目 次
□慰安婦訴訟について 20151229 P3
□慰安婦問題韓国政府との決着について
20151228 P3
□慰安婦問題と嫌韓ヘイトスピーチの関係について
20151123 P3
□大阪維新の会 201598 P4
□シールズの若者たち 201597 P5
□一夫多妻とジェンダーフリー 201542 P5
□渋谷区の条例に関して 201541 P7
□産経新聞と朝日新聞 2015331 P7
□政治的真実・北岡伸一教授を支持する理由
2015329 P8
□BPO(放送倫理番組向上機構)使用の勧め
NHK「慰安婦の嘘」宣伝 20150316 P13
□桜宮高校の元体罰教師を複数の市立中学校がバスケ部コーチとして招聘していたという驚き呆れた実態 20150225 P13
□特定秘密保護法施行のニュース
20141210 P14
□宝塚の記事について 20141117 P14
□宝塚市議会に「慰安婦への謝罪賠償を求める決議」
の撤回を求めるネット署名 2014920 P14
□従軍慰安婦とヘイトスピーチ規制
2014917 P15
□ネトウヨ「ヘイトスピーチ」の淵源について
2014917 P15
□【朝日慰安婦誤報】 高校教科書記述どうなる 一部出版社「訂正を検討」 2014915 P16
□中ソの代弁70年 〜 朝日新聞プロパガンダ
2014-9-10 P16
□「橋下市長は間違った主張を取り消せ」への返信
2014811 P16
□統一教会の保守とり込み工作20140716 P17
□夏の薄着と女性の地位 20140702 P19
□中国の「美談」について 20140519 P20
□逸脱と国家犯罪 -慰安婦問題の混迷を解く「鍵」
20140316 P20
□Iさんのメールを読み直して
20140316 P22
□白人慰安婦 20140315 P22
□ヘイトスピーチの周辺、「国民性と文化」、「察する文化」、「いけず」と「いじめ」20140314 P23
□アメリカでの公娼街は?? 20140311 P23
□解釈改憲と「アジア版NATO構想」?
20140307 P25
□僕らのエリート意識 『いちご白書をもう一度』? 20140304 P25
□【痛快!テキサス親父】憎悪を煽る慰安婦像設置は合衆国の建国理念に反する 20140302 P26
□『キューポラのある街』 『青い山脈』
20140226 P26
□「嘘の人権」 20140225 P27
□在日朝鮮人の蹉跌『フェイク』
20140225 P27
□フランス国際漫画際での慰安婦漫画の告発について20140224 P28
北朝鮮の人権に関する国連調査委員会の最終報告書 20140218 P28
□茨木市 慰安婦公開討論会の件 20140119 P28
□靖国参拝が目指すべき方向性 20140113 P29
□「守勢から攻撃へ」に関して。自称知識人の世
論認識 20140107 P31
□従軍慰安婦問題 20130111 P31
□能吏と構造問題 20121218 P31
□最高裁判所裁判官国民審査 20121216 P32
□人権委員会設置法とサヨクと保守
20121031 P33
□大麻取締法 20121004 P33
□改憲論者のつぶやき 戦後民主主義の虚妄を破る 新改憲論「一条護憲派」宣言 20120921 P34
□五輪で竹島PRして国内で批判あがらぬ韓国は「国際常識ない」 20120904 P35
□未だに「天皇家」「太平洋戦争」という愛国者
20120218 P35
□ひのきみ裁判最高裁判決を目撃して
20120131 P37
□君が代」起立合憲判決と《ナショナリズム≒愛国心》の謎について 20110602 P39
□上原正稔はなぜ琉球新報を訴えたか
2011531 P40
□渡部昇一氏の「マッカーサー証言」の扱いについ
て 20110530 P40
□新潟中国領事館の移転問題 20110121 P41
□外国人との土地の売買制限 2011/01/16 P41
□人道教育の教材を紹介してください
2010-1231 P42
□正論 平成27年10月号掲載 原文原稿 P44
慰安婦訴訟について 2015-12-29
M様のメールにある韓国政府に対する賠償訴訟を支援していたのが朴裕河世相大学教授です。
「帝国の慰安婦」で日本軍による強制連行の不在を主張した学者であり、十一月に名誉毀損で在宅起訴されました。なんと朝日新聞に蝟集する進歩的文化人たちが河野洋平とともに抗議文を提出しています。韓国政府も不承不承ながら強制連行などによる組織的動員がなかったということを知りつつあるように思います。「性奴隷」は「強制連行」とセットの概念ですから、これも使い続けるのはマズイという理解が広がってきたと楽観的に捉えています。かれらにとってもいい落しどころだったのです。もちろん挺対協をはじめとする民間団体は「強制連行」と「性奴隷」こそが慰安婦問題の中核と頭から信じ込んでいる状況はかわりませんが。
「軍の関与」を認めたことが問題だという指摘がありますが、慰安所の設置や衛生管理等において「軍の関与」があったことは誰も否定していません。問題なのは、「軍の関与」が何に関与したかです。韓国の挺対協は、この「軍の関与」を人身売買や強制連行に結びつけて解釈します。
朝日サイドは、「軍の関与」を慰安所の設置や衛生管理において証拠づけながら、強制連行や人身売買にも「軍の関与」があったかのごとくプロパガンダしています。
新聞やテレビのコメンテーターのなかには、「軍の関与」について「直接的」か「間接的」かという争点があるように整理するものもいますが、これはずれています。「関与」の対象がなにかということをみなければならないのです。小林よしのりが「よき」関与と「悪しき」関与にわけて整理したことがありました。「直接的」「間接的」よりマシですが、整理の段階で価値判断が入ってしまうので、受け付けない人も多かったようです。
「軍の関与があったと認めるのはケシカラン」といくら叫んでも、世論の共感は得られないでしょう。リベラル左翼は、慰安所の設置にかかる軍令を持ち出してきて、これを否定するわれらを馬鹿にして勝ち誇るでしょう。これまで散々やってきた議論の推移です。せいぜい「強制連行や人身売買に軍が関与したという誤解を招きかねない」という批判なら、正鵠を得ているといえますが、まさに、その辺をぼかしたことが外交決着の要諦なのでしょう。
「軍の関与の対象」の問題は、不良兵による強姦ケース(スマラン事件もこれに入る)の区別とともに、「慰安婦問題」を正しく理解し、批判するうえで、外せないポイントです。
慰安婦問題韓国政府との決着について 2015-12-28
政府の決断を歓迎します。韓国政府の理不尽を暫らくの間停止させ、当面のアメリカの歓心を買うのに10億円は安い、と考えます。こんなことで韓国の慰安婦問題に絡めた反日ヘイトが終わるわけはありませんが、1月の宜野湾市長選、そして7月の衆参同日選に勝つことを優先するのも政治でしょう。
国民は慰安婦問題は終わらないことを肝に据えて朝鮮半島支配をめぐる歴史戦を戦い抜く覚悟が必要です。
慰安婦問題と嫌韓ヘイトスピーチの関係について 2015-11-23
【弁護士会の憲法委員会のML に投稿】
ついこの前まで韓流ブームだったことが嘘のように、今、嫌韓の雰囲気が蔓延している。これまではネットにおいてのみ紹介されてきた韓国の反日ヘイトが、新聞やテレビでも報道されるようになったことが大きい。そして、そのことは、李明白大統領の竹島上陸を嚆矢に、朴槿恵大統領の反日路線 千年被害者発言、告げ口外交、慰安婦先決姿勢等 によってその史実を無視した怨念史観外交によって嫌でも日本人の知るところになった。理不尽な憎悪を向けられたら、さすがのお人好しの日本人でも不愉快になる。そして内政問題の矛盾を転嫁するために歴史認識を日本調略の武器として採用した習均平政権に取り込まれ、抗日軍事パレードに習均平の隣に並ぶに及んで決定的となった。日本の嫌韓の雰囲気は、そうした「憎悪と敵意の連鎖」から生まれたものだ。それを「右傾化」と呼ぶのはいいが、その原因についてきちんとした分析がなされてしかるべきだ。ネットとアイデンティティがキーワードであり、そこには「イスラム国」問題と共通の根っこがあるというのが私の見立てです。
さて、昨日の産経新聞のコラム「産経抄」は、夕刊フジが報じた朴裕河教授の在宅起訴のことに触れていました。コラムは、拓殖大学の呉善花教授に対する言論弾圧のことから説き起こされていました。
「拓殖大の呉善花教授は、平成九年、故郷である韓国・済州島の実家や親類の家が、公安に一斉に家宅捜索されるという理不尽を経験した。日本での慰安婦問題のパネルディスカッションで、こう語ったことが理由だった。『貧困家庭の親が娘を売ったという話は少しは聞いたが、強制連行の話などなかった』。済州島といえば、吉田清治と名乗る詐話師が、大々的に女性狩りを行い、慰安婦にしたと証言した現場である。そこで生まれ育った呉氏が、強制連行を聞いたこともないという事実は、よほど韓国にとって不都合だったのだろう。
▲韓国の性搾取問題の研究者、金貴玉氏はかつて韓国陸軍本部の公文書から、朝鮮戦争当時の韓国軍が、慰安婦を『第五種補給品』として支給していた記録を発掘した。金氏は、朴正煕政権による米軍慰安婦の管理政策に関する研究結果も発表したが、韓国政府は関連資料を禁書化するなどして周知を阻んでいる。
▲ソウル東部地検は十八日、新著の学術研究書で慰安婦は日本固有の制度ではないと指摘し、朝鮮半島での強制連行を否定した世宗大の朴裕河教授を名誉毀損で在宅起訴した。地検側は「秩序の維持などのためには言論の自由や学問の自由は制限される」と主張する。(中略)。
▲韓国メディアが対日批判の際に好んで引用するワイツゼッカー元独大統領の演説は、こう説く。『過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となる』。むしろ、韓国の姿勢にこそぴたりと当てはまりそうである。」
私は、ここ数年、世間からモンスター扱いされて糾弾されている嫌韓団体のヘイトスピーチ問題に関わる刑事・民事の訴訟に携わり、この問題には若干詳しいつもりでいる。そして「嫌韓」という現象の発生は、第一に、日韓ワールドカップにおける韓国の反日が日本のマスコミにおいて一切報道されなかったことに違和感を覚えた若者たちが出発点となっていること、第二に、韓国人の反日言論の中核を形成していた「慰安婦問題」を勉強して、その真実が朝日新聞などが主張していたものと全く違っていたことから、自分達が、戦後民主主義を代表する朝日新聞による「洗脳」の被害者であったことに気づいて覚醒するという体験を経ていることを基礎としていることを知った。ヘイトスピーチを歓迎するわけでも容認するわけでもないが、その経緯を正しく知るのでなく、その表現の表層に漂う民族差別だけをみて、糾弾する姿勢をとれば、結局、「覚醒」したと自覚するものたちの反撥を生むだけであると考えている。
フランスで発生したテロ問題について、テレビのコメンテーター達が、憎悪の連環を断ち切るために、武力ではなく対話をすべきだと主張するのを聞いていて、胸糞が悪くなった。「こいつら」は、ヘイトスピーチが社会問題となってから、彼らに対して、そのような視線を送ったことがあったであろうか。これまで西洋社会において反知性的で遅れた宗教として貶められてきた若者たちが、イスラム教の真実と自らのアイデンティテーに目覚めて「覚醒」して戦士となり、テロリストとなっていく「憎悪の連鎖」を断ち切るのに「対話」が必要だというきれいごとを述べるのであれば、それと同じ視線をなぜ、国内で覚醒したとのぼせるヘイトスピーカーの若者達に向けないのか。甚だ疑問である。彼らは、慰安婦狩りという言語道断の非人道的行為を行っ日本人の子孫として、ネットのなかで糾弾を受けてきたことの理不尽に怒っているのだという事実に何故目を向けないのか。
イスラム国等によるテロが糾弾されるべきことは当然であり、それと同じく在特会等の行き過ぎたヘイトスピーチ(例えば、朝鮮学校襲撃事件)が、問答無用で糾弾されるべきは、そうなのであろう。それでよいのだ。しかし、負の連鎖をなくそうとするならば、その根源にある問題 反日の具としての慰安婦問題と強制連行の不在 に目を閉ざせば、結局、「憎悪の連鎖」を煽るだけであって、問題状況は、なにも解決されない。
まずは、組織的な強制連行の事実がなかったという歴史の「真実」を明らかにし、そのことを国際社会に訴え、日本に対する歴史的な誤解を解いていくこと。そのことだけが、「憎悪の連鎖」を説く方法だと考えている。
当時も現在も慰安婦問題は、反日のツールであり、韓国人にとって、強制連行が真実かどうかは、もはや関心事ではなく、どうやって植民地支配に無反省な日本人を叩いて跪かせるかに関心が集中し、米国やカナダ・豪州における慰安婦像建立の動きは、その発露である。韓国人NPOだけでなく、中国系NPOがバックにつき、全面的な援助をはじめたことが、その動きを本格化させた。そこには、中国の反日国際謀略がある。大槻さん、さすがの貴殿も、このことは否定しないだろ?
今は、その企てを挫くべく、非力なりとも、歴史的「真実」を旗印に掲げ、日本の冤罪を晴らすべく、全力を投入して闘うほかはない。私が、今年二月、グレンデールにおける慰安婦像の建立による在米日本人が蒙っている屈辱の日常の被害を、朝日新聞の誤報に基づく不法行為であるとしてグレンデール市近郊の住民が原告となって朝日新聞を訴える裁判に携わるようになったのは、そういう文脈のなかにある。
大阪維新の会 2015-9-8
僕は、橋下氏や維新の党に対し、彼らの掲げるビジョンなるものの長中期的有効性はみないが、短期的なスパンでの政治的センスを信用しています。これは要するに、目の前の政治的「勝負」を制する勝負師のセンスです。政策的ビジョンとは違います。もともと、維新の党は、平和安全法制の制定と憲法改正という保守派の願いの実現に寄与するのが、国政における使命だったはずである(彼らが意図しているかどうかは別として)。ところが、松野のようなプチ小沢の国会屋が仕切りだし、その使命を忘れてしまえば、もはやそれは第二民主党でしかなく、民主党との合併に向かうのは当然のことだろう。その意味で、橋下氏の新党方針は、時宜に適した動きであり、橋下節の真骨頂が見事にあらわれたなと感心しています。時代を仕切る勝負師としての快感を味わってしまった彼は、もう、単なるコメンテーターやバラエティの世界には戻れないだろうな。どうせ最後はボロボロになることは、彼も重々承知のうえだろうけど。
最後の最後で、安保法制の制定に向けた時局づくりの役割を果たすということなのでしょう。もちろん、大歓迎です。
次は、いよいよ憲法改正です。そしてもちろん。おおさか維新の党が掲げる大阪都構想には賛成です。あの逆風のなかで、あそこまで迫れたのですから、再度のチャレンジは意味があると思います。結局、大阪自民党には大阪都構想に変わる大阪市を変革するビジョンはなかったことが知れ渡ったわけですから。
知事戦、市長戦。左翼の牙城であり、在日と創価学会の拠点であり、産経新聞の牙城であり、『そこまで言って委員会』の発祥の地である大阪市民が今度はどんな選択をするのか楽しみです。もっとも、大阪「都」という名称にまで賛同しているわけではないのですが。まぁ、そこは我慢するとして、左翼潰しを本旨とする大阪都構想の再チャレンジに賛成です。
ご承知でしょうが、自治労には数兆円といわれる資金があるといわれています。かつては、組合活動で解雇等の処分を受けた活動家の生涯賃金を保証するための資金だったものが、ここ20 30年は、大量解雇にいたる労働争議がなくなってしまったので、チェックオフで、自動的にたまる組合費が積み上がっているのです。
「大阪市」という巨大な戦後左翼支援と労組利権を護るエリートシステムを壊すことができるのか、それともあと三十年温存されるのか。そのことが結果として日本の将来を決定することになるやも知れません。
シールズの若者たち 2015-9-7
シールズか。
弁護士会では、シールズが保守派の馬鹿どもからいわれないバッシングを受けていて、集会等では襲撃されるおそれがあるから、護衛団をつけようという話があったので、私なんぞは、アホクサと公言しつつ、それが必要だというのであれば護衛に立とうと志願しました。
シールズの若者たちは、愚かかも知れないが、動機において純であるということ(その意味では民生諸君も中核派も、そして在特会もオームも同じである。)を保守派も見つめたうえで批判しなければならないということだろうう。保守派のなかには、彼らが「お金を貰って」デモをしているといった与田話を信じて批判するものも散見する。
彼らにいいたい。私たちも左派から、そう言われていることを。政権から金を貰っている、利権を貰っているというのが、左派からみた保守派の姿である。私なんぞは、いつもそんな陰口を受けて誹謗されている。アホクサ。「それが、どうした」と思って頓着しないが、左派からすれば、政権に加担するナショナリストは、頭の弱い馬鹿か利権屋のどちらかしかいないのである。それが彼らの人間観なのである。そういうステレオタイプから逸脱した人間の姿をみせてやらなくてはならない、というのが、私が、シールズの護衛役を志願したりする理由である。
若者は、いつの世でも愚かである。その愚かさが、未来を切り開くこともある。保守派から、左派的行動をとる若者たちに対し、「あいつらは、共産党から金を貰ってるんだ」といった愚かな指摘がなされているのをみると情けなくなる。そのような人間観を公言できる神経が情けないのである。
「蟹は己の甲羅に似せて穴を掘る」というが蓋し至言である。三島由紀夫が全共闘に日本の未来と連帯の可能性をみて、彼らの中に飛び込んでいったことを、ときどき思い出す。愚かになれることも大事なんだという思いと共に。
一夫多妻とジェンダーフリー 2015-4-2
N「両妻とは、今でいう重婚のことである。重婚を犯した男は1年の徒刑、相手をした女の方は100回鞭で打たれるとある。諸国の官衙に勤める役人たちの中には、重婚まがいのことをする男たちが絶えなかったのかもしれない」。
徳永「昔の日本で、重婚が罪になったという法制があったというのは本当ですか。俄かに信じられません。すると光源氏は、なんども徒刑に処されたことになりますが。 重婚まがいのことをする男たちは、現在も後を絶ちませんし、それは歴史的にも世界的にも永遠普遍のことです。 男性がみんな草食系になれば、解決するのですが。極端にいえば、女が肉食系であれば、男は、数匹肉食系がいて、全ての女を相手にできればよいわけです。」
N「複雑な家庭故(それだけではないにしても)、道を踏み外す生徒も多い作況の現場を見ていますと、家族の安定をはかるためにも一夫一妻でいいと思うのですが。」
徳永「一夫一婦が家庭の安定を図ることになるのか、それともイスラムやモルモン教徒やヒンドゥー教徒やかつての日本のように一夫多妻の方が家庭の安定をはかるのに都合がいいのかは、実は、難しい話しではないでしょうか。イスラム教やモルモン教徒やヒンドゥー教徒の世界で、家庭の安定が損なわれ、不良が続出するという話はあまりききません。かつての日本でも同様だったと思いますが。」
N「今の現状では、不倫を絶対ばれないように完遂するのが、徳永先生の願望を満たすものとなるでしょう。完全な嘘は本当と同じです。(これは結果論ですが)」
徳永「 ばれないようにするのがよいのか、あからさまにして妻に許可をもとめるほうがよいのかは、ケースバイケースでしょうね。一夫多妻の法制は制度的にこれを明らかにするということです。
他人の妻を寝取るのは姦通罪として処罰されていたようですが、重婚(複数の妻妾を持つことが)が罪になっていたというのは初耳です。たいへん興味がそそられますので、そのうち調べてみようと思います。現時点では、おそらく大伴家持がいっているのは、妻帯者が他人の妻を横取りすることを言っているのだろうと判断することにします。
明治時代に「妾」の制度が認められていた時期があったということですが、それは民法制定時までです。日本は不平等条約改定の悲願のため、法律顧問のボアソナードを招き、近代的民法制定を急ぎます。大問題となったのは、まさに「妾」の制度の存置でした。立法者の多くは「妾」をもっており、彼女らの法的位置づけをどうするかが真剣に議論されたようですが、欧米に対する「見栄え」を重んじた当局は、「一夫一婦」を採用し、「妾」の議論は、遂に、時間切れとなって制度化することは断念されることになりました。これによって「妾」は、一切の法的裏付けを喪失しました。当時、「妾」を有していた立法者は断腸の思いだったと思いますが、そのことが将来の皇室の男系維持を困難にすることになろ
うとまでは思いもよらなかったようです。「民法出でて忠孝滅ぶ」という格言が流行りましたが、そうしたことも含んでいるのかも知れません。」
N「それにしても、妾論を論じる割には、安倍政権の「イクメン」などには反対もしていないので、徳永先生の頭の中はどうなっているのか不思議だなと思います。」
徳永「 どう関係するのですか。野田さんの頭の中で理解できません。「イクメン」と「妾」は矛盾するとでも。僕は少子化問題を解決する一つの妙案が、一夫多妻であると考えているのですが。「イクメン」も少子化問題を解決する一つの政策的選択だと思います。」
N「また日本は、神道と仏教の融合した国だと認識しています。」
徳永「 神道も仏教も一夫多妻を否定していません。」
N「そして日本でも側室があったり、妾のある人はそれなりの地位にあるか、金持ちででないといけません。」
徳永「当たり前でしょう。イスラムでも4人の妻を持てる男は、相当の金持ちです。相当の金持ちは、多くの女性を妻に迎えて、その生活の面倒をみる義務を課しているのです。イスラム教が、格差を少なくする互助的な宗教だという特性はそんなところにも表れています。他方、一夫多妻を認める社会は、多数の独身のまま生涯を送る男性を生むことになります。僕は、一夫一婦制度というのは、決して女性のための制度ではなく、もてない男にも女を配分するための制度だと言っているのは、そうした仕組みの反映です。
落語に出てくる長屋の熊さん八さんが、大概、独身なのも、そうした理由によるのだと考えています。」
N「ジゴロにでもなれば別でしょうが、徳永様はジゴロがいいですか?ジゴロは究極にもてる状況だと思います。」
徳永「 ジゴロは、制度ではありません。なにが言いたいのでしょうか。 ただ、思考実験としてジゴロを制度として考えたことがあります。すなわち、他の生物と同じく、種の進化の方向性は、結局、女性が、どのような男性を選ぶかということに規定されています。生存競争になんの利得もないクジャクの立派な羽や、マンモスの牙が発達したのは、そのためでした。 日本人の、そして人類の将来を決めるのは、結局、女性がどんな男の子孫を残すかによってです。僕が考えている究極の少子化克服の制度は、一つの市町村に生殖用の男性100人を容姿、体格、能力、才能、等を基準に選び、その生活の面倒を全てみるのです。他薦自選の男性が立候補して女性に投票してもらうのもよいでしょう。彼らは仕事をしてもしなくても構いません。ただ、女性から指名を受けたら、セックスを断ることができないという義務を負い、これに違反すると「種男」としての特権を剥奪されるのです。「種男」の種を宿して産んだ子供たちの養育に要する費用は、市町村が相当部分を援助します。 以前、保守系の人たちの集まりで、この構想を開陳したところ、随分と好評だったので意を強くしています。こうした「種男」もジゴロの一種ということがいえるかもしれません。」
N「フェミニストは一夫多妻をもっと批判すると思います。」
徳永「 そうです。ジェンダーフリーの出発点は、一夫一婦制にあります。ジェンダーフリーは人類の進歩の方向が個人主義であり、男女平等の徹底にあるとの考えの先にあります。その根底には、近代主義と進歩主義があります。こうしたジェンダーフリーの背骨を排撃するのに最強最善の策は、「一夫多妻制」です。フェミニストたちは、一夫一婦制と男女平等をセットとし、ジェンダーフリーまで人権の範疇にあるとまで言い出しました。すると、一夫多妻を制度として採用しているイスラム教の社会は、人権侵害となるはずですが、それを言うと、宗教の自由に反し、文化多元主義に背くことになるため、これを口にすることは、女性人権派たちの最大のタブーとなっています。実に、面白い現象です。
日本でも一夫多妻の復活(かつての妾制度の復活)は、明治以来の西洋文化コンプレックスから解放され、文化多元主義の流れに添うものであり、かつ、フェミニストに対する最大の攻撃であるという意味においても、僕は熱く支持しているのです。
法律家の世界での議論はどうなっているかを一つの例をもって紹介しましょう。三十年以上前、僕が学生だったころ、「国際私法」という分野を勉強したことがありました。これは、外国人と日本人が結婚したり、商取引をしたりするとき、それを日本の裁判所で裁くとき、いずれの国の法律を適用するのかということを決める法律です。例えば、在日韓国人とアメリカ人が結婚したとき、家族法や相続法に関する争いが生じたとき、日本の裁判所においてどの法律を適用するかが問題となります。韓国法なのかアメリカ法か。面白いでしょう。
かつて「重婚」は、人類普遍の進歩に反することを理由に、一方の国の法律がこれを認めていても、「公序違反」を理由に排除するというのが圧倒的な通説でしたが、それはイスラムに対する差別になるという理由で、このような解釈論は、勢力を減らしています。僕も、神道と仏教と儒教の国であって、キリスト教の国ではない日本の法制は一夫一婦をとる歴史的文化的必然性はないと考えています。一夫一婦制が生物学的必然性を持たないことは自明ですので、明治時代の日本人がもっていた西欧近代に対する劣等感が産んだ病理現象だと考えており、そのような制度は、早くなくなることが、日本人が古来からの日本文化を取り戻すことだと考えているのです。
渋谷区の条例に関して 2015-4-1
ここでもNさんに叱られそうですが、僕は、「面白い試み」だと評価しています。賛成か反対かと尋ねられれば賛成です。渋谷区の試みが日本の家族制度を破壊するかといえばそうは思いません。
そもそも、僕は、妾の制度を廃止してしまった明治民法以来の一夫一婦制度は、生物的にも文化的にも非人間的な歪だと考えています。そして、そういう考え方の方がより危険思想として社会から攻撃を受けるおそれがあると覚悟しておりますので。
いずれにしても同性愛の結び付きを、「結婚」に昇格させることは、結婚を「両性の合意」に基づくものと規定する憲法二十四条の明文に違反してできないというのが憲法学会の通説です。
産経新聞と朝日新聞 2015-3-31
産経新聞や読売新聞を愛読紙としている保守系の人々がよくわかっていないことがあります。なぜ、中央官僚、大学教授、裁判官、弁護士、医師、教師といったインテリ階級の職業人に朝日新聞の購読者が多いのはなぜかということです。
僕は、仕事柄、全紙に目を通すようにしてきましたが、複数の新聞に目をとおすなんていうのは、暇人の仕業です。知識人ないしエリートを自認する人々にとって、新聞を読む必要があるのであれば、一番良質のものを読むのが鉄則です。そういう人は、だから、クオリティーペーパーだと考えられてきた朝日新聞を読むわけです。読売新聞のような「大衆紙」をとっているというのは恥ずかしいという感性をもっている人たちです(現在の両紙の紙面に際立った違いがあるとは思いませんが)。
例えば、損害保険の業界でいえば、東大生や京大生で、損保業界に就職するとすれば、東京海上系か三井住友海上系でしょう。銀行であれば、東京三菱UFJか三井住友でしょう。同じメガバンクでも、りそな、みずほは少し落ちます。地銀はその下、信用金庫はその下。給料面でもその序列は反映されており、出身大学はきれいに序列化されています。 新聞社でも同じことです。かつて僕らの学生時代は、朝日新聞は超一流企業でした。たしか、学生が就職を希望する企業のトップ10に入っていたと思います。 東大卒ないし京大卒で新聞社への就職を志望するものは続々朝日に入っていきました。大衆紙のイメージが強かった読売新聞や経営に不安のあった毎日新聞は、その次の選択肢でした。いうまでもなく読売新聞には早稲田的イメージがあります。産経新聞志望は、関西では関関同立レベルであり、しかも第二志望、第三志望でした。給料面にもはっきりとした差がありました。昨年、朝日新聞の新入社員に東大生がいなかったことが話題になりましたが、産経新聞にはもともと東大生はほとんどいません。もちろん、産経新聞の記者にも、優秀な記者は多数います。記者の資質は学歴とはちがうからです。しかし、こいつは優秀だなとみこんだ記者から、朝日新聞に転社しましたという便りが来たことが何度かありました。思想のことではないのです。給料を含む待遇面が全く違うからです。
今でもいるでしょう。贈答品を購入するとき、どの百貨店で購入するかに拘りをもっている人。プチセレブを気取ったり、生まれや育ちについて内心で自負している人に多いのですが、いるでしょ。関西だったら「阪急」デパートの包装に執着し、「阪神」デパートの包装の贈答品はみっともないから嫌だという人が。いわゆるプチブル根性です。そしてプチ・知識人根性というものもあるのです。
これだけ言っても、Nさんには、僕が何を言おうとしているか分からないかも知れません。Nさん自身が、朝日新聞神話から無縁だからでしょう。僕らの世代、そしてその上の世代には、朝日新聞に対する高級紙神話があるということです。
そして、法曹、大学人、教師、医師といった知識人の端くれには、その意識にどっぷり漬かった人たちが実に多いということです。朝日新聞の社説は尊重するが、読売新聞の社説など相手にしないという人たちです。アメリカでは、ニューヨークタイムスの論説は尊重するが、ガーディアンの社説など、目が腐るから読まないという人。欧州では、より顕著に高級紙と大衆紙との区別があります。インテリや読書人は高級紙を読み、スポーツや社会面を読みたい人は大衆紙です。
人権派の弁護士連中と慰安婦問題で話していると、産経新聞は、頭の悪い右翼が読む新聞と決めつけていて、全く相手にして貰えません。ですから、事実の問題については、産経新聞であろうが、なんであろうが尊重しますが、その論説や宣伝については極めて厳しい評価がなされるのです。大阪弁護士会の会長は、日弁連の副会長を兼ねます。この世界ではそこそこ社会的影響力があります。選挙では、多岐に渡った時事問題や、往年の弁護士会が引き継いできた課題に対する見識を公表することが求められます。多岐に渡ります。それまで全く関心のなかった靖国問題や憲法問題についても、見解を問われます。彼らがするのは、かつての日弁連の会長らの意見や、朝日新聞の社説を読み込んで、自分の意見として語ることです。官僚や大学教授と同じで、もともと飲み込みは速いので、テキストがあれば、すぐにそれをかねてからの持論のように語れます。それでも、産経や読売ではなく、朝日新聞を選択するは、思想的傾向というよりも、頭のよい人たちの意見だと思われているということがポイントなのです。
そして、諸外国のインテリも日本の問題についての見識を仕入れるには、まず、朝日新聞の社説の英訳を読むわけです。日本の大衆レベルの世論戦は、既に決着がついています。ネットをみれば、明らかです。しかし、いわゆる知識人階層では、まだまだ、朝日新聞派が圧倒的です。慰安婦問題について、ようよう動揺がはじまったという程度でしょう。海外では、まだ、日本で地震があったようだ、程度です。これから、その影響があるはずですが、それが2センチメートル程度の高潮で終わるか、3メートル規模の津波になるかは、これからのことです。
この問題の戦場になっている「場」がどちらに有利か不利か。既にできあがっている「前提」はいかなるものか。そこをはっきり認識してからでないと、武器たる証拠の値打ちを測り間違えます。 産経新聞の記事がもっている武器としての値打ちのことです。そこを厳しく見てからでないと、本気の敵と闘うことはできないのです。
政治的真実・北岡伸一教授を支持する理由 2015-3-29
北岡教授は、国際世論の観点から、事態をみています。国際政治のことです。アメリカ世論に働きかけて、歴史認識において日本を孤立させようとしている中韓の戦略に乗らないためには、北岡教授的発想も必要になってきます。そういう視野と発想を持ち、日本のコアな保守層からの反発を知りながら安倍首相に諫言できる北岡教授をブレーンとして重用している安倍首相のバランス感覚を私は信頼しています。
問題は、あいまいだとされている「侵略戦争」の定義です。定義があいまいだからなんともいえない・・・という論法は、逃げの論法です。フェアを重んじる単純明快なアメリカ人からみれば明らかに「卑怯者」の論法であり、それを口にした方が自らの正義を諦めた「邪悪な敗者」になります。そのことを肝に刻んで下さい。どんな土俵で闘うかを見極めることです。そして、今、アメリカ世論という土俵での戦いを避けることはできません。その土俵の中央には豊富な人脈と資金力を持つ中韓ロビイストがデンと控えています。「侵略戦争」の定義はかくかくしかじかである。と自らの立場を明らかにしたうえで、日本はその意味における侵略戦争をした、或いは、しなかった、と明確に論じることが必要なのです。逃げないで簡明な「理性」に訴えることが必要になってくるのです。複雑で曖昧な事態を簡明に整理することが「理性」の働きです。それをしてこなかったことが、国際世論における日本の劣勢を招いてきたのです。慰安婦問題と同じです。北岡教授的にいうならば、例えば、広義の侵略戦争を定義し、その意味における侵略戦争を行ったことは認めるということを宣言するのは悪いことだとは思いません。但し、その意味における侵略戦争は、アメリカもソ連も英国も仏国も行ってきたんだよというダブルミーニングを潜ませて。
最悪なのは、侵略戦争の定義は云々・・・むにゃむにゃで、論争からの逃げを図ることです。次に、日本は侵略戦争はしていないという開きなおりです。アメリカ人は、日本が悪辣な侵略戦争をしたと信じ込んでいますから、「侵略はしていない!」と叫んでも、頭の悪い、視野の狭い、ゴリゴリの右翼が、嘘で固められた自閉空間から、右派国民の支持欲しさに喚いている程度にしかみられないでしょうし、そういう受け止めがなされたら、日本人は歴史を歪曲しているというニューヨークタイムスが喧伝しているアメリカ人の常識がますます固定化されてしまうでしょう。
便法としての「政治的真実」というものがあるということです。ある意味、中韓には政治的真実しかありません。私たちは真実は学問的ないし理性的に探求されるべきものだいう常識をもっていますが、しかし、原理主義に陥った場合、それは孤立の危険を背負います。孤立した真実は闇に葬られます。中韓の歴史はまさに「真実」を政治的に争う歴史でした。今、アメリカ世論という偏向した土俵で、その「真実」を争っているのだということを忘れないで下さい。
安倍総理の賢明な一手に期待します。
(2)
第一次内閣での失敗の轍を踏まないために安倍首相が行っている作戦的手法をみるべきです。
当時、安倍首相は、「広義の強制性はあるが、狭義の強制性はない」という発言をしただけで、ニューヨークタイムズをはじめとするアメリカのメディアに叩かれ、従軍慰安婦について河野談話を承継し、被害者に対するお詫びをブッシュの前で行わざるを得なくなったことを思い出して下さい。誠に屈辱的な全面降伏を強いられたわけです。あの場面を、Nさんは忘れたのでしょうか。
結局、あのときに成立した下院決議百二十一号がグレンデール市の慰安婦像を含む全米7つの慰安婦モニュメントの根拠になっているわけです。今回は、敗北は絶対に許されません。これはアメリカ世論を土俵にした言論戦です。中韓のやりたい放題が通るアウェーでの、圧倒的不利な戦いなのです。 アメリカ人は従軍慰安婦の「嘘」を真実と信じ込んこんでいるか、全くの無関心のいずれかです。韓国人はそれが真実だと信じ込んでいますから、責める責める。広義だの狭義だのわけの分からないことを言ったかと思えば、「慰安婦は売春婦」だという愚かなプロパガンダをして責任を免れようとする日本人に対する義憤をかきたてることになるわけです。彼等に対して「それは嘘です」というだけでは、全く相手にされなくなるだけで、それこそ中韓の思う壺だということです。
実際、新聞に掲載した「慰安婦は売春婦」だとする全面広告「Fact!」は、第三者委員会の波多野教授曰く、「却って中立を保っていた議員を慰安婦決議に賛成する方向に追いやった」という観測は多くの識者がするところです(検証委員会はこの波多野見解を否定していますがそのように言われているという事実からどういう教訓を汲み取るべきかということのほうが重要だと考えています)。
マッカーサー証言についても、同様です。このマッカーサーのいう「安全保障の必要」と日本人の多くがもっている「自衛戦争」の観念には、かなり距離があります。自国において欠落した資源と雇用の獲得のために他国に攻め入るというのは、日本人の多くは「自衛」ではなく、「侵略」だと考えていると思います。考えてみて下さい。マッカーサーがいう理由を「自衛」戦争だとするのであれば、中国が他国を侵略するのも「安全保障上の必要」であり、自衛戦争だということになってしまいませんか。 要するに「侵略戦争」の定義如何なのです。よく考えてみて下さい。
「日本は絹産業以外には、固有の天然資源はほとんど何もないのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い。錫(すず)が無い、ゴムが無い。それら一切のものがアジアの海域には存在していたのです。もし、これらの原料の供給を断ち切られたら、1000万から1200万の失業者が発生するであろうことを日本人は恐れていた。したがって、彼らは戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてだったのことだったのです」
中国は十二億の人民を養ううえで、水も食料も石油も清浄な空気も決定的に不足している。それらの一部が尖閣領域に存在していたのです。もし、これらの原料等を確保できなければ、2億から3億の失業者と餓死者が発生するであろうことを中国人は恐れていた。したがって、彼等は戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。
(3)
N「問題の本質を根本から誤解されていると思います。そうではなくて、現実の世界で「自分の国のこの戦争は侵略戦争でした」などと認める国は、日本のおバカ首相しかいない、という事なのです。」
徳永「違います。問題の本質は、国際社会のなかで米国の支持を確保するか、孤立するかという問題です。《侵略戦争の定義があいまいですので、自分が侵略戦争したかどうかは分かりません》というお馬鹿な答弁をアメリカ人は見逃しません。しかも《侵略戦争》の定義付けから逃げたうえ、「侵略戦争していません」では、ただの子供の議論です。
劣勢の「真実」を正しく伝えるには、長々と話さなければなりませんが、長々とした話しは誰も聞いてくれませんし、敵方から狙い撃ちされ、枝葉末節の揚げ足とりをされるのが関の山です。確かに、ドイツを除けば、日本以外の首班は、自らの戦争を侵略戦争とはいいません。しかし、そのことは、侵略戦争したことを認めて反省したとの踏み絵をふまされた国家が日本とドイツしかないということの結果です。日本の敗戦は、ベトナム戦争におけるアメリカの敗戦とは違う、ということの結果です。
特殊な歴史的経緯をもっている日本の政治状況を除外して、「外の首相はやってない」から「バカ」だなんて言ってなんになるのでしょうか。僕には生産的な議論には思えません。学者じゃない首相は、政治的な発言を求められています。中韓から歴史戦を挑まれている状況のなか、アメリカに向けて「我が国の戦争は白人アジアの解放のための戦争であって侵略戦争ではない」って言ってお馬鹿なアメリカ世論に喧嘩を売ってどうするのですか。それこそ、中韓の思う壺でしょう。ということです。ここでの本質は、国際世論の中での共感か、孤立かということにあります。現時点で、アメリカ世論の共感を得ることができなければアメリカの教科書の偏向も、従軍慰安婦の「嘘」も、ただすことができないという情勢認識こそが、本質なのです。首相は、「それでも地球は廻っている」と呟くガリレオではないのです。「真実」というものは、それを伝える「レトリック」と「場」を伴わなければ単なる戯れ言にすぎません。安倍首相には、これまで「真実」を語って葬られ、死屍累々を重ねてきた愛国政治家の一人として終わって欲しくないのです。1歩でも、我らの「真実」に向けた反撃の歩を進めてほしいのです。切り札としての安倍首相を失えば、我らの「真実」は、10年の後退を余儀なくされ、反日左翼の欣喜雀躍を忍ばなければならないということです。
アメリカが「真実」ではなく、ポリティカル・コレクトの国だということを肝に命じてほしいわけです。」
(4)
慰安婦問題において最も微妙で重要な問題は、河野談話です。 かつて僕も河野談話を否定すべきだと考え、そう主張していましたが、慰安婦問題を自分なりに研究した今は、そう思いません。
河野談話に関わった石原信雄元官房副長官が証言しているように河野談話は、吉田証言には依拠していません。官僚側は、河野談話は、強制連行を認めないという一線は守りました。河野談話は強制連行を認めたものだという誤解が国際社会に広まっていますが、それは間違いですし、その間違いを指摘することは、現状の国際社会においても許容される範囲だと認識しています。ゆえに、河野談話をめぐる対処は、河野談話に関する誤解を排除し、その正しい意味を伝え直すということしかないと思います。
実際、韓国との政治的妥協の産物としての河野談話を一言一句精査すると、誤解を受けるおそれは多分にありますが、明白な間違いは、「一つ」もありません。どこが間違いだというのでしょうか。 明白な間違いを指摘することができないまま、「間違い」だから、「撤回」するというのは、どの「口」でいうのでしょうか。
これは、マジな質問です。どうか教えて下さい。首相はどうすればよいのでしょうか。「河野談話を撤回します」なら、結局、「あなたはどう考えているのですか」と慰安婦問題に対する認識を問われます。そこで、河野談話を一言一句について、「これは認めますか」「これはどうですか」と切り込まれます。それに対して、結局、どこを否定するのかという結論になりませんか。少なくとも、僕は、河野談話について、どこも否定することができません。そこで否定できることは、河野談話において連ねられた言葉が招く「誤解」を否定することだけです。やってみて下さい。これは生産的なやりとりになります。明白な間違いがあれば、僕も意見を変えるのに吝かではありません。
河野談話を否定するよりも、米下院決議121号が認めた「強制連行」と河野談話とは全く無関係だということを主張することの方が大事だと考えています。
(5)
N「覚えています。情けないと思いましたね」。
徳永「「情けない」という気持ちを共有した保守人としては同一です。そして間違いなく、この「情けない」を安倍首相も共有していたはずです」
N「この時点で毅然と突き放して、河野談話を破棄すると宣言するべきでした。安倍首相の従米姿勢がこのときにはっきりしました。」
徳永「 ここが彼我の認識の分水嶺なのでしょう。「毅然と突き放して、河野談話を破棄する」というのは簡単なことです。それで、どうなりますか。歴史認識をめぐる《歴史戦》において、中・韓側に米国を追いやることになってしまうのです。国際連盟を脱退した松岡祐介と同じではありませんか。
米中韓連合ができ、全米各地に慰安婦像ができ、国連での非難決議が相次ぎ、米国が公式に日本を非難することになるでしょう。それにEUが続き、安倍政権は四面楚歌に陥ります。そして、それを新聞テレビが、友軍だと信じていた新潮文春が書き立て、安倍内閣は崩壊したでしょう。河野談話を撤回すべきだいう私たちの考え方を支持する世論は大きくありません。日弁連をはじめ、これまで慰安婦問題を煽ってきた仏教会、とくに真宗勢力、カトリック司教団、プロテスタントといった宗教勢力もこぞって、安倍叩きを小躍りしながら展開したでしょう。
勝ち目のない負け戦を挑んで玉砕し、敵方に我が世の春をあと10年謳歌させたら、それこそ、歴史的汚辱を回復する機会は完全に失われるでしょう。目的を達成するためには、現在の屈辱を引き受けることが必要なこともあることを歴史は教えているのではないでしょうか。私たちは、そのことを中国から「韓信の股潜り」として学んだんではなかったでしょうか。 」
N「中・韓の歴史観はプロパガンダそのものであり、これに反発している人は多いですが、「日本を取り戻す」には米国の歴史観である東京裁判史観と闘う他はなく、安倍首相の覚悟が足りないことが、全てに影響していると思います。米国の歴史観を否定してこそ、中・韓の歴史観を否定することができます。」
徳永「 「日本を取り戻す」には、米国の東京裁判史観と闘う必要があることは承知しています。しかし、安倍首相の覚悟を云々するのは全く馬鹿げています。今、勝負しても、アメリカ人に、東京裁判史観が間違いだということを納得させるという望みはありません。韓国人に竹島は日本の領土だということを納得させるのと代わりません。それでも「敢えてせよ!」と勇ましく檄する選択肢があることを私は否定しませんが、そのことに万が一にも勝ち目がない以上、その敗北による深刻な影響の方を心配するのです。
「日本を取り戻す」ためにアメリカ世論を相手に「東京裁判史観と闘う」のは、せめて、日本国内の世論を固めてからにすべきでしょう。現状、まだまだ「東京裁判史観と闘う」世論は固まっていません。20年前は、阿呆扱いされて鼻摘み者が、ようやく一つの偏屈者の意見として主張を許容されるようになり、産経新聞を読んでいても、変わり者扱いされなくなったという程度です。
圧倒的多数の無関心層は、当たり障りのない日和見をするため、朝日新聞や日経新聞(共同通信)の社説を慌てて読んで装うのが関のやまです。決戦を急ぐべきではありません。」
N「そうなれば、激しい論争となり、米軍のベトナム戦争時の慰安婦のことや、日本占領時のこと、韓国のライダイハンのことなど全てが論争になり、慰安婦については未だに論争にはなっているでしょうが、その状況は大きく変わったと見ています。」
徳永「甘い! アメリカ人は、日本の歴史や日本人の誇りなんかに関心はもっていません。ベトナムにおけるライダハンのことや、韓国における米軍基地慰安婦の問題は、従軍慰安婦問題における「広義の強制性」問題に痛撃を浴びせるものですが、アメリカ人の世論の関心を、そこまで引っ張り込むには、まだまだ前処理が必要です。そこまでアメリカ人の観衆を誘導するまえに、集団リンチにあって野垂れ死にするのがオチです。
N「広義の強制性も認める必要はないのです。それは後日返答申し上げます。慰安婦証言の裏付け調査を行っていなかったことが明らかになっている時点でこの談話はアウトです。」
徳永「 石原信雄元官房副長官も明確に述べているように、河野談話は、吉田証言にも慰安婦証言に基づいていません。そこには確認された事実を基に、韓国と日本の世論に対する政治的配慮にもとづく政治的レトリックがあるだけです。逆にいえば、そこで述べられている「広義の強制性」の基礎となる事実は否定できないものですし、敢えて否定する必要はないというのが僕の認識です。「広義の強制性」というのは、島原や飛田や福原での風俗営業に警察が関与していることと同じです。
河野談話の一言一句を吟味してみて下さい。さすが、全国模試トップ10の経歴を持つ偏差値秀才(これは揶揄ではありません。)が精根を傾けて作成した政治文書です。誤解を招くおそれのある文言はありますが、明確に間違いだと指摘できるところはありません。そうした政治文書を、否定しようとすれば、エンドレスの議論に埋没し、終には、否定する企画自体の正当性が疑われしまうことになるでしょう。「骨折り損のくたびれもうけ」。これが河野談話撤回の企画に対する僕の答です。
河野談話の問題点は、唯一、その表現において「誤解を招くおそれ」があったこと、そして河野元官房長官自身のインタビューで「強制連行はあった」と語ったことによって、河野談話がそれを認めているものと国際社会に広められたことにあります。それゆえ、河野談話については、それを否定するのではなく、その意味を「正しくし」、誤解を否定するよう訴えることに尽きると判断するようになりました。」
N「米国がWGIPで受け付けた欺瞞と闘う覚悟なくして、「日本を取り戻す」などと>いうのは口先だけの演技に過ぎず、そういうものについて、保守派は見切りつつあります。最近竹田先生なども「どうなっているのかなあ」(旧宮家の復帰に関してだと思いますが)などという発言をされていますが、安倍政権について保守派からの批判が少しづつ広がりつつあるのは健全なことだと思っています。」
徳永「 WGIPの欺瞞と闘う覚悟が必要なことは、MLに集う諸氏に共通の思いです。問題は、闘う戦略と戦術如何です。Nさんのように正面突撃を繰り返して討ち死にする玉砕を繰り返しても、「どうにもならん」というのが、僕の現状認識であり、作戦立案の基礎です。困難な戦いに勝つには、「地の利」と「時の利」が必要になります。残念ながら、今は、いずれもありません。アメリカにおける韓国ロビーの力は、圧倒的であり、日本外交を遥かに凌ぎます。アメリカの民主主義の実態は「ロビー」です。グレンデール市の市会議員がそうであったように、慰安婦像が建立された欧米の市の議員の多くは、票も金も、韓国系におんぶにだっこです。
N「 「慰安婦は売春婦」です。戦時売春婦なのです。お金をもらっていたのだから売春婦です。間違いというのでれば、無給であったことを証明してください。」
徳永「Nさん。それは「舌足らずの真実」というべきものですよ。いやしくも教師たるものが、ネトウヨと同じようなことを言っていてどうするんですか。
公衆の前で、美人でない女性を「ブス!」と呼び、禿げおやじに「はげ!」、背の低い人に「チビ!」といい、太った人に「デブ!」と呼ぶのとそう変わりません。真実であっても、状況に応じて使ってはいけない言葉があり、それは公的な場におけるマナーとして理解され、そのマナーを遵守しないものは、犯罪者となることはなくても、キワモノとしてのレッテル貼りがされ、その発言力を封じられることになるのです。小野田さんが言っていたから、それをそのまま言うのではなく、小野田さんがいわんとしたことを、現代の国際社会のマナーに添うようアレンジして述べるということが、発言者たらんとする私たちに担わされた課題です。
彼女らは公娼であり、売春婦です。だからなんですか???。So What?。「慰安婦問題」は、官憲に強制連行されたり、女衒に騙されたり、親から身売りされたりして、軍の売春婦になる運命を強いられた人たちの人権問題です。お金を貰っていたこと、そして高額の報酬を得ていたことは、この被害者像に変容を迫る力をもっていることは認めますが、「そんな特殊な例を持ち出して、被害全体を否定しようとする極右日本人らの、空疎で卑劣で愚昧な詭弁は反吐を催す」と排されてしまうのが、現状です。アメリカ人にとっては、慰安婦は実在し、慰安婦被害も実在しています。これは多くの日本人もそうです。強制連行を否定する正義派のなかにも、慰安婦の悲惨な被害に対する共鳴者は少なくありません。僕は、当面、こういうグループの人たちの歩みに合わせることが得策だとみています。これは戦略的戦術です。
ご承知のように、欧州にも米州にも風俗営業はあります。売春婦も闊歩しています。私は、売春合法化論者です。弁護士会でかつて売買春の全面規制がフェミニズム派から提案されたことがありましたが、私は「結婚することも、愛人をもつ可能性も諦めざるをえない一人の労働者が一日汗水流して働いた賃金を差し出して、これでエッチをしてくれと女性に頼む行為のどこが差別であって人権侵害なんだ!君たちは彼等に一生マスターベーションして死ね、という積もりなのか。《常に弱者の側にたつ》という君たちのモットーは偽善だ!」という論陣を張り、散々変人扱いされましたが、コアな賛同者も得(それでも「地球は廻っている」と陰で呟いてくれた人たち)、差別の名のものと売春とポルノの厳重規制を訴えるフェミニズム弁護士軍団の進撃を阻止しました。しかし、そこでの僅かな勝利は、当然のことながら多くの犠牲を払いました。「変わり者」のレッテルを甘受し、孤立を引き受けた上での、僅かな、僅かな勝利です。日本国民と子供たちに、そのような勝利を贈るつもりなのでしょうか。
米国社会における「売春婦」は「同性愛者」と同じように、時代の刻印があります。世の中を「神の側」と「悪魔の側」の二元論で考える傾向の強いアメリカ人社会では、「売春婦」や「同性愛者」は、悪魔の陣営の者とみられていました。現在でも(同性愛者の権利運動は、そうした抑圧に対する反動としての側面が多く、同性愛者を受け入れてきた日本社会 タイと同じく、日本は同性愛者の天国です。この点はNさんとの意見は違うようですが では、欧米を真似した同性愛者権利運動は、痙攣のように起こっは、泡のように消えていく定めにあります。Nさんと違って、僕は、同性愛者の出現は自然の摂理だと信じています。コンラード・ロレンツも自然観察のなかで指摘していますが、同性愛者は、人間以外の動物にも見られ、かつ、適者生存の原則に適うのです。女に子供を生ますための性は文字どおり「お勤め」になるだけです。
なにがいいたいかというと、アメリカ人社会において「売春婦」という言葉には、厳しい宗教的倫理的非難が伴うということです。日本の軍人さんのために懸命に働いた慰安婦の方々に対し、その恩恵を蒙った兵隊さんの視点から歴史を見直そうと心掛けている僕にとっては、慰安婦の方々に「prostitute」という非難の言葉を投げつけて、「that's all」として引き上げるのは、余りにも悲しい。彼女らが日本の歴史を歪める邪悪な企画に加担したとしても。僕は、売買春にかかる法的問題は、売春婦の労働環境にあるという立場をとっています。戦場での慰安婦の労働環境は、尋常ならざるものがあっただろうと推察します(もちろん、兵隊さんの環境も。あたり前ですが)。
アメリカ人は、「真実」と「公正」を大切にする国民です。が、同時に、おそろしく「建前」を重視する「偽善」の国民です。日本人は「本音」を前面に押し出し過ぎです。この正直を重んじる偽善の国で、80年代「Political collect」運動が猖獗を究めたことも、そのことが原因となっています。
言論の自由が尊重されているこの国では、PC(政治的正しさ)に頓着しない発言は、全く相手にされません(お笑い芸人としてはいざ知らず)。残念ながら、われらがテキサス親父、マラーノ閣下もそうした際物扱いをされています。かの国において、政治的に発言するには、教養あるインテリの語り口を真似る必要があるというのが、僕の戦略的戦術です。そのために「慰安婦は売春婦だ」という舌足らずの真実を語ることを封印しようと決意しました。
(6)
マッカーサー証言に対する僕の所見に対するNさんのコメントを見逃していました。
N「あと申し訳ありませんが、今の中共は日本より経済規模が大きいのに、ODAをもらっていた国です。マッカーサーがいう日本の状況はABCD包囲網下にある状況でした。」
だったら、せめて、そのことがわかるようなマッカーサー証言の引用をしないと! ソ連の崩壊について、現在の左派・マルクス主義者のなかには、アメリカ陣営による経済封鎖が理由だという御仁がいますが、それと同じでしょう。それに中国がODAをもらっていたことは、中国における資源の欠乏や失業の危険とは別のことでしょう。資源の欠乏&失業の危険=暴動=国内体制の動揺を懸念して戦争を起こしたというのであれば、中国による尖閣、西サ諸島の侵略も全部正当化されてしまいますよ。マッカーサーの侵略戦争の定義を持ち出し、中国に対してはODAを貰っていたから侵略戦争なんだっていえますか? 要するに普遍性がないのです。わけがわかりません。もっと冷静になって下さい。
マッカーサー証言は、日本の戦争がなんだったのかを子供たちに考えさせるうえで格好の教材になると思います。その意味で、重要です。しかし、教材に適しているというのは様々な解釈ができるということの裏返しであり、このマッカーサー証言をそのまま引用して、日本の戦争は侵略戦争ではなかったとアメリカ人に主張しても、やっぱり相手にされないと思います。マッカーサーは所詮大統領になり損ねた軍人に過ぎません。 解任後、米議会で、日本統治の甘さを糾弾されていたわけで、やがて組織される極東委員会において天皇制を廃絶させようとする動きを察し、それに先んじて、日本国憲法を制定させて天皇を温存し、ソ連、中国、豪州等の天皇廃絶派の極東委員会の動きに先んじた政治工作(僕は、この政治工作が天皇制を救ったと評価しています。)を含めた、自らの占領統治の正当性を際立たせるために、完全に悪役だったナチスドイツとは違うということを主張したのです。その文脈を無視して、一般的な「侵略戦争」の定義としてマッカーサー証言を引用するのは説得力が欠けるというのが僕の判断です。
それが失当だというのはNさんのご判断としては結構ですが、その議論をもって、果たしてどの程度の人たちを説得することができるでしょうか。僕は大いに疑問だと思います。僕は池上彰を信奉しているわけではないのですが、最近、大衆を説得するうえで、「池上彰だったらどう説明するだろうか」という思考実験を行うことにしています。池上彰は、間違いなくマッカーサー証言を熟知していますが、これまで述べた理由から、Nさんがいう文脈で紹介することはありえないと考えています。
BPO(放送倫理番組向上機構)使用の勧め
NHK「慰安婦の嘘」宣伝
2015/03/16
朝日新聞のような紙媒体については、その内容の当否、正誤について法的に責任を追及することは大変困難、というより、ほとんど不可能です。今回、東京地裁に三件提訴された訴訟のようになんとか名誉毀損という枠組みのなかに取り込むか、風評被害という枠組みのなかで個人の具体的損害を理屈付けしなければなりません。
しかし、限定された資源である「放送」であれば、BPO(放送倫理番組向上機構)で、その責任を追及することができます。慰安婦問題に関わる沢山の視聴者からの苦情をBPOに届けるべきです。
しかも、「FORCED」の一言は、朝日新聞の謝罪がある以上、絶対に正当化できないものです。 ほかにも「強制連行」を意味する言葉が使われていないかを徹底的に調査させるべきであり、そうした文言が使われた背景と責任者の追及を行うべきでしょう。
アメリカに在住の日本人は、韓国系の反日団体の執拗な攻撃に晒され疲弊しています。そのことを日本国内の日本人は、よく知るべきです。
桜宮高校の元体罰教師を複数の市立中学校がバスケ部コーチとして招聘していたという驚き呆れた実態 2015/02/25
これは僕は理解できないな。
元体罰教師という傷をもつ教師が、その能力を買われてバスケットのコーチになる。いい話じゃないですか。これでチームが優勝でもすれば映画の脚本もかけそうな美談になります。どこが問題なのでしょうか。
(2)
A様
この辺りは道徳感覚の違いなんでしょうか。想像力のベクトルの違いなのでしょうか。あるいは、元教諭の事件をどうみるかという点の違いによるのでしょうか。
僕は当時から橋下徹による教諭バッシングは行き過ぎだとみていました。自殺した子と両親は本当に気の毒ですが、しかし余りにも弱すぎると感じました。部活を辞める勇気があればよかっただけです。逆に、大成したアスリートはみな自殺ぎりぎりまで追い込まれた経験をもっていると思います。僕も体育系の辛さに耐えられずに挫折した口でした。逃げ出した自分に後ろめたさを感じてきました。あそこでもう少し頑張る根性があったらなぁと、ずっと後悔しながら生きてきました。
元教諭の熱血は自殺した生徒には裏目に出てしまったが、この元教諭の熱意に感謝している生徒は多数いるだろうと想像します。
執行猶予中であることが、どうなのかと思います。折角、執行猶予がついたのだから世の中で、人の役にたつために粉骨砕身すればよいのです。元教諭の指導力と人格を評価する人たちがいるのであれば、大きな挫折をした彼が第ニの人生を送ることのどこに問題があるのか分かりません。
遺族云々ですが、遺族は執行猶予期間が終わっても許さないと思います。遺族が許すかどうかは関係ないと思います。有為な才能と人材を埋もれさすのは勿体ないと思います。まぁ、世間が騒げば、せっかくの人材を活かすチャンスも潰されてしまうのでしょうが、とても残念なことです。一介のコーチに教諭の資格は必要ないでしょう。僕たちのころも、よくOBがきてコーチをしてくれました。一市民としてコーチを頼まれたという文脈で理解すべきです。 「許しがたい」という教育委員会には呆れていますが、それはAさんとは別の意味においてです。橋下徹の顔色をうかがっているのでしょう。教育の現場が小役人の論理で固まってしまうのを残念に思います。 きっと、元教諭の厳しい指導を心から感謝している教え子がいるんでしょう。野球、ラグビー、バスケット、サッカーといったチームスポーツは本当に指導者の力量次第ですから。いい話ではないですか。でも、教え子の善意がかえって事態を拗らす皮肉な結果に終わりそうです。嫌な世の中です。
特定秘密保護法施行のニュース
2014/12/10
昨日、関西で流れたMBS『VOICE』のニュースです。特定秘密保護法施行に反対する大阪弁護士会のデモ行進を取り上げたものです。朝日の天声人語にも取り上げられています。
大阪のオバチャンの豹柄を庶民感覚として扱ったものですが、特定秘密保護法の施行と庶民感覚はミスマッチです。MBSは予め私のところにきて反対意見を収録したうえでデモを扱ったのですが、曰く、余りにも静かで、ほかにとりあげる反対運動がなかった、というのがディレクターのぼやきです。
私の反対意見が正鵠を付いたものかどうかは私自身自信がありません。しかし三十分くらいしゃべった内容のうち使われているのは数秒であり、秘密の厳守の必要を男女関係にたとえた部分だけでした。余り品のいい議論ではないかも知れません。でも、TVというのはこんなもんでしょう。
宝塚の記事について 2014-11-17
本日、大阪弁護士会の憲法委員会で、朝日新聞問題がとりあげられました。
もちろん、誤報はけしからん、どう落とし前をつけるのかという視点からではなく、産経を筆頭とする右派メディアによる朝日新聞攻撃は目にあまるし、またこれを容認したり煽ったりしている安倍政権はけしからん。権力による表現の自由の弾圧ではないかという視点からの報告でした。
朝日に支えられてきた反日活動家らからは、河野談話は吉田証言とは無関係であること、クマラスワミ報告における吉田証言の引用はわずかであって被害者からの直接の聞き取りによって作成されている等の指摘がありました。彼らは、インドネシア人やフィリピン人の従軍慰安婦に対する損害賠償を求めていました。
グレンデール市の碑文にあるように、国際世論は、20万人強制連行を信じてしまった処から慰安婦問題を非難しているのだといくら説明しても、国際世論においては「強制連行」は「全く関係ない」と強弁するばかり、下院決議にも国連勧告にも「強制連行」が出てくるという指摘をしても、それでも頬っ被りです。すなわち、従軍慰安婦の問題を「強制連行」の有無にすり替えているのは、私たち「産経右派陣営」だという思い込みです。
植村記者の捏造問題についても、「一体どこが捏造なのか」と強く訴えられて、「挺身隊=慰安婦」の混同が捏造だと指摘しても、韓国では「挺身隊=慰安婦」の混同は、昔から広く風聞としてあったと開き直る始末。
あげくの果ては、なぜ朝日新聞は訂正など取り返しのつかないことをやってしまったんだろう、安倍内閣による圧力があったからだけしからんといった愚痴のオンパレードでした。普段は仲良くしている連中で、頭脳優秀言語明晰な同僚たちですが、正直疲れました。 このような消耗戦をあと何年続ければいいんでしょうか。まだまだ茨の道が続きますが、茨の道も一歩からです。トホホの現場報告でした。
(2)
Nさま。
いやはや。しかし、これが戦うということなのでしょうね。連中に舐められてはならないという気負いがありますので、手を抜けませんし、いつのまにか、我が陣営を代表しているような不遜な気持ちになりますが、それが責任感となっていきます。 でも、僕は、彼らと付き合うことこそが、自ら「蛸壺」におちないための保険だと思っています。同志や称賛者だけが回りにいる環境に身を置いた大先生は、みな堕落していきます。精神的緊張がなくなるのかも知れません。少しでも隙をみせれば、侮蔑を受ける環境に身を置くことは鍛練になります。もっとも僕は、隙をみせるのが好きな露悪の性癖がありますが、そうした弱点は、左翼からは却って突つきにくいようです。左翼からすれば、右派はいずれも様式や型にうるさいだけの硬い頭の脳タリンでいて欲しいからです。
日本人は朱子学で凝り固まったコリアンと違いますから、道徳と能力と経験は区別します。左翼は、右派に朱子学的な人物像を想定しているからです。
宝塚市議会に「慰安婦への謝罪賠償を求める決議」の撤回を求めるネット署名 2014/9/20
※「慰安婦への謝罪賠償を求める決議」を出すとは、
宝塚はどういう街なんだ、というコメントへの返信↓
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宝塚のイメージは、タカラヅカ歌劇団。ハイソな郊外ニュータウンのイメージ。芦屋や御影が上とすれば女性の装いも垢抜けした都会。一戸建て住宅が多く、そこそこの所得のある中流家庭。中の上。高級サラリーマン、医者、弁護士が多い。土着感の少ない、新参者が多い。教育レベルは高い。といったところか。「なんとなくサヨク」の思想は、土着の感情に支えられたものではなく、深い思考に裏付けられたものでもなく、いわばアイロンのあたった見栄えのいいワイシャツのような処世の道具ですから、世の中の空気が変われば、サラリと変わります。 要するに「生活が第一」の人達なのです。
従軍慰安婦とヘイトスピーチ規制
2014/9/17
現在、近畿弁護士会人権シンポにおいて「ヘイトスピーチ規制」を考える分科会において報告書を取りまとめている最中なのですが、いわゆる「在特会」や「ネトウヨ」の差別発言をどう捉えるかという議論が、当然のことながら生じています。そこでは、日本のナショナリズムが「歴史の歪曲」や人種差別意識と結びつけて論じられてきました。今回の朝日新聞の謝罪に関連し、日本の排外主義的保守活動について若干の擁護を試みました。こうした分析をどう考えるかは、弁護士会においても、そしてこのMLにおいても自由ですが、そこにある議論に値する問題点を把握しないで通りすぎることはできないでしょう。
ネトウヨ「ヘイトスピーチ」の淵源について
2014/9/17
少し遠回りの議論です。排外主義的憎悪言論を生む精神構造問題に関することで、昨日のナショナリズム論議のなかであった「排外主義的ナショナリズム」なるものについて、「歴史を歪曲するナショナリズム」という言葉がありました。この言葉は現在の日本の重要な問題を孕んでいると思われるので、以下のとおり、take noteしておきたい。
いわゆる在特会の活動は、アンチ水曜日デモを原点としています。従軍慰安婦問題を糾弾する水曜デモに対する「アンチ(対抗言論)」として始まったものです。
彼等のView point は、従軍慰安婦の「強制連行」はなかった、彼女らの待遇は、総じて好条件であって慰安所施設における「性奴隷的虐待」はなかったというものです。
僕が気になっていたのは、ヘイトスピーチ規制積極論者のなかに往々にして在特会ないし極右団体の主張、従軍慰安婦の「強制連行」や「性奴隷的虐待」はなかったという主張に対し、「排外主義的歴史歪曲」とのレッテルを貼り付けようとする非難があったことです。 もちろん、議論の詳細については異論の生じるところでしょうが、少なくとも、従軍慰安婦の「強制連行」と「挺身隊」との混同については、それを報じた朝日新聞が誤りを認めて謝罪したことで決着がついたようです(国民世論的には。国際世論についてはこれからです)。
これまで、日本人は、祖父の世代に少女二十万人を強制連行して性奴隷にする蛮行を働き、現在の日本人は、その蛮行を指摘されても素直に事実を認めず、謝罪も賠償もしない無責任で不誠実な民族というレッテルを貼られてきました。事実ではない冤罪で糾弾を受けても、謝れないのは当然です。無実であることを知りながら、国際世論に迎合して、謝罪のポーズをとるのは、それ自体、不道徳であり、不誠実です。子供たちや若人は、そうした偽善を憎みます。それは健全な精神のありさまです。いわゆる「民族的人格権」や「民族的アイデンティティの権利」というものが認めうるのであれば、多くの日本人が朝日の報道と、これによるクマラスワミ報告・マクドゥーガル報告に基づく国際世論によって、そうした人格権を傷つけられ、民族的侮辱を感じてきたはずです。
僕は、いわゆる「ネトウヨ」や「排外主義的」保守運動に関わる人々について、そうした精神の健全さを認めてきました。歴史の事実と向き合い、偽善を排し、誠実であろうとする精神と倫理的姿勢をそこに見出してきたからです。彼らなりの正義感に基づく活動が、今日の朝日新聞の白旗につながったという見方もあるのです。 もちろん、彼等の全員が差別意識から免れているなどということを主張する気はさらさらありません。希にですが、強烈は差別意識(コンプレックスの裏返しのような)に基づく、差別的発言の場に居合わせ、これを発した者と大喧嘩になったこともありました。
差別意識は憎むべきものです(尤も、かかる憎むものであっても、それを信条とする者の存在と共存の必要を否定するつもりはありませんが)。しかし、彼らの発言や主張が、すべて差別意識に基づくものと断定するのも、誤った認識です。そこには極めて反時代的(朝日などの支配的なマスコミが形成してきた戦後民主主義の時代)な倫理的反逆の精神があるということを見逃さないで欲しいと思っています。そこに行き過ぎの過ちはあると思います。僕が、問題の本質を「差別意識」ではなく「マナー」の問題と整理しているのはそのためです。 誤った認識に基づく糾弾は、必ず、時代の逆襲を受けることになるでしょう。
会議の場でもありましたが、少なくとも朝日新聞問題が当面の区切りを見せるまでは、ネトウヨが誤った情報を真に受けて、誤った歴史認識を振りかざして歴史を歪曲しているというステレオタイプの表現は慎むべきです。少なくとも、従軍慰安婦問題については、誤っていたのはネトウヨではなく、朝日新聞を筆頭とするエスタブリッシュなマスコミだったのですから。 この議論は、過日、崔先生が提起した日本人が持つ差別意識の深層についての議論を受けたものでもあります。遠回りの議論ですが、重要な議論だということで、シンポジウムに直接反映することはできませんが、そこにある問題が何かという意識をもって、このシンポジウムに臨みたい、臨むべきであると考えているからです。
【朝日慰安婦誤報】 高校教科書記述どうなる 一部出版社「訂正を検討」 2014/9/15
教科書発行会社が慰安婦に関する記載を訂正ないし削除するかどうかは、採択戦において有利か不利かに全てがかかっている。国民世論が慰安婦問題が虚報に基づくものであることを認識し、そのような問題を事実として記載している教科書はけしからんという世論の圧力に抗することができなくなります。教科書の記載自体が誤りかどうかに関わらず、誤りだという非難を受ける「おそれ」が重要なメルクマールになるのです。 当たり前のことを言っているだけかも知れませんが、教科書会社は、正しいから記載するのではなく、そう書けば採択の可能性が高くなるから書くのだということを理解したうえでの世論戦、採択戦の戦術を考えるということが大事なのです。
採択戦の争点を、慰安婦問題に絞って朝日糾弾キャンペーンと連動させることも一つの作戦として「あり」だと考えます。
中ソの代弁70年 〜 朝日新聞プロパガンダ 2014-9-10
今となれば、夢物語ではなく「悪夢」物語ですが、当時のインテリの多くは、やがて、ソ連と中国と北朝鮮が朝鮮半島を南下し、日本国内で共産党員の細胞が蜂起し、日本におけるプロレタリアート革命が生じるということを信じていたということを想起しなければ、当時の世相を理解することはできません。
それが、世界史において客観的に発現されている客観的歴史法則に基づく予言であり、科学的展望だと、本気で信じていたのです。それが史的唯物論であり、歴史の発展法則と呼ばれるものです。サルトルが二十世紀において乗り越え不可能な思想と呼んだものです。この科学法則を信じているものからすれば、善悪でさえ、歴史法則に合致しているかどうかで判断されることになったのです。
高名な京都の憲法学者が、当時、やがて革命が起こる、そのときは、こんな学問は何の意味もなくなる、と授業で言っていたことを教えられたとき、そうした予言の持つ意味がどれほどインテリを支配していたかが思い起こされます。
科学的理性に基づく信念というより、多くは、風見鶏的、保身ないし栄達の術でした。日本が戦争に負けるという予想もできない事態から間が無かったころのことですから、そういう精神状態になったのも無理はないのですが、僕も、ある民青の共産党員が、いずれ中国が朝鮮半島を渡って日本を支配する。そのとき、真っ先に粛清されるのは、君たち新左翼だ、と確信をもって述べていたことを思い出します。この共産党員と同じく、大学の教授や新聞記者、そして学校の先生たちの多くは、やがて来る共産党の天下において生き延びられるよう、あらゆる事柄についてアリバイ的な行動をとっていたのです。
「橋下市長は間違った主張を取り消せ」への返信 2014-8-11
Nさん、「正当化」という言葉は、辞書では、「言動を道理にかなっているとみせること」とあり、「みせること」という部分がいささか気にはなりますが、正当でないものを正当であるかのようにこじつけるという意味まではないと理解しています。
われわれ弁護士は、「正当化」するという言葉を、正当だから、そのことを筋道たてて論じる場合にも使います。われわれの仕事はすべからく「正当化」です。もちろん、正当でないことを正当だと論じているのを非難する場合にも「正当化」を使いますが、「強弁」とか「牽強付会」とか、「こじつけ」といった言葉を添えるなどして文脈上、明確にする工夫をしています。正当なことを、よくわかるように公然と論じる場合も「みせること」になるということです。
稲田大臣の発言「悲しいことではあったが、合法であった」は、まさに正しい意味における慰安婦の「正当化」です。この橋下氏の発言をとりあげて論難するのは、僕に
は単なる言葉の揚げ足取りにしかみえません。
言葉の使い方ないしニュアンスの問題でもあり一概に断定することは難しいのかもしれませんし、教師であるNさんの語法を正しいとされる方がおられるかも知れません。しかし、ニュアンスの問題ということであれば、なおさら、「間違った主張を取り消せ」という断定的な非難は、揚げ足取りのように受け止められるおそれがあることをご自覚願います。
冷静に考えて、稲田大臣の発言「合法であった」を、橋下市長は肯定しているとしか読めません。橋下市長が稲田大臣の発言を「歪曲している」というNさんの評価は文脈からみても、少し苦しいと思えます。こういう言葉の意味内容の受け止めかたの変容について、われわれ弁護士は「予断」ないし「偏見」という言葉を用いて警戒します。
(2)
だから。稲田大臣の弁明は、言葉の正しい意味において「正当化」というのだということを指摘しているのですよ。橋下市長は、その限りにおいて間違っていません。秦氏の指摘も慰安婦を性奴隷だと批判する論に対する慰安婦と日本軍の「正当化」です。そしてその「正当化」を僕は歴史認識としても人権倫理に照らしても正しいことだと信じています。
Nさんの下記の議論はなにがいいたいのかさっぱりわかりません。法的には日韓基本条約で解決済みの問題であっても、あらためて追加の個人保障を韓国の政府に代わって行うべきだという議論はありうる議論です。橋下市長も法的には日韓基本条約で解決済みだという共通の前提をとっているのですから、Nさんのように日韓基本条約で解決済みだから必要ないというだけでは議論がかみ合っていません。彼らの議論を正しく汲み上げたうえでの批判でないと、ただの「感情的な馬鹿」だという左派からのレッテル貼りに抗することもできません。
(3)
N様、いいんじゃないですか。橋下市長の発言。彼は従軍慰安婦発言で叩かれたときの経験を立派に活かしています。「勝って兜の緒を締めよ」といっているのですよ。僕も橋下市長と基本的には同じ意見です。「日本は何も悪いことをしていないとまた言い始めるかも知れない」ということは、今回の朝日の謝罪に対して最も心配するところです。粘り強い論証の努力と多くの傍観者的国民に訴えていく努力を続けなければならないのです。慰安所が必要悪だというのであれば、悪を行うことに対する反省はやはり必要でしょう。
橋下市長が、売春を必要だと考えていることは明らかですが、それを「悪」だと考えているとは思いません。必要悪のようにいうのであれば、それは世間の輿論に媚びているのです。大勢に媚びるやつは大嫌いですが、「政治家」という職業を全うするためには、それは必要な態度でしょう(僕にはできそうもありません)。
僕は、慰安所のような売春の施設は、必要悪ではなく、必要「善」だと思っています。セックスは単なる性欲の処理ではなく、人生のマーシャルアーツの一つです。その技術の向上のためには、他のスポーツ一般のように、プロのコーチが必要だというのが僕のかねてからの持論です。保健体育の授業でも実技を教えるべきだとさえ思っています。セックスにも黒帯制を認め、より強い相手を求めて対戦する場が必要だと弁護士会で提言したこともありました。ポルノと売春を禁じるべきだというフェミニストと公開討論したときの話しです。大方の女性弁護士は眉をしかめましたが、賛同してくれた弁護士も女性を含めて少なくありませんでした。こういうことを考えて、あえて話している僕は、変人であって、一般社会にとっては危険な人物かも知れません。
多分、Nさんは、反対されるでしょう。でもね。保守だからといって、皆同じ意見というわけには、いかないんですよ。僕も橋下市長の発言のなかには、絶対容認できないものもあります。文楽の補助金カットなんて最たるものです。しかし、それでいいんです。政治は相対的な勝ち負けです。いかに阪神が強かろうが、全勝することはできないのです。七割勝てば優勝です。六、七割正しいことを言っていれば、それでいいのです。国旗掲揚、国歌斉唱で橋下市長のとった果断な政策判断は素晴らしいものでした。大阪という政治環境のなかで、朝鮮学校に対する補助金を停止したことも橋下市長だからできたことだと評価しています。市役所内の左翼過激派分子に対する攻撃も、歴代市長が全くできなかったことでした。それで十分です。あとは全部間違っていても、僕は橋下市長を支持します。七割の正しさを目指す政治は、百パーセントを目指す宗教とは根本的にちがいます。
統一教会の保守とり込み工作 20140716
統一教会問題は複雑です。簡単な謀略史観で割り切ってしまえないものがあります。統一教会には「霊感商法」問題があり、弁護士会では反社会的団体としての烙印が押されていますので、われわれ弁護士は、ここと関係を持つことについて神経質にならざるをえません。また、統一教会で教えられている黙示録的な世界観、授受思想や蕩尽原理、文鮮明をキリストの再臨と説く教義にも、朱子学や朝鮮半島の土俗思想が色濃く浸透ており、日本人女性を韓国人男性の花嫁とする「集団結婚」などの儀式についても嫌悪感があります。
統一教会の有識者に、朝鮮半島は男根の形をとり、日本列島はその前で横たわる女陰の形をとっており、そこに日韓のあり方についての天上での仕組みが表れているとの教説を教えられたときには、ホーッと感心するとともに、大いなる疑問を覚えました。今では、日本列島が五大陸の形象をかたどっているという俗説とセットにして、ときどき酒席でのジョークの一つとして使わせてもらっていますが・・・。 しかし、難しいのはかつての生長の家と同じく、統一教会は反共産主義陣営の先頭を走って闘い、多くの保守人が関わってきたことです。
特に、「世界日報」は保守系人士のメディアとして機能してきました。世界日報が主宰する「世日クラブ」には、多くの保守系言論人が登壇します。歴史教科書改善運動を担ってきた藤岡先生も八木先生も講演していたと記憶しています。それをもって統一教会に取り込まれていると即断するのは問題があります。僕も沖縄での裁判では「世界日報」の支援を受けましたし、「世日クラブ」で登壇しました。統一教会との関係を知らないわけではなく、知ったうえでのことですから、統一教会に取り込まれたという非難をする人はいるだろうなと覚悟して登壇しています。 教義を絶対視すれば、カトリックも統一教会もイスラムも幸福の科学も、世俗的な日本人の常識的な世界観との隔絶に驚天動地の趣があります。それが宗教の宗教たるところでしょう。しかし、そうした宗教的教義の信仰者と世俗社会で共存し、ともに世俗の政治問題について議論し、共闘することができないとは、思いません。批判はありますが、自民党が公明党と共闘している現実があるわけですし。これは単なる「曖昧路線」なのか、「寛容の精神」のなせる技なのか僕にとっても問題として残り続けています。しかし、Kさんたちのように、そのカルト性を断罪し、直ちに白黒をつけるよう求めるのには賛成できません。懸念するところのものは分かりますが。要するに思想の純潔は大事だが、世俗における政治にコミットしようとすれば、思想の純潔を保つことはできないし、単なる偏狭と独善に陥る弊害があるということなのでしょうか。
僕の場合は、それが創価学会であっても、「赤旗」であっても、講演を頼まれれば、迷わず受けますし、謝礼も受取ります。 それで、共産党に懐柔されたとか、創価学会の紐付きとなったという批判を受けても、あほくさといって笑っています(さすがに共産党に呼ばれたことはありませんが、9条の会で講演をしたことはあります)。
おまえは、それがオーム真理教であっても同じことをいうつもりなのか、オーム真理教のような反社会的カルトと、そうでない宗教との区別をどこに見出すのか・・・と問われたとき、今の僕には、曖昧に、そうだなぁ・・・と空を見上げて惚けることしかできないのですが。
(2)
Oさま、徳永です。 僕の拙いメールを相手にして頂き、ありがとうございます。
O「統一教会とどう付き合うか、これは、うまく利用できる方であれば、講演も世界日報でも、持論を展開して行かれる場とされれば良いと思います。 」
徳永 「うまく利用できる」なんて思ったことはありません。インテリ世界に棲息する政治的にウブな人間は、利用するつもりで、利用され、取り込まれるのがオチです。「ミイラ採りがミイラに」を地でいくようなみっともない結末がみえています。それでも、「それなら、それでもいいんだ」という諦念に基づくあっさりした気持ちでつきあうことにしています。いわば新しい女性と関係を持つときに似ています。
かつて右寄りの立場を旗色鮮明にしたとき、何人かの友人から、「利用されるおそれ」を忠告されました。僕は、自分に「利用」される価値があるなら、それでもいいといいました。むしろ、誰からも利用されないことの方が辛いと思いました。その当時は、サヨク側は、腐った右派や保守派に魂を売る人士は、みな利権や欲得ずくで、背後で仕切っている黒幕(アメリカCIA、戦前の右翼、財界人)に操られているのだと信じていましたから。(おそらく今でもそうだろうと思います。統一教会的な意味において「悪魔の陣営」なのです)。彼らの多くは、右派は、劣った悪の人間だと思い込んでいます。だから、僕は、彼らの論法を用い、彼らの倫理的価値観に訴えながら、異なった結論にたどり着く道筋があり、此岸にも善き「人間」の世界があるのだということを分からせようと頑張ってきました。
共産党と社民党を比較すれば、共産党の方がまじめな優等生が多いことは事実です。新左翼からみれば、坊ちゃん、ということになります。学生時代は、お互いを激しく憎み合っていましたが、弁護士になると、両者は、うまく折り合いをつけているようにも感じます。共産党員のなかにも愛国者は沢山いますが、Oさんと違って、新左翼の方が民族派との親和性は高いと思っていました。連合赤軍の母体となった京浜安保共闘は「反米愛国」を掲げていました。
統一教会を嫌悪する点では、僕もOさんと変わらないように思います(学生時代に教会に洗脳された友人がいて、執拗な誘いに根負けして研修を受け、街頭で募金活動をしたこともあります)。そこでみた多くの女性信者の献身と帰依は恋愛の場合と同じでした。その愛と自己犠牲は感動的でもあります。傍からみたら恋は盲目です。しかし、それゆえ、そこには「なんと人間的か」と感動する光景があります。そして「人間の尊厳」とはこういうものかと実感したことも事実です。
統一教会の教義の中核部分に反共とともに反日がありました。優しく愛に満ちていた女性信者たちは、日本の罪を自分たちが濯ぐのだと頑張っていたように思います。韓国に嫁いでいった彼女たちの運命やいかにと思うと切なくなります。それは、希望に燃えて北朝鮮帰国に同伴した日本人妻の姿と重なります。
それでも「世界日報」の編集者たちに反日の底意があるようにはみえませんし(本心からではなくとも、みえない、ということが大事なのです。これも恋愛と同じです)、従軍慰安婦や沖縄集団自決のような抗反日歴史戦線で共闘できるならば、詮索しても絶対に知ることのできない「本心」や「真意」がどうかを問うてもしかたがないという諦めをもって、親しい関係をもとうとしています。そういう姿勢を脇が甘いという人はいるでしょうが、逆に、全く私心のない協力関係を他人と結ぶということを信じているのかと問いたい気持ちも沸き起こります。
党派的対立、身内の確執、恋愛のもつれは、そうした無私の関係という幻想が引き起こすもののようにも思えます。世俗の関係は、世俗の関係です。恋愛の幻想は心地よいものですが、いつか醒めます、そして、また同じことを懲りることなく繰り返すのです。それを繰り返さなくなったら、それは生きることから引退したということなのでしょう。
なんか、わけのわかんないぐちゃぐちゃになりそうですが、宗教、党派、思想、恋愛といったものは、厄介だが、人間を人間らしくするものとして拒否することはできないし、世界日報のように、彼らなりの葛藤と格闘の歴史をひきずり、それなりの距離感をもって付き合えるところとは、過度な警戒心を煽ることなく、共闘すればいいのではないかと思っているということをお話したかったのです。しかし、結局のところ、僕も整理しきれていないということですし、どんなに悩んで考えても、正しい答えはでてこないように思えます。
そうそう。僕は、左翼のリチャード・ローティがいった「ブルジョア的社交」というものを大事にしようと思っています。本心とは別に、表面的には紳士的に礼儀正しく付き合うマナーのようなもので、それが、多元主義の世界における平和的共存のための唯一の方法だという考えです。いわば世俗的な偽善の勧めです。そのことが何かの参考になるかもしれません。しかし、これは疲れます。ときどき本音を出して悪態をついてしまうのは、僕の精神的な弱さだと思っています。
(3)
Oさま 、確かに「お話」です。整理しきれない問題は、ただただ語るしかありません。傍迷惑ですが。
統一教会は、いつか必ず社会的糾弾を受ける存在だと思います。洪秀全の「太平天国」を思わせる統一教会の教義は、旧約聖書(ユダヤ教)→新約聖書(キリスト教)→成約聖書(統一教会)への弁証法的」発展を仮説するあたり、理論的にはとても興味深いものがありました。
また、統一教会と併せて三大異端といわれるモルモン教(イエスがマヤ文明のアメリカ大陸に表れたことを記すモルモン聖典 天使ガブリエルに導かれたジョセフ・スミスしか見たことのないもの この点同じく天使ガブリエルによってコーランに導かれたムハンマドの神話に似ています)やエホバの証人(新約聖書原理主義でヨハネの黙示録を重視し、近づいている世界の終わりに救われることを目指します。村上春樹の「1Q84」にも登場していました)と比べても際立っています。日本の新興宗教でいえば、そのSF的で壮大で、それ故に些か滑稽な世界観に基づく幸福の科学に比べても、スケールにおいて負けていません。1960年代、70年代に勢力を伸長させたのは、朱子学の二元論を弁証法的に昇華することで、マルクス主義に比すべき「明日の社会の予言性」を持っていたからだと思います。
マルクス主義が、善意と正義感に溢れた人物を「取り込み」、革命という大義に身を投じさせる時代の宗教だとすれば、統一教会は、その双子の仇なのだと思います。マルクス主義がその「予言性」と「理想主義」ゆえに、世界の現実によって神通力を失ったようにマルクス主義の敗退とともに、統一教会も政治力を失っていきました。時代と真摯に向き合ったともいえるマルクス主義者は、しかし、ソ連崩壊後もそれぞれの領域のなかで、世俗の活動を行っています。ある人は市民活動家になり、ある人は、マスコミを主導し、ある人は教師として、或いは大学教授として、評論家として、その理想を教え続けています。理念を失っても共産党の細胞として、現実的な課題と取り組むことで、イデオロギーの喪失に耐え続ける人もいます。 人々から「後ろ指」を刺されながら。
僕が愛した小説に高橋和己の『邪宗門』があります。大本教を模した宗教団体に対する弾圧とそれに抗し、或いは屈していく、人々の物語です。敗戦後の占領軍による里の蹂躙に抵抗して闘って死んでいく人々の姿に涙したことを覚えています。統一教会やマルクス主義者に対する見方も、『邪宗門』に対して感じたロマンチシズムの影響を受けているかも知れません。信仰や恋愛、盲目性の中に「人間」という存在を感じてしまう感性の影響かも知れません。『邪宗門』の一節にもあるのですが、かつて信じた世界観を時代がかわって騙されたというのは、かつて愛して尽くして揚げ句捨てられた男を騙されたといって批判するのと同じで、それは信じ、愛した自分の人間性に対する裏切りだという考えなのです。
そうであっても、いつか統一教会は厳しい社会的非難を受けることになります。これまでは、おそらく保守政治家が守ってきたのでしょう。朝鮮総連と同じように、あるとき、風向きが変わって、人権擁護団体から反社会的団体というイメージで捉えられるようになったことと同じことが起きるでしょう。そのときもそれまで守護していた保守政治家が朝鮮総連を守り切れなくなったことから生じました。
そして、そのとき、朝鮮総連と結託していた学者や人権派弁護士に対する風当たりが強くなったように、統一教会の傘下団体と親和的関係を持っていた保守系人士が苦境に置かれることもありうるのではないでしょうか。
しかし、逆にいえば、朝鮮総連との密接な関係をもっていたことが、それほど政治家に対して致命傷を与えていないという見方もあります。僕は、そのことを不思議に感じるものですが、そういう見方をすれば、統一教会の傘下団体と目されている団体との関わりを持つことが、個人の活動に対してダメージを与えることはないという見通しを持つことも可能かもしれません。
夏の薄着と女性の地位 2014/07/02
海外で留学経験をもつ人たちは、みんな知っていることです。男女平等を口にするフェミニストもみんな知っています。女性が夜中に一人で歩ける都市があるのは日本だけだってことを。
僕はアメリカで仕事をしていたとき、レディファーストをきつく躾けられました。いついかなるときでもレディファーストができない男性は、馬鹿かチンピラかよくて田舎者扱いされるということを通訳から仕込まれました。これはなかなかできません。しかし、いくら男共がレディファーストをするよう躾けられていても、女性が夜一人であるくには男性のエスコートを必要とするのです。
日本は女性を大切にする国です。おそらく世界で一番に。大阪の北新地で社長連中相手に英会話を教えていたアメリカ人女性とパブで知り合い、口論になったことがあります。彼女は日本の平均的サラリーマン家庭において家計を握っているのは妻であり、夫は妻から小遣いをもらっているのだということを説明すると、物凄い剣幕で impossible! Unbleivable!を連発するのです。
アメリカの家庭では、財布を握っているのは、旦那です。役人の世界で財務官僚が一番偉いのと同様、どこの世界でも政権を握っているものが権力を持つのです。アメリカ人の彼女は母国で日本は男尊女卑の国と習っていたので、日本の家庭で女性が家計を握っているなんていうことは全く想像できなかったのです。もっとも、彼女が英語を教えていた新地を徘徊する社長連中は、家計も含め、財布を握っています。だから、妻に内緒で娘のように若い愛人を侍らせて遊ぶこともできます。そんな光景をみていた彼女が、日本の普通のサラリーマンが嫁の尻に敷かれているという事実に気づかなかったとしてもしかたがないのですが・・・。
日本は女性が偉い国です。おそらく世界で一番に。
中国の「美談」について 20140519
Mさん、中国の「美談」で忘れられないことがあります。 その「美談」は三国志演義に記録されていたものとして吉川英治の著述から学んだものでした。地元の公立中学が進んだとき、叔父から吉川英治の三国志、上中下の三巻をもらいました。僕は小さいときから激しい偏食で母親を困らせました。甘いお菓子しか食べないのです。なんとか食べるようになったご飯のおかずも、ハンバーグと鰻、そして五目飯と限られていました。同じように、読書にも頑なな偏食があり、推理小説はホームズ、シートン動物記、ウェルズなどのSF。外は受け付けないという困った子どもでした。母親のぼやきを聞いて案じた叔父から与えられたのが三国志の吉川英治版でした。会う度に感想を聞かれるのでこっちも往生しました。
そんな子どもの頃の読書の思い出のなかに、衝撃的な記憶がありました。確か「黄巾の乱」から「桃園の誓い」までの間でのエピソードだったと思うのですが、漢の王朝である劉家の血統をひく劉備玄徳が敗走し、追手から逃れていくなかで、ある田舎家に匿われ、自らの出自を語ったところ、もと王朝の家臣だったという主人が感激して歓待を受けるというシーンがありました。
「いまはこんな姿だが世が世なら」「必ずや漢王朝の再興を」「こんな山深い田舎でよくも・・・」という印象的な場面なので四十五年経った今も記憶に残っているのですが、本に挟まれた「しおり」を読んでぞっとしました。「しおり」には、吉川英治が三国志の著述における苦労話や裏話などが拾ってあるのですが、原本の「三国志演義」には、なんとこの涙の歓待で出されたご馳走が長年連れ添った愛妻の「肉」であり、そのことを聞いた劉備はその忠に感涙するというエピソードがあったのだが、読者のなかに少年少女がいることを思うとそのまま載せられなかった、という著者の独白が書かれてあったのです。
中国とはそういう社会だったということを思い知らされました。もちろん、過去には日本にも同じような残虐があったかも知れません。伝わっていないだけなのかも知れません。しかし、大事なことは、妻の肉をかつての主君の血筋のものを歓待するためにふるまったということが、「美談」として伝えられているということなのです。
日本には古代からそのような文化はなかったと承知しています。
自らを犠牲にして、その肉をふるまうという「美談」はありました。これも小学生のとき、NHKの人形劇(ぬいぐるみだったかも)でオオクニヌシの命に助けられた白ウサギが、自らの火に投じてその肉を捧げる場面がありました。「死」が怖くてならなかった時期でしたから、目を背けるようにテレビを切り、そのあとも震えていたことを思い出します。しかし、白ウサギが自らの肉を差し出すことと、愛妻を叩き殺して料理するのとは、明らかに違います。その違いを違いと感じずに「美談」とする文化には畏れおののくところがあります。
Mさんがお求めになっていることとは違うかもしれませんが、中国の「美談」というお題で、僕が真っ先に思い出すことは、そのことなのです。
逸脱と国家犯罪 -慰安婦問題の混迷を解く「鍵」 2014-03-16
Nさんのご指摘に勇気を得ました。戦前の日本は官憲による逸脱を容認していませんでした。厳罰をもって臨んでいたのです。このことは従軍慰安婦問題の「ねじれ」を解く鍵になると思います。従軍慰安婦問題には二つの異なる位相の問題があり、それがごちゃまぜにされていることからくる分かりにくさです。従軍慰安婦問題を論じる人々のなかには、そこには二つの異なる問題があるということを見ていません。
かつて弁護士会のなかで、つくる会の「新しい教科書」は歴史を歪曲するものであってけしからんという議論があり、弁護士会としても非難決議をあげようという機運が巻き起こり、特別委員会が結成されました。僕は、人権擁護委員の一人として、なんとかそこにもぐり込み決議を阻止しようと奮戦していました。従軍慰安婦の強制連行については本人の陳述があるだけであり、僕は被害者の陳述の価値を否定しないが、被害者には、それが誰による行為であり、仮に日本の官憲が関与していたとしても、それが例外的な逸脱によるものか日本の組織的政策なのかを区別する「力」がない。被害者の陳述によって歴史的事実の政治的な意味についてまで確定することはできないという論法をとっていました。
ある日、反「新しい教科書」決議を急いでいた弁護士が、声を大きくして「本日の毎日新聞のスクープで従軍慰安婦の決定的な証拠がみつかった」と言いました。やがてそのスクープ記事なるものが回覧されました。その記事が発掘したという決定的証拠とは、日本の婦女子を騙して慰安婦にした日本の業者が処罰されたという公式記録でした。この証拠は、明らかに日本の政府がこれを許せない行為として厳罰にしていた証拠であり、日本の政府が組織的に婦女子を騙したり強制連行したりして慰安婦になることを強いたという図式とは逆方向の証明力をもっているものでした。僕は、すかさずそのことを指摘し、会議が「新しい教科書」の非難に向かうことを阻止しえたのです。十年前の自慢話にすぎませんが、このことは、慰安婦問題が抱える二層の問題を浮き彫りにするものとして記憶に残っています。
同じ、証拠が「逸脱(個別的犯罪)があったこと」の決定的証明になり、同時に国家としてこれを否定していたこと「国家犯罪(組織的関与)がなかったこと」を証明する証拠となるということです。
ナチスのアウシュビッツやユダヤ人の迫害は、「逸脱」ではありません。組織的政策的な迫害であり人権侵害でした。他方、個別的な「逸脱」は連合国側にもいくらでもありました。リンドバーグの著作には、連合国の将校が南方戦線で日本兵に降伏させずに虐殺する「モンキーハンティング」の実例が書かれています。ジュネーブ協定違反の戦争犯罪です。アメリカ兵による強姦事件は今でもあるのですから。
弁護士でも、この二つの局面を混同している人は少なくありませんでした。当時、毎日新聞のスクープの見出し「決定的証拠発見」をみた人は、これで論叢は終わり、歴史的に従軍慰安婦強制があったことは事実だと確定したと理解したでしょう。多くの人々は未だそのようなレベルにあります。
政府も外務省もこの二つが別物だということは理解しているはずです。河野談話は、正しく読めば、逸脱事例があったことを謝罪するものだからです。決して、国家として組織的にこれに携わったというものではありません。よーく読めば、そう書いてあるのです。被害者にとっては逸脱事例か国家犯罪かを区別する理由がないのです。河野談話はあくまでも被害者に対する謝罪です。逆に、河野談話を否定するというのは、そうした逸脱事例があったということまで否定することになり、歴史の歪曲という非難が正当性をもってしまいます。
重要なことは「河野談話」が何を謝罪しているかをきっちりと位置づけすることの必要性です。韓国やグレンデール市や国際社会は、「河野談話」を拡大解釈しているのであり、そのことが歴史歪曲だということなのですが、そのことを、反対派もきっちりと理解しているとは言い難いのです。
その意味では、グレンデール市の従軍慰安婦撤去訴訟の原告や弁護団はよく理解しているようです。河野談話は決して慰安婦の強制連行を認めているものではないという訴訟だからです。大事なことは、「河野談話」をけしからんといっている我々自身が、「河野談話」をはっきりと理解することかもしれません。「河野談話」が戦争中の逸脱事例に対する謝罪であれば、なにも目くじらを立てて見直しを主張する必要はないのです。それが日本政府が国策として朝鮮人慰安婦となることを強制してきた、いわばアウシュビッツ的な人権侵害があったという根拠として「拡大解釈」されているところに問題の根源があり、反日ロビーは、その政治目的の達成に成功したということなのです。
そのあたりのことを思えば、安部内閣が、「河野談話の見直し」を否定しながら、「河野談話の検証」をすすめるという微妙な舵取りをしていることを理解することができるのではないでしょうか。善意に解釈しすぎているかもしれませんが、そのように状況を理解するとき、安部内閣の問題解決に向けた今の歩みを理解することができます。
この問題の複雑性を理解せずに、安部内閣の「河野談話の見直し」否定を批判するのは、逆に、歴史の正常化を目指す、私たちの運動そのものを分裂させることになるのではないかと懸念しています。
Kさん。この辺りの問題をオーストラリア側に丁寧に説明してあげて下さい。肝心の日系人の運動体が、日本での運動を「狂信的右翼」による「歴史の歪曲」だと誤解して意気阻喪しないように。僕たちが、この問題を理性的に対処し、韓国=中国ロビーによる感情的な歴史歪曲を容認できないことを主張していることを。その意味ではNさんの資料は大変役に立つと思います。
あるいはNさんの資料を出発点にして日系豪州人をオルグするのが早道かもしれません。 肝心なのは「私たちは何を主張しているのか」です。
(2)
(追伸)
述べたことは、「河野談話」の見直しを求める署名運動に異議を唱えるものではありません。誤解のないように。ただ、「河野談話」が何を言っているか、そして、それが海外ではどのように理解(誤解)されているのか、そして、「河野談話」それ自体が、そのような拡大解釈を招くような「甘い」表現を伴っており、その背景には、宮沢内閣における韓国に対する外交的配慮があり、善意が逆手にとられているという径庭を、私たちが理解するように心がけることも大事だということなのです。
Iさんのメールを読み直して 20140316
先程、「河野談話」が何なのかを分析することの必要性を提言しました。そのことに関して能勢のIさんのメールを読み直しています
「河野談話」の見直しをいうのであれば、一体、どこを見直せというのかを明確にしなければなりません。 前回の自民党総裁選で石原伸晃が河野談話について、「読めば読むほどよくできている」といっていたのを思い出します。当時はなんて馬鹿なことを!と怒り心頭でしたが、実際に「見直し」を検討するとなかなか厄介な作業だということがわかります。
僕が、見直しを担当する官僚だとすれば、Iさんが補充した部分の外は次の二点を補充・訂正することになりますが、果たして、これで状況が変わるのでしょうか。大事なことは「見直し」ではなく、河野談話の「正しい解釈」と「その位置づけ」 それは一体何を事実として認め、何に対して謝罪するものだったのか です。
慰安所における生活は、(戦地における)強制的な状況の下で(の保護のため)の痛ましいものであった【ことも少なくなかった】。
当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集・移送・管理等も、(業者の)甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行なわれた【事例も少なくなかった】。
談話を読み直しています。次の部分ですが
「 今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の(戦地にあった)軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに(安全衞生上、好意的に)関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、(業者の)甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、(蘭領スマランでは)官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、(戦地における)強制的な状況の下で(の保護のため)の痛ましいものであった。 なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、(業者の)甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。」
(傍線字 T氏が補填)
結局、「河野談話」の表現上の問題点をつきつめれば、下記の尚書きに集約されているようです。 「募集」における強制を認めたものという評価がなされるのは、この表現ゆえです。僕は、韓国・朝鮮人慰安婦のほとんどは高給待遇に惹かれて自ら(ないし家族に強いられて)応募したものだと考えています。しかし強制が一例もないとは言い切れません。そういう逸脱はあったでしょう。
しかし、「総じて、本人たちの意思に反しておこなわれた」は明らかに韓国側の意図に過剰に擦り寄っていると思います。そのように判断すべき根拠はないといってよいでしょう。思うのですが、従軍慰安婦問題において歴史の歪曲を是正すべきは、「日本が挺身隊として徴用した朝鮮人婦女子を強制的に慰安婦にした」というフィクションの部分です。
「本人たちの意思に反して行なわれた」例が、ごく僅かの例外なのか、大多数を意味する「総じて」なのかは、反日ストーリーとしては二次的な問題のように思えます。むしろ、そこから「河野談話」を再解釈していく戦略が必要なのではないでしょうか。豪州のことも、グレンデール市のことも、フランス漫画祭のことも、まずはこの点だけに集中して韓国ロビーを撃退すべきではないでしょうか。逸脱事例の謝罪をも含んだ「河野談話」を狙撃の対象とするのは、余り
に「敵の範囲」を広げすぎ、過大な立証責任を背負いこむことになってしまう気がします。
慰安婦問題の解決は平成の課題です。明治の課題だった「不平等条約」の改正を成し遂げるに要したのと勝るとも劣らないエネルギーの集中が必要な課題だという覚悟が必要です。 中韓だけでなく、欧米全部を敵に廻して勝ち抜くという決意が必要になるからです
白人慰安婦 20140315
K様、オーストラリア人の慰安婦やオランダ人の慰安婦については、その証言も経緯も朝鮮人慰安婦とは事情が異なるようにも思える。彼女のような具体的体験談をもって性奴隷があったと言われるといかんともしがたい。
僕は日本軍が慰安婦の募集段階で組織的な強制があったとは思わないが、いくつかの事例において逸脱があった可能性は否定できないと考えてきた。このオーストラリア人の女性とオランダ人の女性の慰安婦のケースは逸脱例ではないのか。問題は、逸脱例・・・すなわち犯罪的事例をもって全体の歪みを投影することで
ある。泥棒の被害を訴える人がいる→社会に盗人が蔓延しているは違う。とにかく、オーストラリアの従軍慰安婦像防衛戦線を成功させるためには、オーストラリア女性のケースを特殊・逸脱例として朝鮮慰安婦の問題と截然と区別できるか否かにかかっているのだと思う。かつての反従軍慰安婦運動は、いつもオランダ人とオーストラリア人の白人性奴隷の登場で挫折を余儀なくされてきた憾がある。 ここを粘り強く耐えしのぎ、その問題と韓国人の従軍慰安婦とは違うのだということをはっきりさせていく必要がある。場合によっては、オーストラリア人のケースは組織的強姦だとして謝罪する必要があるのかもしれない
ヘイトスピーチの周辺、「国民性と文化」、「察する文化」、「いけず」と「いじめ」
20140314
ヘイトスピーチ規制の周辺問題を漁っているのですが、面白いニュースを見つけました。
英国観光庁が外国人対応の手引きをつくったそうなのですが、そこにはステレオタイプ国民性に基づくものが多々あるようです。 人間の社会認識は、雑多な情報をカテゴライズし、その範疇ごとの特性を把握することからできているということを改めて考え直させられます。国民性のステレオタイプなカテゴライズには偏見とヘイトスピーチの危険がつきまといますが、 ドイツ人とオーストラリア人は総じて遠慮がなく無礼で攻撃的にみえる これなんか微妙でしょうね。しかし、国際理解というのはこうした国民性をカテゴライズして文化としてみなす営みのなかから生まれてくることを思うと、気に入らないからといってヘイトスピーチのレッテルを貼るような短絡は避けたいと思いました。面白いのはイギリス人における日本人の国民性の理解のあり方ですね。
・ 日本人の要望には、たとえ具体的にいわれなくても先回りして対応すること
・ 日本人客には、はっきり「ノー」とはいわず、もっと感じのいい言い方をすること
やっと欧米人も日本人の意思表示の「曖昧さ」が欧米や中韓の「主張する文化」ではなく、独自の「察する文化」によるものだということを観念的に理解しはじめたということでしょう。 いずれ彼らにも、朝ドラ「ごちそうさん」で脚光を浴びている「いけず」高度な「言語ゲーム」(ヴィトゲンシュタイン)であることを学ぶ日がくるのでしょうか。
これは私見ですが、この「いけず」のコミュニケーション理解の伝統が、日本的「いじめ」ゲームの深層にあるのではないかと思っています。処方箋は「いけず」の禁止などではなく、「いけず」のより深い学習と理解にあるはずです。嫌悪と侮蔑の洗練した婉曲的な表現方法ですが、しばしば陰湿と批判されます。あからさまな嫌悪・軽蔑の表現は、しかし、ヘイトスピーチとして非難される御時世ですから、「いけず」の再評価が脚光をあびているのではないかと愚考する次第。 最近、このこと 他者への思いやりと察する文化に支えられた感情表現の「洗練としての曖昧さ」 が世界でも急速に理解されるようになりましたが、どうやら同じ東洋人でも欧米人より我の強い中国人や韓国人の文化と日本人の文化とは明らかに違うという認識が一般の間にも広まりはじめたためだと思われます。アニメの影響も大きいと思います。「東洋」や「アジア」では一緒くたにできない近代欧米とは異なる「異文化」が日本にあるということです。
どのみち、私たちは日本人であることから逃れることはできないのですから、この「察する異文化」の良さを言語化して自らのナショナル・アイデンティティを語ることが生産的だと思っています。そうしたことが日本人のナショナリズムをより健全なものとしていくことにつながるのだと考えています。
アメリカでの公娼街は?? 20140311
十年程前に弁護士会のフェミニストグループと論叢したことがあります。私は「個人の尊厳」と「性的自己決定」をかかげて売春規制反対論の立場をとりました。性病防止という公衆衛生上の理由だけ介入が許される。
すなわち戦前の赤線・・・性病に感染していないことを条件とする許可性ないし届出性による規制だけが憲法上正当化できるという主張でした)。これに対し、フェミニストグループの女性弁護士達は、売春は「性」を商品化することであり、「性」を商品化することは、身体を手段とすることであって「人間の尊厳」に反する、売春合法化はそうした思想を容認拡大し、女性を商品として貶めることになるから「両性の平等」に違反するなどと言って禁止を主張しました。慰安婦像をめぐるグレンデール市のように、あくまで「人権」の問題だとして語りましたが、彼女らからのまるで蛇蝎をみるような侮蔑的な視線を受けたことを、その心の傷の痛みとともに思い出します。
これに対する反論をいろいろ練り上げて論叢を続けていたことがありますが、今はもう、マッキノン教授(ミシガン大学)を教祖とするラディカル・フェミ
ニズムはすっかり下火になってしまいました。当時、彼女らは横山ノック大阪府知事を血祭りにあげて意気軒昂でしたが・・・。
本題です。一昔前に調査したときの記憶であって変化している可能性はありますが、ピューリタンの国、アメリカでは、州法上、売春を許可制で合法と
していたのはネバダ州だけでした。もちろん都市にはどこでもコールガールも男娼も大勢いますが、公娼という制度はないようです。アメリカという国は、非常に禁欲的な建前を掲げた国です。中絶反対や避妊反対は、少数派のカトリックだけでなく、多数派の福音主義のエバンゲリカンにも根強いものがあります。彼らは当然売春にも反対します。世界でもっとも売春に厳しい国の一つだと思います。
オーストラリアは当時も新たに売春を合法化する州があり、それを知ってオーストラリアに小遣い稼ぎにいった女子学生を何人か知っています。ニュージーランドも合法だったと記憶します。
ドイツは連邦法において面白い規制をしています。人口二万人以上の自治体において、売春を禁止する条例を制定してはならないというものです。つまり、禁止の禁止です。ドイツの港町等で認められている公娼制度は、1年更新のライセンス制です。特定の界隈で商売が認められます。確か「エロスゾーン」とよばれていました。HIVや梅毒などの性病に感染してないことの証明をもって当局の許可を得るのです。そのため、客は性病への罹患を心配することなく買春できるというものです。エリア内のお店で飲食して会話するなどして相手を選び、合意すれば奥のベット部屋に移るというものですが、興味深いことに、店には張り紙がてあって、「許可証をもってない女性は入るべからず」とありました。当時、ドイツ国内で問題になっていたのは東欧とロシアからの大量の不法移民の売春婦でした。何が問題かというと、不法移民は当局の許可がえられないため、違法に売春することになって法的保護を受けられないからです。他方、許可をもっている売春婦の労働組合からすれば、不法移民の売春婦は安価に客を漁るということで、当局の強い規制を求めていました。当時、不法移民の売春婦は五十万人ほどいて組合が結成され、その発足集会のイベントがありました。僕も招待されたのですが、時間と金がなくて、参加を断念しました。
欧州でもっとも先進的なのはオランダのアムステルダムでした。「飾り窓の女」なんてのは、観光客向けのもの見せ物で実際に遊ぶ場所ではないようなのでした。当時、アムステルダムでは労働環境という視点からの規制のあり方が議論されていました。例えば、管理売春は禁止されていましたが、立ちんぼの売春婦の方が、管理売春より危険だという議論があって、安心して売春業に従事するには、管理売春の方がよいということで、その後、アムステルダムでは売春宿も合法になったという経緯があります。
デンマークでは、セックスボランティアという制度があったので、おそらく公娼制があるはずです。セックスボランティアというのは身体障害者、知恵遅れの発達障害者、高齢者といった自らの力でセックスの相手を見つけられない弱者のために、ボランティアでセックスをする制度です。といっても無料ではなく、相場より安い金額でセックスを行い、代金を当局から受け取るというものです。 多分、北欧は売春を禁じることはないと思います。
フランスのモンパルナスの辺りには売春婦や男娼がうろうろしています。公娼制度については知りませんが、法的な制度を整備しようという熱意がないように思いました。イタリアもそう、マフィアが売春利権を牛耳っていると思われますが、はっきりしたことは分かりません。
EUの本部があるベルギーのブリュッセルの広場では、沢山のEU官僚(独身もしくは単身赴任)を目当てに、中高生の少女売春が流行って社会問題になっていました。少女売春は、もちろん、違法ですが、売春自体は容認されていたと思います。
アジアでは陳水辺が台北の市長だった当時、それまで合法だった売春が禁止され、大量の売春婦が日本に来て、窮状を訴えていました。京都大学をはじ
めとしてセックスワーカー(コールガール、ストリップ嬢、AV女優、SM嬢、その他のセックスサービス業従事者)連帯サークルができ、彼女らの講演を大学で聴講していたときのことを懐かしく思い出します。
ソウルで売春が禁じられたのは3年ほど前のことだったと思います。過激ないでたちでのデモ行進等の反対運動が展開されたことが報道されていました。そうそう国連のILOが、「セックス産業」という報告書をだしたのもその頃です。売春は既に国民総生産の相当割合を担う「産業」として成立しているのであって、多数の女性や家族が、売春に伴う経済活動によって生計の糧を得ているという現状に照らして法的に禁止するというのは問題があるという方向での提言をしていたと記憶します。これは今でもすぐに入手できるはずです。
その当時の学生活動家たちは、売春を含むセックスワークを支持することと、従軍慰安婦問題との矛盾に悩んでいました。出発点として日本軍が韓国女性を慰安婦とし、軍附属の売春施設で稼働していたことを認め、それを日本軍と日本の歴史的汚点として糾弾するというベクトルを持っていることが前提
でしたが。確か、多くのサークルでは、戦時下において事実上の強制がなされ、軍事施設として戦争に利用されていたことが悪いのだ、任意で行なう売
春自体は悪くないのだという理屈で調整していたような気がします。記憶だけでいえるのは、そんなところです。当時も厚生労働省が売春に関する法規制を調査していたので、一日国会図書館にこもって資料を探せば、最近の確度の高い国際的な情報を入手することができると思います。今なら、熱心にグーグルを操ればヒットするのではないかと思います。
解釈改憲と「アジア版NATO構想」?
20140307
産経新聞では石破氏の「アジア版NATO」構想が取りあげられていた。軍事的な台頭を続ける中国への抑止力のためというが、実現には「3つの関門」があるという。
第1関門は公明党との与党協議、第2関門は国会会期末(6月)における首相の解釈改憲答弁、第3関門は秋の臨時国会における自衛隊法等の改正案上程。「政権にとっては厳しい国会運営になる」と結ばれているが、首相が不退転の決意で望めば120%可能である。むしろ拍子抜けの感すらある。確かに、この解釈改憲が実行されれば、九条は底が抜ける(もちろん、私は中国を牽制して「日本の平和」を維持するうえで、それは歓迎する事態だと考える)。これこそ、安倍首相が提唱する「積極的平和主義」の一態様だと思う。もっとも、集団的自衛権の行使を容認する解釈に変更しても、自衛隊の武装の程度「戦力に至らぬ相当程度の実力の範囲」でアジア版NATOに参加することになるが、フィリピンやベトナムの造船技術を考えれば、海上自衛隊の装備は、アジア版NATOにおける集団的自衛軍としての体裁は整う。ところで、僕は、日米安保条約の締結は、それ自体、集団的自衛権の「行使」であると考えてきた。基地を提供して日本を防衛する義務を有する米軍を招聘するのは、日本の防衛のための軍隊の保持そのものであり、それによって抑止力を発揮する以上、「行使」以外の何物でもないのだ。
日本の固有の自衛権」を認める砂川事件判決と集団的自衛権を主権国家の自然権として認める国連憲章の当然解釈から集団的自衛権を有することは明白である。問題は同じ砂川事件判決における9条の「戦力の不保持」の解釈が障害となって集団的自衛権の「実施(同盟国の防衛のための軍隊の派遣)」ができないのではないかという懸念があったのは事実だ。これはについては「戦力に至らない相当程度の実力」を持つ自衛隊の派遣と、同盟国の防衛のための「実力行使」であれば、九条のもとにおいても認められるという解釈が導かれる。すなわち、現在の自衛隊がその実力を行使して集団的自衛権を実施するのであれば9条解釈上問題がないといいうるのである、という整理ができると考えている。
僕らのエリート意識 『いちご白書をもう一度』?20140304
昨夜、北新地のラウンジでユーミンの名曲『いちご白書をもう一度』をカラオケで歌った。久しぶりだったが、同年代の弁護士たちと一緒だったので、学生時代の「あの頃」を共有できるかもと思って選曲した。歌いながら感じたのは、「あの頃」の学生がもっていたまぶしいばかりのエリート意識だった。同世代の方はご存じだろうが「いちご白書をもう一度」は、名門コロンビア大学での学生運動を描いた「いちご白書」
というノンフィクション小説に基づく同名の映画を観た思いでがモチーフになった名曲である。小説の方は、当時流行っていたサリンジャー風の一人称の語りで進んでいく。庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」の語り口だといったほうがわかりやすいか。
あらためて、「あの頃」のエリート意識の昂揚を思い浮かべたのは、2番の歌詞「就職が決まって、髪を切ってきたとき、もう若くないさと、君にいいわけしたね」だ。エリートとして社会変革−革命−を目指す学生運動(の周辺)に、他の学生仲間と同じように関わり、歴史の主役となる高揚感に身を焼かれたものの、簡単に挫折し、髪を切って就職していく・・・。二十二、三歳の若造のくせに、「もう若くないさ」と言い訳する。何に、誰に対して言い訳するのだろうか。社会を変革したいと声をあげてみたが、自身の無力を感じ、「敵」だったはずの民間企業に就職して「資本家の犬」に成り下がるという挫折感と気恥ずかしさのようなものであった。
そこには強烈なエリート意識が共有されていた。自分たちこそが新しい国や社会をつくっていく主体なんだという歴史や人民に対する使命感のようなも
の。不遜で幼稚なヒロイズムといってしまえばそれまでだが。
今、そんなエリート意識がどこにあるのか。大学は就職のための予備校になり、学生たちは、髪を切るだけじゃなく、リクルートスーツまで着て企業訪問するのだ。そんな学生たちの群像をみていると、あの頃」の青春の昂揚は惨めにも胡散無償してしまったことを思い知らされる。 昔話をして今を嘆いてもしかたがない。しかし、学生たちがエリート意識をもてなくなってしまった時代。それは確かに希望がない。このMLでも若い人が置かれている苦境が報告されていたが、なんとも余裕のない社会だ。しかし、それは政治の問題として政権を批判すべき問題というより、時代の問題なのだと感じる。
大正デモクラシーの時代のように、特攻隊の時代のように、「いちご白書」の時代は、果たして「もう一度」やってくるのだろうか。
(2)
村田様。バフィ・セントメリーの「サークル・ゲーム」ですか。
僕の記憶に残っている「サークル・ゲーム」は、中学校 の中間試験で徹夜して聞いていた深夜放送でかかっていたバージョンです。ジョニ・ミッチェルのカバーだったような気がします。映画のラストシーンで残っている印象は学生たちが床を叩きながら歌うジョン・レノンの 「Give Peace a Chance」でした。学生運動のヒロイックなロマンチシズムに憧れていた中学生でした。大学に入ってみると学生のお祭りはもう終わっていて、神格化された先輩の武勇伝と自慢話ばかり聞かされてました。革命家きどりがロックスターのようにもてた時代がありました。江戸末期の京女が勤皇の志士に憧れ、女の生命を捧げたように。
ジョン・レノンは時代の歌だった。imagin No
country Imgin No heven。それは予言者の歌のように聞こえたし、本当にいつか国や民族のような人間の意識が拵えた幻想はなくなっていくの
だと、それが常識のように感じていた。市民活動家が地球市民だとかいいだしたのはその後のこと。「愛国心」など持ち出すのは、頭の悪い体育会系か、裏の世界につながる利権屋のどっちかだと思っていた。おがみ屋の呪いのようなもので、近代的教養人が憑かれるものではないと信じていた。哲学は唯物論であり、歴史は階級闘争であり、経済学はマルクス主義を意味したむかしむかしのこと。あの頃のエリートの大衆志向はナロードニキではなかった。「大衆へ」のスローガンでみえたのは、自分たちが大衆でしかなかったという凡庸な目覚め。だからこそ、「就職」を労働者階級(プロレタリア)参入の門出ではなく、「敵」である資本主義への「投降」だと捉えた。それが、「就職が決まって、髪を切ってきたとき、もう若くないさと、君にいいわけしたね」となるわけだ。僕たちが、戦争を生きた世代の時代を「学ぶ」ことはできても「生きる」ことはできないように、今の若い人たちは、「あ
の頃」の時代のことは分からないだろう。あの頃の学生たちのうち、うまく世渡りした人たち。民間企業に投降しながら深く挫折を覚えず、あの頃の時代の感
覚を、時代が変わってももち続けた人たち。それほど強いエリート意識をもたなかったが故に、それほど深い挫折を味わうことなく、そこそこの部署で生き続けている。三島由紀夫が共闘を申し出た全共闘とはなんだったのだろうか、三島は全共闘になにを期待していたのか。尊敬していた小阪修平が亡くなったとき、今の時代を定位できるコンパスを失ったような気がした。今、そんな時代のコンパスを持つ人は、村田さんのような人に限られてしまった。
ドイツで流行った「帰ってきたヒットラー」を読み通してから、笑いを押し殺しながら、時代と宿命ということを考えています。
お相手していただいてありがとうございました。
RE: 【痛快!テキサス親父】憎悪を煽る慰安婦像設置は合衆国の建国理念に反する 20140302
N様。
動画はみてないし、みる気はないのですが、テキサス
ス親父が指摘しているのは、おそらく「強制連行」を前提とした石碑の文章のことをいっているのだと推察します。それが河野談話と乖離していることは明確なように思えます。 しかし、日本国内では自民党のなかにも、河野談話は強制連行を正面から認めたものではなく、政治的によく練れたものだなんて評価する連中(例えば、石原伸晃)がいますが、アメリカでは韓国と同様、河野談話は慰安婦を強制連行して売春させたという神話を事実として認めるものとして認識されているということを忘れてはなりません。 そもそも慰安婦像の設置は外交問題だとする原告側の主張にはかなり苦しい点があり、それは「外交問題ではなく人権問題だ」というグレンデール市側の主張に分がありそうに思えます。
そのためにも、河野談話の検証を急ぎ、それが日本にとっても「人権問題」としてではなく、日韓友好という米国が望んだ「外交問題」として、あえて事実を明確にするのではなく、曖昧なまま、韓国政府が望む方向で取りまとめられた政治的・外交的な談話なのだという河野談話の性格論・目的論を明確にすることが必要になってきます。われわれ日本人、そして日本の政府も、河野談話は決して人権問題として出されたものではなく、曖昧決着を旨とする外交問題として政治解決を目指したものだということを理解すべきだということです。
『キューポラのある街』 『青い山脈』20140226
N様。なるほど。それはいい。人権学習の教材としての「キューポラのある街」ですか。「青い山脈」と並ぶ戦後左翼ヒューマニズムの教典となった映画ですね。大江健三郎の「北朝鮮の青年」のイメージもここからきているのだと思います。在日朝鮮人に開かれた理想と希望の「天国への階段」。それは「地獄に至る門」だった。これまで、北朝鮮の実態についての客観的な資料が不足していました。裁判で北朝鮮の生き地獄のような有り様を訴えようにも、証拠となるような客観的資料が手に入らないのです。産経新聞の記事じゃあ証拠になんないし。公安の白書じゃ、あまりに政治的だし。それが先週国連から出た北朝鮮人権報告書は、オーソライズされた報告書として証拠としての価値があります。なにより国連の名を振りかざせばサヨクは黙るし。これからの人権学習の教材として「キューポラのある街」と「北朝鮮人権報告書」を使うのはどうでしょうか。映画をみせたあとに人権報告書をとりあげるのです。吉永小百合の無垢な可憐さが悲しみを誘います。子供たちに感想文でも書かせたらいい教育になると思います。
(追伸)
「キューポラのある街」に続編があることは今回ネットで調べてはじめてしりました。Mさんが紹介されている「未成年・続キューポラのある街」の記事を読みました。結婚式をあげた白雪姫の王子様が猟奇的DV男だったというような、もう後戻りのできない日本人妻の悲劇。それは、終わった歴史ではなく、いままだそこにある悲劇です。僕ら昭和30年代生まれは中学、高校の革新的熱血教師から、朝鮮人強制連行を史実だとして教えられた世代です。人権・理想・公共・社会。従軍慰安婦もやがて戦後民主主義教育の「善意の悪」の実証的教材となることでしょう。その日のために、今、頑張らばなりません。
「嘘の人権」 20140225
M様。「嘘の人権 偽の平和」ですか。さしずめ「人権平和の虚像と実像」といったところか。こういう戦略はすきです。保守派は、人権思想や平和思想を毛嫌いすべきではありません。「人権」と「平和」は、外のなによりも保守思想そのものだといってよいのですから。学生時代、マルクスかぶれやレーニンかぶれの左翼学生にとって「人権」は「民主主義」と同じくらい欺瞞的で体制的でブルジュア的な概念でした。革命は、そうした人権思想に縛りつけられた人民を解放するものでした。そのために必要なことなら、ブルジュアの愛玩犬としてのぬくぬく平和を打ち捨てて、真の人間を回復するための戦争につきすすもうではないか・・・といった演説を、二十歳そこそこの若造がアドリブでやってたんだからな。まぁ、今の二十歳そこそこがスマホを自在に操るのと大した差はないんだろうけど。「人権」と「平和」こそ、保守の核心理念です。それに相応しく鍛え上げる必要がありますが。
在日朝鮮人の蹉跌『フェイク』 20140225
二十二日に守る会の20周年記念講演に参加し、販売されていた『フェイク』を買い求め、読んだ。面白かった。著者は立命館大学を卒業した在日朝鮮人の玄退。朝鮮総連が桂に置いていた学生寮での日常が描かれ、そこで「帰国事業」をめぐる議論が巻き起こる。留学同が寮に乗り込んでくる。ある日、寮会の開催時に歌われる「愛国歌」に変わって「金日成を讃える歌」が歌われ、カルカッタで結ばれた赤十字協定で決まった帰国事業がはじまる。在日の学生たちは祖国建設に貢献することを夢見る。第一線で帰国した同志から手紙がくる。「釘一本でも持ってこい」。京大の農学部の大学院を修了した先輩は、祖国建設を熱くかたったが、新潟に向かう途中、列車に身を投げる。北朝鮮に帰らなかった主人公は、三十年後、学生寮の同窓会で親友が帰国しなかった寮長をなじる場面を目撃する。
フィクションだが、事実を基にしたフィクションだ。愛国心に燃えていた在日朝鮮人の希望と夢。在日の愛国心を食い物にした北朝鮮体制と朝鮮総連。僕が感じたことは、「在日は日本人だ」ということだ。僕らのような日本人だということだ。 まだ、彼らは気付いていないかもしれないが。 だって、この俺だって日本人だということに気付いたのは、つい最近のことなのだから。この正月に見た「パッチギ」には主人公が帰国を決意し、やっぱりやめる下りがあった。それで井筒監督が嫌いになった。 彼が「永遠の0」をこき下ろしていたのは、ムベなる哉、である。 それで昔見た「キューポラのある街」をみてみようと思った。大江健三郎が、北朝鮮に帰国する青年を讃美するエッセイを書いていたことを思いだした。確か、「北朝鮮の青年には帰る故郷があるが、日本人である私には帰る故郷がない」。北朝鮮の青年の希望に燃えて高鳴る鼓動に嫉妬するというなんともロマンチックなものだった。なんたる皮肉、なんたる残酷。大江健三郎は在日に土下座して謝罪すべきだろう。慶良間の元隊長だけではないのである。彼の文章を読んで帰国した文学青年だっていたかもしれないのだから。もちろん・・・大江だけというわけじゃないのだが。
愛国心を憎んだのは日本人ではなかった。それを心底憎んだのは在日だった。僕たち日本人は彼らの愛国心に対する凄まじいコンプレックスの投影を受けてしまったようだ。その怨念は日本人の教育までねじまげ、僕たちの目から日本を覆い隠してしまった。ディスカバージャパン。それは、昭和五十年代に流行った国鉄のキャッチコピーだったと記憶する。今、思い出すときだ。僕たちは故郷を忘れてただけだ
った。それはそこにあった。お家の中にいた青い鳥のように。
昨日はたまたまTSUTAYAで借りてきた『マルコムX』をみた。3時間半もある長編。白人と共存する平等を語るキング牧師を「アンクルトムの平等」と批判する『マルコムX』は、「悪い白人と良い白人がいるのではない。白人はみな悪魔だ」と叫び、ヘイトスピーチだという批判に対しては、「私は白人を憎めといっているのではない。黒人に黒人を愛せと言っているのだ」という。そして、白人にアイデンティティを奪われたニグロに、「ブラック・ナショナリズム」を訴える。僕たちもまたこういうべきだろう。「日本人に日本人を愛せと言っているだけだ」と。遠い連想かもしれないが、「千と千尋」にでてきた「珀」という名前を奪われた「龍」のことを思い出した。背中に乗せた千の言葉から自分の名前を思い出して、自分を取り戻すのだ。そう。自分自身を。
フランス国際漫画際での慰安婦漫画の告発について20140224
フランスはアングレーム国際漫画際における韓国市民団体による従軍慰安婦漫画コーナーの展示は、政治的プロパガンダとしての一線を超えたものでした。日本軍が組織的に朝鮮人の少女を軍の野営地に強制連行して売春させ、文字通りセックススレイブにしたというもの。これに対する「論破プロジェクト」のブースは認められず退去を命じられた・・・。
フランスは「人種差別撤廃条約」を批准し、同条約四条に基づいて、人種差別的な表現について、いわゆるヘイトスピーチ(集団的名誉毀損の罪)として犯罪としています。例えば、昨年、歌手ボブディラン(我々昭和30年代生まれにとっては反戦フォーク・ロックの神様的存在でした)が、ローリングストーンに「もし、あなたに奴隷主の血が流れていれば、黒人はそれを感じる。ユダヤ人がナチスの血を、セルビア人がクロアチア人の血を感じるように」と語ったことがクロアチア人への憎悪を扇動する人種差別だとして、昨年十一月中旬にフランスの司法当局に刑事訴追された。告発したのはフランス国内のクロアチア人団体である。衝撃的な事実として今もそのときの驚きと共に記憶に残っている。諸賢にはお分かりのことと思う。従軍慰安婦のとんでも漫画を展示し、日本人に対する憎悪を煽動した韓国市民団体を刑事告発すべきである。おそらく刑事告発の主体になれるのは、フランスの自然人か法人かでないとできないだろう。フランスの日系人団体か、フランスにおける日本のアニメ愛好家ないし日本シンパサイザーに働きかけて、刑事告発すべきである。フランス語は、学生時代、第二外国語として習ったが、英字新聞ならともかく、フランス語の新聞や公文書を読み切る語学力はない。情けない限りである。それでも、今は大概は、英語に翻訳したものを読めるので、協力者がいたら、告発文ぐらい書けないではないと思う。皆さんいかがお考えか。
北朝鮮の人権に関する国連調査委員会の最終報告書 20140218
今朝、読売、産経は一面を割いて大々的に、毎日は二面と七面で、日経は三面で細々と、北朝鮮の人権に関する国連調査委員会が最終報告書を公表したことを報道しました。
そこでは北朝鮮による外国人拉致は国家政策に基づく組織的な人権侵害であることが裏付けられたとし、これを含めた北朝鮮の人権臣下意は「人道に対する罪」に該当するとして国連安保理に対し金正恩第1書記を含む北朝鮮指導部の個人責任を追及するため国際刑事裁判所へ付託するよう勧告したとのことです。
解せないのは朝日。国際人権問題には敏感なはずの1行も報じていません。代わりに中韓との首脳会談を「急ぐべきだ」52%とする世論調査を報じて相変わらず中韓に寄り添う世論工作に邁進している。 国際社会が拉致事件を公式に文書で組織的な人権侵害であると認めたことは、私の知るかぎりではなかったと思う。これをきっかけに日本人拉致事件解決に向けた機運が高まることを願う。とともに、国際世論においては周知度合においては「従軍慰安婦問題」の遥か後塵を排してきた「日本人拉致事件」の認知度をあげるため心ある日本人の活動が求められる。ソウルや上海、そしてグランデール市に「めぐみちゃんの像」設置を働きかけるというようなことも考えてもよいかもしれない。なにせ、こちらは従軍慰安婦における「河野談話」なんていう政治的な「談話」ではなく、国連調査委が認めたより客観性のある報告書に
基づくものである。「人権」を高らかに叫ぶのであれば日本人拉致事件の象徴である「めぐみちゃん」を看過することはできないはずである。日本全国の自治体に「めぐみちゃんの銅像」を建立するというプロジェクトを提起してはどうだろうか。日本人に同胞の身の上に対する薄情と、国家に国民の安全と人権を守るという姿勢が欠如していたことを反省する戒めとして。そして拉致を否定してきた専門家のいうことがいかに当てにならないかを心に焼き付け、私たちの周囲にはこのようなことを起こしうる国家が存在するということを国民の心に記銘するために。
茨木市 慰安婦公開討論会の件 20140119
茨木市は母校茨木高校があり、第二の故郷です。負けないで欲しいと思います。
左翼だった学生時代に立ち会ってきた大学当局との断交の経験は、弁護士になってからも組合との団体交渉のときに役立ちました。そうした経験をもとにアドバイスを。
学生時代にリーダーの先輩に叩き込まれたのは役割分担と戦略設定です。役割分担とは突っ込みとボケみたいなもので、ギャンギャン理詰めで攻撃する「突っ込み」と、これを押さえて「そこはマァマァ」と宥めながら教授の人間性に訴えて譲歩を勝ち取る役です。今回は役割のことに関しては直接役にたったかどうかは分かりません。
大事なのは「戦略設定」です。「成功ライン」をどうするか。僕の意見ですが、今回の茨木市長の論戦は完全な「防衛戦」だと思います。相手を「論破」する必要はないのです。相手から次から次に繰り出される論点について問題にされている「市長の答弁」を守りきることです。
相手方の戦法 第一「九勝一敗」の戦術
相手方は攻め手として市長を攻撃する十の論点のうち、九敗しても一勝することを獲得目標にしてきます。1つでも反省を勝ち取れば、その点の反省を求めてきます。「少なくても・・・の点については間違いだったと認めるのですね」と重ね、「その点についてはどう責任を取るおつもりですか」として「誠意ある対処」を求め、広報で「勝利宣言」をします。
第2「不適切発言」の戦術
論戦では負けなくても、論戦の過程において「市長の不適切発言」を引き出して獲得することを戦略としてきます。論戦でまけなくても不適切発言を引き出せば、「市長の歪んだ歴史認識」をアピールできます。そして他の全国の反日陣営からの攻撃を浴びせることになります。
第3「分断工作」の戦術
安全策としては市長は事実関係については概括的に答弁することに止め、具体的な事実については「この点は、正確を期すために、藤岡先生にお任せします」として藤岡先生に振るのが賢明ですが、市長の力量を知りませんので、両者の発言が微妙に分離する可能性は否定できません。藤岡先生の歴史観は概ね賛成するのですが、議論においては、結論を急ぎすぎるようにみえることがあります。その意味においても「攻撃」は危険です。守りに徹せよというつもりはありませんが、攻め込んだら、用意された待ち伏せに包囲される危険があります。
第4「国際世論」戦術
吉見さんの著作の特徴ですが、個々の事実関係について微妙な味付けを施して反日的バイアスを忍びこませ、最後は「韓国ではこういっている」「中国ではこういっている」、「国連の人権委員会では従軍慰安婦についてはこういっている」、「人種撤廃条約ではこうある」、「ジュネーブではこういう議論がなされている」・・・として、国際世論からどれだけ非難されているかという傍証を次々とあげ、従軍慰安婦=職業的売春婦論を叩くという作業を行なってくるでしょう。
第5「司会とコーディネーター」
司会とコーディネーターに誰を置くかが決定的です。この点、事務方においてすり合わせする余裕があるたら徹底的に頑張るべきです。既に相手方にとられているなら、こちら側のサブを置くとか頑張って下さい。茨木市がいくら保守的だといっても自治労の力はあなどれません。現在の柴崎助役は中学・高校の同級生です。有能でバランス感覚のある好人物ですが、そんなに押し出しは強くないので職組の横車に対して強くでれるかどうかは心配なところもあります。
第6「パネラーの強みと弱み」
吉見さんは過去、従軍慰安婦強制連行説を唱え、徹底的に叩かれ、強制管理説にすりかえて反日左翼論陣を生き抜いてきたという経歴があります。そこを丹念に分析すると、吉見さんが言えること、言えないことが分かると思います。吉見さんの著作に対する批判はネットにあふれていますので、半日もあれば、整理できると思います。資料として吉見さんの主張と反論と変遷の経緯の一覧表を用意しておくことをおすすめします。同時に、藤岡先生の過去の著作や言動について、反日左翼は綿密な一覧表を用意して準備しているはずです。相手方パネラーは学者というより運動家なので、そうしたことは怠りないはずです。とりあえず、思いつきで書きました。参考にして下さい。
靖国参拝が目指すべき方向性20140113
神道というのは儀式があって思想や教義がないものと軽く考えていたのですが、靖国神社のことを考えていると「儀式化」こそが大事なのだと思うようになりました。
一昨年、国旗・国歌の儀礼に関する最高裁判決がでました。僕は、国旗国歌に反対する方々の思想をあるまじきものではないとは思いませんし、同じ日本人として未来永劫共存すべき思想だと思っています。しかし、彼らに配慮して国旗国歌の学校教育をやめるべきだとは思いません。ただ、それが一定の思想を押し付ける意味を問われている以上、共存のために何らかの配慮が必要です。それは国歌国旗儀礼の撤廃という方向性ではありません。それが伴う政治的イデオロギーに反対する同胞に対する配慮は、徹底した儀式化と儀礼の絶えざる洗練によって達成されるべきだと思うのです。 儀礼性に留意することで思想信条の自由に対する侵害とはみないという理屈をたてた最高裁判決の意義をかみしめています。
神道は敵味方の敵対感情と恨みという俗世の感情を昇華するために「儀式」の作法を伝えてきたのだと思い当たりました。正当化する理屈や教義よりも大切なことです。神道が共同体の祭祀だといわれることの本当の意味がわかったような気がしています。俗世の対立を昇華する智恵として「儀式」があるという簡単なことでした。結婚式も葬式もそういうことなのだと思うようになりました。従前の秩序の対立を解消して次に進むには儀式が必要になるということなのです。靖国神社参拝において重要なことは、それが伴う あるいは戦後左翼から背負わされてきた「政治的意味」を希薄化することであり、それは「儀式化」の洗練によって達成されるということです。避けがたいルサンチマンと恨みの眼差しを、「儀式化」によって昇華させるという方法です。中曽根や小泉は、政教分離を回避するために、宗教性の希薄化という文脈で参拝に関する神道儀礼を簡略化しようとしました。そのことによって松平宮司の反発を買いましたが、率直にいって、今までは宗教性を薄め、世俗的な参拝方式を行なった中曽根首相の方に分があると考えていました。しかし、逆だったということに気づきました。僕たちは、「儀礼」が持つ「象徴性」という言語や論理が表現しえないものに対する理解を欠いてきたのです。政教分離という戦後の制度のせいもあります。アメリカ由来のこの制度に対し、過度に萎縮していたこともあるのです。とにかく儀式と宗教を安易に重ね合わせてしまったことに問題がありました。思想や教義を伴わない神道の儀礼と作法は、宗教的対立、イデオロギー対立、そしてナショナリズムという感情によるドロドロを「清浄」するための唯一の方法ではないのかと思うようになりました。俗世の矛盾を解消するために必要とされる現代的「儀礼」のあり方を探ることが、政治的隘路に立つ靖国問題の解決方法だと思うに至りました。凡庸なことですが、僕的には、大発見なので、あえて報告する次第です。
(2)
愛国心や被害者意識という感情は理性や理屈で押さえ込むことはできないんだろうなという当たり前のことに思い当たっただけです。敵味方が感情を昇華して共存を可能にするのは、「論理」ではなく「儀式」しかないのだということ。
(3)
I様、僕のいう儀礼とは、仰せのとおり「かたち」のことです。空っぽの「かたち」です。その「かたち」は敵対感情や恨みや憎しみを「漂白」し、なんでも受け入れ、投影できるよう「空っぽ」であることが肝要なのだと思います。
教義や思想のない神道は青年の哲学趣味の知性にはとらえどころのない習俗だという程度にしか理解できませんでしたが、長期にわたる共同体の和解と
調和という歴史の中で洗練されてきた相互の憎しみと政治的対立を漂白する錬金術的「アート」だと考えれば、その機能とありがたさが分かるような気がしているのです。それは、説教臭い儒教的教養の対局にある思想(無思想)です。善も悪を超えた時間のない神の世界は透明な空白の「かたち」として象徴されるのではないでしょうか。言葉では捉えきれないものとして・・・。
(4)
大阪弁護士会で春の憲法シンポジウムで靖国問題を取りあげようという動きがあるので、これに賛同するメールを作成しました。ここでも紹介させて頂きます。
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「二十一世紀の憲法問題としての靖国参拝問題」
日本国憲法の平和構想が、国連憲章の理想(国連軍が世界の警察をつとめ、主権国家を解体し、各国の軍事力を解体する)に依拠したものでした。同時に、世界人権宣言日本国憲法の「人権」思想は、伝統や因習に汚染されない普遍的理性を具有する個人して考案され、愛国心や民族愛につながる伝統文化や生活様式という構築物を自由や平等の阻害要因であり、解体の対象として捉えていました。
9条問題
冷戦が国連憲章の理想が棚上げにされることで、日本国憲法九条の理想を抱いて二階にあがった日本は、梯子を外されてしまいました。梯子を待つか、二階から下りるか。
政教分離の変容・・・文化多元主義の人権
更に、普遍的理性の究極にあるとされたマルクス主義国家の瓦解によって、普遍的人間に対する信仰が崩れ、人々は、文化的・民族的アイデンティティを求めるようになりました。未開の野蛮な文明というものはどこにもなく、西欧もイスラムも日本もアフリカも、文明としては優劣なく尊重されるものとなりました。文化多元主義です。そこから、言葉とともに民族的伝統としての宗教的文化様式が個人のアイデンティティ確立のために必要なものと意識されるようになったと思います。
靖国参拝問題の新しい意義
靖国参拝問題は、新しい問題状況のなか、日本国憲法の理想と九条の問題についてどう向き合うか、政教分離と人権概念の変容についてどう向き合うかという新しい問題をつきつけるという意味において極めて今日的な課題です。そのことを考えていこうというシンポジウムになるのであれば、私は賛成ですが、右派、左派の政治運動の綱引きのようなことになるのであれば真っ平ごめんです。
RE: 「守勢から攻撃へ」に関して。自称知識人の世論認識 20140107
ある左派弁護士のメールを紹介します。彼らもようやくネットの威力に気づき始めまたようです。未だに、多くの左系進歩派知識人の認識は、最近のナショナリズムに訴える困った意見を持つ人たちは、偏差値の低い貧困層だという認識なのだということを知って頂ければと思います。だから彼らは、貧困層や若者に「啓蒙が必要」なのだとして、日本国憲法の素晴らしさや「正しい歴史認識」を広めるために一生懸命になって自らの寝食も忘れて熱心に活動しているのです。自己犠牲の精神において彼らに一定の敬意を払っているのはそのためです。 「守勢から攻撃へ」の戦術を立てるうえでも興味深い情報が含まれていると思いますので、ここにコピペしておきます。
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さて、昨日、教職員組合主催のパネルシンポに参加してきたのですが、現場の先生達が手を焼いているのは、やはり「ネット」なんだそうです。
歴史認識の問題でも、授業で南京大虐殺や従軍慰安婦の問題に触れると、クラスの子供達の間で「あの先生の授業は偏っている」とラインで流されると嘆いておられました。個人的には、ネトウヨの人たちに対して、勝手にいわゆる貧困層がネットで憂さ晴らしをしているというイメージを持っていたのですが、どうもそうではなく、高学歴・高偏差値の階層にも広く行き渡っていると聞いて驚きました。
従軍慰安婦問題 20130111
従軍慰安婦問題が捏造であることを無知で良心的なアメリカ人に訴えるには、なによりも従軍慰安婦問題が「捏造された虚偽」に基づいていることを知らす
ことが一番です。アメリカの裁判では証人の嘘、当事者の嘘を暴くということが最重視されています。少しでも嘘をつくひとの言葉は信用性を失うってしま
うからです。
なにか具体的な事実をもって、しかも異論の余地のない事実をもって、従軍慰安婦の「虚偽」を衝くことができれば・・・。思うに、もっとも明白な虚偽は、「女子挺身隊=従軍慰安婦」であり、この嘘を徹底的に衝くということで、アメリカ人も、韓国人が騒ぐ従軍慰安婦問題は怪しいと考え始めてくれるのではないでしょうか。日本国内では、従軍慰安婦キャンペーンに余念のない反日サヨク集団さえ、「女子挺身隊=従軍慰安婦」はいわなくなりました。
(2)
N様
c.c. M様
従軍慰安婦、the story of the comfort girl has come up from a fake book…という出だしで一番最初に紹介するのも効果的かもしれません。 ただし、思うに、アメリカ人にとっての従軍慰安婦問題は、河野談話からはじまっているわけですから、吉田清治のインチキ本の話が噛み合うまで時間と理解が必要になってくるのではないでしょうか。政府高官(官房長官)が認めた公的な談話の存在は、吉田清治の本が偽物だったということをいってもしかたがないように思います。政府も吉田清治のインチキ本に基づいて河野談話を発表したわけではなかったわけですし。河野談話当時は、すくなくとも吉田清治の本がインチキであることは既に決着がついていたかと思います。まずは、河野談話が、日韓の対立関係を円満解決するための政治的なごまかしであったことを正々堂々というべきでしょう。そして、そこで第1次安部政権下で行った答弁も含めて、再定義を行うべきかと思います。 白紙撤回を主張しておられる方々からすればものたりなく思われるかもしれませんが、かつて河野談話を否定しなかった安部首相が白紙撤回するわけにはいかないと思います。
能吏と構造問題 20121218
H様、僕が司法官僚たる「調査官」を優秀だといっている意味は、Hさんが期待しておられるような意味ではありません。能吏だということです。しかも、労を惜しまない、手抜きをしない、そして頑張り屋さんであり、誠実でもあるということです。こういうことを敢えていっているのは、国のような巨大な組織を動かすには、優秀な秀才エリートの数が必要だということを申し上げたいのです。高校生クイズに出てきて優秀な回答をしていく、センスと知識と努力ができる程度のエリートです。彼らが思想を育み、芸術的素養を磨き、歴史的造詣を深め、愛国心を持つかどうかとはまた別の観点からのものです。
とにかく、誠実で、よく働き、頭脳も優秀であるという人材が霞が関には1000人では足りないのです。最高裁にも調査官が多数必要なのです。とにかく膨大な知識を持ち大量の事務量を、間違いなく裁ける能力が、最低限必要なのです。官僚政治の打破!などという空虚なスローガンをかかげる連中は、そのことが分かっていないのだということをいいたいのです。
(2)
口幅ったいことを申し上げて恐縮です。まさに釈迦に説法でした。官僚のベルーフですか。彼らのメンタリティは、まさしく戦後民主主義教育の優等生です。戦争中、日本は軍国主義に振り回され、民主主義も人権保障もない暗黒の時代であり、他国を侵略した夜郎時代な狂信的な国家というものです。二度と国際的に孤立しないよう、ひたすら微笑みを浮かべて強者の意向を察して、ご機嫌を損ねないよう必死になる・・・日本的ホスピタリティと外交とをごっちゃにしたようなことを教えられ、やってきました。それも一所懸命、誠実に。その結果がこれ・・・ということは、そろそろ若手官僚(調査官も含め)にも浸透してきたように思います。日本の風土の一つとして、殿様をかついで家臣が一所懸命に仕事をするのが良しというものがあります。殿様がしゃしゃり出てもろくなことにならないという経験的智恵でしょうか。官僚がしっかりして働いていればこの国は大丈夫というところがありました。むしろ、自民党の政治家は、共産党や社会党の代議士がでばっておかしなことをさせないための国会での防波堤を果たしてきたのだと思います。ですから、無能でも務まっていたのです。政治家と官僚ととの関係としては、十分なコミュニケーションと信頼関係があればよかったように思います。
ところが、それは平時のことです。経済や外交の危機にある現在では、それは通用しないということですね。ただ、民主党は、本来、官僚に任せておくべきことも、自分たちがしゃしゃり出てぶち壊してきました。年金問題など多々あります。高校生クイズなどで優秀な成績を収めるものを、どこで活躍してもらうか。民間企業ではなく、国家のために官僚として活躍してもらうのが一番だと思います。いきすぎた官僚批判は、彼らの志を折ってしまいます。やはり報酬のない働きを期待するには、「名誉」が必要なのです。「天皇の直属の臣下」、かつてはこれで十分でした。しかし、いま、官僚のどこに名誉があるのでしょうか。そこを憂いているのです。
最高裁判所裁判官国民審査 20121216
最高裁判所裁判官の国民審査についてですが、この制度は世界でも日本独自の極めて希な制度だということをご存知でしょうか。アメリカの憲法学会では、違憲審査制との関係で、なぜ民主主義を国是とす
る体制において民主的基盤をもたない連邦最高裁判事が、議会において民主的に成立した法律(連邦最高裁によって違憲とされてきた法は「州法」がほとんどですが)を違憲として否定することを正当化できるかということが政治哲学上の大問題として現在でも主要な論叢点になっています。違憲審査制だけでなく、これを組み込んだ立憲主義の正当性に関する論叢です。なによりも民主的な選挙で選ばれていない、いわば官僚そのものである裁判官が、なぜ、民主的なプロセスをもって成立した法律そのものの正当性を議論することができるかという議論です。
ここでアメリカにおける議論を紹介する余裕はありませんが、裁判所の民主的基盤ということは、多くの学者を悩ませてきた問題でした。最高裁判事の国民審査という制度は、そういう議論を踏まえ、司法ないし裁判官の民主的コントロールという問題と関わっているのですが、そのいう問題意識から生まれた実験的制度が、国民審査でした。つまりは、GHQによる日本での民主主義の実験だったわけですが、全くのナンセンスであり、予算の無駄だというのが、この実験の結果だということになりましょうか。
(2)
ナンセンス、その一言です。学者の間では、情報提供をという声がある程度です。弁護士の中にも審査対象となる裁判官の情報を市民に提供する活動をしている運動体があります。もっとも皆、左傾向の強い人たちの団体ですが。
現実的な処方箋は「廃止」でしょう。予算の無駄遣いの一つです。むしろ、審査のあり方よりも、任命のあり方を考えることの方が大事でしょう。アメリカでは、辞任を表明した最高裁判事(アメリカの連邦最高裁判事には定年制はなかったと記憶しています)の後任は、大統領が指名して議会の承認を受けて任命します。
日本の場合は、内閣が任命して天皇が認証すると憲法に書いてありますが、内閣の任命は、形式的なものとなっており、実際には最高裁の指名を承認するだけです。最高裁は、各界からあがってきた名簿から指名するのですが、官僚、学者、弁護士、裁判官等の事実上の枠があります。弁護士会は、弁護士枠に対応する候補者を推薦するのですが、「反権力」を貫ける人材という事実上の基準があるようです。それが弁護士会のアイデンティティだと認識しているからでもあります。諸外国の審査制についてお尋ねですが、日本以外に国民に直接審査をさせる制度を持つ国を知りません。おそらく、そのような制度はどこにもないのだと理解しています。
(3)
仰るとおりなのですが、我々実務家は、最高裁判決は基本的に「調査官」と呼ばれる司法官僚が下拵えをして裁判官が合議をして承認したものに筆を加えるというプロセスを辿ってできていくものだと考えています。最高裁の「調査官」は、基本的に裁判官の中で修習時代や判事補の段階で「優秀」だと目をつけられていた人材が裁判所所長等からの推薦を受けてなっていくと認識しています。過去の判例の吟味、検討、政策的判断等を「調査官」が行うのですが、責任は裁判官がとりますので、ある意味、典型的な官僚ですが、司法官僚のことについては、あまり悪い噂はありません。彼らが折り紙付きの優秀であることは、法曹関係者ならみな知っているからでしょうか。もちろん、裁判官が自らの思い入れから、判決の結論や理由を左右したり、独自の補足意見、少数意見を付することはあります。最高裁判決もその責任は名前をクレジットしている裁判官が負うのです。「調査官」はいくら判決の実質を書き上げても名前は出ません。但し、我々法曹が判例分析の参考に用いている「最高裁判例解説」という書籍があり、その年に出た主要な最高裁判例の分析・検討・射程を整理しているのですが、そこで解説を書いている「調査官」が判決の下書きを作ったという見方がなされています。 もちろんのことながら、「調査官」に国民審査はありません。
人権委員会設置法とサヨクと保守
20121031
「人権委員会設置法」を反日サヨク糾弾の武器に使えるのではないかという意見がありました。お茶らけだとは知りつつ、「人権産業」の現状について報告します。
「人権委員会設置法」で設置されている「人権委員会」に似た組織は、「人権擁護委員会」として、現在も法務省と各単位弁護士会にあります。弁護士会に置かれている「人権擁護委員会」の委員が弁護士なのは当然ですが、法務省の「人権擁護委員会」でも多くは弁護士から選任されています。そうでなければ教育関係者やいわゆる人権団体経験者です。人権団体としては、部落開放同盟が筆頭ですが、朝鮮総連傘下の人権協会やピースボード等・・・反日サヨク系の人権団体が百鬼夜行のように蠢いています。共産党系の弁護士からなる自由法曹団、民主法律家協会というのもあります。大阪弁護士会の人権擁護委員会で人権擁護活動に従事する弁護士も、そうした傾向をもった人権問題にかかわる意欲をもっているのですから、より個人主義的、より平等主義的傾向が顕著です。教育者から選ぶにしても推薦されてくるのは、日教組で活躍して地方行政にコミットしているような方々です。あとは労組関係。
弁護士の世界にサヨクが多かったのは、第1に憲法や行政法において左翼系の学者が多かったこと、憲法の前文が西欧近代中心主義であってマルクス主義に親和性はあっても、伝統主義を敵視している感があること。そして、サヨクの世界にいれば、全国各地の人権集会等での講義、法律相談等によって実利も得られたこと すなわち人権が産業として成立していること と無関係ではありません。これに比して保守系の活動にコミットしている弁護士は、自民党の代議士になった弁護士か、変人(わたしのような)が中心であり、反リベラルの思想的傾向のある弁護士も日々のビジネスにに忙しく、とてもサヨク弁護士のように運動にコミットできないという事情があります。全国の教育委員会の委員がサヨクに席巻されたのと同じことが人権委員会でもおこるものとして、この問題を考えるのが現実的だと思われます。
I様、「人権産業」についてご興味をもって戴き、ありがとうございます。
「人権」を謳った公共施設は、大阪にも「エル」大阪や人権文化センター、 そして男女共同参画事業等、沢山あります。 そういうところでは人権啓発セミナーと称して、沢山の講座があるのですが、そういうところで講師を引き受け、特定の「人権」についての勉強会を担当しているのが人権派弁護士といわれる方々です。
男女共同参画事業が隆盛だったころは、全国の地方自治体に、男女共同参画室なる部署が新設され、大学で「女性学」等のフェミニズム講座を担当していた教授のゼミ出身者の就職先になっていました。今も、その影響は残っています。こうした施設が、「人権産業」の担い手となっていますが、そこでは部落開放同盟や朝鮮総連や労働組合、男女共同参画事業関係者、9条の会などの護憲市民運動体、自治労を中心とする組合関係者などが集まって定期的に連絡協議会を行って、改憲派や教科書改革派の動静を分析したり、馬鹿にしたりしながら、作戦会議を行っています。施設にいって月間ないし年間予定表などをみればその活動の様子を知ることができます。それはそれで自由な日本社会を反映していていいのですが、公金がそうした施設の運営や講演費に当てられたりしているのは、いささか問題があるように思われます。朝鮮総連や日中友好団体などは、人権団体をフロントにして弁護士の囲い込み等をしていますが、これもまた北朝鮮の工作活動の一環ではないかと思うこともあります。
大麻取締法 2012/10/04
最近、星野之宣の漫画「神南火・忌部神奈女の神話」に大麻に2種類あって幻覚作用を持つものと持たないものがあるということを書いてあるのを読み、フーンと思っていた処、下記のメールを読んで本気で悪法を廃棄することを考えておられる方々をいることを知りました。私の大麻取締法の理解は、検察庁で修習していた頃、大麻取締法違反の被疑者を取り調べた際に、教官から基本的な法構造のレクチャーを受けただけに止まるので大したことはないのですが、確か、「法の除外事由がない場合」という留保条項がついていたと記憶しています。それは、神社の祭祀等で大麻がつかわれる場合があり、そういう場合は、政令で指定して除外している、だから、大麻取締法違反の事件がきたときには、まず、除外事由がないかどうかを先にチェックする必要があるということでした。という理解があったものですから、江戸時代から祭りで大麻を使っており、それを栽培する必要がある場合には取締から除外されていると認識していました。もちろん、どこの畑が除外されているかという情報は、公開されていません。(大麻泥棒を防ぐため と聞いていました)。現実に問題があるのであれば、そこんところを調査しなくてはならないなと思いました。少し、法を知っている人は、そんなところも聞きかじっているので、実際の法律の運用において伝統祭祀の継承において大麻取締の法制が障害になっているという認識をもつ人は少ないはずです。
まずは、現実的で実際的な支障があるということを宣伝することが大事でしょう。そうした宣言効果を上げるために、大麻取締法の無効を確認する訴訟を提起することも方法の一つとして考えて頂ければと思います。
かつて類似の訴訟として「どぶろく訴訟」というのがあり、昔は誰でも自宅でどぶろくが自由に造れたのに酒税法がこれを禁じているが、これに違反したとして検挙された人が訴訟の中で憲法違反を訴えたものです。結果は、敗訴になっていますが、「どぶろく」に関する酒税法の問題点やお酒の文化について多くの国民に周知させる効果があったと思います。大麻取締法の違憲確認訴訟の組み方については問題がありますが、除外事由を申請し、これを拒絶させ、その拒絶という決定を「行政処分」とみて、その違法・無効を訴える行政訴訟を提訴するという方法があるのではないかと考えています。今のところは、まだ法律家の思いつきの段階ですが。
改憲論者のつぶやき 戦後民主主義の虚妄を破る 新改憲論「一条護憲派」宣言
20120921
ある改憲論者の寝言としてお聞き置き下さい。
丸山真男をして戦後の代表的知識人としたのは次の言葉であった。「大日本帝国の実在より、戦後民主主義の虚妄の方に賭ける」。丸山真男が、賭けた戦後民主主義の虚妄とは何だったのか。
一つは、「東京裁判」という歴史の虚妄
一つは、「人類普遍の原理」を掲げるいう思想の虚妄
一つは、「八月革命」を唱える憲法解釈の虚妄
の三つである。そして大日本帝国の実在として敗戦後に辛うじて残ったものは、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」で知られる「終戦の詔」であった。
丸山真男が虚妄だとした戦後民主主義を構成する「東京裁判」「人類普遍の原理」「八月革命」は、いつしか虚妄だったことが忘れられ、実在と誤信されるようになった。そして実在だった終戦の詔は、過去の迷妄の神話として語られるようになった。戦後の建て直しは、三つの虚妄が、虚妄であることを暴露することから始まる。憲法改正は、「人類普遍の原理」に基づく「前文」と「九条」の改正をもって、思想の虚妄を糺すものであり、「八月革命」を廃棄することによって、一条の象徴天皇を顕し、「東京裁判」という歴史の虚妄を糺す。さすれば、自ずから「終戦の詔」はその実在性を発現し、もって、日本の戦後のナショナリズムは、ようやくその形を持つことになる。
丸山真男は偉大であった。戦後民主主義に賭けることで、数十年の虚妄を維持し、かつ、それを虚妄と言い切ることで、数十年後の覚醒を予定したからである。・・・・・というつぶやき。
そんな本を執筆したら、案外、売れるかも知れんなぁ、と甘い夢をみています。
(2)
N様、ご指摘のとおりです。日本国憲法は、《国体の護持》のためになされた日米(GHQ)の共同事業だったのです。ポツダム宣言を受諾した「終戦の詔」は、あくまで「国体を護持し得て」という留保条件が明記されています。
僕が、押し付け憲法無効論に与しない理由の一つは、ホイットニーが言ったとされている「陛下の安全を保障できない」という脅し文句(ホイットニーは否定しています)は、脅し文句というより、客観情勢に基づく忠告・助言だったと考えているからです。
当時、マッカーサーが憲法改正を急いだ背景には、いよいよ極東委員会が結成され、それまでGHQが握っていた対日占領政策の決定権が極東委員会に移る状況となっていました。極東委員会には、天皇の戦争責任を問う、強硬派がいました。オーストラリア、中国、ソ連、オランダといったあたりだったと思います。彼らが、占領政策の主導権を握れば、天皇制の維持は危なかったのは事実です。ハーグ陸戦条約がどうのこうのだとか、摂政在任中の憲法改正禁止条項を云々するような状況ではなかったのです。
そこで、極東委員会が機能しはじめるために日本国憲法を日本国民が決めたという形をとり、ポツダム宣言が述べていた日本人による体制選択がなされたんだということで、天皇を護ろうとしてできたのが日本国憲法です。そこには、九条で丸腰になる代わりに、天皇制は護るという民族の苦渋の選択があったのです。八月革命説も無効説も、そうした民族の歴史を無視しているという点で同じだといっているのです。戦後の教育、言論界が、憲法をもって戦前との「断絶」を示すものだと断じ、大日本帝国憲法時代との「連続性」を無視する論調をとったのは、宮沢俊義の「八月革命説」を抜きには語れません。先日も、日弁連の憲法委員会で天皇元首化問題の報告をした際、宮沢憲法を読んで感動して弁護士になったという年輩の弁護士さんが、私の報告に対する違和感を表明しておられましたが、やはり東大官学憲法としての宮沢憲法→芦部憲法の威力は絶大なのです。宮沢憲法の中核にあるのは、この「八月革命説」であり、既に論理的には破綻しているのに、多くの法曹、学者、言論人の「懐旧の念」に支えられて、未だ関東の通説として君臨しているのです。
京都大学は、8月革命説の出発点となるドグマ 憲法改正によって体制変更(天皇主権→主権在民)はできない は、イデオロギーだとし、憲法改正無限界説を唱えていたため(佐々木惣一)、8月革命説を事態の説明のため持ち出す必要がなかったということがあります。
それゆえ、8月革命説が東大憲法のドグマに基づく学説内解説のための論理であり、歴史的事実を顕すものではないということを以前からいい続けてきたのです。9条と前文を除き(強いていえば、政教分離も)、改正の必要がないというのは、1条の象徴天皇制こそが、戦後という時代の始まりと、日本国憲法の大義を伝えている条項だという認識があるからです。
五輪で竹島PRして国内で批判あがらぬ韓国は「国際常識ない」 20120904
韓国には国際常識がない、ということを国際社会にアピールすることは非常に重要です。それを日本外交のマスターベーションという青木氏というコメンテーターはどうかしてるぜ全く。じゃぁ、どうすりゃいいの。ICJに提訴がマスターベーションだという青木氏には、その代わりにどうすればよいのか言ってもらうべきでしょ。
孫崎氏も青木氏も、同じ、相手が怒っているから戦争を覚悟しなければ戻ってこない。戦争するのは愚策だから、そのまま穏便に曖昧なままそっとしておくしかない。孫崎さんには、大阪弁護士会への日弁連にもお呼びしてご講義を頂いたのですが、結局、アメリカの圧力や危険をいうばかりで、中国の圧力や危険については、全く軽視しているのが特長で、だからこそ左翼の集まりでは重宝されるのだろう。
竹島についても、尖閣についても同じ。どうせ戻ってこないのだから、波風を立てて、日韓・日中関係に支障を来すのは国益に反するという筋立てだ。ある意味、敗北主義の現実主義というべきか。しかし、こんなのに、評論家を名乗る資格はないわな。
未だに「天皇家」「太平洋戦争」という愛国者20120218
西尾先生の議論に対するNさんとIさんの意見はもっともだと思っています。その心情は誠によく理解できます。尊敬する西尾先生の雅子妃批判は、まことにそのとおりなのですが、これでは身も蓋もない。かえってフェミ左翼らによる「天皇制の犠牲となった小和田雅子」というプロパガンダに利用されかねないという心配をしています。もっとも日本の皇室もこれからは英王室のようにスキャンダルに対して打たれ強くならねばならないという配慮までされているのというのであれば、いわずもがなですが。ノンポリ大衆がどっちにシンポシーを感じるのかなという懸念です。これは広い意味での政治的配慮です。と同時にHさんが問題視しておられる真理の大衆的浸透の問題でもあります。もちろん、西尾先生がなされている「筋道」をはっきりさせるという次元のこととは別のことです。
NさんやIさんが、いっておられることも、むしろ「筋」の次元であり、わたしのいう大衆を意識した政治的配慮という低次元のものではないことは理解しているつもりです。だからこそ、「天皇家」という用語や「太平洋戦争」という用語は、愛国者が使う言葉ではないという批判をされているのだと思いますが、リベラルパラダイムに洗脳されているノンポリ大衆にいかに切り込んでいくかということを考えているものにとっては、いささか戸惑いを禁じ得ません。
天皇家の用語は不敬である。天皇制の用語も左翼用語であるとされれば、歴史的制度ないし憲法制度としての天皇をどう論じていいかわからなくなります。
Nさんにお尋ねします。憲法一条は「象徴天皇制」を規定しているという言説は不敬なのでしょうか。左翼思想に与することなのでしょうか。現在、女系を認めるかどうかという議論は「制度」としての天皇制を論じているのではないのでしょうか。的外れな議論をふっかけているように思われれば、許して下さい。しかし、わたしと類似の信条と心情をもっておられるように思われるNさんのご意見を教えてほしいのです。
戦前、美濃部博士の「天皇機関説」が、まさしく天皇を「機関」というのは不敬であるという理由で排撃されたことがありました。美濃部博士は、枢密院顧問として日本国憲法の改正に対し、ただ一人、不起立をもって反対(棄権?)の意思を貫いた愛国者でもありました。昭和天皇も機関説でよいではないかと言っておられたと伝えられています。今から思えば、天皇陛下を「機関」というのは不敬ではないかという心情も理解できますが、いかにも狭隘な理屈のようにみえます。実際、機関説問題は、その後の議論を硬直させ、統帥権問題などで政府の外交的選択肢を狭めたように思われて仕方がありません。戦前が異論を排除するファシズム的全体主義が敷かれていた時代だという言説は、必ず「天皇機関説」問題を引き合いにだします。そもそも学問的な議論というのは、考察対象と距離をとって、心情を切り離す分、どうしても対象に対する視線が冷たくなり、そこに不敬の空気をもたらさざるをえないように思っています。
維新の会の「維新八策」がマスコミを賑わせています。その一つに「首相公選制」があります。かつて中曽根元首相が唱えた政策でした。これに対しては、むしろ、保守の側から、公選首相は実質的な大統領であり、共和制に向かうものであり、天皇の存在意義を削いでいくものではないかという道筋で反対論が強かったと思います。そこでは憲法制度としての「象徴天皇制」の制度的意義を正面から論じなければならない局面が今後、生じてくるように思われてなりません。
わたしは天皇は鎌倉時代以降に制度化されたように政治的権力をもたない象徴的権威であるべきだと考えていますが、その「象徴」としての地位の重要性を啓蒙すべきだと思っています。これまでは、「たかが象徴」という物いいのなかで、象徴という言葉は、意味のないもの軽いものというものとして使われて
きたように思えてなりません。そうではなく、「されど象徴」という文脈のなかで、「象徴」というものが歴史的永続性をもったナショナリズムや民族的アイデンティティを担保するうえでどれほど大切なものかということを強調する言説として磨いていかなければと考えています。わたしは天皇という存在が残り、国家と国民統合の「象徴」であり、それが国民の総意に基づくものであるということが明記されたことをもって日本国憲法を国体の連続を果たした憲法として擁護する立場をとっているのですが、そういう意味においてです。立憲君主と国民主権との並立を憲法上規定しているのは、日本のほか、ベルギー、スペイン、スウェーデンなどがあります。もちろん「国民の総意」とは、憲法改正時に生きていた具体的国民の総意ではなく、明治維新の前から形成された抽象的存在としての「日本国民」の総意です。ここにも、戦後左翼とのパラダイム闘争があります。
本日の新聞ではドイツの大統領が辞意を表明したことが報道されていました。てっきりメルケルが辞任かと思って読んでみたらウルフ大統領のことでした。ご承知のことと思いますが、ドイツとイタリアは、政治的実権を持たない象徴大統領が公選されており、国民の一体性を象徴しています。条約の承認といった儀礼的な国事行為を行う点では象徴天皇と同じです。なぜ、ドイツやイタリアは、単なる共和制を目指さないで、君主制と共和制の間をいくような象徴大統領を置いたのかは、「象徴」を考えるうえで重要な問題を孕んでいるように思います。
象徴天皇制のことを、長々と書いたのは、直接にはHさんのメールを読んで、そうだな、わたしたちはノンポリの大衆の心に訴え欠けるような言葉をまだ発明できていないでいるなという反省を感じたからです。大切なものを論じる言葉の問題は大切です。不敬ではなく、さりとて批判を可能とし、しかも、ノンポリ大衆に分かりやすく訴える力をもった言葉。《象徴》という言葉に、時代を超えた歴史と文化と民族と道徳と伝統をこめる力があるのではないかと考えています。リベラルの価値中立・相対化や、グローバリズムによる価値一元化ないし均一化に対抗するナショナリズムのロマン主義の力です。そしてそのことを論じるためには、機関としての天皇或いは、制度としての天皇を論じることを、排斥してはならないように思っています。よろしく。
(2)
N様、ご丁寧なご指摘ありがとうございました。保守派の皆さんが、それぞれの持ち場において、いろいろ悩みながら言葉を使っていることもよくわかり、すごく安心しました。確かに、天皇家についても「姓がない」という事実とともに、その用語の問題点を指摘するならば、多くのノンポリも耳を傾けてくれるかも知れないと希望を思いました。
今後、天皇のことについての議論がさまざまな場面でなされることになろうかと思われます。そのこと自体が天皇を軽んじる風潮に棹さすことになりかねない危険性がありますが、もう、だからといって論じないですませるようには思えません。しかし、そのときに使用する用語については、自分なりにいろいろ考えておかなければならないと改めて思いました。 女系を容認するかどうかという議論は、保守派のなかでは大議論になっていますが、いわゆるノンポリの間では、それほどの関心がもたれているように思えません。多くの国民を巻き込んだ議論にしていくには、もっと天皇という存在に対する積極的な関心を巻き起こす議論を仕掛ける必要があるのではないかと考えています。
その一つが「象徴天皇制」に対する議論です。わたしは改憲派を任じていますが、「象徴天皇制」については護憲派です。天皇は明治憲法下でも実質的に「象徴」だったと考えているからです。日本人にとって日本国にとって天皇がなぜ必要なのか。国体、伝統、国柄という言葉を使って説明しようとしますが、いまのところ、そういうことを表現できる言葉として「象徴」以外に相応しい言葉が思いつかないのです。そうだとすれば、「象徴」という言葉の内実を充実させる説明方法を考えることも天皇に対する国民の関心と敬意を高めることにつながるのではないかと思っています。これまで「象徴」は「たかが象徴」「象徴に過ぎない」という文脈で、左翼が好んで使ってきましたが、これも「人権」や「平和」や「民主主義」と同じく、その解釈の改変を通じて保守派が取り戻す言葉であるように思えてならないのです。先の議論とはちがいますが、このあたりのことについてもNさんのご意見をお聞かせいただければと思います。
(3)
またしても丁寧なご指摘ありがとうございます。わたしも天皇が元首であることを前提として議論をしています。元首であるとともに君主でもあります。
ドイツやイタリアの「象徴大統領制」スウェーデン、スペイン、ベルギーの「象徴君主制」を比較の議論として取り上げているのはそのためです。オーストラリア、カナダ、ニュージーランドのような英連邦の国々でも、元首は、イギリス国王(女王)であり、権限を持たない象徴であることは明らかです。アメリカやフランスに代表される大統領が元首であり、君主である国と、元首はあくまで実権をもたない象徴である国とでは、なにがどうちがうのかということを分析して整理していくことで、「象徴」としての天皇の必要性を論じることにつながるのではないかというアイデアです。
(4)
N様とI様の議論に割り込んで恐縮です。N様やI様は、天皇の霊についてどうお考えなのでしょうか。大嘗祭のことです。ご承知のことと思いますが、大嘗祭には天皇の霊との一体化とその承継に関する儀式があります。男系女系の論叢において肉体的なDNA論が前に出てくると、大嘗祭で受け継がれていく天皇の霊について見過ごされているのではないかという懸念を感じます。
ひのきみ裁判最高裁判決を目撃して
20120131
大阪の徳永です。Kさんの意見に賛成します。
宮川反対意見も卒業式等の式典における君が代日の丸儀礼の必要性はみとめており、その妨害行為は許されないとしています。ただ、不起立は妨害ではないから不利益処分を課すのはやりすぎという立場からの反対意見です。最高裁判決に反対する声明をだしている弁護士会の立場からみても、随分と後退した意見だなという感覚で受け止めています。
不起立の繰り返しだけで停職処分は重すぎるというのはどうかという批判もあることでしょう。それでも、戒告処分には勤勉手当の不払い、昇給の停止等という事実上の不利益があります。更に戒告を繰り返すとそれ以上の処分も正当化されえます。公務員にとって毎年繰り返される卒業式での戒告は、決して軽いものだとは思いません。また、維新の会がいうように、一回の戒告であっても、「研修」を命じ、更に、二回目の戒告を受けるようであれば、重い処分にもできるという趣旨を最高裁判決から読み取ることも可能です。実際の運用上、全く問題ないと思います。
わたしは、エホバの証人たちのように、「偶像崇拝禁止」の教義によって国旗国歌儀礼への参加を拒否するという場合、戒告程度の処分で十分だと思っています。もっともエホバの証人は、「国歌」だけでなく「校歌」も歌わないそうですが。反日左翼思想を信条にしている方々の内心の自由も、そうした特殊な宗教的な信念と同じ扱いで、優しく見守ってあげればよいのではないでしょうか。先週の「朝までテレビ」では、国歌起立条例に反対する元大阪市教育委員長の池田氏が、不起立教師は、本当に少数なのだから、これを特にターゲットにして処分するということを条例にするまでもないだろうという立場からの反対論でした。多くの、ひのきみ訴訟支援者は、自分たちの置かれている状況をしって愕然としたと思います。 とにかく、最高裁は、日の丸君が代儀礼を公立学校内で実施することも、起立を命じる職務命令も内心の自由に反するものではなくて合憲であるとしたのです。そしてその判決の先例例部分は先日の最高裁判決をもっても微動だにせず、むしろ揺るぎなく定着したなということを感じています。
もともと、ひのきみ問題を、内心の自由の問題として扱うことには、これに反対していた左翼教育学会(日本教育学会)がありました。彼らによれば、君が代斉唱の実施自体が、教師集団の自由を侵害して「不当な支配」を行うことであり、「内心の自由」を理由に君が代式典で起立しないというのは、思想を理由にした「一般的義務の個別的免除」に問題を矮小化させるというものです。良心的兵役拒否の問題として世界で議論されている問題の枠組みと同じだという批判です。ほとんどの国では良心的兵役拒否を認めません。認めるとしても宗教的な信仰に基づく場合に限られており、世俗敵な思想良心に反するという理由での兵役拒否は認められない傾向にあります。世俗的な思想信条を理由にした一般的義務の拒否を認めてしまえば、例えば、税金を支払うことは絶対に認められないという信条を持つ人だとかの税金逃れを許すことになってしまいます。宗教的信仰と世俗的信条とでは、政教分離にみられるように、その扱いは全く異なります。しかし、日本の特殊性として宗教的信仰自体が世俗化しており、両者の区別はあいまいです。多重信仰は普通ですし、創価学会等の新興宗教を
除き、伝統宗教間において排他性は強くはありません。他方、東欧では政教の分離だけでなく、イデオロギーと政治の分離についてまで憲法に規定されている場合もあります(ポーランド等)。こうした宗教的信仰と世俗的信条の相対化は、かつての神道 習俗論を再び憲法論に甦らせ、政教分離の相対化をすすめるための論理的な根拠となると考えています。その意味において、ひのきみ最高裁判決は、奥の深い良い判決だと思っています。
(2)
I「小生から見れば、厳粛な雰囲気を台無しにする意味で「不起立は陰湿な妨害」です。弁護士会には教えてもらう「児童・生徒達」の権利の視点、教える側としての大人・先生の「責任」の視点がないのですね。」
徳永「仰るとおりです。式典はなにより国家・先人に対する「敬意の表明」ですから。不起立は式典を台無しにする妨害であり、子供たちの前で行うそれは政治的デモンストレーションであり、国歌を斉唱すべきでないというメッセージの発信です。わたしは弁護士会の憲法委員会では、Iさんと同様の発言をしています。弁護士会における論客の多くは、反日左翼人士であることは、常識でしょう。日本全国の単位会から、そうした方々が選ばれて(或いは自薦で)日弁連の憲法委員会に集まってくるというのが実情です。」
I「『反日左翼思想を信条にしている方々の内心の自由も、そうした特殊な宗教的な信念と同じ扱いで、優しく見守ってあげればよいのではないでしょうか。
』それは甘いですね。何故なら教育者としての役割を忘れているからです。1.思想の自由(頭)、2.言論の自由(頭+口で「耳」に訴える)、3.表現の自由(頭+手「文章」で目に訴える)、4.行動の自由(頭+口+手+足で「全身」に訴える)。教師というのは児童・生徒の手前、「役割上」「立場上」、自ずと「行動」は制限されるものです。思想の自由があるからといって行動に直結させたらまずい。
徳永「そこは教師が有する「教育の自由」というものがありまして、教師というのは教育というものの特殊性から、公務員とちがって教育の自由があるのだというのが最高裁判例の枠組みなのです。もちろん、最高裁が間違っているというスタンスで批判するのはかまいませんが、公の議論は、すべて最高裁判決を意識してなされます。」
I「『 先週の「朝までテレビ」では、国歌起立条例に反対する元大阪市教育委員長の池田氏が、不起立教師は、本当に少数なのだから、これを特にターゲットにして処分するということを条例にするまでもないだろうという立場からの反対論でした。』 こういう馬鹿が教育委員長になるから大阪市は悲惨な状態になったのでしょう。」
徳永「大阪市は大阪府と違い、3年前から100%君が代斉唱時の起立が達成されてきました。大阪府は、大阪市と比較して、君が代斉唱については、ずいぶんと遅れていたのです。大阪市教育委員長であった池田氏の発言は、そういう背景とあわせて評価すべきものだと思います。基本的には教育委員会を教職員組合が敵視しているという状況はあるのです。
I「日本の教育悪化の原因は劣化した官僚・政治家がつくったと見ていいでしょう。反日教師というのは救いようのない馬鹿ですから・・・。」
徳永「ついこの間まで、教育に関しても保守派の国民はほとんど声をあげませんでしたからね。官僚や政治家が、マスコミがたれながす左翼的な世論の声を無視するということが困難だったのでしょう。そのすきに、教育問題に集中する部落解放同盟といった自民党とも結託した団体が、教育行政に力をもち、教育委員の選任についても、部落解放同盟系、日教組出身者系の推薦枠ができてしまったということでしょう。」
I「教師には教育権があるので、児童・生徒に「何を教え・何を教えないか」の自由がある。こんなことで教育されたのでは子供・親はたまらない。教育の品質基準である「学習指導要領」通り、教えてもらわないと困る。そして学習指導要領には国旗・国歌は「指導する」とある。メーカーさんは品質基準どおり製造しなかったら不良品の山になる。」
徳永「それがこの間の一連の判決が、やっと是正される法的根拠が示されたわけです。先日の判決だって、職務命令の合法性は認めたわけですから。職務命令違反の処罰の裁量について一定の歯止めがかかったというだけです。朝日も毎日も東京も、今回の判決の中核部分は批判しているでしょう。彼らのプロパガンダにおけるスキルとして、敗北のなかに勝利をみつけ、これを高唱し、あたかも勝ったような誤解を世論に与えようとしているのです。左翼教師も、左翼記者も、ひのきみ訴訟を担当していた弁護士も、みながっくりしています。大阪弁護士会で先日開催したシンポジウムでも、活動教師らが大挙して参加していました。よっぽど危機感を感じているのです。」
I「『 その意味において、ひのきみ最高裁判決は、奥の深い良い判決だと思っています。』このあたりが、「素人」の小生にはわからない。ただ今回の判決を評価しているのは「朝日」「毎日」「東京」といったいつもの連中ですよ。以下は産経新聞より抜粋。朝日は「日の丸・君が代は戦前の軍国主義と深い関係があり、その評価は一人ひとりの歴史観や世界観に結びつく」と論じ、「個々人に強制するものであってならない」(毎日)、「自然で自発的な国歌斉唱こそ望ましい」(東京)とした2紙とともに、「国旗・国歌」は個人の自由にかかわる問題だとの主張を鮮明にした。判決が処分への歯止めになるとの視点でも共通している。(抜粋終わり)
徳永「最高裁批判でしょ。ただ批判するだけじゃ運動論としても貧しいので、そのなかでわずかな希望を取り上げたという社説です。これは運動論です。実際にはなんの歯止めにもならないことは、今後の大阪市教育基本条例のながれをみればわかると思いますよ。」
I「日の丸・君が代は戦前の軍国主義と深い関係があるのではなくて、過去・現在・将来の「国家」と「歴史」に関わっていることは明白です。又、「国旗・国歌」は個人の自由に関わる問題ではなくて「職務」に関わる問題です。」
徳永「だから「歴史」として戦前の軍国主義と天皇制の関係を信念とする彼らは、天皇制の象徴である日の丸君が代への忠誠を拒否するということです。彼らは、天皇廃止主義者なのです。「国旗・国歌」問題が、職務に関わる問題だと主張している左翼教育学会(だから、学校で君が代斉唱すべきでない)からみれば、内心の自由を理由にする裁判は、そうした構成しかできないことこそが敗北主義なのです。この一連の最高裁判決の枠組みは、あと20年以上は、踏襲されることになります。最高裁判決に反する議論は、論叢の場でも、苦しい立場に追い込まれます。「朝日や毎日のプロパガンダに騙されず」に、その判決内容がもっている。戦後教壇を席巻してきた日教組の反日教育に終止符をうつ、武器として上手につかいきるという方向で判決を考え直して下さい。それがわたしのいいたいことです。」
君が代」起立合憲判決と《ナショナリズム≒愛国心》の謎について 20110602
今、大阪弁護士会の憲法委員会において「君が代」起立合憲最高裁判決の批判的検討を行うPTの発足を提唱しています。そこで《ナショナリズム≒愛国心》をバーリンの読解を通じて研究しようというメールを投稿しました。弁護士会における議論の動向に関心をお持ちの方は、読んでみて下さい。
-----Original Message-----
徳永です。
君が代起立合憲最高裁判決の批判的検討について新たな切り口として《ナショナリズム》の研究という視点を加えてみればどうでしょうか。
学習権ないし教育権というものが、君が代起立というものに対して両義的(反対という意見も賛成という意見も導けるという意味)であるのは、《愛国心≒ナショナリズム》にどういう姿勢をとるかということと不可避に結びついています。学習権ないし教育権という観念は、当初から他者との関係性を志向しています。子供という他人をどう導くか、どうコントロールするか、どう作り上げていくか。そもそも「教育」という観念それ自体が、子供を自律的な思考と行動をとれる主体に育てるなどという抽象的なお題目では語りきれない共同体的個別性(集団的アイデンティティ)への志向と密接な関係を有しています。
教育権をめぐる議論が、表現の自由や良心の自由を典型とするような個人主義的、価値相対的な消極的自由とは、全く異なった様相をたどるのは、むし
ろ当然のことです。だから、難しいのです(だから、面白いのですが・・・)。
逆に、これまで弁護士会では、ほとんど《ナショナリズム=愛国心》について深まった議論をしてきませんでした。わたしは、ここ十年近く、自身に対し、ナショナリストであろうと自己圧力をかけてきました。そんなわたしにも、《ナショナリズム》は依然として「謎」であり続けています。ですから、《ナショナリズム》を馬鹿げた克服されるべき旧時代の残滓だと蔑
んできた戦後民主主義を支持する多くの会員にとって、その深い闇は、ますます不気味さを増しているのではないかと推察しているわけです。
自称ナショナリストのわたしにしてが謎である《ナショナリズム》ですが、自由の哲学を掲げるジョン・グレイ博士の著書「バーリンの政治哲学入門」の
翻訳を繰り返し読んでいます。一昨年岩波書店から出版された書籍です。そこでは、ナショナリズムを人間にとって本質的な要素だと擁護するアイザリア・バーリンの多元主義とナショナリズムが明晰に分析されており、随分と勉強になります。東大憲法学の長谷部恭教授が信奉しているジョセフ・ラズの多元主義哲学の理解にもつながりました。わたしが提唱している「土着的人権論」は、この多元主義哲学と反啓蒙主義が基盤となっています。バーリンは、ロマン主義の哲学者・詩人であるヘルダーを引用してこう言いま
す。
「理想の人間が自らの可能性を完全に実現するような完全な文明という観念は、明白に馬鹿げた観念、定式化することはできず、実際に実現することは不可能であるだけでなく、論理的に一貫せず、理解できない観念ということになるであろう。西欧の古典哲学にとって完全の観念、価値の問題に普遍的で時間を超越した回答が少なくとも原則としてあり得るという観念は本質的な観念であったが、ヘルダーの命題はおそらくその観念に対して加えられたもっとも鋭い一撃であろう。」
−アイザリア・バーリン「ヘルダーと啓蒙思想」
ここでいうヘルダーの命題とは「理想は、それを発生させる生活様式に属する ものであって、その生活様式も理想を抜きにするならば、たんなる歴史の想い出でしかない。」というものです。つまり、「価値」と「生活様式」を規定する「文化」とは不即不離の関係にあるということです。「価値」や「目的」が普遍的な人間理性によって普遍的妥当性をもって導きだせるという一元論に対する多元論からの異議申立てです。さらにバーリンは次のようにもいいます。
「特定の共同体に属し、共通の言語、歴史の記憶、習慣、伝統、感情などの解き放ちがたい、また手に触れられない絆によってその成員と結びつけられることは、食物や飲み物、安全や生殖に劣らず人間が基本的に必要とするものである。ある国民が他の国民の制度を理解し、それに共感できるのは、その国民が自国の制度が自らにどんなに大きな意味を持っているかを、知っているからに他ならない。コスモポリタニズムは、彼らをもっとも人間らしく、また彼ら自身たらしめているものを、捨て去ることである。」
アイザリア・バーリン「反啓蒙主義」
この信念は、靖国問題を契機にナショナリストになろうと努力してきたわたしの心情に強く訴えかけるものです。これを君が代起立問題の結論と短絡的に結びつけることには慎重になるべきだとは知りつつも、やはり、問題を解く鍵があるのではないかと思わせる言説ではあります。
上原正稔はなぜ琉球新報を訴えたか 2011・5・31
Nさま、ありがとうございます。
沖縄集団自決冤罪訴訟の判決は、自決命令が真実だと証明できないこと、大江健三郎や岩波書店のリテラシーのご都合主義の2つを明らかにできたことが成果です(ただし、後者についてはこれを成果だというのは公式声明では控えています。品がないので)。 確定した高裁判決の評価については、添付の声明文をご高覧下さい。敗訴の理由は、高裁判決が採用した判断枠組みにあります。発刊当時に真実性ないし真実相当性があり、長く出版され続けた場合、たとえ真実性が揺らいでも、それが真実でないことが明白にならない限り出版は違法とならないというものです。わたしたち弁護団は、『沖縄ノート』が今も増刷され販売されている以上、現時点での「加害行為」が認められるのだから、現時点での「真実相当性」が必要だという論理を主張していたのですが、高裁判決は、発刊当時(それは昭和40年代)の真実相当性があればよいとした点が結論の分かれ目になりました。一審判決は、そもそも「真実相当性」の理解を間違えていましたが、高裁判決は、「真実相当性」の中味は正しく理解しています。それが具備されるべき時点について、わたしたちとの主張とすれちがったのです。
その理由としてあげられている表現の自由の保護に関する論理は、なかなか含蓄のあるものです。事件を離れてみてみると、中々説得力はあると思います。
反日サヨクは、例の高裁判決をその趣旨を枉げて勝利宣言していますが、その欺瞞性を世間に暴き、集団自決命令が真実性を欠いたものであることが判示されたことを広くアピールすることの大切さは感じています。これからの戦いについて言及して戴きましたが、この高裁判決の論理によると、この裁判中に「両隊長の集団自決命令」に言及した書籍の発刊については、名誉毀損を理由に出版停止にできるということになります。そうした観点から新たな目標を探すことを考えています。
琉球新報の連載戦記物『パンドラの箱が開くとき』で「自決命令はなかった、沖縄県民は梅澤さん赤松さんに謝罪すべきだ」と書いた沖縄のドキュメンタリー作家・上原正稔氏の原稿を掲載しなかった琉球新
報に対する損害賠償請求訴訟は、その意味においても重要な意味をもっていると考えています。
マッカーサー証言のリテラシーについても、大江健三郎的なご都合主義と証言のつまみ食いがないかということが、どうしても気になってしまう(あいつらと同じような卑劣なことは絶対したくないという心情にあるという)ことをどうかご理解ください。Kんのような身内に厳しい読み方をして相互に批判する精神が失われたとき、大江健三郎が漂わす腐臭が漂いはじめるのですから。大江健三郎は、もう精神のゾンビです。あれは。かつてのファンとしては正視に耐えません。
渡部昇一氏の「マッカーサー証言」の扱いについて 2011/05/30
マッカーサー証言については、以前にもここで議論したように思います。そこでの Security の意味は微妙です。そもそも「安全保障」という言葉が、両義性を持つということに私たちはもっと敏感になるべきです。その両義性は、例えば「主権」という言葉の両義性と似ています。対外的な文脈での「主権」は、「独立」を意味します。しかし、対内的な文脈における「主権」は、例えば「国民主権」がそうですが、権力ないし権威の所在を意味します。Securityは「安全保障」ですが、そこで守る対象が何かによって意味あいが変わってきます。つまり、対外的な「安全保障」という場合ならば、端的に敵の攻撃から身をまもるという意味での「自衛」の意味に捉えてもいいでしょう。しかし、対内的な文脈でみれば、それは、「体制の安全」や「治安」を意味します。体制を握っていた「支配階級の権力保持」ないし「社会秩序の紊乱」ということにになるわけです。さて、「安全保障」を対内的な文脈で解釈すれば、マッカーサー証言はどのように解釈できるでしょうか。支配階級が自らの権力の保全のために戦争に突入したという意味にもなります。国内における失業者と労働者による暴動や革命をおそれたという意味に読めるのです(これがマッカーサー証言の左翼的解釈です)。社会秩序を守る「治安」の意味で読めば、もう少し穏やかな意味になりますが、国内の「治安」の悪化のおそれが、資源を封鎖する米英に対する戦争の原因となったというのは、「侵略戦争」ではないとはいえても、マッカーサー証言が「自衛戦争」の証拠だというのは、ちょっと強引ではないかという印象を免れえません。 形式的には、主語が「日本人」であり、「日本の支配階級」ではないことを挙げて、対外的な意味だという理屈を押し出すことも可能かも知れませんが、文脈に照らせば、「千万人から千二百万人の失業者の発生のおそれ」がセキュリティの中身だということであれば、対外的安全保障説は苦しいように思えます。わたしは、「安全保障」を対内的に捉え、セキュリティを「体制の保全」ではなく、「社会の安全」すなわち、「治安」の意味に捉えるのが正しいのではないかと考えています。確かに、経済封鎖に対する反撃も「自衛戦争」だというのも正しいとは思います。しかし、そこには決着のつかない論叢の場があるだけです。すなわち、経済封鎖→失業者の発生→治安の悪化→戦争という関係を「自衛戦争」と呼ぶかどうかの定義の問題に決着するからです。定義問題ということになれば、かつてここで「左翼は優秀か」という議論と同じことになります。すなわち、「優秀」の定義とは何かです。自衛戦争の定義によって決着する議論というのは、客観的な論叢の土俵は成立しにくくなります。学術的な論叢ではなく、政治的な論叢になってしまうように思います。
いずれにしても、マッカーサー証言を日本の戦争が「自衛戦争」だったという決定的証言だとすることは難しいのではないかと思っています。教科書検定の審査官も同様の見地から、マッカーサー証言の記述に検定意見を付したものと思われます。もちろん、マッカーサーが占領統治司令開始当時と司令解任後とで意見が変わったというのは正しいと考えています。天皇制の擁護者として振る舞ううちに当初は、天皇制を占領統治の道具として使おうというだけだったのが、やがて天皇に対する尊崇の気持ちを抱くようになっていったということの延長上に考えていいのではないかと思います。マッカーサーは敵であり憎き日本人をやがて愛するようになったのだろう。単なる保身のための証言だったとは思えません。「日本人は十二歳の少年」発言もマッカーサーの主観敵意図は侮蔑ではなく、正直な日本人に対する愛だったのではないかと考えているのも、そのようなマッカーサー観にたっているからです。
新潟中国領事館の移転問題 2011/01/21
下記のメールには興味がありますが、中国領事館による小学校跡地の買収について日本会議新潟が反対していない理由はなんでしょうか。新潟弁護士会は、住民に当事者を抱えているためか、全国の弁護士会としては珍しく、「拉致問題」に積極的に取り組んでいる単位会です。中国に対しても警戒心をもっている弁護士は少なくないようです。弁護士会に取組みを求めていくことも、全くの無駄ではないと思われます。
外国人との土地の売買制限 2011/01/16
山林、宅地の外国人購入に関するH氏の下記意見に触れ、わたしも職務上の経験から一言。
かつてバブルで不動産業界が活況を呈していたころの話しです。日本人がバブルマネーに沸き、米国や豪州の不動産を買い占めに回っていました。丁度、今の中国人みたいに。豪州では戦前からの名残りで日本人に対する強い警戒心があり、ゴールドコーストやシドニー等でマンションやゴルフ場が買われていることに不快感と危惧を抱いた各州において、日本人をターゲットにして不動産の所有を厳しく制限するようになりました。外国人の取得について州政府の許可制にしたのです。それでも、わたしの顧問先の某社は、アデレードに従業員の保養所を持つことを企画し、オーストラリア人税理士をダミーとして同人の名義で保養所を取得しました。匿名組合や信託を使うとか、現地で法人を立ち上げて株式支配して実質的に保有することも考えましたが、当該税理士を信用してより簡明な方法を選択したわけです。結局、バブル崩壊後に当該保養地を売却することになりましたが、何度も現地に飛び、ブリスベンの弁護士や地元の不動産業者と協議して新聞に広告を出して入札を募って売却したことがありました。その所有、維持、売却につき多大なマネーを地元に落したことになります。古い法律があるということなのですが、新たに立法によって地方の長の許可を必要とする立法をするべきでしょう。法律で規制する以上は、「外国人」とは何かを明確に定義せねばならず、特別永住外国人はどうするか、一般永住外国人はどうするか、また、法人による不動産取得を認めている以上、その「外国人性」をいかなるメルクマールにおいて認定するかについて基準を作成しなければなりませんが、豪州等のやり方を研究すれば、そんなに難しい問題ではないように思われます。景気回復のためには、外国資本を招き入れる必要があるんだというエコノミストたちを説得するには、相当議論を詰めなければならないでしょうが、安全保障上の問題がこれほど懸念されるような事態になっている以上、今のように全く規制なしに放置するというような法制を続けることはできないでしょう。国境問題と同じく国土の所有に関する問題も重大な主権問題なのだというあたり前のことを繰り返し訴えていく必要があるようです。
人道教育の教材を紹介してください
2010-H22/12/31
ケビンコスナー主演でアカデミー賞を受賞した「ダンス・ウイズ・ウルブス」はいかがでしょうか。文化多元主義が世に入れられる先駆けとなった映画です。わたしは、文化多元主義という迂回路を通じて、ナショナリストの岸へと泳ぎ着きました。「ダンス・ウイズ・ウルブス」は、キリスト教徒の白人の視点からみた人権を、アメリカインディアンの文化の視点から捉え直すことができます。人権の根底にある普遍的な「人間の尊厳」「人格の尊重」は、個人を育成した文化的背景と切り離すことはできないのだということを痛いほど理解することができるでしょう。わたしは、文化多元主義の迂回路を通じて、「人権」という普遍思考の文化に関し、「設計的人権論」と「土着的人権論」という2つの範疇にこれを分けて論じる論法を発見しました。伝統と文化に基づいて形成されてきた「人間」を尊重する「人権」を、「土着的人権論」と呼びます。他方、「設計的人権論」とは、「人間」を理性中心に設計する思想に基づいています。個人の理性は、個人を縛りつける伝統や文化や道徳を嫌悪し、破壊の対象とします。抽象的な理念である「自由」「平等」を掲げ、伝統を破壊することを厭いません。ジェンダーフリーは、その典型です。
すなわち、「人権」は一人一人の「人間」を尊重する思想だという出発点は同じでも、その「人間」とは何か・・・という次元における思想的対立によって「理性的(設計合理主義的)人権論」と「土着的(伝統文化尊重的)人間論」とに分岐し、両者は、局面によって決定的な対立を孕んだままにらみ合うという状況が生まれるのです。わたしはこれを「人権の相剋」と呼んでいます。
これまで我が国における人権議論や人権教育の中心は、専らサヨクが担ってきたこともあって、また、同和問題や歴史的な差別問題を中心に論じられてきたこともあって、封建的ないし形骸化した伝統によって縛りつけられてきた被差別者の解放を「平等」という要素によって解く「理性的(設計主義)的人権論」が中心に説かれてきました。その行き過ぎは、日本人の「人間性」を育んできた武士道や宗教的文化を含む伝統的文化の一切を憎悪して破壊するエモーションを「人権」という名の怨念として醸成してきたきらいがありました。
「人間」という存在は、歴史的伝統によって継承されてきた「言葉」によってはじめて成立するものです。理性の成立も、言語と切り離してはありえませんし、言葉のなかに、伝統のほとんどすべては、包蔵されています。今こそ、文化多元主義という人権論壇界の錦の御旗を掲げたうえで、「伝統主義的・保守的・文化的・土着的人権論」の高揚を図り、教育現場において浸透させる時期が来たように思います。
たとえば、吉田松陰は、「人間のため」を思想の出発点に掲げています。そこにいう「人間」を、人権教育の中心に据えることだってできるはずです。それは人権という文化の文脈上にきちんと位置づけることができます。このMLは、論文を発表する場ではないので、これぐらいにしておきます。もし、その点について疑義があれば、また、お尋ねください。
(2)
書き漏らしましたが、ジェンダーフリーを標榜する女性人権団体が、一番頭を悩ましているのが、欧州の売買春事情(売春の合法化)とイスラム教世界の一夫多妻です。売買春は、性の多様性との関連で、女権陣営のなかに、賛否両論を巻き起こしており、国際女性会議では、いつも禁止派と規制反対派が、怨念の闘いを繰り広げています。イスラムの一夫多妻は、それがイスラム教の教典コーランと法典シャーリアに依拠していることから、これを否定すれば、文化多元主義と信教(宗教)の自由に反することになるため、彼らも男女平等に反するから禁止せよ!と声高にいえないというジレンマを抱え込んでいます。さすがに売買春は、教材としては不適切ですが、イスラムやヒンドゥ、更には、アフリカン宗教(つまり、キリスト教国以外のほとんどの宗教を奉じる民族の文化。もっともモルモン教のように、「生めよ増やせよ」という聖書の一節を重視して一夫多妻を奨励する宗派もあります。)の一夫多妻と男女平等とを、どう調整するかという問題は、「人権」をどのように考えるか(個人の平等と自由を理性に基づいて主張する設計合理主義的・個人主義的人権論と、人間らしさは、各人の文化的土壌への愛着抜きには成立しないと考える土着的・文化多元主義的人権論との対立)という二十一世紀最大のテーマに直結する「人間とはなにか」を考える材料としては最適でしょう。そのことを考える入口としてあるのが、「ダンスウイズウルブス」だという位置づけも可能だと考えています。
(3)
K先生、「ダンス・ウイズ・ウルブス」は、3時間ほどありました。確かに教材としては長すぎますね。
ニコール・キッドマンとアンソニー・ホプキンスが演じた「白いカラス」も人権教材としては面白いと思います。見た目は白人のいわゆる白子の黒人として生まれた男が、黒人であることを隠して有名大学の教授となるのですが、授業中の発言が黒人差別だとして糾弾されて職を失い、DVの夫から逃げ回っている娼婦のニコールキッドマンと恋仲になるという映画ですが、人権問題満載です。
人権問題は、つまるところ男女の性愛に関係してきます。婚姻における差別や恋人間の暴力もその延長上にあります。要するに濃密な人間関係が生じるところには愛と憎しみと差別が生じるということでしょう。大事なことですが、「差別」の根底には「愛」があります。愛するものを他のものから区別して特別扱いすることが不平等の始まりだからです。そのことを不合理だとして人間関係のなかから性愛のドロドロと男女の区別を消失させてしまおうというのが、ジェンダーフリー論者の正体であり、人間的愛憎のない爬虫類や昆虫の世界を希求しているのです。そのことが判れば、ジェンダーフリー論者の最大の敵対勢力は、恋愛至上主義の女の子たちなのだということが判るでしょう。ジェンダーフリーに対抗するには、女の子を大事にして持ち上げればよいのです。日本的バレンタインデーや日本流クリスマスイブや雛祭りです。セーラームーンやプリキュアに受け継がれている少女漫画の伝統には、必ず、主人公の尊敬と憧れを一手に受ける美形の男子と、どうでもいい男たちが登場します。これが女の子の世界観なのです。ジェンダーフリーの大局の世界は、伝統的少女漫画、宝塚歌劇の世界にあります。敵の敵は味方だということを思い起こして下さい。教材として宝塚歌劇を扱うのもよいのではないですか。そこには、愛と差別、男女の倒錯的ジェンダーフリーの世界が広がっています。
K「徳永先生のご指摘は、とても頷けるのですが、個人的には、学校現場に浸透している「人権」教育を、「人道」教育に切り替えることが重要であると考えております。」
徳永「それは「修身」や「教育勅語」の復活を目指そうという政治運動ですね。しかし、その成果を待っているうちにも、子供たちはどんどん成長していきます。今ある「人権」教育を「人道」教育の実質に近づけるにはどうするべきかを考えることも重要ではないでしょうか。丁度、憲法における形式改憲(憲法改正)と実質改憲(解釈改憲)の議論のようなものです。人権の基本に「人格の尊厳」と「人間の尊重」があるということを出発点にすれば、吉田松陰も人権教育の教材にできるというぐらいのアクロバットが必要なのです。」
(4)
K先生をはじめとして心ある多くの教師たちが、「人権」教育を「人道」教育の実質に近づけようとしていることは承知しています。一連のご発言をみれば、鈍いわたしにも判ります。ここで繰り返して言おうとしていることは、その試みの戦略的な位置づけを言っているのです。「人権教育」は、本来、「人間教育」であり、「人道教育」なのです。そして、そのことは、結局のところ、「人権」とは何かを、問い直し、そのことを考えることを重視するという姿勢をとれば、「人権」教育を借りて、「人道」教育をするという、どこか「すり替え」的な方法論から、正面から「人権」教育と向き合えるのではないかと考えていることです。
ここで論じているのは、思想の問題です。実践と思想とは一体で考えるべきです。思想を伴わない実践は、弱点を抱えながら、敵陣に突っ込むようなものです。きっちりと思想的武装をしたうえで、実質的「人道教育」を展開する実践を行わなければならないはずです。誤解のないように、念押ししておきますが、わたしは、実質的「人道教育」を行っているK先生たちの実践を尊敬しています。しかし、その実践が、「人権教育」という思想に対する批判ではなく、本当の「人権教育」とは何かという文脈において位置づけをもてば、現在の「人権教育」の問題点を本当にひっくり返すことのできる戦略を持てるということに自覚的になってもらいたいのです。
くどいですが、「人権教育」は、今後もなくなりません。一部の保守評論家が気軽に主張している「反人権」の立場は、結局は、引かれ者の小唄になります。「人権」という概念がもつ普遍性を侮ってはならないのです。憲法改正や国連憲章の改廃を主張するよりも、それはずっとずっと困難なことなのです。
正論 平成27年10月号 原稿(原文)
1 序章:「英霊を被告にして委員会」
平成26年4月、大阪地裁と東京地裁に相次いで安倍首相を訴える訴訟が提起された。前年の12月に安倍首相が國神社を参拝したことで精神的苦痛を被ったというのだ。参拝の差止と慰謝料の支払いを求めている。首相の國参拝を問題とする訴訟の提起は、中曽根参拝訴訟、小泉参拝訴訟に次ぐ3度目のことだ。
率直に言って、今回の裁判は過去のものに比べ、いかにも迫力にかけるようだ。その.原因は、原告らの高齢化だ。そして平成18年6月23日の最高裁判決である。同判決は「人が神社に参拝する行為自体は、他人の信仰生活等に対して圧迫、干渉を加えるような性質のものではないから、他人が特定の神社に参拝することによって、自己の心情ないし宗教上の感情が害されたとし、不快の念を抱いたとしても、これを被侵害利益として、直ちに損害賠償を求めることはできない」とし、「このことは内閣総理大臣の地位にある者が國神社を参拝した場合においても異なることはない」と念を押して訴えを退けたのだ。
原告らの勝ち目は万に一つもない。それは法廷を利用してする政治的パフォーマンスだ。放っておけなかったのは、国民が崇敬する國神社を被告としたからだ。悪ふざけにも程がある。対抗策として小泉訴訟のときと同じく補助参加(民訴法42条)を申し立てることにした。
名乗りを上げたのは、大阪の人気番組、「たかじんのそこまで言って委員会」の出演者の方々たちだった。津川雅彦さん、金美麗さん、竹田恒泰さんらに加わって頂いた。京都北山神社の中村重行宮司を団長に戴き、通称「英霊を被告にして委員会」が発足。9月に大阪、10月に東京の両裁判所に補助参加を申立てた。申立人はこれまで5次合計2010人。台湾人210人も含まれている。
大阪訴訟を担当している佐藤哲治裁判長は、原告らのあの手この手を相手にせず、上記最高裁判決を持ち出し、すみやかな訴訟の終結をはかった。原告らが申請した高橋哲哉教授や小林武教授といった専門家証人を却下し、7月31日に原告らの本人尋問を実施した。裁判は10月23日に結審し、翌年早々に判決が下される予定である。7月31日に実施された9人の本人尋問は、首相の國神社に反対してきた反日左派の現状とたそがれを、うかがい知る絶好の機会となった。以下、9人のうち5人の証言を紹介する。
2 友田良子:「私の平和的生存権」
今回の安倍首相の國参拝をとがめる裁判の法律構成は、ほぼ小泉首相のときと同じだが、1点だけ異なっている。それは、「平和的生存権」なるものを持ち出しているところだ。彼らの主張は、國参拝は、日本を戦争ができる国にするための準備であり、現在参議院で審議中の安保基本法につながっているとするものだ。それゆえ安倍首相の参拝は、平和的生存権を侵害するものであり、精神的苦痛を被った自分たちは慰謝料を請求できるのだという。こんな幼稚な連想ゲームで英霊祭祀が妨げられ、国防政策を決められたのではたまらない。
彼らは、チャイナがフィリピンやベトナムをはじめとする東南アジア諸国の抗議を無視して南沙諸島を軍事要塞化しつつあることをどうみるのだろうか。国際法を無視して尖閣諸島を含む空域に防空識別圏を設定した振る舞いをどうみるのか。私には、平和を愛する諸国民の信義に頼るだけでは、チャイナの軍事的野心を抑止できるとは思えない。彼らは、平和を真剣に考えることから逃避し、思考停止の自慰に耽っているだけだ。だがしかし、ここは、彼らがなにをいっているのか、その証言を聞いてみよう。
平成的生存権について証言したのは、4番手の友田良子さん。彼女は、鹿児島で生まれた73歳。91年の湾岸戦争のとき、街頭でハンストして反戦平和の活動に身を投じた。日本政府が90億ドルの戦費を負担することを知り、アメリカの「殺す側」に立ったことを許せないと感じ、知人と2人で鹿児島地裁に、「90億ドルの支出は違憲である」という裁判を起こした。97年に下された判決は敗訴だったが、彼女は、その判決の一節を誇らしげに掲げる。それは「国民の側からいえば、憲法上、国民は国に対し、平和を維持するように要求することができる権利(これを、仮に、「平和的生存権」と命名することもできよう。)があるというべきである。」という判示部分である。友田さんは、これを「私の平和的生存権」と呼び、その侵害があったら裁判所に訴えてこれを阻止しなければと思い続けていたという。・・・ 残念ながら、これは彼女の思い違いだ。もちろん、平和の維持を求める権利は国民が皆等しくもっている。大事なことは、そのために「何をすべきか」だ。それは安全保障政策そのものである。裁判官ではなく、民主的な政治過程を通じて選択すべきことなのである。彼女らが「戦争法」と呼ぶ安保基本法も、平和を維持し、国民の平和的生存権の要請に応えるものだということを、頭を冷やして見つめ直してもらいたい。
安倍首相が國神社に参拝したとき、彼女は、「私の平和的生存権」が侵害されたと感じた。曰く、「國神社の本質は、戦争で死んだ人を英霊として誉め称えて、あとに続く若者たちの模範として利用するところにある。そんな國神社に首相が参拝することは、戦争の準備行為そのものだ」。アメリカのアーリントン国立墓地や韓国の国立ソウル顕忠院の前で同じことを言ってみたらいい。どう考えようが彼女の勝手だが、慰霊のことから離れ、帰納的論法を振り回すのであれば、むしろこういうべきだろう。「自衛隊の最高責任者である総理大臣が國神社に参拝せず、お国のために散華した英霊を放置するようであれば、かえって、チャイナに軽んじられ、その冒険的挑発を誘発することになる」と。そして、その意味において「首相の國参拝は、チャイナによる武力衝突を抑止するものであり、その軍事的脅威と対峙している日本と東南アジア諸国の人々の平和的生存権を守るものである」と。彼女は、すでにチャイナによる侵略の側に立っている。彼女らの請求が認められ、首相の國参拝が差し止められたら、「日本と東南アジアの人々の平和的生存権」が侵害されることになるのだ。彼女の幼稚で独善の思考が、私たちの補助参加を正当なものにしている。
ところで、友田さんは、なぜか、自らの最も重要な経歴を隠している。彼女は、マドンナブームで当選した社会党の女性市議だった。党の「非武装中立」に感動して市議になったと冊子「女ふたりの平和訴訟」に書いている。97年7月、社会党は、その機関誌において「拉致疑惑事件は、日本政府に北朝鮮への食料支援をさせないことを狙いとして、最近になって考え出されたデッチあげ事件である」とした。北朝鮮の側に立ち、拉致被害者の生還を妨害したのだ。ちょうど、友田さんが「私の平和的生存権」の判示を得たときのことである。「殺す側」にも「殺される側」にも立ちたくないという彼女は、見事に「殺す側」に立っていた。公の場できれいごとをいうなら、不都合な過去を隠すな。きちん総括してこい。
3 張嘉h:台湾統治の光と影
小泉訴訟は、韓国人700人余と台湾人230人余の原告を擁し、國アジア訴訟と呼ばれた。今回も韓国人と台湾人が原告となっているものの、その人数は大幅に減った。日本での英霊祭祀の在り方を決めるのは日本人であるというスジ論が浸透してきたこともあり、韓国人や中国人がヒステリックに叫んでも日本の大衆は振り向かなくなったからだろう。
24名の台湾人原告を代表して張嘉hさんが証言者となった。張さんは、外省人(戦後、大陸から渡ってきた中国人)の父とタイヤル族の母の長女として生まれた。母方の叔父3人は、高砂義勇隊として戦死し、國神社の英霊となった。
張さんは、「母の3人の叔父は南洋に強制徴用された高砂義勇隊の犠牲者です」と語りだした。「警察は4人兄弟の中で一人しか残してはならないと命じました。これは強制徴用といわざるを得ず、自らの意思による志願などではありません」という。これには驚いた。高砂義勇隊は、タイヤル族志願兵からなる部隊である。1000人の募集に対して40万人以上の志願があり、落ちた志願者は大地を叩いて悔しがったという。張さんの証言は、その母が祖母から聞いた話の受け売りであってなんの裏付けもない。こんないい加減なもので、父祖の名誉を汚されたのではタイヤル族も立つ瀬がなかろう。
張さんは、タイヤル族には「ガーガー」という祖霊祭祀があり、遺体や魂を家族の近くに置いておく風習があるという。別に珍しくはない。日本にいる英霊の遺族も故郷のお墓、家の仏壇で故人を祀っている。彼女は、合祀によって略奪された叔父たちの魂を取り戻すべく靖国神社に向かい、合祀の取消を要求したが、断られたので神社の前で魂を取り戻す儀式を挙行し、タイヤル族の魂は無事台湾に戻ってきたという。・・・わけがわからん。魂を取り戻したのなら、それでいいではないか。そもそも、「ガーガー」をいう彼女の裁判は、いったいなんなのだ。日本人を驚かすためのパフォーマンスなのか。
張さんは、反日ヘイトで有名な反天連(反天皇制連絡協議会)が09年の夏に開いた集会『平和の灯を!ヤスクニの闇へ』で発言者として登壇している。靖国神社によって略奪された魂のことを、真夏の怪談よろしく訴えたのだ。彼女と一緒に登壇したのは台湾のお騒がせ議員高金素梅。彼女が日帝による原住民ジェノサイドとして語ったのは霧社事件のことだった。
霧社事件は、日本統治下におけるタイヤル族の最後の叛乱である。これを取り上げた映画『セディック・バレ』はウェイ監督の傑作だ。日本兵に立ち向かうタイヤル族の侠気と誇り高い生きざまに感動する。次に監督が製作したのが『KANO』。昨年台湾で空前の人気を博した。この春、日本でも上映されたので観た人も多いはず。戦前、タイヤル族を擁する嘉義農林高校の野球部が台湾代表として甲子園に出場し、準優勝を果たしたという実話をもとにした映画だ。嘉農高ナインは日本でも台湾でも歓呼の声に迎えられた。見すごしてならないことは、嘉農高が甲子園で準優勝したのは、霧社事件の翌年だということである。「歴史には光と影がある」。ウェイ監督の言葉だ。
ところで本省人(戦前からの台湾人)として初めて総統となった李登輝氏は、台湾に民主主義をもたらした指導者として、多くの台湾人の尊敬を集めている。氏の兄は靖国神社に合祀されている。平成19年、國神社を参拝した氏は、「62年ぶりに兄に会えて、涙が出ます。温かい気持ちになりました」と語った。今年2月、氏は、日本の雑誌のインタビューで「国のために命を捧げた英霊に国の指導者がお参りをするのは当然のことで、外国から口出しされるいわれはない」と語っている。台湾出身兵の英霊は2万8000柱。多くの台湾人もまた氏と同じ心情であろう。
尋問の最後、210名の台湾人が國神社の側にたって補助参加を申し出ていることについて尋ねられた張さんは、「外の人のことはわかりません」と逃げるしかなかった。
4 郡島恒明:亀川判事の「捩れ判決」
ところで敗訴が確実であるにもかかわらず、性懲りもなく裁判を起こした彼らの魂胆は、本当にパフォーマンスだけだったのか。その答は、七人目に立った郡島恒明さんの証言にあった。
彼は昭和4年生まれの86歳。戦後、西日本新聞の記者となり、新聞労連中央執行委員、福岡マスコミ共闘議長を歴任し、退社後、浄土真宗大谷派の住職となった。01年8月、小泉首相が國神社に参拝した後、大阪、東京、千葉、松山、福岡、那覇の裁判所に、参拝の差止めと損害賠償を求める訴訟が次々に提起された。郡島さんは、福岡訴訟の原告団長だった。
小泉参拝の福岡訴訟も敗訴判決だった。ところが、彼は、これをあたかも勝訴であったかのように強弁する。「裁判所は、損害賠償は認めなかったものの、首相の公式参拝は政教分離規定に反するもので、違憲であるとの判断を明確に示しました」と。裁判長の名をとって亀川判決と呼ばれるこの判決は、主文で請求を退けながら、理由中の傍論で公式参拝を憲法違反だと断じていた。主文と理由が齟齬するこの種の判決は「捩れ判決」と呼ばれている。原告らは、敗訴判決を控訴しなかった。そういうことだ。彼らの訴訟目的は、傍論での違憲判断を引き出すことにあったのだ。これは政治目的による訴権の濫用である。
亀川判決の3日後の毎日新聞に岩見隆男論説委員の『粗雑すぎる靖国・違憲判決』が掲載された。それは、「判決を読んで異様な感じに襲われたのは、首相参拝が〈宗教的活動〉かどうかの核心部分で、裁判官が示した判断の粗雑さと政治的文言の数々である」としていた。判決末尾の〈違憲性の判断を回避すれば、今後も同様の行為(首相参拝)が繰り返される可能性が高いというべきで、参拝の違憲性を判断することが自らの責務と考えた〉がそれだ。そして「戦争を引きずる深刻な難題に、戦後生まれの一裁判官が気負って軽々しい憲法判断を下す。手をたたくのは、靖国問題を外交カードに使う中国と韓国だ。司法の本領は冷静さではなかったか」とした。
全くそのとおりだ。法律家として付け加えると、傍論での判断は、拘束力はなく、判例とはならない。傍論による違憲判断は、憲法判断の準則であるブランダイスルールが禁じている。今回の訴訟が提訴されて3カ月後の平成26年7月9日。選挙無効の訴えを退けた最高裁決定において千葉勝美最高裁判事は補足意見を付した。捩れ判決による憲法判断は、ブランダイスの第4準則に違反していることを指摘し、「上訴審による審査を受ける余地のない形で下級審において憲法判断がなされるという点でも、違憲立法審査権の行使の在り方としてその当否が問題となる」としたのだ。亀川裁判官の違憲判断は、それ自体が憲法に違反するものだった。傍論による違憲判断を狙った原告らのもくろみは、出鼻をくじかれ頓挫した。
かつて中曽根訴訟や小泉訴訟を九州で率いた郡島さんの後継者はいない。老兵の姿は、一時代を築いた反戦運動のたそがれを漂わせていた。
5 金信明:ヴァーチャルな差別
金信明こと松澤信明さんは71才。東京都の高校教師だった。
その証言は、19才のとき兄から父が朝鮮人だと聞かされ、「大地の底が抜けるようなショック」を受けたことに始まり、定時制高校の教師時代の同僚に感化され朝鮮人として生き直すことを決め、教師としてあらゆる差別と戦っていく物語だ。しかし、聞いていて疲れたのは、とうとうと語られる差別が、どれも現実のものではなく、ヴァーチャルなものだったからだ。心の中の差別に直面し、それが日本社会の責任だという真実に気づいていくという物語なのだ。心の闇を社会に還元する彼のヴァーチャルな差別はどんどん膨らんでいく。
彼は、國神社を朝鮮統治における差別的支配の象徴と捉え、首相参拝を「朝鮮人として」絶対許せないという。日の丸・君が代に反対する理由も同じだ。11年に出揃った一連の最高裁判決は、国旗国歌の儀礼において起立・斉唱を命じる職務命令を合憲とし、思想良心の自由を侵害するという彼らの主張を退けた。しかし、彼が改心することはないようだ。彼の信条に従えば、日本人が朝鮮人と対等に向き合えるのは、國神社も日の丸・君が代も天皇制もない涅槃の境地しかない。日本人であることを捨てろということだ。
彼は、安倍内閣になって日本の右傾化が酷くなったという。確かに、ネットから溢れだした嫌韓気分が今の日本を被っているが、それはなぜだろうか。李明博前大統領による竹島上陸と陛下への暴言、朴槿惠大統領の告げ口外交と千年被害者発言。軍艦島の世界遺産登録においてみせた筋違いの歴史批判。韓国における日本ヘイトと不当なバッシングが、嫌韓気分を招いたのだ。さらに、昨年、日本軍が20万人もの朝鮮人女性を強制連行して慰安婦にしたとのデマを流した朝日新聞が謝罪に追い込まれた。彼は、これも右傾化による歴史の歪曲だと批判するのだ。
尋問の最後、彼は、福島原発事故によって葛飾区は、とても人が住めない町になったと述べた。そうした根拠のない言説がそこに住む人々を差別し、福島復興の妨害になっていることへの配慮が欲しかった。まぁ、ヴァーチャルな彼になにを言っても無駄だろうが。
6 知花昌一:中核派と大谷派
最後に登場した知花昌一さんは、昭和24年生まれの66才。沖縄の読谷村に生まれ、同村議会議員となった反戦地主。知花さんといえば、87年に沖縄国体におけるソフトポールの開会式で日の丸を引きずり降ろした「日の丸焼き捨て事件」である。93年に執行猶予付の有罪判決を受けている。この日の証言では判決に「読谷村で生まれ育った被告人が、同村における沖縄戦の歴史、とりわけチビリガマの集団自決の調査党をとおして日の丸旗に対して否定的な感情を有するに至ったこと自体は理解し得ないわけではない」とあったことを強調していたが、厳しく糾弾された箇所には触れなかった。那覇地裁の判決は「読谷村実行委員会内で話合い、日の丸旗の掲揚が決定されたものであるにもかかわらず、それが自己の信条にそぐわないからということで実力をもって日の丸旗を焼き捨てるため本件犯行に及んだものであって、民主主義社会においては決して容認しがたい逸脱した行為といわざるを得ない」とした。
自己の信条にそぐわないことと折り合う民主主義は、彼の性に合わないようだ。07年の週間『前進』には、「日本の状況は教基法改悪、共謀罪、防衛『省』昇格、核保有、9条改憲と、まさに権力の側から激変の攻撃を仕掛けられてきている。……何とかして日本政府をぶっ潰したいものだ。」との文章が掲載されている。これは彼の文章だ。『前進』は国内最大のテロ組織とされる中核派の機関誌である。「日本政府をぶっ潰したい」はしゃれにならない。彼は、有事法制に反対する「とめよう戦争への道!百万人署名運動」の呼びかけ人でもあった(01年)。この署名運動は、中核派がヘゲモニーをとっていると警視庁が指摘していたものだ。
知花さんの法廷証言は、さながら「とめよう戦争への道!」のデジャブだ。國参拝によって日本を「戦争ができる国」にする「戦争法」は絶対反対!だ。傍聴席から拍手が起こった。まるでアジ演説だ。あの頃から変化したのは、チャイナの軍事的台頭と尖閣で高まる緊張だが、こちらは全く無視。いずれにしても政治過程で議論すべきこと。法廷で裁判官に向かって訴える性質のものではない。
知花さんは、袈裟をまとった僧侶の姿で法廷に立っていた。3年前に浄土真宗大谷派の僧侶になったとのことだ。証言者となった群島恒明さん、西山誠一さん、そして原告団長の菱木政晴さんも大谷派の僧侶である。原告たちのバックグラウンドとしては、松澤さん、松岡勲さん、増田俊道さんといった教員の経歴を持つ者を上回る。大谷派は日教組と並ぶ反日左翼の牙城なのだ。昭和40年代の「お東さん騒動」の果て、改革派と呼ばれた左派の活動家が教団を乗っ取り、今や僧籍に必要な研修にも「反差別、反國」が必須科目とされている。こうした政治化は専修念仏を説いた親鸞上人の信仰にそうものなのかと心から疑問に思う。
7 終章:東京國訴訟の行方【2枚:874字】
冒頭で紹介したように大阪訴訟は目途がついた。問題は、東京訴訟である。谷口園恵裁判長は、調査官出身のエリート裁判官。テキパキした口調で的確に審理を進めていく。原告らが執拗に求める意見陳述も、初回以外は認めない方針・・・だったのだが、いつしか老練な弁護団のペースにはまっていた。7月17日の法廷では、準備書面の要旨を原告本人に述べさせたいという策謀に乗せられてしまった。原告の陳述は、準備書面とは全く異なるものだった。裁判長は途中で「準備書面の要約ということだったのでは」と介入したが、原告らの代理人から「これからです」といわれて、黙ってしまった。結局、意見陳述が強行されてしまった。唖然としているうちに、2人目の原告が立ちあがり、中国語で陳述書を読み上げた。通訳が日本語に翻訳する。裁判長は憮然として「通訳が来られることは聞いていませんでしたが」。許可の有無などおかまいなしのやったもん勝ちである。裁判長は半ば呆れながら、「今回は、原告から全体の立証計画を出してもらうはずでしたが、どうなっていますか」と仕切り直した。弁護士が立ち、「原告の主張はあと6期日必要です。1期日目は國神社とは何かについての書面を出します次に、政教分離の書面を出し、その次は、被侵害利益について論じ、その次は・・・。」と落ち着きはらっていう。裁判長は「6回は無理です。もう1年が立ちました。次回までにできる限りの主張を出して下さい」というとすかさず、別の弁護士が「主張を尽くすのにあと6回必要です」と粘る。これでは審理計画どころではない。しばらく押し問答が続いたが、ついに裁判長が切れた。「これで閉廷します」と言い捨て、3人の裁判官は退出してしまった。裁判長は弁護団から舐められていた。東京訴訟はこんな具合で終結の目途がたたない。次回は10月8日。1回でも長く引き延ばすのが原告らの戦略であれば、協力を求めるのが間違いなのだ。これからのことが心配である。国民の重大な関心事が審理されている裁判である。裁判長はどう裁くのか。訴訟の行方から、目が離せない。
以上
徳永先生と言う人
靖国神社参拝訴訟の中間報告会が行われた時、ある方が「私はお話する予定がなかったので、こんな服装(ノーネクタイ)で来てしまいました」とはじめの挨拶をされた。そしてその後に、徳永信一弁護士はジャケットをラフに着こなしたスタイルで現れて「僕は話す予定でこんな格好で来ました」と、会場が笑いに包まれた。
難しい専門用語が溢れているのに、飄々とした雰囲気で常にわかりやすいお話は、誰とでもわけ隔てなく接する気さくなお人柄から生まれる技なのでしょう。
数年前、左派フェミニストの大学教授2名が、徳永先生にインタビューする場に居合わせたことがあります。思想信条が対極にある学者というのはとかく壁を作ってしまうものだし、バトル勃発もあり得るかもと身構えていました。ところが先方は豊富な話題やリラックスした雰囲気ですっかり打ち解け、笑顔で「お話もっとお聞きしたいですね」と大変ひきつけられたようでした。
徳永弁護士は世間一般では「思想的に右派に位置する弁護士」と認識されていますが、いわゆる左派との間でこんなに理想的な対談は他にあるだろうかと、傍でお聞きしていて実に楽しかったことを覚えています。
「愛国」という言葉にアレルギーを感じるような方々にも耳を傾けて貰う為には、理論武装だけでなく、楽しんでもらうことも大切なのだと気付かされました。
「憲法一条の会」の起ち上げにあたり、私が一番に相談に伺ったのは徳永先生なのですが、かつて構想されたという「一条護憲の会」というアイデアをいただいて、我ながらベストな選択をしたと思います。改憲を目標に活動している人が多い中で、あえて「憲法一条」を掲げれば色々と意見されることを承知の上での戦略で、世の中を見るバランス感覚が優れているからこその奇策だと思います。学ばせていただけることを幸運に思いますし、このたび先生のエッセイを纏めて冊子を発行出来たのは大きな喜びです。政局や裁判についての堅いテーマにもかかわらず、軽妙洒脱でとても面白く、多くの方に読んでもらいたいです。愛国陣営の戦略において、大衆にうまく入っていくことを考えるヒントになるのではないでしょうか。「遊び心」が鍵なのかなと考えてしまいますが、もっと勉強しないと難しいものだなと思う今日この頃です。次は一体どんなお話がお聞きできるかなと、楽しみにしています。
あ と が き
もう二十年ほど前になる。徳永弁護士と出会った経緯は覚えてないが、はっきりと覚えているのが、百人の会(当時は任意団体)の顧問に先生の名前をかかせてほしい。と頼みに行った。その時のことだ。先生は「百人の会に名前が上がると、俺まで右翼に見られるからな〜」。今、その言葉をそっくりそのままお返ししたい。
冗談はさておき、この冊子のタイトルを私は「座標軸0から物を見る」とつけた。座標軸0から物を見ないと論戦には勝てない。裁判に負けてから、「裁判所が左傾していた。」ではダメなのだ。右から物を見るとすべてが左になってしまうからだ。
先日の東京地裁での第7回目靖国裁判が終わってからの報告会。あるご婦人が「なぜ裁判所はこのようなけったいな訴えを受けるんでしょうか」と話された。徳永弁護士は「形式が整っていれば、受けざるを得ないんですよ。」と話されていたが、我々から見ると原告は『けったい』だが原告から見ると我々が『けったい』なのだ。
良し悪しを数で決めるのが民主主義。そのルールで作った法律。左派から見れば右派が悪。要は第3者への説得合戦なのだ。それを我々は肝に命じないといけない。
今、憲法改正が話題になっている。読売新聞が平成六年に作った試案がある。そしてその試案は憲法一条に国民主権が書かれている。天皇の項目は二条なのだ。あのGHQでさえ天皇を一条から置いたのに。そして大事なことは読売新聞が一番売れているという事実だ。
徳永弁護士は京都大学吉田寮の出身とお聞きしている。吉田寮と言えば知る人ぞ知る、過激派学生の巣窟。余談だが、徳永先生、やたらと火炎瓶の作り方に詳しい! 先生の見かけは茶髪にG―パン。正義の代理人、靖国弁護の竹之下弁護士とは見かけは正反対。そのせいかどうかは知らないが、徳永先生を『保守ではない』というゴリゴリがいる。そのゴリゴリに聞いてみたい。徳永先生以上に靖国を守った人はいるのか。英霊を守った人がいるのか。日教組相手に闘った人がいるのか。沖縄、日本国の安全保障の為に盾になった弁護士がいるのか。と。「私は保守だ!」と力説することが保守ではない。何をしてきたかだ。大阪から東京に行くには必ず名古屋を通らないといけないのか。名古屋を通った人は必ず東京に行くのか。と。彼は名古屋を通らず大阪から東京に行く達人なのだ。先生がいろいろなところで話をされる。そして、「こんなこと言うからネットでボコボコにされるんや。」と言いながら左派批判を止めない。その左派批判は、あくまで座標軸0から、原点からの視点で、自然体で話される。我々ものをしゃべる者にとって最も重要なことではないだろうか。
徳永弁護士に最も世話になっている者を代表して
増 木 重 夫
徳永信一弁護士の戦い(思いつくままに)
■三輪・土屋都議VS極左足立16中教員裁判 ■七尾養護学校過激性教育裁判 ■第1次靖国参拝訴訟
■ 沖縄集団自決裁判 ■大江健三郎裁判 ■沖縄龍柱裁判 ■朝鮮総連固定資産税減免裁判 ■兵庫県朝鮮学校補助金差し止め訴訟 ■高金素梅靖国乱入刑事告発 ■朝日・グレンデール裁判 ■宜野湾市民VS翁長知事裁判