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  参加申立書(東京;H26-9-15)
 

平成26年(ワ)第9825号 
安倍首相靖国神社参拝違憲確認等請求事件  
原 告  関千枝子 外    
被 告  靖国神社 外2名  

            補助参加の申立書     
                       
    平成26年9月15日 東京地方裁判所民事6部合議A係 御中

      申立人の表示  別紙申立人目録記載のとおり
  

(送達場所)
〒102−0093 
東京都千代田区平河町二丁目16番5号 クレール平河町303号
        高池法律事務所
          電 話 03−3263−6041 
          FAX 03−3263−6042 
        申立人ら代理人弁護士  高  池  勝  彦

〒530−0054
大阪市北区南森町1丁目3番27号 南森町丸井ビ6階
       コ永総合法律事務所
          電 話  06−6364−2715
          FAX  06−6364−2716
        申立人ら代理人弁護士  コ  永  信  一 



申立の趣旨
  
上記原被告間の頭書事件につき、申立人らは、被告靖国神社を補助するため、
訴訟に参加する。   
        
申立の理由
        
1 本件訴訟    
   上記事件は、首相の靖国神社参拝に反対する政治的信条ないし思想を有す
原告らが、国、安倍晋三及び靖国神社を被告とし、被告安倍晋三及び被告靖国神社に対し、被告安倍晋三の内閣総理大臣としての参拝ないしその受入れを差止め(請求の趣旨第1項、同第2項)、被告国との間において平成25年12月26日に行われた被告安倍晋三による靖国神社参拝が憲法に違反することの確認を求め(同第3項)、合わせて、同参拝によって各原告が被った信教の自由、宗教的人格及び平和的生存権に対する侵害に係る慰謝料につき、被告らに各自連帯して支払うよう求める(第5項)ものである。 
首相の靖国神社参拝により宗教的人格権等を侵害されたことを理由とする訴訟は過去にも提起されており、中曽根康弘首相が昭和60年8月15日に行った靖国神社参拝が違憲であると訴えたもの(東京地裁、大阪地裁、福岡地裁)、小泉純一郎首相が平成13年8月13日等に行った靖国神社参拝が違憲であると訴えたもの(東京、大阪〔2件〕、千葉、愛媛、福岡、那覇)があるが、いずれも法的保護に値する利益の侵害がないとして請求を棄却されている。   
本件訴訟は、これまで東京地裁に提訴された同種の訴訟と異なり、宗教法人である國神社が被告として訴えられ、首相による神社参拝受入れの差止めと損害賠償金の支払いを求められている。   

2 申立人ら  
本件訴訟において靖国神社の補助参加人となるべく本申立に及んだ申立 人らは別紙当事者目録記載のとおりであり、いずれもそれぞれ自らの良心、思想、信条ないし信仰の発露として靖国神社及び同神社に祀られた英霊に対する崇敬と感謝の念を抱いている。  
申立人らは、いずれも今日の日本の安寧は、国難に殉じた英霊の尊い犠牲のうえに成り立っていることを心に刻み、平和と繁栄の礎となった英霊に哀悼と感謝の誠を捧げ、その徳を顕彰することは、日本の国柄、自然、文化及び歴史、そして国民を愛する者の道徳的責務であると考えている。そして内閣を代表して日本の安全保障を司り、自衛隊の最高指揮監督権を有する首相の立場にある者が折節に靖国神社に参拝することは、過去に靖国神社における祭祀を約して出征を命じた日本政府の代表者としての義務であり、その恒久的実施こそが現在ないし未来の日本国民の安寧と平和的生存を護るうえで不可欠なことだと考えている。   
被告安倍晋三首相が挙行した本件靖国参拝は、現に広範な国民からの称賛を受けており、日本国の憲法原則や政治道徳はもとより、普遍的な道徳原理に照らしても非難されるべきものではない。         

3 靖国神社に対する冒?、政教分離、訴権の濫用    
  ? 本件訴訟による英霊に対する冒?と申立人らに対する侮辱    
    國神社は、戦前、戦後を通じて、わが国における戦没者追悼の中心的施設であり、多くの遺族や国民はそのように考えている。
他方、原告らは、その訴状において、靖国神社を、「国家神道思想に基づき、天皇のために戦没した者を顕彰する施設として、アジア侵略支配戦争を下支えする国家機関であった」とし、被告安倍による靖国神社参拝につき、「戦前に國神社が有していた軍国主義の精神的支柱としての役割を現在にも甦らせ、国のために犠牲になることを美化するシステムとしての國神社を積極的に利用しようとしている」などと独自の政治的立場ないしイデオロギーに基づく意義付けを行い、その意義付けのもとに一方的に断罪している。     
    そこには、お国のために殉じた英霊に対する一片の敬意も感謝の念もないし、遺族を含む多くの国民が國神社と英霊に抱いている尊崇と畏敬の念に対する配慮もない。   
  ? 國神社における英霊祭祀(ブルーノ・ビッテル神父の答申)   
占領統治下、マッカーサーからの諮問に対し、駐日ローマ教皇庁・バチカン公使代理のブルーノ・ビッテル神父は國神社の存廃について次のように答申した。    
「自然の法に基づいて考えると、いかなる国家も、その国家のために死んだ人びとに対して、敬意をはらう権利と義務があるといえる。それは、戦勝国か、敗戦国か問わず、平等な真理でなければならない。無名戦士の墓を想起すれば、以上のことは自然に理解出来るはずである。もし、國神社を焼き払ったとすれば、その行為は、米軍の歴史にとって不名誉極まる汚点となって残ることであろう。歴史は、そのような行為を理解しないにちがいない。はっきりいって、國神社を焼却する事は、米軍の占領政策と相いれない犯罪行為である。國神社が国家神道の中枢で、誤った国家主義の根元であるというなら、排すべきは国家神道という制度であり、國神社ではない。我々は、信仰の自由が完全に認められ、神道・仏教・キリスト教・ユダヤ教など、いかなる宗教を信仰するものであろうと、国家のために死んだものは、すべて國神社にその霊を祀られるようにすることを、進言するものである」。   
     ビッテル神父が進言したように、日本という国家がお国のために散華した英霊を國神社において篤く祀り、政府を代表し、安全保障を司る内閣総理大臣が國神社を参拝して英霊に敬意を払うことは、いかなる国家にも認められた万国普遍の権利であり義務なのである。  
 ? 政教分離原則と國神社参拝    
我が国の政教分離原則は国家と教団との過度の関わりを排し、信仰の自由を保護することを目的とする制度的保障であり、その要諦は、異なる宗教・宗派の共存を可能とする宗教的寛容にある(国教を持つイギリスや事実上の国教を擁するスウェーデン、ノルウェー等の北欧諸国においても政教分離の要請を満たしているといわれるのは、その宗教的寛容の達成による)。その点、我が国の神社神道の信仰は、特定の教義教典を持たず、村落共同体の祭礼と簡便な儀礼的所作を中心に据え、他宗教を排せず、多重信仰を容認する多神教的寛容を備えており、本来的に、政教分離の基本理念に抵触するものではないと解することができる。
    わが国には戦争で命を落とした英霊を靖国神社において英霊として祀り、慰霊・顕彰することを固く約束していたという歴史的事実がある。多くの英霊が近親者および戦友たちに「國で会おう」と言い残して散華していった。  
戦後、日本の安全保障を司り、自衛隊の最高指揮監督権限を有する内総理大臣が國神社に参拝し、過去の戦争に散華した英霊に感謝と敬意を捧げ、その徳を顕彰することは戦前と変わらず天皇を国家と国民統合の象徴として戴く国民国家の義務であり、政治上・人道上の義務であると多くの心ある国民は感じている。
戦死した英雄ないし英霊に対する慰霊・顕彰の儀礼は、万国共通にみられる普遍的なものであり、わが国では、神社や寺院の僧侶においてなされる祖霊・御霊の祭祀は「お盆」の慣習にみられるように古くからの伝統的習俗に関わるものである。日本の繁栄の根本的理由をこうした信仰にあるとする柳田国男が「少なくとも国の為に戦って死んだ若人だけは、何としても之を仏徒の謂う無縁ぼとけの列に、疎外して置くわけには行くまいと思う」とするのは多くの日本人の心情に通じている。  
前述した政教分離の趣旨と制度目的に照らせば、万国共通の儀礼である戦没者の慰霊・顕彰の儀礼を伝統的習俗にのっとって行うことを排斥するものとはいえない。 
  ? 訴権の濫用    
おもうに、自らの宗教的人格権等の主観的権利を侵害されたなどとして、靖国神社を被告として訴訟を提起し、独自の世界観と政治的信条を振りかざして多くの国民の崇敬を集める靖国神社を冒涜し、英霊を蔑ろにし、國神社における儀礼的宗教活動の中心である崇敬者による参拝の受け入れまで差し止めようとする原告らの行為は、まさしく裁判という場を借りてする原告らの思い上がった政治的信条の宣伝と押し売りである。靖国神社に被告席に座ることを強いる無理筋の訴えは、多くの国民には独り善がりの愉快犯による政治的パフォーマンスにしか見えない。それは國神社と英霊を崇敬する申立人らの思想・良心・信条・信仰を罵倒する侮辱であり、その暴挙を知った申立人らは、いずれも全身が震えるほどの激しい怒りを感じている。 
そして、それはまさしく、「もっぱら相手方当事者を被告の立場に置き、審理に対応することを余儀なくさせることにより、訴訟上又は訴訟外において相手方当事者を困惑させることを目的とし、訴訟が係属、審理していること自体を社会的に誇示することにより、相手方当事者に対し、有形、無形の不利益・負担若しくは打撃を与えることを目的」とするものであって、その訴えは民事訴訟制度の趣旨に反して訴権を濫用するものであることは明白である。  
    斯かる不当な訴えは、ただちに却下されるべきである(最判昭和53年7月10日・民集32−5−888、東京高判平成13年1月31日・判タ1080−22)。
國神社は、宗教宗派の如何を問わず、人種・国籍・民族の如何を問わず、万人に等しく開かれており、多くの外国人、仏教徒、クリスチャン、その他の信仰を奉じる者、特定の宗教を奉じないものがそれぞれの流儀と所作で参拝している。靖国神社にとって首相の参拝を拒否する理由はない。國神社が首相の参拝を受け入れたことを違憲と断じ、その差止めを求める原告らの主張は、國神社の存立と宗教的活動の自由を否定するものである。かかる独善的で不寛容な訴えが容認される余地はない。 

4 参加の利益   
  ? 原告らが主張している権利ないし利益について  
    原告らが主張している信教の自由、宗教的人格権、平和的生存権、その他の人格権は、いずれも個人の人格的生存と密接に結びついた宗教的信条ないし信仰、或いは、戦争のない平和な状態のなかで生活を送ることに関わる主観的利益をいうものと解され、いずれも法の保護に値する法的利益といえるものではないと解され、過去の同種事件では悉く請求が棄却されてきた。     
しかし、裁判官の恣意によって、原告らが主張している権利ないし利益が法的保護に値するものであると解される可能性は絶無ではない。そしてその場合、それが基本的人権に由来する個人の人格的利益に関わるものとされている以上、首相の國神社参拝について原告らと異なる思想・信条・信仰を有する申立人らも原告らと同じ権利ないし利益を享受していると判断されることになる。  
  ? 申立人らの参加利益   
   ア 申立人らの信教(思想良心)の自由の侵害      
     原告らは、本件訴状において、被告安倍の本件参拝及び被告靖国新者の本件参拝受入行為は、国の機関として、特定宗教である「國神社」と結びつき、国や国の機関の権威をもって、原告らに対して、戦没者を神として祀る「國神社」の教義に賛同し、哀悼の誠を捧げ、冥福をお祈りすることを強要するものである等と捉え、もって原告らの信教の自由を侵害するものであると主張している。  
斯かる独り善がりの主張が、「信仰の自由の保障は、自己の信仰と相容れない信仰をもつ者の信仰に基づく行為に対しても強制や不利益の付与を伴うものでない限り、寛容であることを要請している。」とする最高裁判決(最判昭和57年6月1日・民集42巻5号277頁)の説示に反するものであることは明らかである。
しかしながら、万が一にも裁判所の偏向した恣意が原告らの不寛容な訴えを認め、被告國神社による時の首相の國神社参拝を将来に渡って差し止め、國神社に損害賠償を命じる判決が確定した場合、申立人らの願い、すなわち適切な折節に内閣総理大臣が國神社に参拝して英霊に哀悼の誠を捧げることが、英霊の慰霊と顕彰に絶対的に必要であると考え、その恒久的実施を心の奥底から希求している申立人らの自律的良心に基づく信仰ないし思想信条の自由は、国の機関である司法の権力と権威によって決定的に阻害されることになる。 
そのような事態が、申立人ら各自に身悶えするほど耐え難い精神的苦痛を与えることは容易に想像できよう。申立人らは、本件訴訟の結果に対し、各自の良心と信仰に関わる決定的な利害関係を有しているというべきである。  
   イ 申立人らの宗教的人格権
原告らが主張する宗教的人格権の概念は、山口地裁昭和54年3月22日判決が説示した「親しい者の死について静謐の中で宗教上の思考を巡らせ、行為をなす権利」として定義付けられたものを基本にし、これに加え、宗教ないし信仰が取り扱う最も私的な事柄である「生」「死」「魂」に関する領域について国家による一切の干渉を受けない権利をいうものだとされている。  
そうであれば、申立人らにおいても、「親しい者の死について静謐の中で宗教上の思考を巡らせ、行為をなす権利」や「生・死・魂に関する領域について国家による一切の干渉を受けない権利」を内実とする宗教的人格権を有するはずである。
もちろん、かかる権利はその大部分について上記山口地裁判決の上告審である前記最高裁判決が「静謐な思考環境の下で信仰を送るべき利益なるものは、これを直ちに法的利益として認めることはできない」としたことによって否定されている。しかし、同最高裁判決が判例として定着している事実を知りながら、敢えて提起された本件訴訟に対し、万が一にも、その主張に共鳴する政治的信条を有する裁判官によって原告らの主張を認める判決が下されることを申立人らは懸念している。
仮に、國神社による時の首相の参拝の受入れを差止め、國神社に損害賠償金の支払いを命じる判決がなされた場合、國神社における英霊祭祀は大混乱を免れない。法務大臣や外務大臣はどうなのか。東京都知事による参拝はどうなのか。国会議員はどうなのか。自衛隊の幹部や隊員による参拝はどうなのか。これまで國神社に参拝していた諸外国の大使や首班はどうなのか、と。そして、そうした困惑と混乱こそが、原告らの望んでいるものなのだろうと思われる。   
申立人らが有する「親しい者の死について、静謐の中で、宗教上の思考を巡らせ、行為をなす権利」や「生・死・魂に関する領域」である國神社に祀られる近親者の英霊の生・死・魂について、その国家との関わりや、歴史上の意味づけについて、宗教上の思考を巡らせ、行為をなす権利は、明らかに侵害され、政治的喧騒とイデオロギー論争のなかに放り投げだされる。もはや静謐は永遠に失われ、國神社の存在を非難する周辺諸国による一方的な憎悪言論に晒されることになる。
折角、ビッテル神父がみせた宗教者の良心に基づいて救われた國神社における英霊祭祀 ―― あらゆる国家の権利であり義務である普遍的な国家殉難者の慰霊・顕彰 ―― の静謐は、もはや永遠に失われる。 
それが申立人らの宗教的人格権なるものの侵害を意味することは明らかであろう。  
   ウ 申立人らの平和的生存権 
原告らが主張する「平和的生存権」の概念は、「憲法9条に違反する国の行為、すなわち戦争の遂行、武力の行使等や、戦争の準備行為等によって、個人の生命、事由が侵害され又は侵害の危機にさらされ、あるいは、現実的な戦争等による被害や恐怖にさらされるような場合や、憲法9条に違反する戦争の遂行等への加担・協力を強制されるような場合には、平和的生存権の主として自由権的な態様の表れとして、裁判所に対し当該違憲行為の差止請求や損害賠償請求等の方法により救済を求めることができる」というものである。
そして原告らは本件参拝及び本件参拝受入行為が戦争の準備行為に当たり、これによって原告らの生命・自由が侵害の危機にさらされ、あるいは現実的な戦争等による被害や恐怖にさらされるに至り、もって平和的生存権が侵害されたのだと主張している。原告らによれば、本件國参拝によって韓国、中国、アメリカを含めた国際社会の反撥を招き、近隣諸国との関係を悪化させ、ひいては軍事的な衝突も起こりうる状況となったのだという。  
原告らのいう「平和的生存権」という概念の内容と権利性は甚だ疑問であり、とりわけ日本国憲法前文の「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」として全世界の国民の権利として確認されたものが、なぜ憲法9条とリンクするのかは全く不明である。申立人らにおいて原告らの単なる政治的主張に過ぎないものと判断する所以である。   
とはいえ、憲法前文にも裁判規範性があるとの極少数の学者が支持する特異な解釈を採り、平和的生存権なるものに実定的権利性を認める解釈を裁判所が採る可能性は絶無ではない。しかし、その場合は、憲法前文が「全世界の国民の権利」としていることや、ほぼ同一の表現が国連憲章(それは集団的安全保障を基調としながらも、その体制が確立されるまでは、個別的自衛権や集団的自衛権による国防を認めている。)にあることに照らし、「平和的環境のなかで人々が安全かつ自由に生存し、人間の尊厳を損なわれることなく生活することを求める権利」であり、平和的環境を破壊する戦争を抑止・回避するために必要かつ有効な政策をとる事を国家に求める権利として捉えられるべきものである。  
現在、わが国は、俄かに軍事大国となり覇権主義と領土的野心を隠さない中国の人民解放軍の「海洋強国」政策による軍事衝突の危機に晒されている。東シナ海にある尖閣諸島周辺における中国の軍事的プレゼンスの拡大と挑発は、南シナ海におけるフィリピン、ベトナム、インドネシア、マレーシアとの対立を招いている海洋軍事膨張路線の一環である。南シナ海におけるスプラトリー諸島の軍事的占領をめぐって中国と対立するフィリピンは、かつて撤退した米軍を22年振りに基地に呼び戻し、パラセル諸島の領有をめぐって中国と対立するベトナムでは中国の高圧的姿勢に対する反撥と侵略の懸念から反中抗議デモが頻発拡大している。アジアにおける軍事衝突の危機は、本件國参拝によって引き起こされたものではない。専ら中国が引き起こしているのである。    
本年7月1日、第二次安倍内閣は集団的自衛権行使容認を閣議決定した。同決定は、アメリカ、オーストラリア、インド、アセアン諸国の歓迎するところとなり、EU諸国においても支持されている。中国による軍事的衝突を抑止し、戦争に至る道を回避するための現実的選択であるとの評価が国際的に定着しつつある。   
本件参拝行為及び本件参拝受入行為によって原告らの平和的生存権が侵害されたという原告らの主張は、原告らの誤った国際情勢認識に基づくものであり、全く非現実的なものである証拠である。逆に、自衛隊の自衛隊の最高指揮監督権限を有する内閣総理大臣が國神社に参拝せず、お国のために散華した英霊を放置するのであれば、却って、日本の自衛力を軽んじてなされる中国の冒険主義的挑発を誘発するであろう。その意味において本件参拝及び本件参拝受入行為は、中国による軍事衝突を抑止するものであるというべきであり、中国の軍事的脅威と対峙する日本とアジア諸国の国民の平和的生存権の擁護に資する行為というべきである。    
裏返せば、万が一、裁判官の恣意により、原告らの請求が認められ、安倍首相による國参拝を日本の国家機関である司法が制止するという事態が生じた場合、わが国は国に殉じた英霊の扱いを粗末にしており、個別的自衛権を行使して中国と事を構える覚悟がないとの心証を中国に与えることになり兼ねず、中国による軍事的衝突ないし侵略を受けるおそれを高めるという結論が導かれる。  
すなわち、原告らが主張する平和的生存権に基づく請求が認容されれば、申立人らを含む日本国民の安寧と平和的生存権が侵害されるという背理が存するのである。申立人らは、本件訴訟を放置できない死活的利益を有することが理解されよう。  
  ? 本件訴訟の結果と参加の利益
    原告らが主張する信仰の自由、宗教的人格権、平和的生存権なるものは、申立人らも等しく享有するはずである。本件訴訟の結果は、申立人らが有する宗教的人格権等に対し、重大な影響を与えることは余りにも明らかである(しかも、本件受入行為差止めによる権利侵害の程度は、被告安倍の本件参拝行為による侵害の比ではない)。
それらの主観的権利ないし利益が、およそ法的保護に値しないものであるのであれば、直ちに本件訴訟を却下ないし棄却すべきである。原告らの宗教的人格権等が法的保護に値しうるというのであれば、申立人らが本件訴訟に参加する権利を認めなければならない。その場合、原告らの請求が認められるか否かは、國神社による本件参拝受入行為の違憲性ないし違法性の有無によって決することになるが、それが合憲であり違法ではないと確信する申立人らに対し、本訴において、これを争う機会を保障すべきである(憲法32条、憲法14条)。   
    申立人らは、裁判所において申立人らの前記信仰の自由、宗教的人格権及び平和的生存権に係る参加の利益が否定され、本件補助参加の申立てが却下されることを切望している。それは同時に原告らによる本件訴訟の却下ないし棄却がなされることを意味するからである。裁判所において原告らの宗教的人格権等の利益が法的保護に値すると判断するのであれば、申立人らは、被告國神社による本件参拝受入行為の違憲・違法性を独立の当事者として最期の最期まで徹底的に争う所存である。   
   
              付属書類
   
   1 訴訟委任状          ◎通

   


 【事 務 局】
  〒565-0874 大阪府吹田市古江台2-10-13-3F 高志葛C付
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    名   称 英霊を被告にして委員会