春の花


渡辺論文


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最優秀賞受賞研究

台湾人元日本兵の戦後補償問題と
    アジアの相互理解について

             
        法政大学  国際文化学部4 年 鈴木靖ゼミ 渡辺俊一

はじめに
 2009 年、NHK が放送した「アジアの“ 一等国”」という番組に対し、
「内容が偏向している」などとして激しい抗議や批判の声があがった。
この番組は、1895 年、日清戦争に勝利した日本が、初めて獲得した植
民地である台湾での統治の実態を、台湾総督府資料や当時を知る台湾
の人々へのインタビューをもとに検証したもので、NHK が開国150
周年を記念して制作したシリーズ『JAPAN デビュー』の第1 回であ
る。番組では、日本統治下の差別や抵抗運動への弾圧、皇民化教育など、
日本の植民地統治の負の部分に焦点が当てられていたが、これに対し、
日本国内だけでなく、台湾からも批判の声があがったのである。
 その中で議論を呼んだ内容の一つが、1910 年、ロンドンで開かれた
日英博覧会に台湾の先住民族パイワン族を見世物的に出展したとする
「人間動物園」と題した部分である。番組が放送された後、日本の新
聞社の取材に対し、渡英したパイワン族の出身地である屏東県高士村
の村長・荘来金氏は、「先達が海外で我々の文化を広めたことは村の
誇りとして語り継がれている」と答えた。ところが番組にはこうした
先住民の感情はまったく紹介されなかったのである。注1 台湾の先住民
たちは、自らの文化が日英博覧会で紹介されたことを誇りに感じ、代々
語り継いできた。しかし、日本のメディアはそれを「人間動物園」と
報じたのである。
 確かに、欧米では18 世紀以降、非ヨーロッパ人を見世物とする展
示が各地の動物園あるいは博覧会など行われてきた。社会進化論の流
行を背景に、アフリカやアジアの諸民族を遅れたあるいは劣ったもの
と考え、人々の好奇の目にさらす展示は、現代では「人間動物園(Human
Zoo)」と呼ばれ、植民地主義を正当化するための人種差別的行為とし
て批判されている。しかし、台湾先住民の感情を伝えぬまま、これを
教条主義的に「人間動物園」と呼ぶのも、彼らの誇りを踏みにじる行
為であろう。旧植民地の被支配者の感情を同情心や加害者意識で一方
的に解釈するのではなく、当人がどう感じているのかを理解すること。
その部分に焦点を当てなければ、互いの認識の溝を埋めることはでき
ない。自らの意図に合わせて恣意的な編集を行ったのでは、何も共通
の理解は得られないであろう。
 台湾には今も日本語を使い、日本統治時代を懐かしむ高齢者は少な
くない。そして、彼らは過去の一時期においては、確かに日本人であっ
た。彼らの日本へ対する感情の複雑さは、計り知れない。それゆえに、
彼らの言葉に直接耳を傾けなければ、理解できないことがあまりに多
い。
 この一件からは、日本と台湾──もちろん、そこには各エスニック・
グループごとに異なった見方があるのであるが──の歴史認識に大き
な隔たりがあることがわかる。今回、本論文では、戦後補償問題をひ
とりの台湾人元日本兵とその遺族に焦点を当て、いかにして相互理解
を深めて行くべきかを考えてみたい。

“ 日本人” から“ 台湾人元日本兵” へ
〜泉川正宏(劉志宏)の生涯〜

 1895 年、台湾は日本に割譲され、台湾の人々は日本人となった。50
年という長い統治の中で、彼らは日本式の教育を受け、日本精神を受
け継いだ。志願兵として日本人として戦い、太平洋戦争中大きな役割
を果たした。しかし、日本は敗れ、台湾の「放棄」を余儀なくされる。
日本国籍を失った台湾人元日本兵やその遺族たちは、「国籍条項」に
阻まれ、戦没者の遺族や戦傷病者に対する恩給や援護の受給資格を失
う。何のために戦ったのか。なぜこうした差別を受けるのか。当然多
くの台湾人元日本兵やその遺族たちが訴訟に乗り出したが、訴えは認
められることはなかった。高裁判決での異例の付言注2 を受けて、1987
年、議員立法により「台湾住民である戦没者の遺族等に対する弔慰金
等に関する法律」が成立し、ようやく台湾人戦没者遺族等への補償が
決まり、戦病死者と重傷者を対象に弔慰金が支払われた。その額は一
人200 万円に過ぎなかったが、この時点で国家間では戦後補償問題は
解決済みという認識がとられている。
 ここで、一人の元台湾人日本兵とその遺族を取り上げ、この問題に
ついて考えてみたい。その人物の名は、泉川正宏。台湾名は劉志宏。
1923 年、台湾新竹州苗栗郡に生まれた。1940 年、桃園農業学校の三
年に在学中、台湾人として2人目の陸軍少年飛行兵( 第11 期) となり、
東京陸軍航空学校および所沢陸軍整備学校に学んだ。その後、フィリ
ピン防衛戦(捷一号作戦)のため、1944 年12 月14 日、陸軍特別攻撃
隊菊水隊の一員として、百式重爆機でフィリピンのネグロス島沖へ出
撃し、21 歳の生涯を閉じた注3 。
 まず、日本人でない彼らが、なぜ日本人として戦ったのか、その経
緯を、当時の台湾の実情に照らし合わせて考えてみたい。
 泉川は植民地台湾で日本人として生まれ、日本の皇民化教育を受け
て育った。日本の教育の原点が教育勅語であり、日本人の心のよりど
ころも、同様に教育勅語であった。教師たちは、教育勅語の精神、徳
目の浸透に努めた。台湾の子供たちも「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ…一旦
緩急アレハ義勇公ニ奉シ」の十二徳目を胸に刻んで育ったのである。
太平洋戦争が起こり、いわゆる「義勇奉公」の時代が来ると、台湾の
若者たちは、国の為に死しても悔いなし、時こそ今とばかりに争って
陸海軍人軍属に志願した注4 。1990 年に厚生省が発表した統計によれ
ば、台湾人元日本兵・軍属の数は207,183人、戦死者は30,304人に達した。
 泉川正宏もこうした若者の一人であった。当時の新聞の取材に泉川
の父親はこう語っている。
 正宏が少年飛行兵試験を受ける時、私に相談しました。そ
の際、私は正宏の顔をじっと見つめて、『覚悟はできているの
だろうね』と聞いたところ、『はい、私たちが今日安楽に暮ら
せるのもお国のためで、一命は問題ありません。これからの
戦いは対空で決せられます。飛行兵へいたることは、日本男
児として生まれて君国に報いる最も近道だと思います』ときっ
ぱり答えてくれたので、嬉しく思いました。注5
 このように、彼は日本人として、日本のために戦ったのである。
 一方、泉川の父親は彼の戦死をどのように受け止めたのだろうか。
当時の新聞は、泉川の戦死の報を聞いたときの父親の言葉をこう伝え
ている。
 そうか、死んでくれたのか、大した手柄もたてずに死んでいっ
たのは心残りだったろうが、立派な死所を得たことはさぞ本望
だったでしょう。注6
 しかし、実際はどうだったのであろうか。泉川の死から65 年が過
ぎた2009 年、泉川の弟である劉志栄氏は、本学の学生の取材に答え
て、その時の父親の姿をこう語っている。泉川が最後に帰省した時、
父親は不在であった。帰宅した父親は、自転車を放り出して床の上で
一人涙を流していたという。「僕はまだ小さかったから、親父が泣く
とちょっと変な感じがしました。親父は何も言わなかったけど」注7 。
 戦時下の報道が伝えるものと、事実との間には大きな隔たりがある。
その事実は、戦いで散っていった若者の遺族の無念を物語っている。
 では、議員立法による弔慰金の支払いについて、泉川の遺族たちは
どのように考えているのか。次章では、戦後65 年経っても、消える
事のない台湾人元日本兵の戦後補償について考えてみたい。

台湾人元日本兵遺族が求めているものとは
 1988 年、弔慰金の請求申請の開始を前に、泉川のもう一人の弟・劉
志浩氏は、読売新聞の取材に答えてこう語っている。
 兄貴は日本人として生き、日本人としてお国のために死ん
だ。それなのに、日本政府は兄貴のことを台湾人元日本兵と
して扱う。これでは、日本人として本懐を遂げた兄貴の霊は
浮かばれない。注8
 同紙によれば、劉志浩氏は戦後33 年経ってはじめて兄の死の様子
を具体的に知ったという。日本政府からは簡単な戦死の通知があった
だけであり、自ら訪日して知人の助けを借り、調べてもらった結果、
ようやく真相が判明したのだった。
 それでも、兄貴は日本人として本懐を遂げた、と私は喜んで
いた。ところが、日本政府は、日本人として死んだ者を台湾人
元日本兵として扱い、補償金を払おうとする。これは、死者に
対する侮辱ではないのか。なぜ、日本人として扱えないのか。
私は、日本政府が金をくれると言っても、受け取ることは出来
ない注9
 劉志浩氏が日本政府に求めているのは、「日本人として死んでいっ
た兄の心のかけがえのなさを知り、めい福を祈ってほしい」というこ
とだけだという。注10
 一方、劉志栄氏も2009 年、本学の学生の取材に答えてこう述べて
いる。
 僕が一番欲しいのは感状、感状でも貰えれば、せめてこれ
で、兄貴が特攻で死んだのだと納得できる。しかし、日本政
府へ対する嘆願書は2回も跳ね返された。特に僕の書いた一
回目の嘆願書は、もう書いてくるなと返事をされた。覚悟は
していたが。泉川正宏は日本兵として死んだのです。日本人
として死んだのです。もちろん身分は台湾人です。でも台湾
人は日本人だったのです。歴とした少年飛行兵の訓練を3年
も受けていた。1つの感状、政府で作ればいいじゃないですか。
もし劉志宏を外国人だと見なしたら、確かに彼の遺族は外国
人になってしまったけれど。(中略)お金はいりませんよ。い
まどきお金をもらっても、むしろ今の日本政府が外国人に対
して、この外国人が日本人だったころ、日本のために死んだ
のだと、そう思うなら、将来の両国の若い人達にそれを分か
らせて欲しい。しかも台湾は日本の占領地だったのです。植
民地だったのですから、台湾と日本は特殊な関係なのですよ。
日本人を見ても、外国人だなんて思えません。若い人は分か
らないけど、僕達の世代はそう思えない。かつては日本人だっ
たことのせいでしょう。注11
 政府としての償いは十分に必要である。補償に対しての訴訟は、今
まで国内で「日本人と同等の金額を補償されるべきである」という声
が挙げられてきた。しかし、実際は、金額の問題だけではない。遺族
の中には、死んでいった者の当時の心情を尊重し、日本人と同等の扱
いをして欲しい、日本人であったことを認めてほしいという声もあ
がっているのである。
 筆者が今年11 月に台湾へ取材に行った際、泉川の妹・劉純真さん
もこう語っていた。
 台湾人元日本兵の遺族達はみんながお金を欲しいわけじゃな
い。欲しいのは補償金ではなく 、日本人として死んでいった人
を、日本人と認めてほしい、ただそれだけです。

結論
〜共感と相互理解〜

 ここで疑問に浮かぶのは、「誰のための補償なのか」ということで
ある。もし補償が受ける側のためのものならば、受け手が何を望んで
Hosei University Repository
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いるのかを把握する必要があろう。今回の場合、補償は台湾人元日本
兵の遺族のための補償である。そして、少なくとも彼らは、日本人と
して死んでいった泉川正宏を、日本人と認めて欲しいと望んでいるの
である。
 戦後補償の問題を「金銭の問題だ」と一方的に決め付けるのではな
く、日本統治時代を生きた人々の声に耳を傾けるべきではないか。相
手の言葉を相手の視点に立って考え、共感することで、台湾だけでは
なく広くアジアの中で、相互理解が生まれるのではないか。
 相手の視点に立たなければ、その心情に共感することはできない。
心情に共感できなければ、相互理解を生み出すこともできないだろう。
それは個人でも国家でも同じであろう。日本がアジアの国々との相互
理解を目指すのならば、こうした事実から目を背けてはいけないだろ
う。

注1 「(Media Times)台湾で広がる困惑 日本の植民地統治を批判したNHK 番
組」(朝日新聞2009 年9 月16 日 朝刊)
注2 東京高裁は1985 年、「台湾人元軍人・軍属・遺族等戦死傷補償請求訴訟」
の原告側の訴えを棄却した際、「当裁判所は以上のように解するのである
が、ただ現実には、控訴人らはほぼ同様の境遇にある日本人と比較して著
しい不利益をうけていることは明らかであり、しかも戦死傷の日からすで
に四〇年以上の歳月が経過しているのであるから、予測される外交上、財
政上、法技術上の困難を超克して、早急にこの不利益を払拭し、国際信用
を高めるよう尽力することが、国政関与者に対する期待である」と異例の
付言を行っている。
注3 陳文添「泉川正宏〜戦死菲島的台湾神風特攻隊員」( 高市文献第19 期第2 期、
2006 年6 月)
注4 鄭春河『台湾人元志願兵と大東亜戦争〜いとほしき日本へ』(展転社、1998年、253 ページ)
注5 台湾新報「薫るも床し菊水隊員・泉川軍曹壮絶なる体当たり」1945 年7 月
4 日
注6 同注4
注7 小林恵実子「(ドキュメンタリー作品)台湾人特攻隊員」(法政大学国際文
化学部2009 年度卒業研究)
注8 読売新聞「なぜ、日本人として扱えない 台湾人元日本兵遺族が訴え」
1988 年8 月2 日
注9 同注16
注10 同注16
注11 同注20
参考文献
・周婉窈著、石川豪・中西美貴訳『図説 台湾の歴史』( 平凡社,2007 年)
・船橋洋一編『いま、歴史問題にどう取り組むか』( 岩波書店,2001 年)
・内海愛子著『戦後補償から考える日本とアジア』(山川出版社,2002 年)
・台湾人元日本兵士の補償問題を考える会編『台湾人元日本兵士の訴え〜補償に
関する訴訟資料 第1 集』( 台湾人日本兵士の補償問題を考える会,1978 年)
・台湾人元日本兵士の補償問題を考える会編『台湾人元日本兵戦死傷補償問題資
料集合冊 台湾・補償・痛恨』( 台湾人元日本兵士の戦後補償問題を考える会,1993
年)