春の花
原告紹介    楊 馥成   許 華杞   林 余立

林余 立

  履歴

1 生年月日
  昭和2年(1927年)3月9日生 92歳
2 出生地
  台中州大屯郡
3 父母について
  父:林生發(日本国籍、台湾出身)
  母:林曹代葉(日本国籍、台湾出身。明治18年6月11日生)
4 軍歴・軍属歴
  日本海軍 第61航空廠 工員(軍属)
  海軍志願に合格し、左営(軍港)海兵団で訓練を受ける。
  終戦時、海軍整備兵(一等兵)。
5 終戦後の履歴 
  終戦後 蒋介石が来て台湾の優秀な青年約2万人を従軍させる。
      中国大陸の華北地方で国民党軍人として国共内戦に従軍し、約3年後敗戦により、台湾に引き上るた  1960年 台北日系会社の古川科学研究所にて、ボイラーの熱管理の指導員
      長野県のオルガン製針株式会社(現在)。 台北・泰山工場の管理委員
  1990年 退職後、故郷付近の東勢と和平区で山岳地を開発して園芸農場を経営している。
      現在台中市宝覚寺で台湾台日海交会会長をつとめる。


林 余立さんの紹介文

近日台湾のニュースですが、国道消防車が、中国に帰ろうとする人達が、運転手を含め25名が焼死しました。事件後、メディアは事故の当事者の父親が元台湾人日本軍兵士であることを発見しました。戦争の後、彼は国民党によって兵士として徴兵され、国共内戦を戦わされ、中国に残留されてしまい、そこで妻をめとり、子供も生まれました。
文化大革命の時期に妻と共に、ブラックリストになるわけで、迫害され、一度彼は台湾に不法移民とされ、台湾が戒厳令を解禁された後、この事故で亡くなった運転手は母親と妻と娘を台湾に連れて行きました。
残念なことに、この報道は、車の焼死事故の恐怖の写真と比較した場合、元台湾人日本軍兵士の背景に関心がもたれませんでした。ほとんどの人はこの歴史を知らないため、同じ世代の台湾人とその父親であった人々の歴史的な背景を知りません。少なくとも、その人々は二万人以上でした。

台中・太平に住んでいる林 余立氏は、同じような状況にありますが、幸いなことに、彼は幸運として、台湾に逃げ、彼の人生の後半は完全に異なっていました。

昭和2(1927)年に生まれの林 余立氏は、小学校を卒業してから(日本小学校を卒業してから、高等学校(試験合格の二年間システム)中退で、皇民奉公会台中支部の青少年道場の訓練を徴兵されました。 半年間の集中訓練では、冬の二月の初冬に裸で、フンドシだけでランニングを展開し、全員共に、水に浸した深い溝に入りました。

林 余立氏は、これは寒帯からの日本人にとっての通常の訓練であり、亜熱帯の台湾人にとってはまだ少し耐え難いものであると述べ、後に中国・山東で国共内戦に徴兵された後、氷と雪の冷たさを感じた。 どれほど寒いのか、台湾でのトレーニングのようなものは比較になりません。

第二次世界大戦の終わりには、日本兵の不足があり、植民地の台湾の若者はボランティアとして奉仕するよう奨励されました。 したがって、彼は海軍軍属の検査に参加しました。台中・太平(現在の太平)には、テストを受ける数十人の人がいますが、合格者は二人のみで、彼はそのうちの一人です。 彼は、初期の海軍軍属の試験は非常に厳しく、合格率は非常に低く、戦争の末期には、軍隊の人員不足のために緩和したと言いました。

岡山61海軍航空工場に配属され、勤務の期間中、成績がいい、体も丈夫だとして、評価され、昭和19年に海軍志願兵として推薦され、同期の戦友の多くの人が離島に送られて戦争に参加しました。
岡山は重要な軍事基地であったため、終戦時に連合軍の砲撃を受け、航空工場も爆破されましたが、幸いなことに大岡山と小岡山に疎開しました。天皇陛下が降伏を玉音放送され時、一部の同期戦友の日本人はすぐさま切腹しました。彼は、日本人の勇気と忠誠心に深く感動しました。 彼は、日本の大東亜共栄圏解放の戦争は敗北により失敗したが、東南アジアの多くの植民地が独立していることは否定できないと述べました。

多くの戦友が急いで家に帰っていきましたが、彼は故郷へ帰るのに数日間がかかりました。何回か電車に乗り換え、ようやく故郷に戻りました。 進駐した国民党軍は拠点の確保が接取に追いつく「国民党の中国兵は規律がなく、彼らは敗北した兵士のように見あました。彼らは、お寺や空き家に勝手に侵入しました。広い道端には、小屋を建てたりしました。有名な「霧峰林家」の自宅も多くの国民党兵士により侵入を受けました。」と林 余立氏は言った。

彼は家族の長男であるため、家族に責任を持ち、養わなければなら成りませんでした。国民党が、政府軍の兵士を募集しているとの事で、彼はその試験に臨み受かり、大肚山と鳳山でそれぞれ訓練を受けました。その後、第70軍に編入され、後に第70師団第139旅団277連隊の所属となりました。1946年の冬に台湾から上海へ出発し、最初に列車に乗り、列車はそのまま、船に積み込まれました。揚子江から浦口に向かい、列車で中国北部に行きました。 彼が知っている限りでは、何万人もの台湾人が国民党軍に徴兵されており、その中には多くの台湾の原住民がいました。
当時、国民党軍と共産党軍の間の戦闘では、台湾人は、日本軍が残した武器を使うことがかなり上手で、いつも、戦闘の先頭に立ちました。戦友の粱啓祥も「徐蚌会戦」では、台湾人犠牲者が沢山でたと証言しています。しかし、このことは、ほとんど世の中に知らされていません。長い年月、中国の戦場にいた林 余立氏は国民党軍と共産党軍の実力は大きな不均衡を抱えていたと述べた。共産党は劣勢でした。先進的な武器も使えこなせず、三八式歩兵銃も持ってないので、一般民衆も彼らを支持していませんでした。国共内戦は、は中国人兵士は非常に哀れで、常に逃げてしまいました。最終的に、蒋介石は戦費の調達に失敗してしまいました。

「中国兵は戦争に行く準備(訓練)が全然なく、愛国心も国家概念も持っておらず、利己主義で、死を恐れていました。」したがって、彼が所属した部隊では、さぼるのは当たり前でした。戦場から三度敗走してから、彼は所属部隊との連絡を失いましたが、3度とも別な部隊に無理やり引っ張って連れて行かれることになりました。

初めての南西部の戦いの後、国民党軍は済寧に囲まれました。脱出後、生存者は、散り散りバラバラになりました。彼は金浦鉄道の列車で、河南宿縣(今宿州市)に行き、国民党の友軍から説得され、再び戦場に戻りましたが、共産党軍の八路軍の人海戦術により包囲されたのは戦線に復帰して間もなくのことでした。それでも彼は、再び脱出することが出来ました。

それで彼は、上海に行くことを決めましたが、上海駅で空軍の地上部隊に会うと、無理やりに連れて行かれました。 翌日、ある隊長に自分は台湾人なので台湾に帰りたいと申し出ました。隊長は台湾に行った直後でしたので、彼が台湾人であるかどうかを台湾にある空港「清泉崗」「水湳」などについて質問しました。彼がこれに答えると隊長はようやく信用してくれました。

そして、ある軍曹に空港へ連れて行くように命じました。空港に行く途中、軍曹は彼に軍服を脱いでカジュアルなスーツに着替えるように言いました。軍服も財布も奪われたので、彼は上海空港から上海市内まで歩かなければなりませんでした。そして、市内で台湾協会を見つけました。 そこで出会った親切な張さんは、彼を子供のように扱い、宿をとり、チケットを購入するなどしてくれました。そうして彼は、無事に台湾へ戻ることができました。

彼は台湾に戻った後、自分の努力と高名な人々からの応援をいただき、一生懸命働きました。26年前に退職した後、彼は台中県平和郷(現在の和平区)に行き、植林と庭木を始めるために五つの丘の裾を購入し開墾しました。彼は笑いながら、子供たちは成功したキャリアを持っています、親としては、それは将来の世代のために道を確保してあげなければなりません。私は子供が引退した後、彼の現在のを引き継ぐことができることを願っています。彼は26年間一人暮らしをしています。 私はもう90歳であり、「この園芸農場が、子供や孫の助けになれば、これは親ばかな考えかも知れません」と語った。

現在、彼は台湾日本海交会の会長です。 海交会は、戦時中に日本海軍に勤務した台湾の退役軍人によって設立された協会です。蒋介石は「以德報怨」(徳をもって恨みに代える、人に対する恨みを根に持たず好意をもってその人に接する)を行いましたが、国民党政府は日本人にも知られていない、日本統治時代の多くの資産を受け取りました。その為に台湾の元日本軍人が日本に戦後補償を求めたときに非常に不当な対応を受けました。
一部の日本の人々は、その対応に不満を懐いています。戦争で戦死した台湾人日本兵と国民党兵によって殺害れ、行方不明になった台湾人は合わせて、少なくとも七万人です。

政府の態度はこれまで、台湾人と日本人の要求を無視しています。

海交会と日本民間団体の交流により、これを記念しようと、台中宝寿寺に協力を要請しました。お寺側は、中庭の一角を提供し、記念館の建設が成されました、境内の一角には、李登輝元台湾総統が揮毫された「霊安故郷」の大きな慰霊碑が建立されています。

11月25日、台湾と日本両サイドの協力で、慰霊祭を開催しました。遠方からの参加者は24日、「前夜祭」を開催し、25日は全員が慰霊祭に参加しました。 これは、高雄市の高雄市政府が設立した民間部門が唯一の資金を提供した“戦争と平和記念公園”に加えて行ったものです。 国民党政権時代は、この会への招待を歓迎していませんでした。しかし、政権交代がされたので、市長の列席を期待しておりましたが、しかしながら、市政府の代表者は誰も参加していませんでした。
彼らはまた、この小さな公園の小さな慰霊祭を台中市政府に引き渡し、故郷の為に命を捧げ、第二次世界大戦の犠牲となった軍人に対し、政府が敬意を示すことを願いいています。民進党政府は、正義を変革する仕事に尽力していると繰り返し述べていますが、この小さな望みに何の反応も得られない場合、公約は単なる口先だけの話だと言わなければなりません。


當兩國的兵 被三度「拉伕」的林余立
文/陳婉真 2016-11-03 22:43


大日本帝國海軍林余立。圖/陳婉真翻攝
前不久國道火燒車事件中燒死25名即將搭機返回中國陸客的司機,事件過後,媒體發現他父親曾是台籍日本兵,戰後被國民黨徵召到中國打內戰被俘而滯留中國娶妻生子,文革時被打成黑五類受盡迫害而偷渡回台,解嚴後這位司機才帶著母親及妻女抵台依親。
可惜這段報導和火燒車時的驚悚畫面相形之下,並沒有引起太多的反應,因為絕大多數人不知道這段歷史,不知道那一代台灣人和司機父親一樣遭遇的人數,至少有兩萬人以上。
家住台中太平的林余立,也有類似際遇,幸運的是他及時逃回台灣,後半生命運完全不同。
出生於昭和2(1927)年的林余立,高等科(日治國小畢業後經考試錄取後的二年制學制)還沒畢業,就被徵召接受皇民奉公會台中州支部青年道場的集訓,在半年密集訓練中,每天接受嚴格的軍事訓練,在寒冬的二月天一大早全身赤裸,僅穿著一件丁字褲開始跑步,隨後全體跑進圳溝泡在水裡。
林余立說,這是來自寒帶的日本人很平常的訓練,對亞熱帶的台灣人而言還是有點受不了,後來他被徵召到山東打國共內戰後,才感受到那種冰天雪地的冷有多冷,台灣那種訓練根本不算什麼。
二次大戰末期,日本兵源缺乏,鼓勵殖民地的台灣青年擔任志願軍。他因而參加海軍工員的考試。太平鄉(今太平區)有好幾十個人應考,只錄取兩人,他是其中之一。他說,早期海軍工員的考試很嚴格,錄取率很低,越到戰爭末期就因缺兵而越放寬。
他被分配到岡山61海軍航空廠,期間因成績好、體格壯,在昭和19年被保送成為海軍志願兵,同梯中有很多人被派往外島打仗,他一直留在本島。
由於岡山是重要軍事基地,戰爭末期被聯軍轟炸得很厲害,航空廠也被炸毁,所幸他們疏開到大岡山及小岡山。不久,日本天皇宣布投降,同袍中的日本人有的立即切腹,讓他對日本人的勇敢與效忠天皇深為感動。他說,日本人的大東亞共榮圈雖然因戰敗而失敗,但無可否認,東南亞很多殖民地是因此而能獨立的。
由於很多人趕著回家,他花了好幾天,分段搭火車才能回到故鄉。剛好趕上國民政府來接收,「那些中國兵毫無規矩,反而比較像敗戰兵,廟宇也占、看到空屋也占、比較寬的馬路就在路邊搭建房子,連霧峰林家也被很多兵占住了。」林余立說。

高雄市關懷台籍老兵協會前後任理事長拜訪並採訪林余立的故事。圖/陳婉真翻攝
由於他是家中老大,想要自食其力,剛好國軍在徵召士兵,他就去應考,並分別在大肚山及鳳山受短期訓練後,即被編入陸軍70軍,後來改成70師139旅277團,並在1946年冬天離開台灣到上海,先搭火車,整節火車開到船上,沿長江到浦口後,再搭火車到華北。據他所知,台灣人被徵召成為國軍的有好幾萬人,其中以原住民較多。
戰後中國戰區除東北之外,是由蔣介石受降,因此,在國軍的「剿匪」戰爭中,新添了許多日本人留下來的武器,台灣人對這些武器的熟悉度遠比中國人更清楚,因此,很多場戰役中,台灣兵都成為打共匪的主力軍。他的另一位戰友梁啟祥就說,在徐蚌會戰的古戰場中,不知有多少台灣兵埋骨該地,至今無人聞問。
在中國戰場多年的林余立說,當時國共雙方勢力懸殊,八路軍無勢力無武器,連三八式步槍都沒有,靠的是打游擊戰,而人民普遍對共產黨印象好很多。戰爭中,中國老百姓很可憐,不斷逃難,到最後蔣介石發行金元券,終於成為壓跨國民黨最後一根稻草。
「中國兵哪會戰爭?無愛國心、沒國家觀念、自私、怕死。」所以他參加的隊伍中,吃空缺是司空見慣,碰到共軍的游擊戰,有時是人海戰術,國軍就潰散逃逸。他就是這樣三度突圍後,和部隊失聯,卻又三度被「拉伕」。
第一次是在魯西南戰役後,部隊在濟寧被包圍,突圍後倖存者各自四散,他搭津浦鐵路到河南宿縣(今宿州市),在火車上被友軍說服,又帶往前線作戰,沒多久又被八路軍以人海戰術包圍,他再度成功突圍。

台中寶覺寺。圖/陳婉真
這次他決定先到上海,卻在上海火車站碰到空軍地勤人員在「拉扶」,他又被帶走了。第二天一位長官問他的情況,他說他是台灣人想回台灣,剛好那位長官到過台灣,就問他台灣有哪些機場,他答水湳、清泉岡,長官才相信,並讓士官長帶出大門,在半路上士官長要他把軍服脫光,讓他換穿便服,身上的盤纏全被拿走,他只好從上海機場步行到上海市,好不容易找到台灣同鄉會,經一位善心的張先生待他如子,接到家中居住,還幫他買了船票,才得以安然回到台灣。
他回台灣後憑自己的努力及一些貴人相助,生意做得很好,26年前退休後,到台中縣和平鄉(今和平區)買了5甲多的山坡地開始造林,兼做庭園樹的買賣,他笑說,兒女都事業有成,為人父母的,還是難免為後代預留後路,希望以後子女退休後,可以繼承他目前的事業,所以他已經做了26年的獨居老人。年紀都快90歲了,還在為子孫設想「沒辦法,這就是憨父母的心意。」他說。
他目前也擔任台日海交會會長。海交會是戰爭中擔任日本海軍相關工作的台籍老兵,在解嚴後成立的一個協會。由於蔣介石的「以德報怨」,以及接收大量日產時國民黨和日方不為人知的暗盤,導致台籍老兵在向日方求償時,得到的是極不公平的回應。
一些日本民間人士看不下去,加上國民黨對於戰爭中台灣人被徵召當日本兵或國民黨軍戰死或失踪者,為數至少7萬人以上,政府至今不理不睬,海交會和日方民間人士在交流中,決議自行立碑紀念,並得到台中寶覺寺的協助,提供庭院一角,興建一個紀念涼亭,及一塊李登輝前總統題字的「靈安故鄉」大石碑。
台日海交會每年11月25日,都會舉辦慰靈祭,遠在日本的民間人士都會派人前來參加,他們會在24日舉行「前夜會」,25日大家一起參加慰靈祭。這是除了在高雄旗津,由高雄市政府設立的戰爭與和平紀念公園之外,全國唯一由民間籌資自行興建的,以往國民黨當政時不說,去年換黨執政後,他們曾滿懷期待的邀請市長參加,結果市府沒有派任何人前往。
他們更希望把這個小小的園區的小小慰靈祭典,移交給台中市政府,以示政府對於為鄉土付出生命的二戰老兵的敬意,看來至今並未得到任何回音。新政府口口聲聲說要致力於轉型正義的工作,如果連這點小小的心意都無法得到任何回應,轉型正義恐怕也只是口頭說說而已。