下げになり、九人の乙女の冥福をお祈りされたという。その時のお気持ちを後にお歌に託されている。

 昭和天皇の御製

 樺太に命を捨てし たおやめの 心思えば胸 せまりくる

 香淳皇后のお歌

 樺太に つゆと消えたる乙女らの みたまやすかれと ただいのりぬる



逓信精神貫いた乙女たち
「特攻隊のよう」と遺族

可香谷シゲさん
 戦時中の電話はダイヤル式でなく、交換台に相手の電話番号を告げて呼び出してもらうというものだった。それ故、ソ連軍上陸を目前にして、敵の動向や、住民への避難指示などの重要な情報の伝達、肉親との連絡などは、電話交換手の肩に掛かっていた。自決した真岡の電話交換手九人もまた、その使命の重要性に殉じたのである。その名とその時の年齢を次に記す。(敬称略)
 高石ミキ(24)、可香谷(かがや)シゲ(23)、吉田八重子(21)、志賀晴代(22)、渡辺照(17)、高城淑子(19)、松橋みどり(17)、伊藤千枝(22)、沢田キミ(18)

 碑文から「軍命」が消えたのは当時の真岡郵便局長、上田豊三氏の抗議も大きかったと考えられるが、複数の遺族が「公職だから職場を捨てて逃げるのは、わたしたちの責任感が許さぬ」「私は残らねばならない」と彼女たちが語っているのを聞いていることも大きな要因であったろう。

 最年長の高石ミキさんは殉職した前日、北海道に疎開する母を港で見送った時、「いざとなったらこれがあるから大丈夫」と胸をたたいてみせた。青酸カリだった。既に覚悟を決めていたのであろう。若い女性が普通、手にしない青酸カリを彼女たちが持っていたことや当時の旧日本軍への嫌悪感などもあって、最初の碑文が作られたと想像されるが、稚内市役所には最初の碑文に関する文書も、変更した経緯を記した文書も残っていないという。

 札幌に住む川嶋康男氏は著書『九人の乙女一瞬の夏』(響文社、平成十五年)の中で、「壮絶な集団自決の背景には、『残留命令』の存在が横たわっている」と指摘、この残留命令を出せる立場にあったのは上田豊三氏であったと批判的に書いている。だが、その本の中で、上田氏から「残留交換手を募る密命」を受けていたという斎藤春子さん本人が、電信課に勤めていた妹とぶつかり、母の希望もあって引き揚げている。たとえ「残留命令」があったとしても、家族の希望を押しのけるほどの拘束力はなかったのである。

仮装して演芸会に出演、爆笑を誘った可香谷シゲさん(中央)(可香谷優公さん提供)
 また、角田房子氏は著書『悲しみの島 サハリン』(新潮社、平成六年)で、「九人の乙女たちが死を急いだのは、“貞操の危機”への恐怖にかられたためではなかったか。それも無理からぬことだが、同じ郵便局にいた交換手のうち三人は毒を飲まず、ソ連兵に乱暴な扱いを受けることもなく救出されている。酷な言い方だが、九人の交換手の自決はあまりに早かった」と書く。上からの「命令」と死を結び付けて見てはいないが、それにしても、一言も反論できぬ死者に対して、あまりにひどい表現ではないのか。

 札幌市内で、殉職した可香谷シゲさんの弟、可香谷優公さん(82)に会った。ソ連軍侵攻で家族はバラバラになった。豊原で入隊した優公さんはソ連兵に捕まり、「日本に帰す」と言われたが、シベリアに二年間抑留された。王子製紙に勤務していた父は、会社の防空壕(ごう)に逃れた。そこに手榴弾(しゅりゅうだん)が投げ込まれたが、幸い不発弾だった。母も、山中に身を隠した。兄は引き揚げ船で小樽へ。

 優公さんの自宅には、樺太から父母が持ち帰った貴重なアルバムがある。そこに、仲間と演芸会に仮装して出たり、友人とスキーを楽しむシゲさんの楽しげな姿があった。姉弟は、ともにスポーツ万能。優公さんは、今でも野球選手として活躍している。

 「姉はとても優しく、一度も叱(しか)られたことはありませんでした。もちろんケンカしたこともないですね」と、優公さんは懐かしく振り返る。

 「殉職ということですが、若くして亡くなった姉は、片道だけのガソリンを積んで、愛する者たちに別れを告げて飛び立った特攻隊と同じですよ。だって、おっかなかったら、逃げ出していたでしょう。自分たちの覚悟で交換台に最後まで残ることを決め、後は覚悟の自決を選んだのでしょう」

 映画「氷雪の門」で、女優の仁木てるみがシゲさん役を演じた。そして昭和四十八年、九人の乙女は勲八等宝冠章を受けた。シゲさんの母、アサさん(当時83歳)は「シゲもお国のために働いたことがようやく分かってもらえて本当によかった。シゲもきっと喜んでいるでしょう」と涙を浮かべて、新聞記者の取材に応じている。

 九人の乙女たちは、沖縄のひめゆり部隊になぞらえられて、「北のひめゆり」とも呼ばれる。だが、彼女たちの短くも清廉な青春を綴(つづ)った書物がそれほど出版されていないのは、残念で仕方がない。




”牙”を抜かれた沖縄ディア
米軍、長期統治の悲劇
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靖国神社の遊就館に展示されている真岡で殉職した9人の乙女の写真(合成)=加藤玲和撮影

 昭和四十三(一九六八)年九月、昭和天皇と香淳皇后が稚内で「九人の乙女の碑」の前に立たれた時、既に「軍命」という記述はなかった。碑文が、わずか三、四年以内に削除・修正されたというのは異例なことだ。

 その理由として、二つの要因があったと思う。まず第一は、ソ連軍が火事場泥棒のように、乱暴狼藉(ろうぜき)を公然と働いた事実を多くの樺太の住民が目撃、体験していたことだ。もう一つは、日本本土は昭和二十七年に独立、言論の自由が回復されたこと。そのため、金子俊男著『樺太一九四五年夏』などの優れた戦時記録が誕生し、樺太での悲劇が、赤裸々に公表されたのである。

 一方、沖縄はどうであっただろうか。既に「真実の攻防」連載で言及したように、米軍は日本統治の在り方を入念に研究し、「内地人」と「沖縄人」の対立・離間工作、米国と日本の戦いを「軍国主義者」と「国民」の戦いにすり替えるWGIP(ウォー・ギルド・インフォメーション・プログラム)を立案。戦時中、一千万枚ともいわれる宣伝ビラをまいたのもその一環である。そして上陸直後は、真っ先に負傷した住民、兵士の治療に当たる救護チームを派遣して、日本軍が流した「鬼畜米英」のイメージを払拭(ふっしょく)させ、「日本軍に自分たちは騙(だま)されていた」と思わせる作戦を展開し、見事に功を奏した。

 占領政策で米軍が最も苦心したのは、表面上は言論の自由が保障されているかのように取り繕いながら、完璧(かんぺき)な「検閲で統制された言語空間」をつくり出すことだった。そのために新聞・ラジオなどは無論、高校の生徒新聞、子供の紙芝居に至るまで鋭い目を光らせ、都合の悪いものは「発行手続きが不備」などの理由で発行を停止させた。

 そのような時代に発行された沖縄タイムス編『鉄の暴風』(昭和二十五年発行、初版は朝日新聞社)に対して、沖縄戦集団自決訴訟を担当した大阪地裁の深見敏正裁判長は、高い評価を与えたが、これは「木を見て森を見ず」の分析と言わざるを得ない。

 承知のように、『鉄の暴風』は米軍のヒューマニズムを称賛し、日本軍への憎悪を記述のベースに置いている。その典型が、隊長の住民自決命令である。

 『鉄の暴風』は発行前に全文英訳して、その内容を米軍が精査した上で許可を出した。そこに、米軍への批判の一言半句も差し挟むことはできなかったのである。その当時の出版をめぐる興味深いエピソードをご紹介したい。

 一九四八(昭和二十三)年、アメリカでヘレン・ミアーズは『Mirror for Americans:JAPAN』を出版した。一九〇〇年生まれのヘレン・ミアーズは、一九二〇年から日米開戦前まで二度にわたって中国と日本を訪れ、東洋学を研究。戦争中はミシガン大学、ノースウエスタン大学などで日本専門家として講義。四六年、連合国軍総司令部(GHQ)の諮問機関「労働政策十一人委員会」のメンバーとして来日、戦後日本の労働基本法の策定に携わった。その年、翻訳家の原百代氏はヘレンから原著の寄贈を受け、日本での翻訳出版の許可も得た。原氏は、GHQに嘆願書を添えて、日本における翻訳出版の許可を求めたのである。

 だが、翻訳は許可されなかった。マッカーサーは翌年八月、ある知人に出した手紙の中で「本書はプロパガンダであり、公共の安全を脅かすものであって、占領国日本における同著の出版は、絶対に正当化しえない」「占領が終わらなければ、日本人は、この本を日本語で読むことはできない」と述べている。(伊藤延司訳『新版 アメリカの鏡・日本』、平成十七年、角川書店。前書き参照)

 マッカーサーの予言通り、本は占領が終了した後の昭和二十八年に出版された。本の中には、次のような記述がある。

 〈占領は博愛主義的行為からは、はるかに遠いものである。私たちは、日本国民が指導者たち同様拘束されている事実を直視しなければならない。日本の行政、産業、資源、労働を握っているのは、法律をつくり、ときには武力をつかってでも法を執行しようとするアメリカ人である。教育制度、宗教、葬式、婚姻の習慣、伝統芸能、礼儀作法からキスの仕方まで、日本の文明がアメリカの規制を受けている〉(『新版 アメリカの鏡・日本』より)

 厳しい検閲制度の中で誕生した沖縄タイムスは、米軍から“牙”を抜かれながらも、米軍から“栄養”を吸収して成長するしかなかった。戦後、二十七年にも及ぶ米国統治こそ、沖縄メディアにとって底知れぬ悲劇をはらんでいる。