春の花

意見陳述書

 
原告  楊 馥 成

                       令和3年10月12日
東京地方裁判所民事第3部A2係 御中  

                   令和元年(行ウ)第643号事件  
原告  楊 馥 成  
       
   意見陳述実施版  
        
  1 私、楊馥成(よう・ふくせい)は1922年(大正11年)2月21日に台湾において日本人の父と日本人の母との間に日本人として生まれました。いま、数え年で100歳になりました。来年の誕生日を迎えると満100歳となります。  
  2 私の先祖は国姓爺合戦で知られている鄭成功に繋がります。鄭成功は明末の将軍ですが、母は平戸の日本人であり、「抗清復明」を誓い、台湾を拠点として清と闘い、台湾を支配していたオランダ人を追放しました。中国は当時から台湾を「化外の地」として疎遠し、台湾全土を施政下に置いたことはありませんでした。  
3 私は地元の小学校に通って卒業し、1年間地元の塾(昔の寺子屋)で漢文を勉強した後、嘉義農林学校(以下「嘉農」といいます)に進学し、5年間の過程を終えて卒業し、台南州の農林課に就職しました。
嘉農のことは、野球部が甲子園で準優勝したことを描いた映画『KANO~1931海の向うの甲子園~』が台湾で大ヒットし、日本でも上映されて知られています。嘉農での教育はもちろん国語の日本語でしたが、先生方は私たちにも内地人(日本から仕事などで台湾に来た人たちやその子弟)と本島人の分け隔てなく可愛がって下さり、熱心に教育にあたって下さいました。今も恩徳を忍んで懐かしんでいます。  
4 台南州の役人となって2年目の43年(昭和18年)、新聞の募集広告をみて軍属に応募しました。応募者が殺到した狭き門を合格しました(50名の合格者うち内地人は7-8名でした)。南方軍野戦補給部隊に配備され、シンガポールに赴き、岡部隊の一員として補給戦の任務を果たしました。高砂義勇隊のことはよく知られていますが、多くの台湾の若者が志願して日本軍人軍属となり、支那事変、太平洋戦争に参加し、数多戦場の露として消えていきました。米英仏蘭はアジア人を劣等民族として近代的教育を施すことなく、愚民化政策を敷いて奴隷のように扱っていました。日本が台湾で行ったことはこれとは正反対でした。軍属に応募したのは、私も日本人の一人として日本を護り、アジアを植民地支配から解放するために戦うことに尊い使命を感じたからでした。  
5 日本の敗戦を知ったのはシンガポールとスマトラの間にあるコンドル島にいたときでした。 私どもは、そのときそこを根拠にして付近の農作物を買い集めてシンガポールの本部に送る任務を行っていました。玉音放送で聞いた敗戦のことは暫く茫然として信じることができませんでした。上官の石黒小隊長から日本に一緒に行くことを誘われましたが、考えた末、台湾に戻ることにしました。戦後の日本と中国の親善の架け橋になろうと思ったからです。ところが台湾では蒋介石がマッカーサーの命令で占領支配していました。蒋介石が連れてきた大陸の軍隊はひどいものでした。規律も道徳もなく汚職に塗れていました。台湾の人たちは、心から大陸からやってきた難民たちを軽蔑していました。     
6 47年2月28日に二二八事件が起こりました。台北の繁華街で闇たばこを売っていた老婆が軍当局の摘発隊に金品を奪われて殴打されたのを目撃していた住民が抗議し、発砲を受けて死亡したことをきっかけに始まった抗議運動を、蒋介石は重装備の鎮圧部隊を使って弾圧しました。台湾全土で2万8000人もの犠牲者を出した大虐殺事件です。その後、いわゆる白色テロは戒厳令が87年に解除されるまで40年間にわたって続きました。日本の教育を受けた医者、学者、教育者といった知識人は反体制異分子として次々に逮捕され、投獄され、多くは惨殺されました。私も軍属として日本に協力したかどで捜索を受け、マルクスの著作を書棚においていたのを見つけられて逮捕され、50年8月から7年もの牢獄生活を強いられました。逮捕当時、私は「和平日報」という新聞の記者をしていました。私は共産主義者ではありません。ただ、教養として他の哲学と共にマルクスを読んでいただけでした。                  
7 50年8月から7年間にわたる牢獄生活を強いられました。拷問を受け、裁判もないまま拘束が続くのです。恐ろしい体験でした。獄中にあって、どんなに母国日本からの救助を期待していたことか。釈放後も「政治犯」「思想犯」の烙印を押され、当局の厳しい監視下に置かれましたが、アスパラガスなどの新興農産物の栽培の指導に従事し、新農法を指導するために招聘されて台湾に来られた福本敬介博士の助手を務め、農薬に頼らざる農法の研究に打ち込みました。84年にフィリピン農業部の招聘でマニラ麻の疫病対策に協力するためマニラに渡りました。そこでマニラに駐在していた中国大使と知り合い、その引導で台湾の国禁を冒して大陸に渡りました。それから25年間に渡り、中国大陸を遍く歩き廻り、中国の農民に合理的施肥等の進んだ農法を指導してきました。中国の農業の近代化に貢献してきたと自負しています。03年、中国において国連派遣の駐華代表より『特別貢献賞』と『平和使者の称号』を授与されました。      
8 96年、台湾では蒋家の没落によって、海外亡命者ブラックリストが廃棄されたため、台湾に帰れるようになりました。以来十数年、中国大陸と台湾を股にかけて農業関係の仕事を続けてきました。2002年に7年間の冤獄賠償として台湾当局から約800万円の補償を受けましたが、ほぼ全額、嘉義大学の奨学金、農業発展基金会、そして孤児院に寄贈しました。2008年からは、老後を日本で過ごしたいと考え、台湾に近い宮古島に上陸し、株式会社を創設してビジネスを始め、間もなく沖縄本島の那覇に遷居しました。       
9 沖縄戦終焉の地である糸満市の摩文仁の丘には、平和記念公園が建てられ、英霊を奉祀する聖地となっています。各県単位の慰霊碑や記念塔が林立し、韓国人慰霊碑も建てられていましたが、台湾人の慰霊碑がありませんでした。台湾から軍人軍属として20数万が出征し、護国のために戦い、5万人あまりが帰らざる身となりました。「天皇陛下万歳!」と叫んで散華していった英霊は今もなお、太平洋上のあちこちの空で、或いは、東南アジアや支那大陸の荒野でさまよっています。このままではいけないと思い、沖縄の有志の方々と一緒になって慰霊碑の建立に奔走しました。さまざまな障害がありましたが、14年に日本台湾平和基金会を立ち上げ、16年に慰霊碑「台湾の塔」を設置し、18年には李登輝元台湾総統を迎え、その揮毫による『為国作見證』の石碑の除幕式を行いました。   
10 これが百歳になった私の人生です。日本人として生まれ、日本人としての教育を受けて皇民となり、日本人として日本の存亡をかけた戦争にも参加し、命懸けで闘いました。戦争が終わって台湾に戻ってみると、軍属の経歴と教養を理由に投獄され、釈放されてからも政治犯として監視下におかれました。大陸に渡って支那を遍く巡り、農業の指導に従事していたときも、自分が日本人だということを片時も忘れたことはありませんでした。私は中華民国の国民でも中華人民共和国の国民でもありません。裁判官の皆さんと同じく、日本人として生まれ、日本人として生きてきました。最後は日本人として死にたいと思います。  
サンフランシスコ条約で日本は台湾を放棄しましたが、放棄したのは領土だけです。国民ではありません。日本国民だった台湾人を捨てることはできないはずです。国連人権宣言は国籍の権利をうたっています。これに基づくサンフランシスコ条約が台湾人の国籍の剥奪を認めるわけがありません。 
11 最後に帰化ではなく国籍の確認を求めている理由に触れます。 
沖縄で台湾人の碑の建立に奔走していたとき、戦後生まれの日本人の多くが私たち台湾人のことを忘れていることを知りました。日本が台湾の発展に対してどれほど尽くし、私たち台湾人がどんなに日本のことを恋しく懐かしく思っているかを知らない人もいるのです。そのことが最大のショックでした。台湾で日本がしてきたことを知って下さい。そうすれば日本のことを誇りに思えるはずです。私はその生き証人です。  
  私は中華民国の国民であったことはありません。もちろん中華人民共和国の国民でもありません。私の百年の人生をかけて言います。誰がなんと言おうと私は日本人です。帰化は真実と私の思いに反しています。台湾には私と同じく天皇陛下の赤子であると自認し、国籍復帰を願っている人たちが沢山います。私はその代表としてこの裁判を起こしました。法と歴史を見通す目をもって、どうか私たちの願いをかなえてください。 
                                  以上





告  林 余 立

                     令和3年10月12日
東京地方裁判所民事第3部A2係 御中  

                   令和元年(行ウ)第651号事件  
原告  林 余 立 
       
   

 1 私、林余立(りんよ・りつ)は、昭和2年(1927年)3月9日台中州大屯郡に日本人の両親から生まれました。
2 私は海軍を志願して軍属となりました。更に、志願する若者が殺到するなか海軍兵士に志願して合格し、海軍整備兵として左営の軍港に配属されました。体躯に恵まれていたこともあり、志願兵に合格した私は皆の憧れと羨望の的でした。終戦時には一等兵でしたが、戦友たちとともに、精一杯お国のために尽くしました。 
3 終戦後、蒋介石が台湾にやってきて、元日本兵をはじめ、台湾の優秀な青年たち約2万人を従軍させ、中国大陸での国共内戦に駆り出しました。私は大陸の華北地方に派兵されましたが、中国共産党の軍との戦いに敗れ、約3年後に台湾に引き上げてきました。大陸で捕虜になった兵士たちは、人民解放軍に編入されて朝鮮戦争の最前線で米軍(国連軍)に向かって突撃させられました。  
4 台湾に戻ってからはボイラーの熱管理の技士(指導員)として働きました。90年に引退してからは、故郷の山岳地を開拓して園芸農場を経営し、台中市宝覚寺で台湾台日海交会会長をつとめています。
5 今回は新型コロナウイルス感染の拡大のことがあり、9月初旬には2回目のワクチンの接種を終えましたが、東京は緊急事態宣言が続いていましたので、医師や家族から裁判に出ることを止められました。出廷することを止められ、残念ですが、弁護士さんにこの意見書を代読してもらうことにしました。 
6 私の意見を申し上げます。
  私は日本人の両親のもとで日本人として生まれました。私が日本国籍を有していたことは疑いのない事実です。その私が日本国籍を喪失するというのは、いかなる理由なのでしょうか。 
  第1にサンフランシスコ条約において日本が台湾の領土を放棄したことがあげられます。しかし、条約は、台湾の領土主権はともかく、対人主権については何ら定めていません。サンフランシスコ条約は前文で「世界人権宣言の目的を実現するために努力する」ことを宣言しており、世界人権宣言は15条で「何人も、ほしいままにその国籍を奪われない」としています。サンフランシスコ条約が台湾人の日本国籍を剥奪するものではないことは明らかです。
第2に日華条約がありますが、これはサンフランシスコ条約で日本が台湾の領土に係る主権を放棄したことを確認するものであり、中華民国の台湾に対する主権を確認するものではありません。同条約は10条で、中華民国の国民として同国が台湾で施行する法律をもって中国の国籍を有するものを含むと「みなす」としていますが、あくまで「みなす」と擬制しているだけです。これは主権を扱うものではないことを証明するものであり、台湾人の日本国籍の喪失については何ら触れるところはありません。また、日華平和条約は日中共同声明によって「事実上破棄」されており、これをもって台湾人の日本国籍を否定することはできません。   
第3に、日本の国籍法は、「自己の志望によって外国の国籍を取得したときは、日本の国籍を失う」としていますが、私の中華民国国籍は、私の志望によるものではありません。
出生と同時に取得した私の日本国籍は、サンフランシスコ条約、日華条約、そして日本の国籍法に照らし、決して失われてはないはずです。   
以上



原告  許 華 杞

                       令和3年10月12日
東京地方裁判所民事第3部A2係 御中  

                   令和元年(行ウ)第650号事件  
原告  許 華 杞    
       
   
  1 私、許華杞(きょ・かき)は、1933年(昭和8年)10月4日に大日本帝国台湾の新竹州の農村で日本人の両親のもとで日本人として生まれました。地元の小学校6年生まで日本の教育を受け、日本人として育ったことを誇りに思って生きてきました。  
2 小学6年生の時に終戦を迎えました。測量学校大学部に進学し、研究者の道を歩みました。私の専攻は測量学と地震学でした。83年には大漢技術学院の教授となり、85年からは日本の東海大学において台湾の地殻変動の研究を行なって理学博士を取得しました。89年には東京大学の客員研究員となって研究を続けてきました。99年には大漢技術学院名誉教授となり、2003年に70歳で定年退職しました。今年の誕生日で88歳になりました。 
3 下関条約によって日本が台湾を領有した当時、台湾は未開の土地でしたが、日本は50年をかけて台湾を「蓬莱の宝島」にしあげました。縦貫鉄道、縦貫道路をはじめ、基隆港、高雄港、花蓮港の港湾建設、日月潭発電所等の電力系統、島山頭ダムと16万キロメートルの灌漑水路で30万ヘクタールの嘉南平野を台湾の穀倉地帯にしました。台北市等の都市計画は日本でも最初の立派な都市計画でした。上下水道の建設と病院の建設によって伝染病を根絶しました。阿片吸飲者については1899年には17万人であったのが、1929年には2万6000人に激減し、1940年には根絶しました。土匪の招降策も成功し、義務教育の実施によって近代的な教育を普及しました。   
4 これに比べて、蒋介石の国民党による統治は本当に酷いものでした。国民党による統治は一党独裁であり政党と国家は一体でした。47年には、二二八事件の大虐殺があり、白色テロは87年に戒厳令が解除されるまで40年間に渡って続きました。その間に台湾人は母語と日本語を失いました。蒋介石や国民党を批判することは投獄と処刑を意味しました。表現の自由も思想の自由も学問の自由も研究の自由もありませんでした。  
5 日本は戦争には負けましたが、欧米列強に支配されていたアジア、アフリカの解放と独立の礎となりました。55年のバンドン会議に日本が招待され、植民地解放の母と呼ばれたことの意義は日本人が誇っていいことです。日本も植民地支配したという人々がいるようでしたが、英、仏、蘭、米の植民地支配は、長きに渡ってアジア人を劣等人種として愚民化政策を敷き、専ら資源と農作物を収奪しました。日本の統治はこれとは全く違いました。住民たちに近代的な教育を施し、官吏、医師、技術者を養成し、自分たちで国づくりをしていける人材を育てました。インドネシアでもインドシナでも南洋諸島でも台湾の統治がその手本になりました。このことが人類の歴史にとってどんなにすごいことかわかりますか。日本人は、もっとこのことを誇りに思うべきです。世界のどこにも日本と同じような統治をした国はありません。    
6 私は、日本人として生まれました。戦争に負けてサンフランシスコ条約で台湾の領土を放棄したからといって、私が出生によって獲得した日本国籍を失う理由はありません。国民党の中華民国政府は大陸から亡命してきた政権でした。それゆえ国民党政権と日本が締結した日華条約は戦争の終結をいうだけで、台湾の主権についてはサンフランシスコ条約で台湾が放棄されたことを確認し、台湾人の国籍については、中華民国の国民に含めると「みなす」と擬制しています。それこそ、台湾人に対する主権を認めたものではないことの動かぬ証拠です。 
台湾の主権をめぐる法的地位については未定のままなのです。61年当時の池田首相がいったように、「サンフランシスコ条約において決定されておらず、当時日本はその主権を放棄しただけである」ということなのです。譲渡先が決まるまでは日本に残余主権があると考えられます。 
日本の国籍法によれば、志望によらずに外国籍を取得しても、日本国籍を喪失することにはなりません。日本の国籍が確認されたら、中華民国から付与された国籍を離脱するつもりです。 
法の真実に照らし、正しい判決を下されるようお願い申しあげます。 
                                     以上