春の花
原告紹介     楊 馥成   許 華杞   林 余立

楊 馥成
(元日本名: 大井満)


  大正11年(1922年) 2月21日生
本籍:台湾 台南州曽文郡下営庄大埤寮579番地
現籍:台湾 高雄市鳳山区杭州西街116号F4
日本居留地 :沖縄県那覇市樋川1-12-48ライオンズマンション401

1941年12月31日 
台南州立嘉義農林学校(現国立嘉義大学)卒業(3ヶ月短縮)

1942年1月~1943年4月
台南州(現、台南県市 嘉義県市 雲林県)農林課勤務園芸係技手補

1943年4月~1945年8月
第七方面軍野戦貨物廠(岡10356部隊)軍属(陸軍雇員)
以上、日本国民として、1946年4月復員帰台

1947年1月~1948年12月
台湾行政幹部訓練団にて、中国公務員の速成訓練約半年を経て、台湾農林庁検験局肥料検査官に(技士)

1949年1月~1950年8月
新聞記者(和平日報、基隆市駐在)

1950年8月~1957年6月
蒋介石政権の異端分子にされて約7年間牢獄生活(2000年にやっと冤獄賠償受領)

1957年~1965年
台湾にアスパラガス、マッシュルーム等の新興農産物を導入。栽培生産を指導。台湾の農村復興に一役。

1965年から1984年
何応欽将軍より台湾行政院退役軍人輔導委員会の農業顧問として招聘されて台湾に来た日本農業化学研究所々長福本敬介博士の助理(日本農業化学研究所に入門)

1984年~2010年12月
フィリピン農業部の招聘で苧麻疫病防治に協力、続いて数ヶ月後にマニラ駐在のchina大使館、引導で台湾國禁を冒して竹のカーテンに入り、それから25年間、支那大陸を遍く歩き廻って農民に合理的施肥等の進んだ農法を教えた。
大陸の農業に大いに貢献したと自負(2003年第十五回国際科学と平和週の開会式上で国連派遣の駐外代表より特別貢献奨と平和使者奨を授与された)
この間、蒋家没落とともに、海外亡命者のブラックリストが排除されたので、1996年から台湾へ帰れるようになり、以来10数間、支那大陸~台湾間を股にかけて農業関係の仕事を続けた。
2000年に7年間の冤獄賠償として台湾当局から約800萬(NT$)を貰ったが、農業の仕事に携わりたい後輩の励ましに、母校嘉義大学の奨学金及び財団法人嘉義農業発展基金会の創設資金等にほとんど寄付。

2008年から老後を日本で過ごしたく、残存の資産 (約五千万円)を携えて先ず、台湾に近い宮古島に上陸、美良島産業株式会社を創設したが経営はかどらず、それで4~5年前、那覇に移転してきました。
                            (2012年記)あ
 
     
 
  
あの時台湾は日本だった
あの時、台湾はにっぽんだった。あの時台湾住民も日本国民であった。国家存亡を賭けた大東亜(太平洋)戦争たけなわのあの時、台湾の若者もこぞって勇躍戦場に馳せ参じ、数多護国の生贄(いけにえ)と散華していった。
大東亜(太平洋)戦争に軍人軍属として20数万(当時台湾の総人口は600万人足らず)動員され、五万人余りが帰らざる身となった。更に支那事変に軍属(通訳、農業義勇隊、警察官、医薬員等)、軍夫(軍用物資の運搬役)として、数多くの台湾の若者が支那大陸、満州国のあちらこちらで日本国のために血と汗を流したが、戦後これら護国の勇士は生きて祖国に帰っても、外来の敵性新政権からは、2.28事件及びそれに続く白色テロの恐怖の圧政下で、日本に加担したかどに問われて残酷な報復を受け、数多くのエリートが消されてしまった。(私も拷問に拷問のあげく、七年間の牢獄生活を強いられた)。
況や、陣没された英霊(私も親友の遺骨を首にぶら下げて帰った)に、誰も関心を寄せるものはありませんでした。あの頃、皆はいかに母国日本からの救助を期待したことか!戦後日本政府はなぜこの豊かな宝島及びこの島に住みついている忠誠な同胞を捨てなければならなかったのでしょうか?
戦後まもなく沖縄本島最南部で激戦があった摩文仁の丘に、平和祈念公園が建設されて、今次大戦(支那事変も含めて)の英霊を奉祀する聖地となり、各県単位の慰霊碑や記念塔が林立しましたが、台湾の碑はついに出来ませんでした。台湾と同様に戦後異国となった樺太や南北朝鮮もあるというのに。
あの時数十万の台湾の若者も南太平洋や東南アジア及支那大陸の各地で、日本国民として共に肩を組んで戦い、赫々たる手柄を立て、戦場の露と消え去った無数の英霊達も〝大日本帝国万歳!″‶天皇陛下万歳!“と叫んで散華していった筈だのに。
これら英霊達は今もなお、太平洋上のあちこちの空で、或は東南アジアや支那大陸の曠野でさまよっています。この英霊達を即座にこの摩文仁の聖域に嘗ての戦友達と共に招祀して慰拝致したい。
台湾英霊記念碑を建設することについて、数年来、琉球大学に留学に来た戦後生まれの許光輝君及び地元の有志等が発起し(私も四年前に那覇市に移住して協力させてもらっているが)その実現に奔走してきたが、ついに摩文仁の平和祈念公園の聖域内に入居は許されず、2016年にやっと沖縄翼友会の敷地提供で聖域の一角に台湾之塔を建立することが出来、6月26日に除幕式を挙行するまでにこぎついた次第です。
この日台湾之塔の除幕式には、台湾から国会議員(立法委員)が二人来られたが、内一人の原住民出身の高潞委員から高砂義勇隊の顕彰碑も建てたいとの要望を聞かされましたが、同じ思いの人少なくないと思います。
支那の明末、鄭 成功(母は日本人)が台湾からオランダを追い出した後、支那大陸から漢族(主に、南方民族の血統が入り混じった閔南族や客家族)が、どんどん移住して来て、原住民の高砂族は山地へ追い込まれました。一部分は漢族社会に溶け込みましたが。数百年来、弱小民族であった原住民高砂族は、優勢だった漢族(日本統治者からも)との付き合いは、決して公平、平等とは言えませんでした。
去る8月1日(2018年)蔡英文総統が為政者として過去の弱小民族の高砂族群に対しての蔑視政策の反省とお詫びを公言したことは、正に歴史的発言と言うべきでしょう。大東亜(太平洋)戦争で高砂族が発揮した愛国、忠勇、戦友愛は、高き評価を受け、感謝され、蕃人(野蛮人)だったイメージがすっかり払拭されたはずです。
戦後のある時期(李登輝、陳水扁時代)に、日本と台湾の有志で台北近郊の島来に高砂忠霊碑が建てられ、来訪者が絶えなかったが、数年前に馬英九政権に取り壊されました。
最近、再建するの声あるが、義勇隊顕彰碑をこの際、摩文仁の聖域内に建立した方がより意義あり、英霊ももっと喜んでくださるでしょう。ともかく摩文仁の聖域に高砂忠魂碑でも建立して、戦争で南太平洋のジャングルで活躍した高砂義勇隊全員の英霊(戦場で散華、あるいは戦後復員してからの物故を問わず)及び他の戦場から(例えば、特攻隊の林昭光氏等)復員して物故された人々や、さらに戦後占領に乗り込んできた敵側の武装集団から、日本に献身尽忠した為の仕返しで、惨殺された6名の原住民最高リーダー達(林瑞昌 「台北医専出身の名医」、高一生「台南師範出身の阿里山頭目」、湯守仁「日本陸士出身の軍人」、高沢照「嘉農出身の警察官」、同じ警察官の江清山氏、方義仲「村長」)諸共の英霊も、ともに奉祀してその功績を顕彰感謝するとともに、もっと多くの日本人、台湾人に昔、蕃人と呼ばれ見下げられた先住民の同胞達に対してより正しき認識と温かき交流を願うものです。おそらく私と同じ思いのもの決して少なくないと信じます。その完成に皆様と一緒に努力をしたい。
生き残りの元日本兵98歳
楊 馥成(大井 滿)
 
  返郷無門

蒋王朝のテロ政権による被害は、私個人の人生をして、無茶苦茶にされたのみならず、無辜の次世代にまで累を及ぼされた。
7年の牢災(投獄)で既に‷ 家破人亡 ‴、生きて行くだけでも大変なのに、更に政治犯、思想犯の烙印を押されて、白色テロの嵐凄まじき戒嚴下の娑婆に放り出されては、新たに家庭を作るなんてなかなか容易な技ではなかった。
止むを得ず亡命して、竹のカーテン内に同じような運命の相手(前朝の貴族ー「正黄旗」の家世に生まれ出たために、現政権の批闘の的にされていた)に、出会ったが、お互いとも青春が過ぎ去っていた。やっと一女をもうけたものの胎内から受難(母は職場の上司から 何であんな資本主義社会の腐乱しきった男と結婚した?國内に男が居ないのかと恫喝され、強制堕胎されるところだった)、幸いこの世に出てきた後も、不愉快な日々ばかりが待っていた。不憫の至り!有難いことに挫けずに逞しく正しく(困っている人達にもよく同情して少ないながらも布施したり)、生き抜いて来ているが如し。
私の影響もあってか、3歳~5歳の小さい時から ‷ 我是台湾人‴ と独り言(異郷の地で)して来たが、台湾のお役人さんは、彼女が父祖の地に帰りたい願望を拒み続けてきた。支那大陸には居たくない。勿論、支那人でありたくない。それで父に随従して日本に来て日本社会に溶け込むしかないでしょう。

                       2012年記
付記:娘の楊 翠萌は、2017年に結婚して基隆市に在住。